(Translated by https://www.hiragana.jp/)
牧野信成 (関宿藩主) - Wikipedia コンテンツにスキップ

牧野まきの信成のぶなり (関宿せきやど藩主はんしゅ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

牧野まきの 信成のぶなり(まきの のぶしげ、1578ねん天正てんしょう6ねん) - 1650ねん5月11にち慶安けいあん3ねん4がつ11にち))は、戦国せんごく武将ぶしょう江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう武蔵むさし石戸いしどはんおも下総しもうさ関宿せきやどはん初代しょだい藩主はんしゅ丹後たんご田辺たなべはん牧野まきの初代しょだい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

牧野まきのはんみぎ衛門えもん康成やすなり三男さんなんはは小笠原おがさわら安次やすじむすめ牛久保うしくぼしろあるじ牧野まきのよせであった牧野まきの山城やましろまもる直系ちょっけい子孫しそんである。正室せいしつ鳥居とりい忠政ただまさ養女ようじょ土岐ときじょうせいむすめ)、継室けいしつ生駒いこまみつるただしむすめ牧野まきのちかしなり次男じなん)、牧野まきのいんしげる三男さんなん)、小笠原おがさわら吉政よしまさ五男いつお)、牧野まきのえいしげる六男むつお)、牧野まきのとみなり八男はちお)、牧野まきのただしなりきゅうなん)、村越むらこしただしなりじゅうなん)、むすめしょうはま嘉隆よしたか正室せいしつ)、むすめ阿部あべ正能しょうのう正室せいしつ)、むすめ細川ほそかわ興隆こうりゅう正室せいしつ)、むすめ毛利もうり高直たかなお正室せいしつのち大久保おおくぼただしけん正室せいしつ)ら。官位かんい豊前ぶぜんもり

牧野まきの康成やすなりは、牛久保うしくぼ牧野まきの駿河するが遠江とおとうみ戦国せんごく大名だいみょう今川いまがわ見限みかぎって岡崎おかざきしろおも徳川とくがわ家康いえやす松平まつだいら)に臣従しんじゅうすることをためらっていた時期じきに、いちはや家康いえやす内通ないつうして、内部ないぶからのくずしをおこなったと推察すいさつされる。国人くにびと領主りょうしゅ牧野まきのの庶流のひとつにぎなかった牧野まきの山城やましろまもるていなり康成やすなり信成のぶなりの3だいは、こうして家康いえやす信任しんにんて、やがて譜代ふだい大名だいみょうのぼめた。慶長けいちょう4ねん1599ねん)、康成やすなり死去しきょにより信成のぶなり家督かとくぐ。この康成やすなりは、だい上田うえだ合戦かっせん参加さんかして牛久保うしくぼ城主じょうしゅから大胡おおごしろおもとなった牧野まきのみぎうままこと康成やすなりとはまったく別人べつじんであり、混同こんどうされないように、康成やすなり信成のぶなり系統けいとう牧野まきの山城やましろまもる一族いちぞく注釈ちゅうしゃくして説明せつめいされることがおおい。所領しょりょう武蔵むさしこく足立あだちぐん石戸いしどにあった。石戸いしどりょうは、現在げんざい埼玉さいたまけん上尾あげお北西ほくせいから鴻巣こうのす南西なんせいにかけての地域ちいきで、領内りょうない川田谷かわたや現在げんざい桶川おけがわ川田谷かわたや)に陣屋じんやかれた。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかでは徳川とくがわ家康いえやすしたがって本戦ほんせん参加さんかする。その徳川とくがわ秀忠ひでただつかえ、慶長けいちょう11ねん1606ねん)にはだい番頭ばんがしら慶長けいちょう15ねん1610ねん)には小姓こしょうくみ番頭ばんがしらとなった。慶長けいちょう19ねん1614ねん)には書院しょいん番頭ばんがしらとなる。同年どうねんふゆからの大坂おおさかふゆじんでは伏見ふしみじょう守備しゅび翌年よくねんなつじんではだい坂城さかきめに参加さんかし、大砲たいほうだい坂城さかき破壊はかいするという功績こうせきげた。寛永かんえい3ねん1626ねん)、2000せき加増かぞうされる。

寛永かんえい9ねん1632ねん)、徳川とくがわ忠長ただなが流罪るざいとされた高崎たかさきじょうおもむき、その監査かんさおこなった。寛永かんえい10ねん1633ねん)、4000せき加増かぞうされ、合計ごうけい1まんせき大名だいみょうとなる。正保まさやす元年がんねん1644ねん)、下総しもうさ関宿せきやど1まん7000せき加増かぞううつりふうされた。正保しょうほう4ねん1647ねん)、やまいのため次男じなんしんなり家督かとくゆずって隠居いんきょし、慶安けいあん3ねん(1650ねん)4がつ11にちに73さい死去しきょした。法名ほうみょうせいほまれあきらこころ知見ちけんいん墓地ぼち埼玉さいたまけん鴻巣こうのす本町ほんまち勝願寺しょうがんじ

出典しゅってん[編集へんしゅう]