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北条ほうじょうおも

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北条ほうじょうおも
北条ほうじょうじゅうぞう(上嶽かみだけてらくら)
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん ぶんろく4ねん1595ねん
死没しぼつ 万治まんじ元年がんねん10月1にち1658ねん10月27にち
改名かいめい 久太郎きゅうたろう幼名ようみょう
墓所はかしょ 和歌山わかやまけん伊都いとぐん高野たかのまち高野山こうのやまおくいん
静岡しずおかけん袋井ふくろい上嶽かみだけてら
官位かんい したがえした出羽でわもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ秀忠ひでただ家光いえみつ家綱いえつな
はん 下総しもうさ岩富いわとみはんおも下野げや富田とみたはんおも遠江とおとうみ久野くのはんおも下総しもうさ関宿せきやどはんおも駿河するが田中たなかはんおも遠江とおとうみ掛川かけがわはんあるじ
氏族しぞく 保科ほしな玉縄たまなわ北条ほうじょう
父母ちちはは ちち保科ほしな正直まさなおはは久松ひさまつ俊勝としかつむすめ
養父ようふ北条ほうじょう氏勝うじかつ
兄弟きょうだい 保科ほしなただしこう保科ほしなただしさだおもさかえひめ黒田くろだ長政ながまさ継室けいしつ)、清元きよもといん安部あべしんもりしつ)、さだまついん小出こいでよしすぐる正室せいしつ)、こううんいん加藤かとう明成めいせいしつ
やしなえ兄弟きょうだい北条ほうじょうしげるひろ
異父いふ兄弟きょうだい: まつ平家ひらかひろ松平まつだいら信吉のぶよし松平まつだいら忠頼ただより
つま 杉原すぎはら長房ながふさむすめ
内藤ないとう忠清ただきよ正室せいしつつるひめ土方ひじかたつよしだか正室せいしつ)、近藤こんどう重信しげのぶ正室せいしつ大岡おおおかただしだか正室せいしつ酒井さかいただしとき正室せいしつ
テンプレートを表示ひょうじ

北条ほうじょう おも(ほうじょう うじしげ)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう下総しもうさ岩富いわとみはん2だい藩主はんしゅ下野げや富田とみたはんおも遠江とおとうみ久野くのはんおも下総しもうさ関宿せきやどはんおも駿河するが田中たなかはんおも遠江とおとうみ掛川かけがわはんおも

保科ほしな正直まさなおよんなんで、はは徳川とくがわ家康いえやす異父いふいもうとである。また、大岡おおおか忠相ただすけ外祖父がいそふにあたる。

慶長けいちょう16ねん1611ねん)、こう北条ほうじょう一門いちもんである北条ほうじょう綱成つなしげまご氏勝うじかつ養子ようしとなり、下総しもうさ岩富いわとみ1まんせきぐ。その慶長けいちょう18ねん1613ねん)に下野げや富田とみたてんふうされた。慶長けいちょう19ねん1614ねん)、大坂おおさかふゆじんでは榊原さかきばらやすしかちぞくし、岡崎おかざきしろ守備しゅびにあたる。その伏見ふしみじょうばんつとめ、元和がんわ5ねん1619ねん)に遠江とおとうみ久野くのてんふうされ、寛永かんえい17ねん1640ねん)に下総しもふさ関宿せきやどで2まんせき加増かぞうされ、正保まさやす元年がんねん1644ねん)の駿河するが田中たなかの5000せき加増かぞうて、慶安けいあん元年がんねん1648ねん)には最終さいしゅうてき掛川かけがわ3まんせきりょうした。しかし、5にんがすべて女子じょしであったため、万治まんじ元年がんねん1658ねん)10がつ1にちに64さい死去しきょしたのち嗣子ししなく12月22にちづけ改易かいえきとなった。そのは、北条ほうじょう綱成つなしげけい北条ほうじょうでは、義兄ぎけいしげひろ氏勝うじかつ実弟じっていでその養子ようしとなっていた)の家系かけい旗本はたもととして存続そんぞくした。

廃絶はいぜつろく』につたえられるところでは、じゅう秘蔵ひぞうくろうま鷹狩たかがり出掛でかけたさい落馬らくばしてんだため、家臣かしん主君しゅくんてきとしてうまやりとっころしたというはなし世間せけん流布るふしたことや、末期まっき養子ようしみとめられなかったことが改易かいえき原因げんいんとされている[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 須田すだしげる徳川とくがわ大名だいみょう改易かいえきろく書房しょぼう出版しゅっぱん、1998ねん、186ぺーじぺーじ 

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

  • 宮本みやもと昌孝まさたか青嵐あおあらしうま』(家康いえやす却のあいだかくという設定せっていえがかれている)