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館山たてやまはん

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館山たてやまはん(たてやまはん)は、安房あわこく存在そんざいしたはんはんちょう館山たてやましろ館山たてやま陣屋じんや現在げんざい千葉ちばけん館山たてやま城山しろやま)にかれた。江戸えど時代じだい初期しょき戦国せんごく大名だいみょう出自しゅつじとする里見さとみ藩主はんしゅとして安房あわいちこく統治とうちしていた時期じきと、江戸えど時代じだい後期こうき稲葉いなば藩主はんしゅとする譜代ふだいしょうはんであった時期じきの2つにかれる。


歴史れきし

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館山藩の位置(千葉県内)
千葉
千葉ちば
木更津
木更津きさらづ
佐貫
佐貫さぬき
岡本
岡本おかもと
館山
館山たてやま
関連かんれん地図ちず千葉ちばけん[注釈ちゅうしゃく 1]

里見さとみ家時いえときだい

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戦国せんごく時代じだい安房あわこくから勃興ぼっこうした里見さとみ上総かずさこく勢力せいりょくひろげ、こう北条ほうじょう関東かんとう覇権はけんをめぐってあらそった。館山たてやましろ築城ちくじょう年代ねんだいについては諸説しょせつあるが、岡本おかもとしろ居城きょじょうとしていた里見さとみよしよりゆき天正てんしょう8ねん1580ねんごろ築城ちくじょうしてしろばんき、よしよりゆきのちいだ義康よしやす天正てんしょう16ねん1588ねん)から天正てんしょう18ねん(1590ねん)にかけて改修かいしゅうしたとされる[1]

天正てんしょう18ねん(1590ねん)、義康よしやす小田原おだわら征伐せいばつさいそう無事ぶじれいはんして独自どくじ制札せいさつはっしたことから豊臣とよとみ秀吉ひでよし不興ふきょうった[2]上総かずさこく没収ぼっしゅうされて安房あわいちこくのみが安堵あんどされ、里見さとみ豊臣とよとみ政権せいけんした大名だいみょうとして位置いちづけられる[2]義康よしやす居城きょじょう館山たてやまじょううつし、9まん2000せき所領しょりょうおさめることとなった。慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかにおいて義康よしやすひがしぐんくみして宇都うと宮城みやぎ守備しゅびにあたり、戦後せんごこれが功績こうせきとされて常陸ひたちこく鹿島かしまぐんに3まんせきあたえられ、都合つごう12まん2000せき大名だいみょうとなった。また、義康よしやすおとうと里見さとみ忠重ただしげ上野うえのこく板鼻いたはなはん1まんせき大名だいみょうてられている[3]

義康よしやす館山たてやまじょう改修かいしゅう城下町じょうかまち整備せいびすすめた(館山たてやままち参照さんしょう)。鹿島かしまぐん領民りょうみん普請ふしんしたとされるほりが「鹿島かしまほり」ののこっている。慶長けいちょう8ねん1603ねん)に義康よしやすは31さい死去しきょし、里見さとみ忠義ただよしいだ。しかし忠義ちゅうぎ大久保おおくぼ忠隣ただちか孫娘まごむすめつまとしていたため、慶長けいちょう19ねん1614ねん)の忠隣ただちか改易かいえき連座れんざして改易かいえきされた。なおこれよりさき叔父おじ忠重ただしげ改易かいえきされている。忠義ちゅうぎ伯耆ほうきこく倉吉くらよしはんうつされたが、実際じっさいには流刑りゅうけいひとしいものであったという。館山たてやまはんはいはんとなり、館山たてやまじょうやぶ却された。

きゅう館山たてやまはんりょう解体かいたい

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館山たてやまはんはいはん館山たてやまじょうりのにんにあたった佐貫さぬきはんあるじ内藤ないとう政長まさなががそのまま安房あわいちこく管理かんりたった[4]元和がんわ4ねん(1618ねん)に幕府ばくふ代官だいかんによってさい検地けんちおこなわれた[4]安房あわこくは、以後いご天領てんりょう旗本はたもとりょうしょうはん他国たこくはんりょう細分さいぶんされ、安房あわいちこくおさめていたきゅう館山たてやまはん規模きぼ継承けいしょうするはんあらわれなかった。

きゅう館山たてやまはんりょうには、元和がんわ6ねん(1620ねん)に東条とうじょうはん(1まんせき)、元和がんわ8ねん(1622ねん)に安房あわ勝山かちやまはん(3まんせき)、寛永かんえい15ねん(1638ねん)に北条ほうじょうはん(1まんせき)と安房あわさんえだはん(1まんせき[注釈ちゅうしゃく 2]成立せいりつしている。ただし、安房あわ勝山かちやまはん北条ほうじょうはんのぞいていずれも短命たんめいわっている。最大さいだい安房あわ勝山かちやまはん藩主はんしゅ相次あいつ早世そうせいによって寛永かんえい6ねん(1629ねん)にじょふうされているが、寛文ひろふみ8ねん(1668ねん)より酒井さかい藩主はんしゅとしてふたただてはんされ、1まん2000せきはんとして、江戸えど時代じだい初期しょき成立せいりつしたはんではただ一幕ひとまくまつまで存続そんぞくする。

稲葉いなば家時いえときだい

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天明てんめい元年がんねん1781ねん)9がつ旗本はたもと稲葉いなば正明まさあき安房あわ上総かずさ国内こくないで3000せき加増かぞうけた。正明まさあき山城やましろよどみはん分家ぶんけ出身しゅっしんで、徳川とくがわ家治いえはるのもとで小姓こしょうぐみ番頭ばんがしら御側おそばさる出世しゅっせかさねて田沼たぬま意次おきつぐとも権勢けんせいるった人物じんぶつである。正明まさあき旧領きゅうりょうの7000せきわせて1まんせき諸侯しょこうれっし、館山たてやまはんたてはんされた。

天明てんめい5ねん1785ねん)1がつ正明まさあきはさらに安房あわ上総かずさ国内こくないで3000せき加増かぞうされて都合つごう1まん3000せきとなる。しかし、翌年よくねん家治いえはるぼっして意次おきつぐ失脚しっきゃくすると、正明まさあきもその余波よはけて3000せき没収ぼっしゅうされ、出仕しゅっし停止ていし処分しょぶんとなった。寛政かんせい元年がんねん1789ねん)7がつ正明まさあき隠居いんきょして稲葉いなば正武まさたけいだ。正武まさたけだい寛政かんせい3ねん(1791ねん)、城山しろやまみなみふもと館山たてやま陣屋じんや建設けんせつされている。正武まさたけ文化ぶんか9ねん1812ねん)3がつ隠居いんきょして家督かとく稲葉いなばただしもりゆずったが、せいもり文政ぶんせい2ねん1819ねん)12月、大坂おおさかばんちゅうに29さい死去しきょし、翌年よくねん長男ちょうなん稲葉いなば正巳まさみいだ。

正巳まさみ有能ゆうのう藩主はんしゅであり、幕末ばくまつ動乱どうらんなか徳川とくがわ慶喜よしのぶ信任しんにん若年寄わかどしより老中ろうじゅうかく海軍かいぐん総裁そうさい陸軍りくぐん奉行ぶぎょうだい番頭ばんがしらこうたけしょ奉行ぶぎょうなどを歴任れきにんし、幕府ばくふ海軍かいぐん創設そうせつ外交がいこう問題もんだいなどにおおきなこうげた。明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうでは、正巳まさみ幕府ばくふ役職やくしょくすべして隠退いんたいし、家督かとく稲葉いなば正善しょうぜんゆずったうえしん政府せいふ恭順きょうじゅんしようとしたが、榎本えのもと武揚ぶようひきいるきゅう幕府ばくふ海軍かいぐん館山湾たてやまわんから、上総かずさ請西じょうざいはんなどのきゅう幕府ばくふかたりくからそれぞれ侵攻しんこうしてくるなど、館山たてやまはん苦難くなんきわめた。しかし正巳まさみはこれをり、しん政府せいふ恭順きょうじゅんした。

正善しょうぜん翌年よくねん版籍はんせき奉還ほうかんはん知事ちじとなった。明治めいじ4ねん1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん館山たてやまはんはいされて館山たてやまけんとなり、正善しょうぜん県知事けんちじとなった。同年どうねん11がつ14にち館山たてやまけん木更津きさらづけん編入へんにゅうされてはいされた。明治めいじ17ねん1884ねん)の華族かぞくれい公布こうふともない、正善しょうぜん子爵ししゃくじょせられた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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里見さとみ

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12まん2000せき 外様とざま

  1. 里見さとみ義康よしやす(よしやす)
  2. 里見さとみ忠義ただよし(ただよし)

稲葉いなば

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1まんせき→1まん3000せき→1まんせき 譜代ふだい

  1. 稲葉いなば正明まさあき(まさあき) したがえ 越前えちぜんまもる
  2. 稲葉いなば正武まさたけ(まさたけ) したがえ 播磨はりままもる
  3. 稲葉いなばただしもり(まさもり) したがえ 播磨はりままもる
  4. 稲葉いなば正巳まさみ(まさみ) したがえよん 兵部ひょうぶ大輔だいすけ
  5. 稲葉いなば正善しょうぜん(まさよし) したがえ 備後びんごもり

幕末ばくまつ領地りょうち

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明治維新めいじいしん安房あわぐん33むらきゅう幕府ばくふりょう5むらきゅうはた本領ほんりょう3むらきゅう前橋まえばしはんりょう2むらきゅう安房あわ上総かずさともけんごとりょう24むら内訳うちわけきゅう幕府ばくふりょう18むらきゅうはた本領ほんりょう4むらきゅう船形ふながたはんりょう2むら】)がくわわった。なおあいきゅう存在そんざいするため、むらすう合計ごうけい一致いっちしない。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい
  2. ^ 三枝さえぐさまもるあきらあたえられた領分りょうぶんであるが、はんちょうがどこにかれたかは不明ふめい館山たてやま山名やまな智光ともみつてらまもりあきらはかがあり、智光ともみつてらは「御倉おぐら陣屋じんや」の跡地あとちであるとつたえられる。

出典しゅってん

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  1. ^ 館山たてやま編纂へんさん委員いいんかい館山たてやま佐藤さとう今朝夫けさお、1981ねん5がつ15にち、196ぺーじ 
  2. ^ a b 市村いちむら高男たかお豊臣とよとみ政権せいけん房総ぼうそうさと見分けんぶんこく上総かずさ没収ぼっしゅうをめぐって―」『千葉ちばけん研究けんきゅう』2ごう、1994ねん 
  3. ^ 滝川たきがわひさしあきら上野うえのこく板鼻いたはな城主じょうしゅ里見さとみ讃岐さぬきもりについて」『館山たてやま文化財ぶんかざい』29ごう、1996ねん 
  4. ^ a b みなみ房総ぼうそう歴史れきし行政ぎょうせい まくはん体制たいせい”. みなみ房総ぼうそう郷土きょうど. みなみ房総ぼうそう. 2016ねん2がつ26にち閲覧えつらん

参考さんこう論文ろんぶん

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  • 川名かわなのぼる館山たてやまじょうについてのいち考察こうさつ」『しょうけい論集ろんしゅう』16ごう、1983ねん 
  • 岡田おかだ晃司こうじ館山たてやままち成立せいりつ契機けいきについて」『房総ぼうそう』34ごう、1996ねん 
  • 岡田おかだ晃司こうじ古文書こもんじょ伝承でんしょうからさぐ歴史れきし痕跡こんせき安房あわ館山たてやま所在しょざいした旗本はたもと陣屋じんや―」、佐藤さとう孝之たかゆきへん古文書こもんじょかた地方ちほう天野あまの出版しゅっぱん工房こうぼう、2010ねん 

外部がいぶリンク

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先代せんだい
安房あわこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1781ねん - 1871ねん 館山たてやまはん館山たてやまけん
次代じだい
木更津きさらづけん