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浜田はまだしろ

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浜田はまだしろ
島根しまねけん
三の丸の石垣(2010年12月23日)
さんまる石垣いしがき(2010ねん12月23にち
別名べつめい 亀山かめやましろ
城郭じょうかく構造こうぞう はしごくるわしき平山ひらやまじょう
天守てんしゅ構造こうぞう 独立どくりつしき望楼ぼうろうがたさんじゅう現存げんそん
築城ちくじょうぬし 古田ふるた重治しげはる
築城ちくじょうねん 元和がんわ5ねん1619ねん
おも城主じょうしゅ 古田ふるた本多ほんだ越智おち松平まつへい
はいじょうねん 慶応けいおう2ねん1866ねん
遺構いこう 石垣いしがきるい移築いちくもん他所よそより移築いちく
指定してい文化財ぶんかざい 島根しまねけん指定してい史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3454ふん10.47びょう 東経とうけい1324ふん23.97びょう / 北緯ほくい34.9029083 東経とうけい132.0733250 / 34.9029083; 132.0733250
地図ちず
浜田城の位置(島根県内)
浜田城
浜田はまだしろ
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移築いちくされた津和野つわのはん武家ぶけ屋敷やしきもん

浜田はまだしろ(はまだじょう)は、石見いわみこく浜田はまだ島根しまねけん浜田はまだ殿町とのまち)にあった日本にっぽんしろ江戸えど時代じだいには浜田はまだはんはんちょうかれていた。

概要がいよう

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浜田はまだ中心ちゅうしんにある浜田川はまだがわかこまれた標高ひょうこう68メートルの独立どくりつしき丘陵きゅうりょう築城ちくじょうされた。この丘陵きゅうりょう別名べつめい亀山かめやまばれている。本丸ほんまるしたせままるさんまる出丸でまるはいされている。北部ほくぶ松原まつばらわん東部とうぶ浅井あさいがわ南部なんぶ西部せいぶ浜田川はまだがわによって天然てんねん掘割ほりわりとしていた。

浜田はまだしろはんちょうとした浜田はまだはん最初さいしょ藩主はんしゅ古田ふるた以外いがい譜代ふだい親藩しんぱんわりおさめ、長州ちょうしゅうはんたいする山陰さんいんがわさえの最前線さいぜんせんとされた。

建物たてもの長州ちょうしゅう征伐せいばつ長州ちょうしゅうはんぐんめられたさいに(当時とうじ浜田はまだ藩主はんしゅ松平まつだいらたけさとし)、しろててはんへいはなほとんどが焼失しょうしつした。

現在げんざい城山しろやま公園こうえんとして、本丸ほんまるからさんまるにかけて階段かいだんじょう石垣いしがきのこり、登城とじょうこう津和野つわのはん武家ぶけ屋敷やしきより移築いちくされたもんがある。ただし、往時おうじ此処ここらにはもん存在そんざいしていない。また、登城とじょうこうには小説しょうせつ司馬しばりょう太郎たろう碑文ひぶん浜田はまだはん追懐ついかいいしぶみ」がある。

歴史れきし

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浜田はまだしろ絵図えず

形式けいしき構造こうぞう

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三重みえあと

縄張なわばり基本きほん配置はいち

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浜田はまだ中心ちゅうしんにある浜田川はまだがわかこまれた標高ひょうこうやく68メートルの独立どくりつしき丘陵きゅうりょう頭頂とうちょう平坦へいたんにして本丸ほんまるきずかれ、本丸ほんまる南側みなみがわせままるさんまる西側にしがわ出丸でまるはいされたはしごくるわしき平山ひらやましろ北部ほくぶ松原まつばらわん東部とうぶ浅井あさいがわ南部なんぶ西部せいぶ浜田川はまだがわによって天然てんねんとしていた。城下町じょうかまちしろ周囲しゅうい武家ぶけ屋敷やしきを、浜田川はまだがわ以南いなん町屋まちやもうけられていた。本丸ほんまるには天守てんしゅもうけられていた。

本丸ほんまる

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本丸ほんまる規模きぼ南北なんぼくやく60メートル、東西とうざいやく50メートルのやく0.3ha。本丸ほんまる北西ほくせいすみ三重みえ南東なんとうすみ本丸ほんまる御門みかどろくあいだ長屋ながやがあり、中央ちゅうおう付近ふきん玉蔵たまくらかれていた。周囲しゅういへいかこわれていた。

天守てんしゅ三重みえ
本丸ほんまる北西ほくせいすみかれた独立どくりつしき望楼ぼうろうがたさんじゅう天守てんしゅだい最初さいしょから造営ぞうえいされることはなく、本丸ほんまる礎石そせきいて天守てんしゅてられた。天守てんしゅたかやく14メートルでしゃちおおきさはやく1.4メートルであった。

上層じょうそうかいひろさは四方しほうやく9.1メートル、中層ちゅうそうかい四方しほうやく12.7メートル、下層かそうかい南北なんぼくやく9.1メートル、東西とうざいやく16.4メートル。明治めいじ時代じだい初期しょきごろまで存在そんざいした。

本丸ほんまる御門みかど(ほんまるごもん)
浜田はまだしろ本丸ほんまる正門せいもん南側みなみがわ)の役割やくわりたしていたもん通称つうしょう本丸ほんまるいちもん東側ひがしがわ存在そんざいしたろくあいだ長屋ながや隣接りんせつしていた。石垣いしがき現存げんそんしている。
ろくあいだ長屋ながや(ろっけんながや)
本丸ほんまる南東なんとうすみ存在そんざいした多聞たもん倉庫そうことしての役目やくめっていた。西側にしがわ存在そんざいした本丸ほんまる御門みかど隣接りんせつしていた。
玉蔵たまくら(たまぐら)
本丸ほんまる中央ちゅうおう付近ふきん存在そんざいしたぞうひろさはやく5つぼで、鉄砲てっぽう弾丸だんがんなどの武器ぶきるい収納しゅうのうしていた。

まる

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本丸ほんまる南側みなみがわ位置いちするかく山麓さんろくにもまる存在そんざいし、ほのお硝蔵や本丸ほんまるつね番所ばんしょどき番所ばんしょなかもんなどがかれていた。

もん (わたりもん)
まる存在そんざいした櫓門やぐらもん虎口ここう枡形ますがたで、進路しんろはば構造こうぞうになっていた。浜田はまだ城内きうち最大さいだいもんで、内部ないぶ規模きぼ四方しほう南北なんぼくやく3.6メートル、東西とうざいやく5.4メートル。もんわき石垣いしがきじょうにはもんうえかいにある長屋ながやせっしてへいまわっていた。現在げんざいもん石垣いしがき現存げんそんしているが、一部いちぶだけ石垣いしがき崩落ほうらくしてるいとなっている箇所かしょがある。

さんまる

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まる南側みなみがわ位置いちするかくまる同様どうよう山麓さんろくにもさんまる存在そんざいし、御殿ごてんしょ役所やくしょ御用ごよう米蔵よねぞう大手おおてもんなどがかれていた。

出丸でまる

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出丸でまる

本丸ほんまる西側にしがわ位置いちするかく別名べつめい本丸ほんまるわきせんにんだまり。規模きぼ東西とうざいやく24.2メートル、南北なんぼく23.9メートル。出丸でまるへの通路つうろ北側きたがわまるへとつながる通路つうろ南側みなみがわに1ヶ所かしょずつある。まる同様どうよう山麓さんろくにも出丸でまる存在そんざいし、しろ南側みなみがわにある小高こだか独立どくりつしき丘陵きゅうりょうにあった。通称つうしょう夕日ゆうひまるばれており、現在げんざい本丸ほんまる西側にしがわにある出丸でまる同様どうようやぶはやしになっている。

出丸でまる木戸きど(でまるきど)
出丸でまる北側きたがわ存在そんざいした出入でいぐち出丸でまる木戸きどると、本丸ほんまる石垣いしがき周囲しゅういまわみちる。現在げんざいやぶはやしになっているため、辿たどくのは困難こんなんである。

遺構いこう現存げんそん建造けんぞうぶつ

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本丸ほんまるまるもんなどの石垣いしがきるい現存げんそんしている。慶応けいおう2ねん1866ねんだい長州ちょうしゅう征伐せいばつさいしろ建造けんぞうぶつすべ焼失しょうしつしたが、山麓さんろく津和野つわのはん武家ぶけ屋敷やしきもん移築いちくされている。

ギャラリー

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現地げんち情報じょうほう

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所在地しょざいち

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交通こうつうアクセス

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鉄道てつどう
自動車じどうしゃ

外部がいぶリンク

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