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里見さとみ義康よしやす

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里見さとみ 義康よしやす
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天正てんしょう元年がんねん1573ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう8ねん11月16にち1603ねん12月18にち
改名かいめい 千寿せんじゅまる幼名ようみょう)、義康よしやす
別名べつめい 太郎たろう通称つうしょう)、羽柴はしば安房あわ侍従じじゅう
戒名かいみょう りゅう濳院殿どのすぐるさん芳英よしひでだい居士こじ[1]
墓所はかしょ 千葉ちばけん館山たてやま上真倉かみさなぐら1709 慈恩じおんいん[2]
官位かんい したがえよん安房あわもり侍従じじゅう
しょうひだり馬頭めず
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより徳川とくがわ家康いえやす
はん 安房あわ館山たてやまはんあるじ
氏族しぞく 安房あわ里見さとみ
父母ちちはは ちち里見さとみよしよりゆきはは正木まさきしげるむすめりゅうくもいん
兄弟きょうだい 義康よしやす正木まさき忠重ただしげかんしゅん正木まさきよしだん正木まさき忠勝ただかつ陽春ようしゅんいん
つま 正室せいしつ織田おだ信長のぶながめい
忠義ちゅうぎちゅう
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里見さとみ 義康よしやす(さとみ よしやす)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての大名だいみょう里見さとみよしよりゆき長男ちょうなん安房あわこく館山たてやまはん初代しょだい藩主はんしゅ

生涯しょうがい

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ゆたか時代じだい

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天正てんしょう元年がんねん1573ねん)、安房あわこく大名だいみょう里見さとみよしよりゆき長男ちょうなんとして誕生たんじょう幼名ようみょう千寿せんじゅまる[3]

天正てんしょう15ねん1587ねん)、ちちよりゆきにより15さい家督かとく相続そうぞくして、ひだり馬頭めず左衛門さえもんとくとう官途かんとしょうした[3]天正てんしょう16ねん1588ねん)11月にちちつづいて、増田ますだちょうもり取次とりつぎのもとで豊臣とよとみ秀吉ひでよし音信いんしんつうじ、安房あわこく上総かずさこく両国りょうこくおよび下総しもうさこく一部いちぶ安堵あんどされた。

天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ秀吉ひでよしいかりにれた結果けっか上総かずさ下総しもうさ所領しょりょう没収ぼっしゅうされ、安房あわ4まんせき差出さしで検地けんちによる石高こくだか)にげんふうされた。原因げんいんについては従来じゅうらい遅参ちさんとされていた[4]。しかし、近年きんねんでは里見さとみ庇護ひごしていたしょうゆみ公方くぼう足利あしかが義明よしあき遺児いじよりゆきあつしようして、北条ほうじょうによってうばわれた旧領きゅうりょう回復かいふく好機こうきとし、三浦みうら渡海とかい進軍しんぐんし、鎌倉かまくら公方くぼう再興さいこう標榜ひょうぼう独自どくじ禁制きんせいはっしたことが、わたしせんきんじたそう無事ぶじれい違反いはんわれたとかんがえられている[5]。なお、このけん仲介ちゅうかいしたのが徳川とくがわ家康いえやすであり、これ以降いこう里見さとみ徳川とくがわ接近せっきんする。徳川とくがわ家康いえやす義康よしやす里見さとみ徳川とくがわ新田にったとする同族どうぞくであり親戚しんせきだとおもっているといった内容ないようこといちせいこうあいだ」の起請文きしょうもんおくっているが、この古文書こもんじょ滝川たきがわひさしあきらにより偽文書ぎぶんしょ可能かのうせい指摘してきされている[6]

その上洛じょうらくし、したがえよんじょせられ、侍従じじゅう安房あわもりにんぜられた。また織田おだ信長のぶながめい夫人ふじんとした[3]

天正てんしょう19ねん1591ねん)6がつから11がつまでのあいだにかけて、岡本おかもとしろから館山たてやましろ移転いてんをする[7]

天正てんしょう19ねん1591ねん)9がつ増田ますだちょうもり安房あわこく検地けんちおこなった。これは本格ほんかくてき太閤たいこう検地けんちではなく、むら知行ちぎょうしゃよりさせる差出さしで検地けんちであった[8]

ぶんろく元年がんねん1592ねん)のぶんろくやくでは、家康いえやす随行ずいこうして渡海とかいはせずに肥前ひぜん名護屋なごやしろ滞陣たいじんした[9]

慶長けいちょう2ねん1597ねん)、増田ますだちょうもりにより安房あわこくにおいてはじめて石高こくだかせいによる本格ほんかくてき太閤たいこう検地けんちおこなわれた。これによりあらたな知行ちぎょうわりおこなわれ[10]石高こくだかせいによる知行ちぎょう制度せいど成立せいりつした[11]石高こくだかは9まん1せんせきこうなおしされる。近世きんせいてきな「むら」を確定かくていし、石高こくだかせい確立かくりつして、大名だいみょう里見さとみ権力けんりょく基盤きばん形成けいせいしたといえる[10]

江戸えど時代じだい

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慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかでは、徳川とくがわ家康いえやすしたが会津あいづ征伐せいばつかうが、関ヶ原せきがはらかうぐんには組織そしきされず、結城ゆうき秀康ひでやす配下はいかぐんとして宇都うと宮城みやぎ守備しゅび担当たんとう上杉うえすぎ景勝かげかつ南下なんかはばんだ[12]

戦後せんご論功行賞ろんこうこうしょうにより常陸ひたちこく鹿島かしまぐん3まんせきあまり加増かぞうされけい12まんすうせんせきりょうすることとなった[13]

江戸えど幕府ばくふ武蔵むさしひらかれると国持くにもち大名だいみょうれつならんだが、慶長けいちょう8ねん1603ねん)11月16にち死去しきょ[1]家督かとくは10さい嫡男ちゃくなんうめ鶴丸つるまる(のちの忠義ちゅうぎ相続そうぞくした。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう論文ろんぶん

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  • 大野おおの太平たへい房総ぼうそう里見さとみ研究けんきゅうたからぶんどう書店しょてん、1933ねん 
  • 市村いちむら高男たかお豊臣とよとみ政権せいけん房総ぼうそうさと見分けんぶんこく上総かずさ没収ぼっしゅうをめぐって―」『千葉ちばけん研究けんきゅう』2ごう、1994ねん 
  • 滝川たきがわひさしあきら里見さとみにあてた家康いえやす起請文きしょうもん」『季刊きかんぐんしょ』58ごう、2002ねん /所収しょしゅう:滝川たきがわひさしあきら へん房総ぼうそう里見さとみえびすひかりさち出版しゅっぱん、2014ねん 
  • 竹井たけい英文ひでふみ ちょ房総ぼうそういち戦国せんごく東国とうごく社会しゃかい」、佐藤さとう博信ひろのぶ へん中世ちゅうせい東国とうごく政治せいじ構造こうぞう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねん 
  • 川名かわなのぼる房総ぼうそう里見さとみ文書ぶんしょ研究けんきゅう」『日本にっぽん歴史れきし』179ごう、1963ねん 
  • 川名かわなのぼる館山たてやまじょうについてのいち考察こうさつ」『しょうけい論集ろんしゅう』16ごう、1983ねん 
  • 川名かわなのぼる ちょ近世きんせい初期しょき安房あわこく検地けんちについて―太閤たいこう検地けんち徳川とくがわ検地けんち―」、北島きたじまただしもと へん支配しはい体制たいせい社会しゃかい構造こうぞう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1983ねん 
  • 川名かわなのぼる里見さとみ家臣かしんだん組織そしき成立せいりつ」『千葉ちば史学しがく』56ごう、2010ねん