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田中たなかはん

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田中たなかはん(たなかはん)は、駿河するがこく益津ましづぐん田中たなかしろ現在げんざい静岡しずおかけん藤枝ふじえだ)にはんちょういた譜代ふだい大名だいみょうはん歴代れきだい藩主はんしゅ酒井さかい堀田ほった松平まつだいら柳沢やなぎさわなど。

江戸えど時代じだい初期しょき酒井さかい忠利ただとしはいり、城下町じょうかまち藤枝ふじえだ宿やど整備せいびおこなったが、以後いご藩主はんしゅはめまぐるしくわった。とおる15ねん1730ねん)に本多ほんだが4まんせきはいり、明治維新めいじいしんまで7だいやく130ねんつづいた。本多ほんだ家時いえときだいには水戸みとはん弘道こうどうかんとともに武道ぶどう二関にぜきばれた藩校はんこうにちかんゆうした。なお、田中たなかはん歴代れきだい藩主はんしゅのほとんどはまくかくりをたしており、田中たなか藩主はんしゅになることは幕政ばくせい参加さんかへの登竜門とうりゅうもんのひとつであったといえる。

はんふみ

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江戸えど時代じだい初期しょき

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駿河するが田中たなか駿府すんぷじょうおも豊臣とよとみ重臣じゅうしん中村なかむらいちちゅう支配しはいしていたが、慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかひがしぐんくみして武功ぶこうげたいちちゅう伯耆ほうき米子よなごはんうつりふうされ、慶長けいちょう6ねん1601ねん)3がつ3にち徳川とくがわ譜代ふだい家臣かしん酒井さかい忠利ただとしが1まんせきはいることで田中たなかはんたてはんした。忠利ただとし田中たなかじょう改築かいちく藤枝ふじえだ宿やど城下町じょうかまちみなどをおこなって田中たなかはん藩政はんせい確立かくりつ尽力じんりょくしたが、慶長けいちょう14ねん1609ねん)9がつ23にち武蔵むさし川越かわごえはんうつりふうされた。

その田中たなか駿府すんぷ藩主はんしゅとなった徳川とくがわ頼宣よりのぶと、その実父じっぷ大御所おおごしょである徳川とくがわ家康いえやすによって支配しはいかれることとなった。

さいだてはん藩主はんしゅ交代こうたい

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寛永かんえい10ねん1633ねん)8がつ9にち上総かずさ佐貫さぬきはんより松平まつだいら忠重ただしげが3まんせきはいった。しかし寛永かんえい12ねん1635ねん)8がつ4にち遠江とおとうみ掛川かけがわはんうつりふうされ、わって下総しもうさ山川やまかわはんより水野みずのただしぜんはいった。しかし寛永かんえい19ねん1642ねん)7がつ28にち三河みかわ吉田よしだはんうつりふうされた。

直後ちょくごの9がつ12にち松平まつだいら忠晴ただはるが2まん5000せきあらたに大名だいみょうとしててられて、田中たなか藩主はんしゅとなった。しかし寛永かんえい21ねん1644ねん)3がつ18にちには遠江とおとうみ掛川かけがわはんうつりふうされ、下総しもうさ関宿せきやどはんより北条ほうじょうおもはいるが、正保しょうほう5ねん1648ねんうるう1がつ21にち遠江とおとうみ掛川かけがわはんうつりふうされた。

慶安けいあん2ねん1649ねん)2がつ11にち常陸ひたち土浦つちうらはんより西尾にしお忠昭ただあきはいったが、だい2だい藩主はんしゅ西尾にしおただしなり時代じだいのべたから7ねん1679ねん)9がつ6にち信濃しなの小諸こもろはんうつりふうとなる。わるかたち酒井さかい忠能ただやすはいった。この忠能ただやすだい4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつな大老たいろうとして権勢けんせいるった酒井さかい忠清ただきよおとうとであるが、だい5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし粛清しゅくせいけてあに失脚しっきゃくすると、忠能ただやす綱吉つなよしいかりにれて天和てんわ元年がんねん1681ねん)12がつ10日とおか改易かいえきされた。

天和てんわ2ねん1682ねん)2がつ12にち常陸ひたち土浦つちうらはんより土屋つちや政直まさなおはいるが、貞享ていきょう元年がんねん1684ねん)7がつ10日とおか大坂おおさか城代じょうだいとして摂津せっつ方面ほうめん転出てんしゅつした。わるかたちで7がつ19にち太田おおたじきはいり、だい2だい藩主はんしゅ太田おおた資晴すけはる時代じだい宝永ほうえい2ねん1705ねん)4がつ22にち陸奥みちのく棚倉たなぐらはんうつりふうとなる。またそれとわるかたち内藤ないとう弌信はいるが、弌信は正徳まさのり2ねん1712ねん)5がつ15にち大坂おおさか城代じょうだいとして転出てんしゅつした。またもやこれとわるかたち土岐ときよりゆきいんはいるが、だい2だい藩主はんしゅ土岐ときよりゆきみのる時代じだいとおる15ねん1730ねん)7がつ11にち大坂おおさか城代じょうだいとして転出てんしゅつした。

田中たなかはん本多ほんだいたるまでは短期間たんきかんうつりふうされる場合ばあい相次あいついだ。このため、酒井さかい忠利ただとしのぞ藩主はんしゅ治績ちせきはほとんどないといってよい。

本多ほんだ治世ちせい

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土岐とき転出てんしゅつ直後ちょくごとおる15ねん1730ねん)7がつ28にち上野うえの沼田ぬまたはんから本多ほんだただしのりが4まんせきはいることで、ようやく藩主はんしゅ定着ていちゃくた。

本多ほんだ時代じだい田中たなかはんでは天災てんさいなどが相次あいつぎ、さらに歴代れきだい藩主はんしゅ相次あいつまくかくりで出費しゅっぴはげしく、はん財政ざいせいはやくからくるしめられた。このため、だい6だい藩主はんしゅ本多ほんだ正寛まさひろ藩政はんせい改革かいかく着手ちゃくしゅしたが効果こうかかった。

明治めいじ元年がんねん1868ねん)9がつだい7だい藩主はんしゅ本多ほんだただしは、徳川とくがわ家達いえさと駿府すんぷはん70まんせき藩主はんしゅとして駿河するが遠江とおとうみ三河そうごなどを支配しはいすることになったことから、安房あわ長尾ちょうびはんうつりふうされ、田中たなかはんはいはんとなった。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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幕末ばくまつ領地りょうち

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下総しもうさこくにはやく1まんせきりょうがあった。このりょうは、本多ほんだである本多ほんだただしじゅう江戸えど時代じだい初期しょきあたえられた領地りょうち由来ゆらいする(舟戸ふなとはん参照さんしょう)。幕末ばくまつには、下総しもうさりょう管轄かんかつするため、流山ながれやま郊外こうがいむらだい現在げんざい千葉ちばけん流山ながれやま)にむら陣屋じんやかれた。なおこの陣屋じんやは、明治めいじ初年しょねん葛飾かつしかけん印旛いんばけん県庁けんちょうとして使用しようされる(葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと参照さんしょう)。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
駿河するがこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1633ねん - 1868ねん
次代じだい
府中ふちゅうはん
はんとしては長尾ちょうびはん