北条ほうじょう氏規うじのり

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北条ほうじょう 氏規うじのり
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん14ねん1545ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう5ねん2がつ8にち1600ねん3月22にち
別名べつめい 仮名かめい助五郎すけごろう
戒名かいみょう 一睡院殿勝譽宗円大居士
墓所はかしょ 専念寺せんねんじ大阪おおさか大阪おおさか
官位かんい したがえ美濃みのまもるひだりすけ
主君しゅくん 北条ほうじょう氏康うじやす氏政うじまさ氏直うじなお豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより
氏族しぞく こう北条ほうじょう
父母ちちはは ちち北条ほうじょう氏康うじやすははみずけいいん今川いまがわおやおんな
兄弟きょうだい おや氏政うじまさななきょく殿どの氏照うじてる氏規うじのり尾崎おざき殿どのちょうりんいん殿どのぞうはるいん殿どの氏邦うじくに上杉うえすぎ景虎かげとらきよしひかりいん殿どのかつらりんいん殿どの
つま まえしつ関口せきぐちひろおんな
正室せいしつこうはじめいん北条ほうじょう綱成つなしげおんな
もりきくせんだいかんじゅうろうまつ千代ちよおんな北条ほうじょう直定なおさだしつ)、おんな白樫しらかし三郎兵衛さぶろべえしつ)、おんな東条とうじょうちょうよりゆきしつ
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北条ほうじょう 氏規うじのり(ほうじょう うじのり)は、戦国せんごく時代じだい安土あづち桃山ももやま時代じだい武将ぶしょう北条ほうじょう氏康うじやすよんなんで、氏政うじまさ氏照うじてる同母どうぼおとうと氏邦うじくに異母いぼけい相模さがみこく三崎みさきしろ城主じょうしゅ伊豆いずこく韮山にらやまじょうじょうすすむ上野うえのこく館林たてばやしじょうじょうすすむ[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

今川いまがわ人質ひとじちとして[編集へんしゅう]

天文てんもん14ねん1545ねん)、だい3だい当主とうしゅ北条ほうじょう氏康うじやすよんおとことしてまれる。

この当時とうじ北条ほうじょう早川はやかわ殿どの今川いまがわ今川いまがわ氏真うじざね縁談えんだん約束やくそくがあったが、早川はやかわ殿どのがまだ幼少ようしょうであるため、今川いまがわ輿入こしいれすることができなかった。このため、氏規うじのりわりに人質ひとじちとしておくられた、とされている[2][3]。ただし、今川いまがわ精神せいしんてき支柱しちゅうであった寿ことぶきかつら今川いまがわおや未亡人みぼうじん)のまごであったことから、彼女かのじょあずかって養育よういくするかたちられた[4]天文てんもん23ねん1553ねん)、氏真うじざね早川はやかわ殿どの婚姻こんいんおこなわれるが、氏規うじのりはその駿府すんぷ滞在たいざいした。これも早川はやかわ殿どのいま出産しゅっさんできる年齢ねんれいではなかったためとされている。弘治こうじ2ねんごろ氏照うじてる大石おおいし継承けいしょうすることになると、氏規うじのり氏政うじまさ地位ちい後継こうけいしゃひかえの地位ちいにつくことになった[3]

元服げんぷく時期じき明確めいかくではないが、小田原おだわら実家じっかではなく駿府すんぷ今川いまがわ義元よしもとしたおこなわれた。浅倉あさくら直美なおみ元服げんぷくえいろく元年がんねん1558ねん)のこととし、氏規うじのりの「ぶんまわし」は今川いまがわつうである「はん」につうじることから採用さいようされたとみている[5]えいろく3ねん1560ねん)に義元よしもと元服げんぷくじょ五郎ごろうばれている書状しょじょう[6][7]がある。氏真うじざねには兄弟きょうだいはなく、有力ゆうりょく近親きんしんしゃどう世代せだい瀬名せなかいしんてる)くらいしか見当みあたらない状況じょうきょうにあり、氏規うじのり駿府すんぷ滞在たいざいつづけたのは北条ほうじょう一家いっかしゅとしてよりも今川いまがわ一家いっかしゅとしての立場たちば優先ゆうせんされたためとられている[注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]。また、義元よしもと重臣じゅうしん朝比奈あさひなやすしたいのうおい)のとされる朝比奈あさひなやすしよせと、同族どうぞくたいさかえ氏規うじのりけ、のちりょうはそのまま氏規うじのり家臣かしんになったとされている[11]。またこのころおなじく今川いまがわ人質ひとじちとして養育よういくされていた松平まつだいらたけせんだい、のちの徳川とくがわ家康いえやすう。

帰還きかん[編集へんしゅう]

氏規うじのりえいろく5ねん1562ねん)6がつからえいろく7ねん1564ねん)6がつ8にちあいだ小田原おだわら帰還きかんした[12][13]

えいろく9ねん1566ねんごろ(とみられている)、『光源院こうげんいん殿どの御代みよとうさんしゅ並足なみあしかる以下いかしゅうさとし』に、ちち氏康うじやす当主とうしゅあに氏政うじまさとともに室町むろまち幕府ばくふ将軍家しょうぐんけちょくしんとして氏規うじのり名前なまえがあり、この時点じてんでも氏康うじやす次男じなんてき地位ちい位置いちづけられている[14][15]

同年どうねん以後いご北条ほうじょうためあきら菩提ぼだいしゃとしての地位ちい岳父がくふ北条ほうじょう綱成つなしげからぎ、えいろく10ねん1567ねん三浦みうらぐん支配しはいけん綱成つなしげから、三浦みうらしゅう軍事ぐんじ指揮しきけん氏康うじやすからいで、三浦みうらぐん支配しはい拠点きょてんであった三崎みさきしろ本拠ほんきょにし、房総ぼうそう方面ほうめんへの軍事ぐんじ行動こうどうになうようになった[15]えいろく12ねん1569ねん)に北条ほうじょう武田たけだ信玄しんげんこうそう開始かいしされると、水軍すいぐん支配しはいとする氏規うじのり伊豆いず防衛ぼうえいになうようになり、徳川とくがわなど西方せいほう政治せいじ勢力せいりょくとの外交がいこう交渉こうしょう担当たんとうするようになった[注釈ちゅうしゃく 4]

同年どうねんより氏照うじてる氏規うじのり上位じょうい位置いちづけられ、後継こうけいしゃひかえという立場たちばにはなくなったとみられている。氏政うじまさすうにん存在そんざいするため、おとうとにその役割やくわり不要ふようとなったためとかんがえられている[16]

もとかめ2ねん1571ねん)10がつちち氏康うじやす死去しきょし、これを契機けいきとして、北条ほうじょう上杉うえすぎ謙信けんしんり、ふたた武田たけだ講和こうわむすんだ(かぶとしょういち[17]武田たけだとのたたかいがなくなったことにより、韮山にらやまじょう軍事ぐんじてき位置いちづけが低下ていかしたため、同年どうねん11がつまつ氏規うじのりにら山城やましろすすむ解任かいにんされたと推測すいそくされている[17]

天正てんしょう4ねん1576ねん)からひだりすけ名乗なのるようになる[注釈ちゅうしゃく 5]天正てんしょう5ねん1577ねん)、美濃みのまもるあらためる。同年どうねん9がつ北条ほうじょう房総半島ぼうそうはんとう里見さとみ中心ちゅうしんとした勢力せいりょく平定へいていすべく出兵しゅっぺいした。氏政うじまさ東上とうじょうそう方面ほうめんからほんぐんひきいて陸路りくろ侵攻しんこうし、氏規うじのり海路かいろから西上にしがみそう侵攻しんこうする両面りょうめん作戦さくせん展開てんかい氏政うじまさ上総かずさこく武田たけだ従属じゅうぞくさせ、氏規うじのり安房あわ里見さとみ本拠ほんきょ佐貫さぬきしろせま圧力あつりょくをかけた。10月に里見さとみ義弘よしひろ和睦わぼくもう、これを氏政うじまされ、次女じじょりゅう寿ひさしいん義弘よしひろ嫡子ちゃくし里見さとみよしよりゆきとつぐことで同盟どうめい関係かんけいきずくことになった(ぼうしょういち[18]

天正てんしょう7ねん1579ねん)3がつ上杉うえすぎで「御館みたてらん」がこり、氏規うじのり兄弟きょうだい上杉うえすぎ景虎かげとら死去しきょした[17]。このとき武田たけだ勝頼かつより相手方あいてがた景勝けいしょう支援しえんしていたため、かぶとしょういちやぶれ、氏規うじのり天正てんしょう8ねん1580ねん)2がつごろからふたたにら山城やましろすすむねたとみられる[19]氏規うじのり韮山にらやま支配しはいは、武田たけだ滅亡めつぼうのちもしばらくつづき、現存げんそんする史料しりょうでは、天正てんしょう13ねん1585ねん)9がつづけ印判いんばんじょう最後さいごとなっている[20]

天正てんしょう10ねん1582ねん)、織田おだによる武田たけだ征伐せいばつはじまり、おなじく武田たけだめた北条ほうじょうも、氏政うじまさ氏直うじなお駿河するが方面ほうめん出陣しゅつじんした。氏規うじのり源五郎げんごろうとともに、この先陣せんじんそう大将たいしょうにんじられている[21]同年どうねん天正てんしょうみずのえうまらんでは氏規うじのり伊豆いずから駿河するが侵攻しんこうし、9月12にち徳川とくがわ家康いえやすかた三枚橋さんまいばしじょう攻撃こうげきせんとしたが迎撃げいげきされている。三枚橋さんまいばしじょう落城らくじょうせず、25にちには氏政うじまさ出陣しゅつじんしたもののしろ攻略こうりゃくはできなかった。しかし御厨みくりや地域ちいきせいしている[22]。10月になって織田おだ体制たいせい織田おだ信雄のぶお織田おだ信孝のぶたか双方そうほうから徳川とくがわ北条ほうじょう両家りょうけたいして和睦わぼく勧告かんこくがあり、氏規うじのり交渉こうしょう担当たんとうとなり10がつ29にち和睦わぼく成立せいりつした[23]。この講和こうわさい甲斐かいこくしんじょう本陣ほんじんとしていた徳川とくがわ家康いえやすした氏規うじのり直接ちょくせつ出向でむいて交渉こうしょうしたとされ、二人ふたり今川いまがわでの人質ひとじち時代じだい旧交きゅうこうあたためたとつたわる。

天正てんしょう13ねん(1585ねん)1がつ北条ほうじょうかた軍勢ぐんぜいは、上野うえのこく館林たてばやしじょう長尾ちょうびあらわちょうい、じょうすすむとして氏規うじのりはいった[20]前述ぜんじゅつとおり、このころにら山城やましろすすむ退任たいにんしたとみられている[20]館林たてばやしじょうには重臣じゅうしん南条なんじょう因幡いなばまもるき、自身じしん三崎みさきじょう小田原おだわらじょうにいた[24]

天正てんしょう14ねん1586ねん)3がつ8にちならびに11にち氏政うじまさ徳川とくがわ家康いえやす伊豆いず駿河するが国境こっきょう直接ちょくせつ会談かいだんおよんだ。11にち氏規うじのり家康いえやす三枚橋さんまいばしじょうまでおくやくめいじられ、家康いえやすろうとして氏規うじのり兵糧ひょうろうまい1まんひょうおくり、宿老しゅくろう朝比奈あさひなやすしよせにもべつ兵糧ひょうろうまい1000ひょうあたえている[25]

天正てんしょう17ねん1589ねん)12月、さん韮山にらやまじょうざいしろしていることが史料しりょうから確認かくにんできる[26]

こののち日本にっぽん大半たいはん支配しはいした豊臣とよとみ秀吉ひでよし北条ほうじょう従属じゅうぞくめぐって交渉こうしょうしていたが、氏規うじのり北条ほうじょう当主とうしゅわって上洛じょうらくし、豊臣とよとみかたすう交渉こうしょうたっている。しかし、最終さいしゅうてき氏規うじのりはたらきはむくわれず、天正てんしょう18ねん1590ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる「小田原おだわら征伐せいばつ」がはじまった。氏規うじのり最前線さいぜんせんのひとつである韮山にらやまじょう守備しゅび担当たんとうし、4まん豊臣とよとみかたそう大将たいしょう織田おだ信雄のぶお)を相手あいてに3,640あまりとされる寡兵かへいで4かげつ以上いじょうあいだ抗戦こうせんするという善戦ぜんせんぶりをせたが、最終さいしゅうてきには家康いえやす黒田くろだ官兵衛かんべえ説得せっとくけて開城かいじょうした[27]

戦後せんごは、高野山こうのやま蟄居ちっきょ処分しょぶんとなった北条ほうじょう氏直うじなおしたがって高野たかのさんおもむいて蟄居ちっきょした。のちに秀吉ひでよしゆるされ、天正てんしょう19ねん1591ねん)には河内かわうちこく丹南たんなんぐん2,000せきぶんろく3ねん1594ねん)には同国どうこく河内かわちぐんに6,980せきてがわれ[28]まんせき以下いかながら狭山さやまじょうしゅとして相応そうおう礼節れいせつってむくいられている。なお、氏直うじなお同時どうじゆるされ、天正てんしょう19ねん1591ねん)8がつに1まんせき大名だいみょうとして復帰ふっきしたが同年どうねん11がつ病死びょうしした。そののこりょうのうち4,000せき氏直うじなお養子ようしとなった氏規うじのり長男ちょうなんもりいでいる。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)2がつ8にち病死びょうし享年きょうねん56。墓所はかしょ大坂おおさか専念寺せんねんじ法名ほうみょう一睡院殿勝譽宗円大居士もりによる継承けいしょうみとめられ、それまでの領地りょうちわせ1まん1000せきとなり、北条ほうじょう大名だいみょうふくした。

子孫しそんは、狭山さやまはん藩主はんしゅとして明治維新めいじいしんまで存続そんぞくした。

妻子さいしについて[編集へんしゅう]

  • つまこうはじめいんは、北条ほうじょう綱成つなしげ晩年ばんねんであったとされる。曾孫そうそんむねだい寛永かんえい5ねん1628ねん)6がつ14にち死去しきょ法名ほうみょうこうみなもといん殿どのだまほまれみょうがおだい禅尼ぜんに[29][30]
  • こうみなもといんとの婚姻こんいん天正てんしょう年間ねんかんはいってからとみられ、それ以前いぜん今川いまがわ一門いちもんである関口せきぐちひろじゅんおやひさし)のむすめめとっていたとするせつもある。これが事実じじつならば、そのつま徳川とくがわ家康いえやす当時とうじ松平まつだいら元康もとやす)の正室せいしつである築山殿ちくやまどの姉妹しまいにあたる。また、浅倉あさくら直美なおみはこの婚姻こんいん婿養子むこようしとしての縁組えんぐみとし、「助五郎すけごろう」の仮名かめい元々もともとひろ名乗なのりであったとする。このせつ確定かくていしたものではないが、かり婚姻こんいん事実じじつであれば、天正てんしょう年間ねんかん以前いぜん死去しきょしたか、松平まつだいら元康もとやす今川いまがわからの離反りはんによって関口せきぐちひろ自害じがいまれたえいろく5ねん1562ねん以降いこう離縁りえんしたとみられている。なお、氏規うじのり小田原おだわらへの帰還きかんも、養父ようふひろ失脚しっきゃく自害じがい一因いちいんであるとしている[31][32][33][5]
  • 氏規うじのり子女しじょについては、「寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん」などではよんなんさんじょげられている[34]。「高室たかむろいん文書ぶんしょ」では次男じなんとしてりゅう千代ちよ存在そんざい確認かくにんできる。系図けいずでは三男さんなんかんじゅうろうのみ幼名ようみょうつたえられていないから、りゅう千代ちよがそれにあたる可能かのうせいがある。次男じなんきくせんだい四男よつおまつ千代ちよ早世そうせいしたとつたえられ、次男じなんきくせんだい早世そうせいしたため、三男さんなんりゅう千代ちよ次男じなんしょうされたとかんがえれば整合せいごうてき解釈かいしゃく出来でき[35]
    • 三男さんなんかんじゅうろう天正てんしょう8ねん1580ねんまれ。幼名ようみょうりゅう千代ちよしょうしたとみられる。天正てんしょう15ねん1587ねん)3がつ21にちに、家臣かしん朝比奈あさひなやすしよせかんじゅうろうじんだいにんじている[36]天正てんしょう18ねん1590ねん)1がつにはりゅう千代ちよ被官ひかんが、本拠ほんきょ三崎みさきしろ小田原おだわらじょう籠城ろうじょうしている[37]すでりゅう千代ちよしゅうともいうべき独自どくじ家臣かしんだん編成へんせいされている。滅亡めつぼう氏規うじのりともにし、天正てんしょう19ねん1591ねん)12月27にちには在京ざいきょうしている[38]。その動向どうこうかんじゅうろうどう一人物いちじんぶつとすれば、りゅう千代ちよ豊臣とよとみ秀次しゅうじつかえ、秀次しゅうじ改易かいえき家康いえやすつかえた。慶長けいちょう5ねん1600ねん)1がつ21にちちちより1ヶ月かげつまえ死去しきょ享年きょうねん21。法名ほうみょうまつりゅういん殿どのがつあきらうめおうだい禅定ぜんじょうもん[29][39]
    • 北条ほうじょう直定なおさだしつ元和がんわ3ねん1617ねん)6がつ18にち死去しきょ法名ほうみょうさとししん禅定ぜんじょうあまにちぱいによって、紀伊きい入国にゅうこくもと9ねん1623ねん)に建立こんりゅうされた[39]
    • 白樫しらかし三郎兵衛さぶろべえしつは、元和がんわ元年がんねん1615ねん)9がつ5にち死去しきょ法名ほうみょうやすやしなえいん殿どのこうほまれまつがおだい禅定ぜんじょうあま[29]白樫しらかし紀伊きい出身しゅっしん浅野あさの家臣かしんおもわれる[40]
    • むすめ東条とうじょうちょうよりゆきしつは、具体ぐたいてきなことはつたえられていない。東条とうじょうちょうよりゆき受領じゅりょうめい紀伊きいもりしょうし、ちち行長ゆきなが豊臣とよとみから徳川とくがわてんじたのにともない、当初とうしょから家康いえやすつかえ、家康いえやす旗本はたもとになったとされる[41][40]東条とうじょうちょうよりゆきはのちに大藩たいはんである福島ふくしま正則まさのり改易かいえきさい使者ししゃえらばれるなど、一定いってい格式かくしき重用じゅうようられる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 改正かいせいさんかわ風土記ふどき」では、氏規うじのりを「智謀ちぼう武勇ぶゆう双方そうほう研鑽けんさんはげ北条ほうじょう一族いちぞく名将めいしょうである」とひょうしている[42]
  • 徳川とくがわ家康いえやすから北条ほうじょう氏規うじのりあて書状しょじょうなどが多数たすう現存げんそんしており、後述こうじゅつ豊臣とよとみ秀吉ひでよしこう北条ほうじょう上洛じょうらくもとめたさいには、家康いえやすからのはたらきかけは氏規うじのりたいするものがおおく、家康いえやす氏規うじのり北条ほうじょう窓口まどぐちやくとしてていた事実じじつがうかがえる。
  • 駿府すんぷ人質ひとじち時代じだい家康いえやす駿府すんぷ人質ひとじちとなっていたため、このころからにん親交しんこうがあったとするせつがあり、『だい日本にっぽん史料しりょう』などはこのせつせている。また『駿しゅんこく雑誌ざっし』(19世紀せいき前期ぜんき駿河するがこく地誌ちし阿部あべ正信まさのぶちょ)・『武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』では、家康いえやす住居じゅうきょとなり同士どうしだったともつたえている。
  • 今川いまがわ義元よしもと小田原おだわらおもむきその帰途きと途中とちゅう、「かみ」にも伝言でんごんつたえられている。「かみ」は通常つうじょうははつま用語ようご義元よしもと氏規うじのり関係かんけいでいえば、寿ことぶきかつらは「だい方様かたさま」としるされるはずであり、義元よしもと正室せいしつはおらず、みずけいいん小田原おだわらにいて該当がいとうしないため、のこるのは氏規うじのりつまということになる。氏規うじのり駿府すんぷ時代じだいつまめとったことはこれまでかっていないが、駿府すんぷ元服げんぷく義元よしもと仲介ちゅうかいによってつまめとった可能かのうせい黒田くろだ基樹もとき指摘してきしている[注釈ちゅうしゃく 6]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 北条ほうじょう伊勢いせ)のである伊勢いせ盛時せいじ北条早雲ほうじょうそううん義元よしもとちちである今川いまがわおや叔父おじでかつ後見人こうけんにんとして今川いまがわ一家いっかしゅ待遇たいぐうけていた[8]
  2. ^ 黒田くろだ基樹もとき仮名かめい助五郎すけごろう今川いまがわ仮名かめい五郎ごろうにちなむものとし、氏真うじざね一門いちもんしゅとしてたすけるという見方みかた、もしくは今川いまがわ一家いっかしゅとして関口せきぐち刑部おさかべしょう輔家の後継こうけいしゃ位置付いちづけられたとしている[9]
  3. ^ 下山しもやま治久はるひさ義元よしもと養嗣子ようししとなり、氏真うじざねいで次男じなんあつかいであったとしている[10]
  4. ^ 今川いまがわ駿河するがこく成長せいちょうしたことや室町むろまち幕府ばくふちょくしん立場たちばからの延長えんちょう位置いちしたとかんがえられている[16]
  5. ^ 北条ほうじょうひだりすけ初代しょだい玉縄たまなわしろ城主じょうしゅ北条ほうじょう名乗なのっていたもので、氏規うじのりはその家格かかく継承けいしょうする存在そんざいであったとかんがえられている[16]
  6. ^ 関口せきぐちひろ後継こうけいしゃとされていた場合ばあい家康いえやすとはあい婿むこ関係かんけいになり、となり同士どうし伝承でんしょう自然しぜんなこととしてめることも出来できると指摘してきしている[43]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい 1995, pp. 817–823.
  2. ^ 黒田くろだ & 浅倉あさくら 2015.
  3. ^ a b 黒田くろだ 2017, pp. 88.
  4. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 88・163.
  5. ^ a b 浅倉あさくら直美なおみ ちょ北条ほうじょう繁栄はんえいをもたらした氏康うじやす家族かぞく」、黒田くろだ基樹もとき へん北条ほうじょう氏康うじやすとその時代じだいえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう 2〉、2021ねん、41ぺーじ 
  6. ^ らい連川つれかわ文書ぶんしょ戦国せんごく遺文いぶん北条ほうじょうへん4463
  7. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 89.
  8. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 20.
  9. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 89-90、193-195.
  10. ^ 下山しもやま治久はるひさ北条ほうじょう家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2006ねん9がつISBN 978-4490106961 
  11. ^ 浅倉あさくら直美なおみ ちょ北条ほうじょう氏規うじのり家臣かしん朝比奈あさひなについて」、戦国せんごく研究けんきゅうかい へん戦国せんごく政治せいじ論集ろんしゅう東国とうごくへん】』岩田いわた書院しょいん、2017ねん12月。ISBN 978-4-86602-012-9 
  12. ^ 小西こにし八郎はちろう収集しゅうしゅう朝比奈あさひな文書ぶんしょ
  13. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 90.
  14. ^ 光源院こうげんいん殿どの御代みよとうさんしゅ並足なみあしかる以下いかしゅうさとし』『こうかん所収しょしゅう
  15. ^ a b 黒田くろだ 2017, pp. 91、194.
  16. ^ a b c 黒田くろだ 2017, pp. 92.
  17. ^ a b c 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい 1995, p. 818.
  18. ^ 黒田くろだ 2018, pp. 123.
  19. ^ 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい 1995, pp. 818–819.
  20. ^ a b c 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい 1995, p. 820.
  21. ^ 黒田くろだ 2018, pp. 167.
  22. ^ 黒田くろだ 2018, pp. 191.
  23. ^ 黒田くろだ 2018, pp. 194–195.
  24. ^ 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい 1995, p. 821.
  25. ^ 黒田くろだ 2018, pp. 216–218.
  26. ^ 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい 1995, pp. 822–823.
  27. ^ 北条ほうじょうだい
  28. ^ 豊臣とよとみ秀吉ひでよし知行ちぎょうかた目録もくろく神奈川かながわ県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかんぞう)(横浜よこはま歴史れきし博物館はくぶつかん 1999, p. 32(写真しゃしん掲載けいさい))
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  30. ^ 黒田くろだ 2005, pp. 213.
  31. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 186-187・194-195..
  32. ^ 浅倉あさくら直美なおみ ちょ北条ほうじょうとの婚姻こんいん同盟どうめい」、黒田くろだ基樹もとき へん今川いまがわ義元よしもとえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう だい1かん〉、2019ねん6がつ、226-228ぺーじISBN 978-4-86403-322-0 
  33. ^ 浅倉あさくら直美なおみ ちょ小田原おだわら北条ほうじょう織田おだ徳川とくがわ」、橋詰はしづめしげる へん戦国せんごく近世きんせい初期しょき 西にしひがし地域ちいき社会しゃかい岩田いわた書院しょいん、2019ねん6がつISBN 978-4-86602-074-7 
  34. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 194.
  35. ^ 黒田くろだ 2005, pp. 213–214.
  36. ^ 朝比奈あさひな文書ぶんしょ
  37. ^ 岡本おかもと文書ぶんしょ
  38. ^ 高室たかむろいん文書ぶんしょ
  39. ^ a b 黒田くろだ 2005, pp. 214.
  40. ^ a b 黒田くろだ 2005, pp. 215.
  41. ^ 寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん
  42. ^ 相川あいかわ 2009, pp. 256.
  43. ^ 黒田くろだ 2017, pp. 186–187.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]