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いた倉重くらしげつね

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いた倉重くらしげつね
板倉いたくらしげるつねぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 寛永かんえい20ねん10月22にち1643ねん12月3にち
死没しぼつ 貞享ていきょう5ねん8がつ7にち1688ねん9月1にち
改名かいめい しん十郎じゅうろう幼名ようみょう)→じゅうつね
別名べつめい ゆうさんごう
戒名かいみょう 天祐てんゆういん殿どのみなみしつゆう山大やまだい居士こじ
墓所はかしょ 愛知あいちけん西尾にしお貝吹かいふくまち長円寺ちょうえんじ
官位かんい したがえした隠岐おきもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし
はん 下総しもうさ関宿せきやどはんおも伊勢いせ亀山かめやまはんあるじ
氏族しぞく 板倉いたくら
父母ちちはは ちち板倉いたくらしげるきょうはは酒井さかい忠吉ただよしむすめ
つま 正室せいしつふで戸田とだしんじむすめ
女子じょし太田おおたじき正室せいしつ)、ひさ松平まつだいら信通のぶみち正室せいしつのち堀田ほったただしあさ正室せいしつ
養子ようしじゅうふゆいし酒井さかいただししん正室せいしつ
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板倉いたくら しげるつね(いたくら しげつね)は、下総しもうさ関宿せきやどはんだい3だい藩主はんしゅ、のち伊勢いせ亀山かめやまはん初代しょだい藩主はんしゅ板倉いたくら宗家そうけ4だい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

家督かとく相続そうぞく[編集へんしゅう]

寛永かんえい20ねん1643ねん)10がつ22にち関宿せきやど藩主はんしゅ板倉いたくらしげるきょう長男ちょうなんとしてまれる。万治まんじ元年がんねん1658ねんうるう12がつしたがえ隠岐おきまもり叙位じょい任官にんかんする。寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん)にちち死去しきょしたため、寛文ひろふみ2ねん1662ねん)に家督かとくいで関宿せきやど藩主はんしゅとなった。

伊勢いせ亀山かめやまへのてんふう[編集へんしゅう]

寛文ひろふみ9ねん1669ねん)2がつ、5000せき加増かぞうの5まんせきうえで、伊勢いせ亀山かめやま加増かぞううつりふうされた。

亀山かめやまでは、亀山かめやましろあらため増築ぞうちく寺社じしゃ政策せいさく徹底てってい新田にった開発かいはつなどのすすむ農政のうせいさくおこなう一方いっぽうで、賦役ふえき軽減けいげん減税げんぜいなどの善政ぜんせいにもつとめたといわれる。しかしすぐれた政治せいじおこなったにもかかわらず、連年れんねんのように凶作きょうさくつづき、はん財政ざいせい窮乏きゅうぼうして1まん2000りょう負債ふさいかかえるようになり、その亀山かめやまはん財政ざいせい悪影響あくえいきょうをもたらした。

板倉いたくらしげるつねはか(西尾にしお長圓寺ちょうえんじ)

貞享ていきょう5ねん1688ねん)2がつ16にち家督かとく養子ようしじゅうふゆゆずって隠居いんきょする。半年はんとしの8がつ7にち死去しきょした。享年きょうねん46。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

先代せんだい
板倉いたくらしげるきょう
板倉いたくら宗家そうけ当主とうしゅ
1662ねん - 1688ねん
次代じだい
板倉いたくらしげるふゆ