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世田谷せたがやじょう

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世田谷せたがやじょう
東京とうきょう
世田谷城空堀
世田谷せたがやじょう空堀からぼり
城郭じょうかく構造こうぞう 平城ひらじろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし よしりょう
築城ちくじょうねん おうひさし年間ねんかん1394ねん - 1426ねん)?
おも城主じょうしゅ よしりょう
はいじょうねん 天正てんしょう18ねん1590ねん
遺構いこう 空堀からぼりるい
指定してい文化財ぶんかざい 東京とうきょう指定してい旧跡きゅうせき
登録とうろく文化財ぶんかざい なし
位置いち 北緯ほくい3538ふん46びょう 東経とうけい13938ふん51びょう / 北緯ほくい35.64611 東経とうけい139.64750 / 35.64611; 139.64750
地図ちず
世田谷城の位置(東京都内)
世田谷城
世田谷せたがやじょう
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世田谷せたがやじょう(せたがやじょう)は、武蔵むさしこく荏原えばらぐん世田谷せたがや[1]げん東京とうきょう世田谷せたがや豪徳寺ごうとくじ)にあった日本にっぽんしろ

概要がいよう

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世田谷せたがやじょうは、よしりょうによってきずかれた平城ひらじろ世田谷せたがや本拠ほんきょいた奥州おうしゅうよしりょう代々だいだいきょかまえた。

歴史れきし沿革えんかく

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構造こうぞう

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世田谷せたがやじょう経堂きょうどう台地だいちからみなみしたじょう台地だいちじょううらないし、しろいきさんぽうかこようふもとがらす山川やまかわなが天然てんねんほりしていた[2]

開発かいはつすす旧態きゅうたいつまびらかでないが、豪徳寺ごうとくじ付近ふきん本丸ほんまるき、現在げんざい世田谷せたがやじょう阯公えん付近ふきんまでしろいきひろがっていたものとかんがえられている。

遺構いこう

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世田谷せたがやじょう阯公園内えんないからきたけてびる、空堀からぼりおよるい現存げんそんする。世田谷せたがやじょう阯公園内えんない遺構いこうかんしては公園こうえん整備せいびくわえられている。

豪徳寺ごうとくじ参道さんどうわきるい、アパートわき空堀からぼりるい遺構いこう旧態きゅうたいめているが、一部いちぶりができない。

ささえじょう

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こう

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江戸えど時代じだい世田谷せたがや代官だいかん屋敷やしきが、東急とうきゅう世田谷線せたがやせん上町うえまちえき」の東南とうなん200mほどのところにあった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん13 東京とうきょう
  2. ^ 世田谷せたがやじょう阯公えん”. 世田谷せたがや. 2012ねん4がつ22にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 八巻はちまき孝夫たかお世田谷せたがやじょう村田むらた修三しゅうぞう編著へんちょ) 『図説ずせつ中世ちゅうせい城郭じょうかく事典じてんだいいちかん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ1987ねん、285〜286ページ。
  • 三田みた義春よしはる東京とうきょう世田谷せたがや教育きょういく委員いいんかいへん世田谷せたがや中世ちゅうせい城塞じょうさい東京とうきょう世田谷せたがや教育きょういく委員いいんかい1979ねん
世田谷せたがや教育きょういく委員いいんかい三田みた義春よしはる奥沢おくさわじょう世田谷せたがやじょうをはじめとする世田谷せたがや区内くない城郭じょうかくかんする研究けんきゅう成果せいかをまとめている。
  • 伊禮いれい正雄まさお城南じょうなん中世ちゅうせいじょうかん その3」大田おおた区史くし編纂へんさん委員いいんかいへん』5ごう大田おおた区史くし編纂へんさんしつ1976ねん、71〜78ページ。
1915ねん大正たいしょう4ねん)に作成さくせいされた世田谷せたがや城跡じょうせき見取みと掲載けいさい

関連かんれん項目こうもく

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