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正木時茂 (正木時綱子) - Wikipedia コンテンツにスキップ

正木まさきしげる (正木まさき綱子つなこ)

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正木まさきしげる
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし10ねん1513ねん
死没しぼつ えいろく4ねん4がつ6にち[1]1561ねん5月29にち
別名べつめい わたる九郎くろう通称つうしょう)、大膳だいぜんあきら
主君しゅくん 里見さとみよし
氏族しぞく 安房あわ正木まさき
父母ちちはは ちち正木まさきつな
兄弟きょうだい 弥次やじろうどきしげるどきただしひろ
しんじしげる里見さとみよしよりゆきしつ正木まさき頼房よりふさ
養子ようしけんとき
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正木まさき しげる(まさき ときしげ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう里見さとみ家臣かしん

生涯しょうがい

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1513ねんえいただし10ねん)、正木まさきつなとして誕生たんじょう1533ねん天文てんもん2ねん)、里見さとみ内紛ないふんである稲村いなむらへん発生はっせいし、ちちつなあに戦死せんししたため家督かとく相続そうぞくした(しげるきずいながらもいのちからがら脱出だっしゅつしたとわれている)。ときしげる槍術そうじゅつすぐれており、やり大膳だいぜんしょうされた。

里見さとみよしよせとしてぞくし、1534ねん天文てんもん3ねん)の里見さとみよしゆたか討伐とうばつしたがい、勝利しょうりしたよし堯が安房あわ本国ほんごくはいったためにそれまで居城きょじょうとしていた上総かずさこく金谷かなやしろわりにはいったとされる。翌年よくねん北条ほうじょう氏綱うじつな扇谷おうぎや上杉うえすぎたたかったさいには北条ほうじょうかた援軍えんぐんとして派遣はけんされている。その里見さとみ北条ほうじょう関係かんけい対立たいりつ関係かんけいてんじ、1538ねん天文てんもん7ねん)のだいいち国府台こうのだい合戦かっせんにはさと見方みかたとしてさんじんする。

その一族いちぞくである内房うつぶさ正木まさき北条ほうじょうかたへの離反りはん上総かずさ武田たけだ勢力せいりょく衰退すいたいという状況じょうきょうけて、金谷かなやじょうがある西上にしがみそうから安房あわこくあさえびすぐん本拠ほんきょうつしたのち東上とうじょうそう進出しんしゅつ1542ねん天文てんもん11ねん)には勝浦かつうらしろめてこれをうばっている。1544ねん天文てんもん13ねん)には真里谷まりやつちょうしんち、その所領しょりょうである小田おだじょう大多喜おおたきじょう)をうばって居城きょじょうとした。その、1561ねん初頭しょとう上杉うえすぎ輝虎てるとら謙信けんしん関東かんとう出陣しゅつじんさいしては、よし堯の嫡男ちゃくなん里見さとみ義弘よしひろしたがって嫡男ちゃくなんしんしげるとともにさんじんしている。

1561ねんえいろく4ねん)4がつ6にち死去しきょ[注釈ちゅうしゃく 1]。なお、これまでは没年ぼつねんもとかめすえから天正てんしょう初年しょねん[3]天正てんしょう4ねん1576ねん[4]、あるいは天正てんしょう6ねん1578ねん[5]とされてきたが、近年きんねん里見さとみ正木まさきゆかりの寺院じいんである妙音みょうおんいん高野山こうのやま妙音みょうおんいん里見さとみ過去かこちょう)や慈恩じおんいん正木まさき一家かずや法名ほうみょう)から、ときしげる命日めいにちしめ資料しりょう発見はっけんされた[6][7]。これらにしたがえば、以後いごときしげる功績こうせきとされるものや「正木まさき大膳だいぜんあきら)」の名乗なのったのはだい国府台こうのだい合戦かっせん戦死せんしした嫡男ちゃくなんしんじしげるのち里見さとみ反乱はんらんした養子ようこ正木まさきけんときであったとされている。安房あわ国長くにおさせまぐん宮山みややま現在げんざい千葉ちばけん鴨川かもがわ)の長安寺ちょうあんじほうむられた[8]法号ほうごう長安寺ちょうあんじ殿でん武山たけやま正文まさふみまたはまつとおるぬしじゅん

越前えちぜん朝倉あさくらはじめしずくかたった言葉ことばをまとめたとされる『朝倉あさくらはじめしずくはなし』には、どう時代じだい優秀ゆうしゅう武将ぶしょう列挙れっきょされているが、そのなかに「正木まさき大膳だいぜんあきら」のげられている、「日本にっぽん国持くにもちじん使上手じょうずよき手本てほんさるじんは、今川いまがわ殿しんがり甲斐かい武田たけだ殿しんがり三好みよし修理しゅうり大夫たいふ殿しんがり長尾ちょうび殿しんがり安芸あき毛利もうり織田おだ上総かずさかいほう関東かんとう正木まさき大膳だいぜんあきらかた、此等のこと」(『続々ぞくぞくぐんしょ類従るいじゅうだいじゅう教育きょういく[9][10]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ えいろく4ねんにおいても、ときしげる活動かつどう千葉ちばとのたたかいやその停戦ていせん上杉うえすぎ輝虎てるとらへの拝謁はいえつうるう3がつにおける禁制きんせい発給はっきゅうなどが確認かくにんされており、死去しきょ史料しりょうどおり4がつであるとするとその突然とつぜんことであったことになる。なお、ときしげるについてはれていないものの、上杉うえすぎ謙信けんしん輝虎てるとら)の関東かんとう遠征えんせいちゅう陣中じんちゅう感染かんせんしょう流行りゅうこうし、謙信けんしん草津くさつ温泉おんせんにて長期ちょうき療養りょうよう余儀よぎなくされ、長野ながのぎょうただししげる同年どうねん死去しきょ)の死因しいんとなったとする久保田くぼた順一じゅんいち論文ろんぶんがある[2]

出典しゅってん

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  1. ^ 慈恩じおんいん所蔵しょぞう正木まさき一家かずや法名ほうみょう
  2. ^ 久保田くぼた順一じゅんいち上杉うえすぎ謙信けんしん草津くさつ湯治とうじ」『たけたかし通信つうしん』144ごう、2012ねん /所収しょしゅう:前嶋まえじまさとし へん上杉うえすぎ謙信けんしん』戒光さち出版しゅっぱん中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんろくかん〉、2024ねん、376-380ぺーじISBN 978-4-86403-499-9 
  3. ^ 川名かわなのぼる房総ぼうそう正木まさきについて―のこされた文書ぶんしょ中心ちゅうしんに―」『しょうけい論集ろんしゅう』22ごう、1989ねん 
  4. ^ 大野おおの太平たへい房総ぼうそう里見さとみ研究けんきゅうたからぶんどう書店しょてん、1933ねん 
  5. ^ 重永しげながたくなんじ房総ぼうそう里見さとみ正木まさき文書ぶんしょ研究けんきゅう 史料しりょうへん2』崙書房しょぼう、1992ねん 
  6. ^ 滝川たきがわひさしあきら正木まさきしげるかんするいち考察こうさつ」『勝浦かちうら研究けんきゅう』2ごう、1996ねん 
  7. ^ 滝川たきがわひさしあきら正木まさきしげる没年ぼつねんについて」『戦国せんごく研究けんきゅう』7ごう、1999ねん 
  8. ^ 冨川とみかわさん長安寺ちょうあんじホームページ(開基かいきである正木まさきしげるとそのむすめ里見さとみよしよりゆきしつ)のはか画像がぞうあり)
  9. ^ 滝川たきがわひさしあきら ちょ房総ぼうそう里見さとみ印判いんばんについて―とり形像けいぞうゆうする印判いんばんをめぐって―」、中世ちゅうせい房総ぼうそう研究けんきゅうかい へん中世ちゅうせい房総ぼうそう権力けんりょく社会しゃかい高科たかしな書店しょてん、1991ねん 
  10. ^ 千野ちのはらやすしかた正木まさきしげる一族いちぞく小田おだ勝浦かつうら内房うつぶさ正木まさき成立せいりつ過程かてい―」『千葉ちば史学しがく』20ごう、1992ねん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 千野ちのはらやすしかた戦国せんごく房総ぼうそう人名じんめい辞典じてん』崙書房しょぼう出版しゅっぱん、2009ねんISBN 978-4-8455-1153-2