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長尾ながおけいただし

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長尾ながお けいただし(ながお かげただ)

  1. 鎌倉かまくら時代ときよ人物じんぶつ四郎しろうけいただし
  2. 南北なんぼくあさ時代じだい人物じんぶつ左衛門尉さえもんのじょうけいただし

長尾ながおけいちゅう (四郎しろう)

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長尾ながおけいただし
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
別名べつめい 通称つうしょう四郎しろう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
氏族しぞく 長尾ながお
父母ちちはは ちち長尾ながおけいしげるはは葛西かさいきよしむすめ
兄弟きょうだい 定村さだむらけい為村ためむらけいただし
つま 正室せいしつ北条ほうじょうたかしむすめ
けいもとけいのう
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長尾ながお けいただし(ながお かげただ)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき武士ぶし長尾ながお4だい当主とうしゅ

たからおさむ元年がんねん1247ねん)のたからおさむ合戦かっせんで、ほとんどの長尾ながお一族いちぞく三浦みうらじゅんじたため滅亡めつぼうけいちゅう数少かずすくないのこりとなった。後述こうじゅつ左衛門尉さえもんのじょうけいちゅう混同こんどうされることもあるが、活動かつどう時期じきに70ねん~80ねんほどのがあるので、あきらかに別人べつじんである。

しかししょ系図けいずでは同一どういつされることがおおく(『長尾ながお正統せいとう系図けいずとう)、これが中期ちゅうき長尾ながお系図けいず混乱こんらんさせている要因よういんになっている。

長尾ながおけいちゅう (左衛門尉さえもんのじょう)

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長尾ながおけいただし
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい - 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
別名べつめい 敏景としかげ
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 上杉うえすぎ憲顕のりあき
氏族しぞく 長尾ながお
父母ちちはは ちち長尾ながおけいためはは佐原さはらあきられんむすめ?
つま 正室せいしつ長尾ながおふじけいむすめ?
けいぎょう
養子ようしけいつね?、けいじき?
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長尾ながお けいただし(ながお かげただ)は、南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよ前期ぜんきにかけての武士ぶし長尾ながお7だい当主とうしゅ関東かんとう長尾ちょうび

おおくの系図けいずでは、長尾ながおけいのうけいため嫡男ちゃくなんとされる。長尾ながおふじけいむすめ婿むことなったとするせつもある。

出自しゅつじかんしてはべつせつあり、『長尾ながおふじあきら(あるいはふじけい)の』とするせつや、『千秋せんしゅう上杉うえすぎふじふじあきららの兄弟きょうだいおもわれる)の』などもある。また、長尾ながお親族しんぞくである鎌倉かまくら後裔こうえいが、たからおさむ合戦かっせん以降いこう長尾ながお名跡みょうせきいだ家系かけいともわれ、出身しゅっしん長尾ながおのいずれのながれであったかは判然はんぜんとしていない。

けいちゅう自身じしん上杉うえすぎ憲顕のりあき重臣じゅうしんとして各地かくち転戦てんせんときには上杉うえすぎ名代なだいとして足利尊氏あしかがたかうじ従軍じゅうぐんし、「引旗」をたまわって石動山せきどうやま攻略こうりゃくなどで武功ぶこうかさねたとわれる。越後えちご守護しゅご上杉うえすぎ憲顕のりあき配下はいか越後えちご守護しゅごだいとしても活躍かつやくし、かんひさし2ねん/興国こうこく4ねん1343ねん)、憲顕のりあき鎌倉かまくらかえったあとも越後えちご国内こくない経営けいえいつとめた。かんおう擾乱じょうらんのちには上野うえの守護しゅごだいにんぜられた。一貫いっかんして憲顕のりあき腹心ふくしんとして活動かつどうし、長尾ながお発展はってん基礎きそきずいた。子孫しそんおおくは関東かんとう各地かくち守護しゅごだいとなり、越後えちご守護しゅごだい長尾ながおけいちゅうおとうとながれである。