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関東かんとうまく注文ちゅうもん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

関東かんとうまく注文ちゅうもん」(かんとうまくちゅうもん)は、戦国せんごく時代じだい史料しりょうで、えいろく年間ねんかん(1558ねん - 1570ねん)に上杉うえすぎ謙信けんしん関東かんとう地方ちほう進出しんしゅつしたさいに、上杉うえすぎ臣従しんじゅうしたしょしょう記録きろくした注文ちゅうもんである。とく上野うえのこく群馬ぐんまけん)の戦国せんごく時代じだい勢力せいりょく推定すいていするための重要じゅうよう史料しりょうとされている[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

関東かんとうまく注文ちゅうもん」は、きゅう米沢よねざわはんおも上杉うえすぎ伝来でんらい上杉うえすぎ文書ぶんしょ一部いちぶである。文書ぶんしょ前書まえがきには、正確せいかく年代ねんだい不明ふめいだが上杉うえすぎ謙信けんしんえいろく4ねん(1561ねん)に関東かんとう地方ちほう出兵しゅっぺいしたころのもの、とある。

この文書ぶんしょいまだそのとししょうにせずと雖も、えいろく4ねん以来いらい上杉うえすぎ輝虎てるとら関東かんとう出陣しゅつじんせしころのものなるべきをもって、こんしゅうとくここにおさむ — 「上杉うえすぎ文書ぶんしょいちよんはち 関東かんとうまく注文ちゅうもん東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ古文書こもんじょフルテキストデータベース、「関東かんとうまく注文ちゅうもん」、コマ番号ばんごう453

この文書ぶんしょは、上杉うえすぎ謙信けんしん関東かんとう地方ちほう侵攻しんこうしたさい、その幕下まくしたさんじた関東かんとう地方ちほうしょしょう255にん名前なまえ列記れっきしたものである。およそ半数はんすう上野うえのこく群馬ぐんまけん)の武将ぶしょうで、しょしょう関係かんけいせいもうかがえることから、群馬ぐんまけん戦国せんごく時代じだい情勢じょうせい重要じゅうよう史料しりょうとされている。

上杉うえすぎ謙信けんしん越山こしやま[編集へんしゅう]

北関東きたかんとう動向どうこう[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよ関東かんとう地方ちほうには鎌倉かまくら公方くぼうかれ、関東かんとう諸国しょこく統治とうちにんじられた[2][ちゅう 1]。これを補佐ほさするのが関東かんとう管領かんりょうである[3]。ところが、鎌倉かまくら公方くぼう室町むろまち幕府ばくふ対立たいりつ関東かんとう管領かんりょうとも反目はんもくし、関東かんとういちえんんだ争乱そうらんこした(えいとおるらんとおるとくらん[4][3]

関東かんとう管領かんりょうしょくには足利あしかが外戚がいせきである上杉うえすぎ就任しゅうにん上杉うえすぎは4分家ぶんけかれて交代こうたい関東かんとう管領かんりょうしょくになった[5]鎌倉かまくら公方くぼうおとろえると関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ台頭たいとうするが[3]山内やまうち上杉うえすぎ扇谷おうぎや上杉うえすぎ敵対てきたい抗争こうそうするようになった[5][6]

戦国せんごく時代じだいはいると相模さがみこくこう北条ほうじょう関東かんとういちえん進出しんしゅつし、関東かんとう管領かんりょうしょく実力じつりょくうしなばかりの地位ちいとなった[3][5]上野うえのこく平井ひらいしろ群馬ぐんまけん藤岡ふじおか)を本拠ほんきょとする関東かんとう管領かんりょう山内やまうち上杉うえすぎ上杉うえすぎ憲政のりまさは、かわえつじょうたたか(1546ねん埼玉さいたまけん川越かわごえ)でのち北条ほうじょう大敗たいはいした[7][6]

その上杉うえすぎ憲政のりまさみなみからのち北条ほうじょう北条ほうじょう氏康うじやす)、西にしから武田たけだ武田たけだ信玄しんげん)の侵攻しんこうける[6]上野うえのこくしょ勢力せいりょくこう北条ほうじょうてんじるものが相次あいつぎ、とうとう上杉うえすぎ憲政のりまさ天文てんもん21ねん1552ねん)に越後えちごこく新潟にいがたけん)の長尾ながお上杉うえすぎ謙信けんしん)をたよってびた[5][7][6]

上杉うえすぎ謙信けんしん関東かんとう出兵しゅっぺい[編集へんしゅう]

えいろく3ねん(1560ねん)のあき旧暦きゅうれき8がつ)、越後えちごこく長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん三国峠みくにとうげえて上野うえのこく群馬ぐんまけん)に侵攻しんこうした[8]上杉うえすぎ憲政のりまさほうじ、関東かんとう地方ちほう簒奪さんだつしたのち北条ほうじょう攻撃こうげきするためである(上杉うえすぎ謙信けんしん越山こしやま[8]

越後えちごぜいはまず上野うえのこく北部ほくぶ沼田ぬまたじょう沼田ぬまた)を攻略こうりゃくいで厩橋うまやばしじょう前橋まえばし)・那波なばじょう伊勢崎いせざき)・館林たてばやしじょう館林たてばやし)などを攻撃こうげきした[8]

長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)はそのまま関東かんとうまり越年えつねんすると、よくえいろく4ねん(1561ねん)には南関東みなみかんとう進出しんしゅつ鎌倉かまくらとしてこう北条ほうじょう本拠ほんきょ小田原おだわらじょうせまった[8]。このとしはる旧暦きゅうれきうるう3がつ)には上杉うえすぎ憲政のりまさより正式せいしき山内やまうち上杉うえすぎ家督かとく関東かんとう管領かんりょうしょくゆずけた[8]

この一連いちれん出兵しゅっぺいにより、関東かんとうしょ勢力せいりょくは、いちどはこう北条ほうじょうぞくしていたものも、続々ぞくぞく越後えちご上杉うえすぎ幕下まくしたしたがうようになった[8]。そのしょしょう記録きろくしたものが「関東かんとうまく注文ちゅうもん」である[8]

まく注文ちゅうもん形式けいしき[編集へんしゅう]

上杉うえすぎ謙信けんしん長尾ながお景虎かげとら)・上杉うえすぎ憲政のりまさのもとに関東かんとう地方ちほうしょ勢力せいりょく国人くにびとしゅ参集さんしゅうすると、上杉うえすぎはこのしょしょうのためじんまく発注はっちゅうした[9]。その発注はっちゅうしょひかきが「関東かんとうまく注文ちゅうもん」である[9]

上杉うえすぎ文書ぶんしょ」の一部いちぶとして現存げんそんする「関東かんとうまく注文ちゅうもん」は、23まい紙片しへんわせたものになっている[1]。これに関東かんとう地方ちほうの255しょうと、その家紋かもん説明せつめい列記れっきされている[10][1]

名前なまえくにべつ上野うえのこく下野げやこく武蔵むさしこく常陸ひたちこく安房あわこく上総かずさこく下総しもうさこくじゅんならべられ、さらに「しゅう」として地区ちくごとにまとめられている[10][1]

家紋かもんかく勢力せいりょく系統けいとう推定すいていするがかりとなり、かくしゅうのまとめかたならじゅんなどは当時とうじ関東かんとう地方ちほう武士ぶしだん動静どうせいをうかがう証拠しょうことなる[10][1]とくに、255めいのうち130ほどのしょう上野うえのぜい、さらに80ほどのしょう下野げや武蔵むさしぜいと、大半たいはん北関東きたかんとう集中しゅうちゅうしており、戦国せんごく時代じだい北関東きたかんとう勢力せいりょくるための重要じゅうよう史料しりょう位置いちづけられている[1][10][9]

うしなわれた部分ぶぶん[編集へんしゅう]

現存げんそんする「関東かんとうまく注文ちゅうもん」は23まいかみから構成こうせいされているが、本来ほんらいあったはずの一部分いちぶぶん欠落けつらくしている[10][9][1]

文書ぶんしょは、はじめに上野うえのこくしょしょう列記れっきされていて、1まいから「白井しらいしゅう」「惣社そうしゃしゅ」「箕輪みのわしゅう」「厩橋うまやばししゅ」「沼田ぬまたしゅう」とつづき、4まいは「岩下いわしたしゅう」「斉藤さいとう越前えちぜんまもる」「山田やまだ」でわっている[1][10]。この「岩下いわしたしゅう」は上野うえの国北くにほく西部せいぶ吾妻あづまぐんいわ下城げじょうった斎藤さいとうである[1]

5まいは「横瀬よこせ雅楽ががくすけ」からはじまり、「(新田にった殿御とのご一家いっか西谷にしたに五郎ごろう殿どの」「(どうさん原田はらだ弥三郎やさぶろう殿どの」とつづ[1]。この「横瀬よこせ雅楽ががくすけ」は上野うえのこく東部とうぶ新田にったぐん横瀬よこせしげるしげるである[1]

新田にったぐんしょしょうまえには当然とうぜんに「新田にったしゅう」の見出みだしがかれるはずであり、したがって4まいと5まいあいだには欠落けつらくがあると断定だんていされている[10][9][1]欠落けつらくなんまいぶんであるかはわからない[1]。1まいであるとすると、22めい前後ぜんこう人名じんめいしるされていたはずで、そこには「岩下いわしたしゅう」ののこりのものと、「新田にったしゅう」の見出みだしがったはずである[10][1]

さらに、現存げんそんする「関東かんとうまく注文ちゅうもん上野うえのこくなかには、上杉うえすぎ従属じゅうぞくしていたはずの邑楽おうらぐん赤井あかい富岡とみおかもみられない[1]。おそらく赤井あかいは「館林たてばやししゅ」として、富岡とみおかは「小泉こいずみしゅう」か館林たてばやししゅ一部いちぶとして、かけ部分ぶぶん記載きさいされていたとおもわれる[1][10]

したがって欠落けつらくは、1まいか、それ以上いじょう枚数まいすうがあったと推定すいていされている[1][10]。このため、判明はんめいしている255めいのほかに、すくなくとも20めい以上いじょうしょう記録きろくされていたとかんがえられている[1]

成立せいりつ年代ねんだい[編集へんしゅう]

関東かんとうまく注文ちゅうもん」の成立せいりつ時期じきは、歴史れきし学者がくしゃ池上いけがみ裕子ゆうこ中世ちゅうせい)により、えいろく4ねん(1561ねん)1がつから3がつあいだ推定すいていされている[1]

上杉うえすぎ謙信けんしん越後えちごこく新潟にいがたけん)から関東かんとう地方ちほう出兵しゅっぺいしたのは2かいある。えいろく3ねん(1560ねん)9がつからえいろく4ねん(1561ねん)6がつにかけてのだいいち出兵しゅっぺいえいろく4ねん(1561ねん)11月からえいろく5ねん(1562ねん)3がつにかけてのだい出兵しゅっぺいである[1]

関東かんとうまく注文ちゅうもん」には、上野うえのこく群馬ぐんまけん)の斎藤さいとう下野げやこく栃木とちぎけん)の佐野さのが、上杉うえすぎ謙信けんしん幕下まくしたとしてつらねている[1]。しかし両者りょうしゃだい出兵しゅっぺいのときは上杉うえすぎてきにまわり、上杉うえすぎぐんによる討伐とうばつ対象たいしょうになっている[1]。このため「関東かんとうまく注文ちゅうもん」は、だい出兵しゅっぺいのときの文書ぶんしょではなく、だいいち出兵しゅっぺいのときのものと推定すいていされる[1]

里見さとみ家臣かしん上総かずさこく千葉ちばけん)の正木まさきしげるは、えいろく3ねんのあいだは上杉うえすぎのもとへさんじていないことがわかっている[1]。その正木まさきが「関東かんとうまく注文ちゅうもん」にあることから、この文書ぶんしょえいろく4ねん以降いこう成立せいりつしたと推定すいていされる[1]一方いっぽうえいろく4ねん3がつ上杉うえすぎのもとへまいりじんしたことがわかっている常陸ひたちこく茨城いばらきけん)の佐竹さたけ義重よししげ下野げやこく栃木とちぎけん)の須資たねが、「関東かんとうまく注文ちゅうもん」にはない[1]。したがって、この文書ぶんしょえいろく4ねん1がつから3がつのあいだに成立せいりつしたと推定すいていされるのである[1]

内容ないよう[編集へんしゅう]

くに しゅう 筆頭ひっとう しょうかず 備考びこう
上野うえのこく 白井しらいしゅう 長尾ながおまごよんろう
長尾ながおけんけい
9
総社そうじゃしゅう 安中あんなか
17 末尾まつびに「長尾ながお能登のとまもる殿どの」(長尾ちょうびあらわけい)が記載きさい
箕輪みのわしゅう 長野ながの
長野ながのぎょうただし
19
厩橋うまやばししゅ 長野ながのふじ九郎くろう
長野ながのどうけん
4
沼田ぬまたしゅう 沼田ぬまた
沼田ぬまたあらわやすし
14
岩下いわしたしゅう 斎藤さいとう越前えちぜんまもる 2+αあるふぁ 岩下いわしたしゅうしょしょうしるした紙片しへん欠落けつらくしていると推定すいていされる。
新田にったしゅう)※ 横瀬よこせ雅楽ががくすけ
横瀬よこせしげるしげる
30 新田にったしゅう」の文字もじかれた紙片しへん欠落けつらくしていると推定すいていされる。
上野うえのこく 桐生きりゅうしゅう 桐生きりゅう殿どの
桐生きりゅうじょつな
佐野さの殿どの
佐野さのあきらつな
9 桐生きりゅうしゅう佐野さのしゅうは、実際じっさいには上野うえのこく支配しはいとするが、この文書ぶんしょちゅうでは下野げやこく記載きさいされている。
下野げやこく 足利あしかがしゅう 長尾ながお但馬たじままもる
長尾ながお景長かげなが
23 足利あしかがしゅう下野げやこく記載きさいされているが、その武将ぶしょう領地りょうち上野うえのこく下野げやこく武蔵むさしこくにまたがっている。
下野げやこく 小山こやましゅう 小山こやま殿どの
小山こやましげるつな
10
宇都宮うつのみやしゅう 宇都宮うつのみや
宇都宮うつのみやひろつな
10
宇都宮うつのみやよせしゅ 皆川みなかわ山城やましろまもる
皆川みなかわしゅんむね
7
武蔵むさしこく たけしゅうしゅ 成田なりた下総しもうさまもる
成田なりたちょうやすし
17
羽生はぶしゅう 廣田ひろた式部しきぶ大輔だいすけ
広田ひろたただししげる
13
いわづけしゅ 大田おおた美濃みのまもる
太田おおたただし
14
勝沼かつぬましゅう 三田みた弾正だんじょう
三田みたつなしゅう
6
下総しもうさこく 古河ふるかわしゅう 梁田やなだ
やなはれすけ
8
梁田やなだ家風かふう 横田よこた藤四郎とうしろう 7
下総しもうさしゅう 高城たかぎ下野しものまもる
高城たかぎたねきち
1
常陸ひたちこく 宍戸ししど中務なかつかさ大輔だいすけ 22
上総かずさこく 上総かずさしゅう 酒井さかい左衛門尉さえもんのじょう
酒井さかいたね
2
安房あわこく 里見さとみみんしょう輔殿
里見さとみ義弘よしひろ
9

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかがの庶流(足利尊氏あしかがたかうじよんなん足利あしかが基氏もとうじ子孫しそん)がつとめた[2]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 群馬ぐんまけん 通史つうしへん3 中世ちゅうせい』p579-585「関東かんとうまく注文ちゅうもん
  2. ^ a b ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん鎌倉かまくら公方くぼうコトバンクばん、2019ねん8がつ1にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d 百科ひゃっか事典じてんマイペディア平凡社へいぼんしゃ)「関東かんとう管領かんりょうコトバンクばん、2019ねん8がつ1にち閲覧えつらん
  4. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)小学館しょうがくかん)、「鎌倉かまくら公方くぼうコトバンクばん、2019ねん8がつ1にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)小学館しょうがくかん)、「関東かんとう管領かんりょうコトバンクばん、2019ねん8がつ1にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d 群馬ぐんまけん歴史れきし』(けん10)p124-130「平井ひらい城主じょうしゅ上杉うえすぎ憲政のりまさ
  7. ^ a b ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん)、「上杉うえすぎ憲政のりまさコトバンクばん、2019ねん8がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d e f g 群馬ぐんまけん歴史れきし』(けん10)p132-136「きた西にし
  9. ^ a b c d e 中之条なかのじょうまち だい1かん』p256-258「関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲政のりまさ没落ぼつらく
  10. ^ a b c d e f g h i j 太田おおた 通史つうしへん 中世ちゅうせい』p599-601「上杉うえすぎ関東かんとうまく注文ちゅうもん

書誌しょし情報じょうほう[編集へんしゅう]

  • 群馬ぐんまけん 通史つうしへん3 中世ちゅうせい』、群馬ぐんまけんへんさん委員いいんかい群馬ぐんまけん、1989ねん
  • 太田おおた 通史つうしへん 中世ちゅうせい』、太田おおた、1997ねん
  • 中之条なかのじょうまち だい1かん』、中之条なかのじょうまち編纂へんさん委員いいんかい中之条なかのじょうまち、1976ねん
  • 群馬ぐんまけん歴史れきし』(けん10)、西垣にしがきはる山本やまもと隆志たかしうし幸雄ゆきおへん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん、2013ねんだい2はんだい1さつ)。ISBN 978-4-634-32101-4

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]