浜田 城
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概要
[歴史
[元和 5年 (1619年 )-古田 重治 が大坂 の陣 の功績 により浜田 に5万 4000石 を与 えられ入 封 。元和 6年 (1620年 )2月 -築城 開始 。元和 9年 (1623年 )5月 -城 と城下町 が完成 。慶安 元年 (1648年 )-2代 ・重 恒 、お家 騒動 (古田 騒動 )を起 こし改易 。慶安 2年 (1649年 )松平 (松井 )康 映 が5万 石 で入 封 。5代 にわたって在 封 。宝 暦 9年 (1759年 )-5代 ・康 福 、下総 国 古河 藩 に転 封 。本多 忠 敞 が5万 石 で入 封 。明和 6年 (1769年 )-3代 ・忠 粛、三河 国 岡崎 藩 に転 封 。同地 より松平 (松井 )康 福 が再 び55,400石 で入 封 。天保 7年 (1836年 )-3代 ・康 任 の時 、清 ・朝鮮 との密 貿易 (竹島 事件 )が発覚 。康 任 は隠居 し、4代 ・康 爵は陸奥 国 棚倉 藩 へ転 封 。上野 国 館林 藩 より松平 (越智 )斉 厚 が6万 1千 石 で入 封 。慶応 2年 (1866年 )-第 二 次 長州 征伐 。長州 藩 の大村 益次郎 が進軍 。藩主 ・武 聡 は戦 わずして逃走 。この際 に、敗残 の兵 が浜田 城 、浜田 の街 に放火 し同時 に灰燼 に帰 した。昭和 37年 (1962年 )6月 12日 -県 指定 史跡 に指定 される。昭和 42年 (1967年 )-浜田 県 庁 正門 (津和野 藩 武家 屋敷 の門 )を浜田 城 の山麓 に移築 。平成 29年 (2017年 )4月 6日 、続 日本 100名城 (170番 )に選定 される。
形式 と構造
[縄張 (基本 配置 )
[本丸
[天守 (三重 櫓 )本丸 の北西 隅 に置 かれた独立 式 望楼 型 三 重 櫓 。天守 台 は最初 から造営 されることはなく、本丸 に礎石 を置 いて天守 が建 てられた。天守 の高 さ約 14メートルで鯱 の大 きさは約 1.4メートルであった。
本丸 御門 (ほんまるごもん)浜田 城 本丸 の正門 (南側 )の役割 を果 たしていた門 。通称 、本丸 一 の門 。東側 に存在 した六 間 長屋 と隣接 していた。石垣 が現存 している。
六 間 長屋 (ろっけんながや)本丸 の南東 隅 に存在 した多聞 櫓 。倉庫 としての役目 を持 っていた。西側 に存在 した本丸 御門 と隣接 していた。
二 の丸
[二 ノ門 (渡 門 )二 の丸 に存在 した櫓門 。虎口 は枡形 で、進路 を阻 む構造 になっていた。浜田 城内 最大 の門 で、内部 の規模 は四方 南北 約 3.6メートル、東西 約 5.4メートル。門 の脇 の石垣 上 には二 ノ門 の上 階 にある長屋 と接 して塀 が廻 っていた。現在 は門 の石垣 が現存 しているが、一部 だけ石垣 が崩落 して土 塁 となっている箇所 がある。
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上 から望 む二 ノ門 の枡形 の石垣 。 -
二 ノ門 (正面 ) -
二 ノ門 (内部 )
三 の丸
[出丸
[出丸 木戸 (でまるきど)出丸 の北側 に存在 した出入 り口 。出丸 木戸 を出 ると、本丸 の石垣 の周囲 を廻 る道 に出 る。現在 は薮 や林 になっているため、辿 り着 くのは困難 である。
遺構 ・現存 建造 物
[ギャラリー
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本丸 -
本丸 御 門跡 -
玉蔵 -
六 間 長屋 の石垣 -
二 の丸 -
三 の丸 -
三 の丸 の石垣
現地 情報
[所在地
[交通 アクセス
[鉄道
自動車
外部 リンク
[復元 CGに見 る浜田 城 の姿 (浜田 開府 400年 祭 実行 委員 会 公式 チャンネル - YouTube)島根 県 遺跡 データベース