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大内おおうちかん

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大内おおうちかん
山口やまぐちけん
復元された大内氏館西門
復元ふくげんされた大内おおうちかん西門にしもん
城郭じょうかく構造こうぞう しろかん
築城ちくじょうぬし 大内おおうち弘世ひろよ大内おおうちきょうひろし
築城ちくじょうねん 14世紀せいき中期ちゅうき15世紀せいき中期ちゅうきか?
おも城主じょうしゅ 大内おおうち
はいじょうねん 弘治こうじ3ねん1557ねん
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 西門にしもん庭園ていえん石組いしぐみみぞなど
位置いち 北緯ほくい3411ふん2.8びょう 東経とうけい13128ふん49.6びょう / 北緯ほくい34.184111 東経とうけい131.480444 / 34.184111; 131.480444
地図ちず
大内氏館の位置(山口県内)
大内氏館
大内おおうちかん
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大内おおうちかん(おおうちしやかた[1])は、山口やまぐちけん山口やまぐち大殿大路おおどのおおじにあったしろかん周防すおうこく長門ながとこく本拠ほんきょとした大内おおうち居館きょかん守護しゅごかん)である。「大内おおうち遺跡いせき (つけたり)凌雲りょううん寺跡てらあと[2]としてくに史跡しせき指定していされている。

概要がいよう

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大内おおうち24だい当主とうしゅ大内おおうち弘世ひろよが、山口やまぐち本拠ほんきょさだうつんだとききずかれた[3]居館きょかんで、京都きょうとした山口やまぐちまちつかわしくしろではなくたてとしててられた。そのため、つめしろとして背後はいご高嶺たかねしろがある。

最盛さいせいかんほりふくめると東西とうざい160m・南北なんぼく170m以上いじょう規模きぼほこ方形ほうけい居館きょかんで、京都きょうと将軍しょうぐんていしているともわれる[1]初期しょきは、かんみぞへいかこまれている程度ていどだったが、15世紀せいき中頃なかごろには空堀からぼりるいによるある程度ていど防御ぼうぎょりょくそなえたしろかんになった。ほりはさらに南側みなみがわにもびていることから、るいかこまれた部分ぶぶんよりさらにみなみにも関連かんれんする施設しせつがあったと推定すいていされている。

かんのすぐ北側きたがわには別邸べっていとして築山つきやまかん築山つきやま御殿ごてん)がきずかれており、大内おおうちかん住居じゅうきょとして、築山つきやまかん迎賓館げいひんかんてき役割やくわりとして使つかわれていたとおもわれる。また、かん南東なんとうにはおおきないけった庭園ていえんがあり、北西ほくせいには枯山水かれさんすい庭園ていえん現在げんざいりゅうぶくてら南東なんとうでも詳細しょうさい不明ふめい庭園ていえん存在そんざいしていた。

沿革えんかく

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正確せいかく建築けんちく時期じき不明ふめいであり、江戸えど時代じだいえがかれた「山口やまぐちいにしえ[4]」によると14世紀せいきなかばの1360ねんごろとされるが、発掘はっくつ調査ちょうさによると1400年代ねんだいなかだい13だい大内おおうちきょうひろし建築けんちくである可能かのうせいたかいとされる。

大内おおうち繁栄はんえいとともに“西にし京都きょうと山口やまぐちとしてさかえたが、弘世ひろよ大内おおうち義弘よしひろころにはもう手狭てぜまになったようで、すぐ北側きたがわ築山つきやまかんきずいている。大内おおうちかんもその領土りょうど拡大かくだいとともに最低さいてい5かい増築ぞうちくかえされていることが発掘はっくつ調査ちょうさにより確認かくにんされている。

大内おおうち義隆よしたか時代じだい天文てんもん20ねん(1551ねん)に家臣かしんとう隆房たかふさ謀反ぼうほんにより山口やまぐち灰燼かいじんかえした(だいやすしてらへん)。このとき大内おおうちかん状況じょうきょう不明ふめいであるが、へんのちは、あらたな大内おおうち当主とうしゅとなった大内おおうち義長よしなが大内おおうちかんはいった。

弘治こうじ2ねん1556ねん)に毛利もうり元就もとなり侵攻しんこうぼうちょう経略けいりゃく)してくると、大内おおうち義長よしなが山口やまぐち放棄ほうきして逃亡とうぼう大内おおうちかんもその役目やくめえることとなった。そして翌年よくねん同地どうち毛利もうりたかしもと大内おおうち義隆よしたか菩提ぼだいとむらうためにりゅうぶくてら建立こんりゅうしている。

昭和しょうわ34ねん1959ねん)11月にはくに指定してい史跡しせきとなり、発掘はっくつ調査ちょうさ復元ふくげん整備せいびすすめられてきた。

平成へいせい29ねん2017ねん)4がつ6にち高嶺たかねしろとともにぞく日本にっぽん100名城めいじょう(174ばん)に選定せんていされた。

遺構いこう復元ふくげん整備せいび事業じぎょう

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空堀からぼりあと復元ふくげんるい

発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれる以前いぜんは、大内おおうちかんあと遺構いこうりゅうぶくてら山門さんもんちかくにのこっていたるい程度ていど[3]であったが、昭和しょうわ53ねん1978ねん)より発掘はっくつ調査ちょうさかえされおおくの遺構いこう発見はっけんされた。平成へいせい20ねん2008ねん)のだい34発掘はっくつ調査ちょうさでは、りゅうぶくてら本堂ほんどう解体かいたい修理しゅうりともなはじめて本堂ほんどう地下ちか発掘はっくつ調査ちょうさおこなった。平成へいせい9ねん1997ねん)からはじまった復元ふくげん事業じぎょうにより、るい西門にしもん庭園ていえんなどが復元ふくげん整備せいびされている。

発掘はっくつ調査ちょうさにより検出けんしゅつされた遺構いこう

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石組いしぐみみぞ

たてあと西にし調査ちょうさ石組いしぐみみぞ検出けんしゅつされ、みぞそこにはみずながれた痕跡こんせきがあることから排水溝はいすいこう推定すいていされている。1500年代ねんだい前半ぜんはんつくられたが、西門にしもん後述こうじゅつ)がつくられたころにはもどされたとおもわれる[5]現在げんざい発掘はっくつ調査ちょうさ発見はっけんされたみぞ一部いちぶがそのまま展示てんじされている。

西門にしもん

石組いしぐみみぞおなじくかんあと西にし発見はっけんされた小規模しょうきぼ門跡もんぜき。その配置はいちおおきさから屋敷やしきない内門うちかどひとつで、礎石そせき検出けんしゅつされなかったことから、礎石そせき使つかわずに門柱もんちゅうりょうはしいしさえて固定こていする様式ようしきもんだったと推定すいていされる。平成へいせい9-10ねん(1997ねん-1998ねん)の調査ちょうさ門柱もんちゅうあと発見はっけんされ、うしなわれたたてあと一部いちぶとして復元ふくげん可能かのう判断はんだんされたことから、当時とうじ風景ふうけいえがかれた「洛中らくちゅう洛外らくがい屏風びょうぶ」などを参考さんこう平成へいせい17ねん2005ねん)に復元ふくげん[6][5]

1ごう庭園ていえん[7]

昭和しょうわ53ねん1978ねん)の調査ちょうさ発見はっけんされた庭園ていえんあとさくにわ年代ねんだい庭園ていえん形式けいしきなど詳細しょうさい不明ふめいだが、庭園ていえんよりふる時代じだいものかんがえられており、護岸ごがんせき内側うちがわ立石たていしひら玉石ぎょくせきがあったことがかっている。現在げんざいではもどされているため、その様子ようすることはできない。

復元ふくげんされた大内おおうちかんあと池泉いけいずみ庭園ていえん
池泉いけいずみ庭園ていえん(2ごう庭園ていえん[7]

敷地しきち南東なんとう位置いちしているかんあと最大さいだい庭園ていえん中央ちゅうおうひょうたんがある池泉いけいずみしき庭園ていえんで、みず庭園ていえん東側ひがしがわ水路すいろかられている(排水はいすいなどは不明ふめいだが南西なんせいがわながしたと推定すいていされる[5])。いけ東側ひがしがわにはソテツ植樹しょくじゅされているが、これは1488ねん当時とうじ史料しりょうにもてきており、国際こくさい交流こうりゅうさかんだった大内おおうち文化ぶんかかんじされるものとなっている[8]平成へいせい4-5ねん1992ねん-1993ねん)のだい13・14発掘はっくつ調査ちょうさ発見はっけんされ、平成へいせい23ねん2011ねん)に16世紀せいきまえ中頃なかごろ様子ようす復元ふくげん整備せいびされた[9]周囲しゅういには、にわ鑑賞かんしょうする建物たてものだったとおもわれる基礎きそせき石組いしぐみ井戸いどなども復元ふくげん展示てんじされている。

枯山水かれさんすい庭園ていえん(3ごう庭園ていえん[7]

16世紀せいき前半ぜんはん大内おおうち義隆よしたか時代じだい構築こうちくとされる小規模しょうきぼ枯山水かれさんすいしき庭園ていえんだが、その中頃なかごろ火災かさいにより焼失しょうしつした。火災かさい庭石にわいしのいくつかはうごかされ、その改変かいへんにより破壊はかいされている。大内おおうち義隆よしたかころにわおもわれ、とう隆房たかふさ謀反ぼうほんにより焼失しょうしつし、大内おおうち義長よしながによって改変かいへんされたと推定すいていされる。平成へいせい9-10ねん(1997ねん-1998ねん調査ちょうさにより発見はっけんされ、平成へいせい17ねん2005ねん)に復元ふくげん整備せいびされた。

その石組いしぐみかまど・せんれつ建物たてもの[10][5]あと展示てんじひんとして整備せいびされている。また、昭和しょうわ53ねん(1978ねん)の最初さいしょ調査ちょうさではかねかわら出土しゅつどしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 大内おおうち文化ぶんか遺産いさん大内おおうちかんあと - 大内おおうち文化ぶんかまちづくり(山口やまぐち文化ぶんか政策せいさく
  2. ^ 大内おおうちかんあとくわえて、築山つきやまかんあと高嶺たかねしろあと凌雲りょううんてらあと構成こうせいされている。
  3. ^ a b りゅうぶくてら大内おおうちかんあと説明せつめいばん山口やまぐち
  4. ^ 原図げんず現存げんそんしておらず、明治めいじ時代じだい模写もしゃされたものが山口やまぐちけん文書ぶんしょかん保存ほぞんされている。
  5. ^ a b c d 大内おおうちかんあと説明せつめいばん
  6. ^ ベールをいだ大内おおうちかん西門にしもん(2013ねん5がつ1にち時点じてんアーカイブ) - WEBばんサンデー山口やまぐち2004ねん2がつサンデー山口やまぐち
  7. ^ a b c 史跡しせき大内おおうちかんあと池泉いけいずみ庭園ていえんパンフレット(山口やまぐち教育きょういく委員いいんかい
  8. ^ 大内おおうちかんあとの「池泉いけいずみ庭園ていえん」、復元ふくげん着々ちゃくちゃくと 地形ちけい造成ぞうせい終了しゅうりょう - 山口やまぐち新聞しんぶん2011ねん1がつ20日はつか山口やまぐち新聞しんぶん
  9. ^ 山口やまぐち大内おおうちかんあとの「池泉いけいずみ庭園ていえん復元ふくげん栄華えいがしのぶ - 山口やまぐち新聞しんぶん2011ねん8がつ28にち山口やまぐち新聞しんぶん
  10. ^ "せん"は土偏つちへんせん焼成しょうせいした煉瓦れんがもちいられた建造けんぞうぶつで、大内おおうちかんぞうとされる。

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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