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里見さとみよしゆたか

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里見さとみよしゆたか
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん あかりおう6ねん1497ねん)?[1]
死没しぼつ 天文てんもん3ねん4がつ6にち1534ねん5月18にち
戒名かいみょう こういわおいん殿どの長義ながよし居士こじ
墓所はかしょ 千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう犬掛いぬかけ663
官位かんい ひだり馬頭めず
氏族しぞく 安房あわ里見さとみ
父母ちちはは ちち里見さとみよしどおりははしょう
兄弟きょうだい よしゆたかよしそう
小倉おぐら貞通さだみちいえむねくま石丸いしまるよしべん
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里見さとみ よしゆたか(さとみ よしとよ、あかりおう6ねん1497ねん)? - 天文てんもん3ねん4がつ6にち1534ねん5月18にち))は、戦国せんごく時代じだい大名だいみょう安房あわ里見さとみだい4だい当主とうしゅ里見さとみよしどおり長男ちょうなん

だいなが7ねん(1527ねん)12月23にち上総かずさこく菅生すがおそう矢那やなきょう大野おおの大膳だいぜんあきらたいして鋳物いもの大工だいくしょく地位ちいあたえ、みずからの金属きんぞく需要じゅよう充足じゅうそくさせようとした(『大野おおの文書ぶんしょ』)[2]

従来じゅうらいせつ

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えいただし15ねん1518ねん)、ちちどおり危篤きとくとなると家督かとくぐ。だが、どおりおとうと叔父おじじつよしゆたかが15さいになるまではじんだい後見人こうけんにん)として家督かとくあずかることになった。このころ対岸たいがん三浦半島みうらはんとう進出しんしゅつしてきた北条ほうじょう対抗たいこうするため、だいひさし6ねん1526ねん)に品川しながわ鎌倉かまくら鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうたたか)をじつ堯とともに攻撃こうげきして当主とうしゅとしての器量きりょうしめした。だが、15さいぎてもじつ堯は実権じっけんゆたか返還へんかんしなかった。また、重臣じゅうしん正木まさきどおりつなときつな)がじつ堯と接近せっきんして家中いえじゅうおおきな発言はつげんりょくはじめたこと重臣じゅうしん不満ふまんたかまった。このため、天文てんもん2ねんよしゆたかいね村城むらしろじつ堯と正木まさきどおりつな襲撃しゅうげきして殺害さつがいする(つうつな脱出だっしゅつしたもののきず悪化あっか病没びょうぼつしたというせつもある)。だが、じつ堯の長男ちょうなんは「ちちかたきち」としょうして、つうつな遺児いじである正木まさきしげるとともに叛旗はんきひるがえす。よしゆたか堯をやぶると、よし堯も反撃はんげきしてよしゆたか一時いちじ上総かずさこくうちはらうなどたたかいは一進一退いっしんいったいだった。だが、翌年よくねんはいよしゆたか武田たけだ真里谷まりやつじょかん信清のぶきよ)らの協力きょうりょく安房あわこく復帰ふっきしたものの、犬掛いぬかけ合戦かっせん大敗たいはいして自害じがいまれてしまった。享年きょうねん21とつたえられている[よう出典しゅってん]天文てんもん内訌ないこう)。

近年きんねん研究けんきゅう

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だが、近年きんねんになってえいただしだい永年えいねんあいだゆたか発給はっきゅうした文書ぶんしょ最古さいこのものは従来じゅうらい生年せいねんとされたえいただし11ねん1514ねん)より以前いぜんえいただし9ねん1512ねん)の文書ぶんしょ[3])が存在そんざいすることがられるようになり、すくなくともどおり死亡しぼうしたとされる段階だんかいにおいて(えいただし15ねん(1518ねん)、実際じっさいだいなが5ねん以降いこうまで生存せいぞん可能かのうせいたかい)、よしゆたかすで元服げんぷくしていた可能かのうせい濃厚のうこうとなった[注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2]ぎゃくえば、じつ堯が里見さとみ後見人こうけんにんじんだいであったとされる従来じゅうらい記録きろく堯の里見さとみ相続そうぞく正当せいとうするために改竄かいざんされたうたがいがてきたのである。現存げんそん最古さいこ文書ぶんしょ発給はっきゅうゆたか死去しきょの22ねんまえおこなわれている事実じじつにより、よしゆたか実際じっさい享年きょうねんすくなくとも30はえていたものとおもわれる[注釈ちゅうしゃく 3]。また、よしゆたか居城きょじょうについても最初さいしょから稲村いなむらじょうにあったというのが近年きんねん有力ゆうりょくせつである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ だいなが4ねん1524ねん)にぼっしたたまかくれえいあらわした『たまかくれ和尚おしょう語録ごろく』には、「房州ぼうしゅうけん使くん源義げんよしゆたかこう」との交流こうりゅうについてかれている。佐藤さとう博信ひろのぶ研究けんきゅうによれば「房州ぼうしゅうけん使くん源義げんよしゆたかこう」に該当がいとうする可能かのうせいがある人物じんぶつ里見さとみよしゆたか以外いがいには存在そんざいせず、たまかくれえい死亡しぼうゆたかが11さいであったことになる享年きょうねん21さいせつでは説明せつめいがつかないことになってしまう。
  2. ^ さら現在げんざいではどおりなま没年ぼつねんについても疑問ぎもんたれている。
  3. ^ なお、千野ちのはらやすしかたは、従来じゅうらい史料しりょうではどおり享年きょうねんとされていた38がじつよしゆたか享年きょうねんであった可能かのうせいがあるとする見解けんかいしており、よしゆたか生年せいねんを「1497ねん」としている[1]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 千野ちのはらやすしかた戦国せんごく房総ぼうそう人名じんめい辞典じてん』崙書房しょぼう、2009ねんISBN 978-4-8455-1153-2 
  2. ^ 市村いちむら高男たかお ちょ中世ちゅうせい房総ぼうそうにおける鋳物いもの存在そんざい形態けいたい」、中世ちゅうせい房総ぼうそう研究けんきゅうかい へん中世ちゅうせい房総ぼうそう権力けんりょく社会しゃかい高科たかしな書店しょてん、1991ねん 
  3. ^ えいただし9ねん8がつ21にちづけ高野山こうのやましゅんきょういんたかしみなもとよしゆたか書状しょじょう内閣ないかく文庫ぶんこぞう里見さとみ家永いえながただしもとかめ年中ねんじゅう書札しょさつとめ抜書ぬきがき』)