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大胡おおごしろ

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大胡おおごしろ
群馬ぐんまけん
大胡城跡
大胡おおご城跡じょうせき
城郭じょうかく構造こうぞう 平山ひらやましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 大胡おおご
築城ちくじょうねん 天文てんもん年間ねんかん1532ねん - 1555ねん
おも城主じょうしゅ 大胡おおご上泉かみいずみ牧野まきの
はいじょうねん 元和がんわ2ねん1616ねん
遺構いこう 曲輪くるわるいほか
指定してい文化財ぶんかざい けん指定してい史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3625ふん10びょう 東経とうけい1399ふん34.8びょう / 北緯ほくい36.41944 東経とうけい139.159667 / 36.41944; 139.159667 (大胡おおごしろ)
地図ちず
大胡城の位置(群馬県内)
大胡城
大胡おおごしろ
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大胡おおごしろ(おおごじょう)は、群馬ぐんまけん前橋まえばし河原浜かわらはままちにあった中世ちゅうせい日本にっぽんしろ平山ひらやましろ)。大胡おおご上泉かみいずみ居城きょじょうであった。近世きんせい初頭しょとう徳川とくがわ家臣かしん牧野まきのはい城主じょうしゅになった。群馬ぐんまけん指定してい史跡しせき[1]天文てんもん年間ねんかん1532ねん - 1555ねん)に築城ちくじょうされたとされ、元和がんわ2ねん1616ねんはいじょうとなった。

概要がいよう[編集へんしゅう]

大胡おおごじょう大胡おおご居城きょじょうであった。大胡おおご藤原ふじわらしげるきょう子孫しそんであり、東毛とうげ地方ちほう勢力せいりょく扶植ふしょくしていた豪族ごうぞくであった。「吾妻あづまきょう」のたてひさ元年がんねん1190ねん)の記事きじには大胡おおご太郎たろう名前なまええるので、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにはすでにこの地域ちいき有力ゆうりょく支配しはいしゃであったとおもわれる。しかしこのころ大胡おおご居館きょかんは、現在げんざい大胡おおごじょうではなく、しろ西にし300メートルほどのところにあるやしなえ林寺はやしじあたりであったのではないかと推定すいていされている。また、現存げんそんしろ趾には近世きんせい大名だいみょう牧野まきの城主じょうしゅ時代じだい縄張なわばりや構造こうぞうみとめられる。

歴史れきし沿革えんかく[編集へんしゅう]

古河ふるかわ公方くぼう横瀬よこせとのたたか[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだいかんおう擾乱じょうらんさいして大胡おおご山上さんじょうらととも足利尊氏あしかがたかうじくみし、足利あしかが直義ただよしかた桃井ももいただしつね長尾ながおけいただし笠懸かさかけたたかってやぶれたが、やがてたかし勢力せいりょく回復かいふく直義ただよし自害じがいんだ。

そのしばらく大胡おおご動静どうせいはつかめないが、とおるとくらんのさなかに古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ配下はいか岩松いわまつ持国もちくに赤堀あかほり大胡おおご深津ふかづ攻撃こうげきさせているので、この大乱たいらんにおいて大胡おおご上杉うえすぎかた加担かたんしていたものとおもわれる。また、文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)に川越かわごえしろおこなわれた太田おおた資清すけきよ主催しゅさい連歌れんがかい大胡おおご城主じょうしゅとみられる大胡おおごおさむしげるえている。

子孫しそん牛込うしごめつたえによれば、天文てんもん10ねん1541ねん)、新田にった金山かなやまじょう横瀬よこせ由良ゆら)の勢力せいりょく強大きょうだいとなってきて、圧迫あっぱくされるようになったため、大胡おおごとう地域ちいきをすてて江戸えどおもむき、牛込うしごめじょううつったといわれる。すくなくともえいろく2ねん1559ねん以前いぜんには江戸えどており、すでこう北条ほうじょう配下はいかにあった(『大胡おおごまち』)[2]

越後えちご上杉うえすぎ越山こしやま[編集へんしゅう]

しかし大胡おおご一族いちぞくはなおとう地方ちほうのこっていた模様もようで、えいろく年間ねんかん上杉うえすぎ謙信けんしんしたがものつらねた「関東かんとうまく注文ちゅうもん」には大胡おおご名前なまええる。しかし大胡おおご大胡おおごじょう維持いじするだけの実力じつりょくはなく、新田にった金山かなやまじょうあるじ横瀬よこせこくしげるかたとなった大胡おおごじょうには、配下はいか益田ますだ大胡おおごおなしゅうきょうけい藤原ふじわらつて)が居城きょじょうしたという。益田ますだ系図けいず略記りゃっきおよび益田ますだ菩提寺ぼだいじ縁起えんぎ(『大胡おおごまち収録しゅうろく)によれば、益田ますだこうつな大胡おおごしろ築城ちくじょうし、くだりしげる嘉吉よしきち元年がんねん戦死せんし)、おさむしげるとおるとく年間ねんかん横瀬よこせこくしげるぞくす)とつづいたが、4代目だいめしげせいのとき大胡おおごじょう落城らくじょう新田しんでん移住いじゅう横瀬よこせけいしげるむすめめとつづいたとある。大胡おおご一族いちぞく上泉かみいずみ家伝かでん上泉かみいずみ子孫しそん上泉かみいずみ信綱のぶつな関連かんれん書物しょもつによれば、信綱のぶつな上泉かみいずみ一族いちぞくなどが城主じょうしゅだったともいわれる。

その上杉うえすぎ北条ほうじょうこうそうなかで、大胡おおごしろ転変てんぺんにさらされていく。横瀬よこせしげるしげる北条ほうじょうかた寝返ねがえると、上杉うえすぎ謙信けんしん大胡おおごしろとし、配下はいか北条ほうじょう高広たかひろ城主じょうしゅとしてれた。しかしこの北条ほうじょう高広たかひろのちには謙信けんしん裏切うらぎってしまう。のちこしあい同盟どうめい成立せいりつすると、北条ほうじょう高広たかひろ謙信けんしんゆるされ、厩橋うまやばしじょう前橋まえばしじょう)に復帰ふっきした。高広たかひろ前橋まえばしじょうけいひろゆずり、自身じしん大胡おおごじょう隠居いんきょしたとわれている。

御館みたてらん本能寺ほんのうじへん[編集へんしゅう]

天正てんしょう6ねん1578ねん)、上杉うえすぎ謙信けんしん急死きゅうしすると、その跡目あとめあらそって長尾ながおけい景勝けいしょうと、北条ほうじょう氏政うじまさ実子じっし謙信けんしん養子ようしになっていた景虎かげとらとがこうそうひろげた(御館みたてらん)。このたたかいでのち北条ほうじょうしたしい高広たかひろは、景虎かげとら支援しえんした。しかし結果けっか景虎かげとら敗北はいぼくとなり、厩橋うまやばし城主じょうしゅけいひろ越後えちご戦死せんし天正てんしょう7ねん1579ねん)2がつ北条ほうじょう高広たかひろ内藤ないとうあきらがつらをとおして武田たけだ勝頼かつより従属じゅうぞくした。このとき厩橋うまやばしじょうには北条ほうじょう高広たかひろ大胡おおごじょうには大胡おおごこうしげるはいった(大胡おおごこうしげる北条ほうじょう高広たかひろ親族しんぞくおもわれる)。

しかし、天正てんしょう10ねん1582ねん)、その武田たけだ織田おだ信長のぶながめられて滅亡めつぼう、その信長のぶなが家臣かしん滝川たきがわ一益かずます上野うえのいちこくあたえられて厩橋うまやばしじょう前橋まえばしじょう)にはいりこの地方ちほう支配しはいしたが、本能寺ほんのうじへん信長のぶなが殺害さつがいされると織田おだ勢力せいりょく一掃いっそうされた。神流川かんながわたたか北条ほうじょう氏直うじなおやぶ滝川たきがわ一益かずます上野うえのったのち天正てんしょう11ねん(1583ねん)9がつ沼田ぬまたじょう真田さなだ昌幸まさゆき連携れんけい独立どくりつたもっていた北条ほうじょう高広たかひろ厩橋うまやばしじょう北条ほうじょう氏邦うじくにとされ、この地方ちほう厩橋うまやばしじょうはいった氏邦うじくに支配しはいかれることとなる。

牧野まきの入城にゅうじょうとその[編集へんしゅう]

牧野まきの康成やすなり狩野かの秀信ひでのぶひつ徳川とくがわじゅうななしょう」より)。長岡ながおか市立しりつ中央ちゅうおう図書館としょかんぞう

その関東かんとう地方ちほう最大さいだい勢力せいりょくほこったのち北条ほうじょう天正てんしょう18ねん1590ねん)、小田原おだわら征伐せいばつ没落ぼつらく大胡おおごこうしげる所領しょりょう没収ぼっしゅうされ、戦後せんご徳川とくがわ家康いえやすせきはちしゅう支配しはいしゃとなった。大胡おおごじょうには徳川とくがわ家臣かしん牧野まきの康成やすなりが2まんせき大胡おおごじょう入城にゅうじょうした。しかし、入城にゅうじょうやく25ねん元和がんわ2ねん1616ねん)、牧野まきの越後えちご長峰ながみねに5まんせきうたてふうされ、大胡おおごりょう前橋まえばしじょうあるじ酒井さかい管轄かんかつとなり、それにより上部じょうぶ構造こうぞうぶつ撤去てっきょされて大胡おおごじょうはいじょうとなった。

だい世界せかい大戦たいせんなか大胡おおご城本しろもとまる地下ちかには防空壕ぼうくうごうられ、産業さんぎょう機械きかい搬入はんにゅうされて実際じっさい軍需ぐんじゅ工場こうじょうとして稼働かどうしていた[3]

1967ねん昭和しょうわ42ねん)2がつ24にち群馬ぐんまけん指定してい史跡しせきになった[1]

構造こうぞう[編集へんしゅう]

大胡おおごじょう絵図えずによると、細長ほそながしょう丘陵きゅうりょう南北なんぼく堀切ほっきり仕切しきり、るい枡形ますがたもんそなえた本丸ほんまるまる大胡おおご時代じだい城郭じょうかく構造こうぞうであると推定すいていされる。このほかにさん曲輪くるわよん曲輪くるわ以上いじょう南側みなみがわ)・西にし曲輪くるわ玉蔵たまくらいん西側にしがわ)・根小屋ねごや東側ひがしがわ)・越中えっちゅう屋敷やしき北側きたがわ)が位置いちする。またしろ北部ほくぶ近接きんせつ近戸ちかと神社じんじゃ(ちかとじんじゃ)があるがこれも城郭じょうかく一部いちぶとされ近戸ちかと曲輪くるわという。

ふくかく構造こうぞうには牧野まきの拡充かくじゅうした近世きんせい城郭じょうかく様相ようそうれる。現在げんざいられる石垣いしがき構造こうぞうなどはこの牧野まきの時代じだい構築こうちくされたのではないかとかんがえられている。

ひろさは南北なんぼく670メートル。東西とうざい西にし曲輪くるわ根小屋ねごや平城ひらじろふくめると最大さいだい310メートル、丘陵きゅうりょうのみでは180メートルほどである。

牧野まきの時代じだいしろ大手おおてこうよん曲輪くるわみなみにあった。前橋まえばし方面ほうめんひらき、西側にしがわさむらい屋敷やしきが、南側みなみがわ伊勢崎いせさき方面ほうめん)には城下町じょうかまちひろがっていた。この大手おおてこう牧野まきのさだめたものであり、城下町じょうかまちしろ直結ちょっけつすることが意図いとされていた。それ以前いぜんのち北条ほうじょう時代じだい大手おおてこう根小屋ねごやにあったとみられる。

目立めだった水堀みずほりく、空堀からぼりしろ西側にしがわ小流こながし用水ようすい)と東側ひがしがわのそばをながれる荒砥川あらとがわ天然てんねんりゅう代用だいようしていたとかんがえられる。当時とうじ荒砥川あらとがわ近戸ちかと曲輪くるわ越中えっちゅう屋敷やしきがけすぐをながれたとされる。また西側にしがわ用水ようすいはS歪曲わいきょくしてまるさん曲輪くるわあいだしろ中央ちゅうおう横断おうだんするが、これは牧野まきの時代じだい歪曲わいきょくしていなかった川筋かわすじ用水ようすいとしたものと推定すいていされる。

さい北部ほくぶ近戸ちかときょくであるが、この近戸ちかと曲輪くるわ越中えっちゅう屋敷やしきあいだ中世ちゅうせい堀切ほりきりとしてははばひろすぎるため、近戸ちかと曲輪くるわ大胡おおごじょう出城でしろ推定すいていされている。また大胡おおご初期しょきでは、近戸ちかと曲輪くるわのみが大胡おおごしろだったともかんがえられている(大胡おおごまち)。

越中えっちゅう屋敷やしき江戸えど牧野まきのよせ真木まきえつちゅうもり(3000せき)のものであるとかんがえられる。また北城ほくじょうともいわれ、しろ北限ほくげんとも推定すいていされる。なおきた虎口ここうがなかったとおもわれ、きたからの攻撃こうげき防御ぼうぎょ本丸ほんまるがわまも役割やくわりがあったとされる。現在げんざい大胡おおご幼稚園ようちえん存在そんざいする。

さん曲輪くるわよん曲輪くるわ捨曲である。かつてこの2つはひとつのものであった(「大胡おおごじょうこう」)。牧野まきの時代じだいひがし根小屋ねごや西にしもうけたさむらい屋敷やしき連絡れんらくのため堀切ほりきりもうけ、捨曲を2ふんしたとかんがえられる(大胡おおごまち)。よん曲輪くるわみなみきょくともいう。

西にしきょく牧野まきのによる増築ぞうちく部分ぶぶんである。これは大手おおてこう移動いどうによりさん曲輪くるわよん曲輪くるわきゅう捨曲)の西側にしがわ大手おおてへの通路つうろつくることになったため、きゅう捨曲輪西わにし用水ようすい東遷とうせんさせた。結果けっかさん曲輪くるわよん曲輪くるわ防備ぼうび手薄てうすとなり、その対策たいさくのため西にしきょくもうけられたのである。南北なんぼく細長ほそなが平城ひらじろで、西にしひろがるさむらい屋敷やしきとの連結れんけつふかめ、また従来じゅうらい東西とうざいせまかったしろ構造こうぞうてき脆弱ぜいじゃくさをおぎな役割やくわりっていた。

歴代れきだい城主じょうしゅ[編集へんしゅう]

ささえじょう[編集へんしゅう]

ほぼすべ消滅しょうめつしている。また大胡おおご居館きょかんあととされるよう林寺はやしじとりで機能きのうっていたとみられる。

  • 上泉かみいずみしろ - 大胡おおごじょうから南西なんせいにある前橋まえばし上泉かみいずみまちにあり、大胡おおご一族いちぞく上泉かみいずみ居城きょじょう本丸ほんまるあとには江戸えど時代じだい倉庫そうこたる上泉かみいずみ郷倉ごうくらがある。
  • 横沢よこざわじょう - 大胡おおごじょう西にしにある前橋まえばし横沢よこさわまちにあった出城でしろあと大半たいはん宅地たくちした。
  • 今城いましろ - 大胡おおごじょう西にしうえ電気でんき鉄道てつどう江木えぎえきひがし西今にしいまじょう東今ひがしいまじょうにあったとみられるが消滅しょうめつ付近ふきんはし大胡おおご県道けんどうきた渋川しぶかわ大胡おおごせんむすぶかたちで存在そんざいした勝山かつやまとおほり大胡おおごじょうとおほり)をまもっていたと推測すいそくされる。
  • 河原浜かわらはまとりで - しろひがし街道かいどう沿いにあり河原かわはらまもったとつたえるが、痕跡こんせきもなく消失しょうしつしている。

所在地しょざいち[編集へんしゅう]

大胡おおご城跡じょうせき入口いりくち
  • 群馬ぐんまけん前橋まえばし河原浜かわらはままち660-1

アクセス[編集へんしゅう]

うえ電鉄でんてつ 大胡おおごえき 徒歩とほきたやく30ふん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b けん指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん前橋まえばし公式こうしきHP
  2. ^ だん』によれば大胡おおご重行しげゆきときたけしゅう牛込うしごめ居住きょじゅうとあり、その重行しげゆき天文てんもん12ねん1543ねん)9がつ27にち旧暦きゅうれき)に死没しぼつしたとされる(参考さんこう文献ぶんけんの3、98ぺーじだんまき15・藤原ふじわらせい牛込うしごめ大胡おおご重行しげゆきこう)。
  3. ^ あたご歴史れきし研究けんきゅうかいべいぐん撮影さつえいした空襲くうしゅう前橋まえばし』あたご歴史れきし研究けんきゅうかい、2021ねん、56-57ぺーじISBN 978-4-600-00937-3 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  1. 大胡おおごまち編纂へんさん委員いいんかいへん大胡おおごまち大胡おおごまち、1976ねん
  2. 福島ふくしま武雄たけお ちょ大胡おおごじょうこう」(うえ郷土きょうど研究けんきゅう会誌かいしうえおようえじん』1924年刊ねんかん復刻ふっこくばん)。
  3. 田畑たばたもんせん斎木さいき一馬かずま校訂こうてい) 『だんぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1968ねんISBN 4-7971-0266-7 C3323。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]