にんやす

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にん やす(じん あん、? - 紀元前きげんぜん91ねん)は、前漢ぜんかんひとしょうきょう河南かなんぐん滎陽けんひと司馬しば友人ゆうじんとしてられる。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

わかくしておや先立さきだたれ貧困ひんこんとなり、ひと御者ぎょしゃとなって長安ながやすき、豪族ごうぞくすくなく高名こうみょうやすいという理由りゆう谷口たにぐちちんちょうとなった。邑の人間にんげんりょうさいにはむずかしい獲物えもの壮年そうねんものにやらせ、簡単かんたん獲物えもの老人ろうじん少年しょうねんにやらせるようにしたため被害ひがいず、人々ひとびとよろこかれには知略ちりゃくがあるとった。翌日よくじつまたすうひゃくにんあつまると、ていないものをすぐにいいあてたので人々ひとびとおどろいた。そのさんろうとなり、けんちょう昇進しょうしんしたがつみがあって罷免ひめんされた。

そのにんやすまもるあお舎人とねりとなり、おなじく舎人とねりとなったひとし中国語ちゅうごくごばんともまもるあおつかえた。二人ふたりまずしかったため粗末そまつあつかいをけた。まもるあお舎人とねりからろうとするべきものえらぶようみことのりされると、まもるあお舎人とねりのうちで裕福ゆうふくものえらぼうとしたが、しょうちょう舎人とねり面接めんせつしたところ、にんやすじんだけが有能ゆうのうであるとい、まもるあおはやむを二人ふたり推薦すいせんした。たけみかど謁見えっけんするとじんは「戦場せんじょう大夫たいふをもたのしませるようにすることにかけてはわたしにんやすおよびません」とい、にんやすは「物事ものごと是非ぜひさだめ、みんうらみをたせないことにかけてはわたしじんおよびません」とった。たけみかどだいわらわして「いぞ」とい、にんやすきた軍使ぐんししゃきたぐん監視かんし)とし、じんには河上かわかみ穀物こくもつかんさせた。そのにんやすえきしゅう刺史ししとなった。

霍去びょうたけみかど寵愛ちょうあいされ、出世しゅっせしてまもるあおならぶようになると、まもるあおしたにいたものもほとんどが霍去びょういてかんるようになったが、にんやすだけはまもるあおからはなれようとはしなかった。

紀元前きげんぜん91ねんせい2ねん)、皇太子こうたいしりゅうよりどころ長安ながやす反乱はんらんこすと(みこ蠱のわざわい)、当時とうじきた軍使ぐんししゃであったにんやす皇太子こうたいしからふしりながらぐんもんめて皇太子こうたいししたがわなかった。反乱はんらん鎮圧ちんあつされると、たけみかどは「動向どうこううかが勝者しょうしゃしたがおうと二心ふたごころったのである。にんやすには死罪しざいいくつもあったのにわたしゆるしてたが、にんやすいつわりのしんいだ真心まごころがない」とい、にんやすごくくだして、じんとともにこししょされた。

にんやすごくくだされたころに、友人ゆうじんであった中書ちゅうしょれい司馬しば遷にたいいにしえけんしん賢者けんじゃ推薦すいせんすることがつとめであるとめる手紙てがみおくった。これにたいする返答へんとうが『漢書かんしょ司馬しば遷伝にえる、いわゆる「にんしょうきょうほうずるしょ」である。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]