北条 氏規
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一睡院殿勝譽宗円大居士 | |
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生涯 [編集 ]
今川 家 の人質 として[編集 ]
この
帰還 後 [編集 ]
この
妻子 について[編集 ]
妻 ・高 源 院 は、北条 綱成 晩年 の子 であったとされる。曾孫 ・氏 宗 の代 の寛永 5年 (1628年 )6月 14日 に死去 。法名 は高 源 院 殿 玉 誉 妙 顔 大 禅尼 [29][30]。高 源 院 との婚姻 は天正 年間 に入 ってからとみられ、それ以前 に今川 氏 の一門 である関口 氏 広 (氏 純 ・親 永 )の娘 を娶 っていたとする説 もある。これが事実 ならば、その妻 は徳川 家康 (当時 は松平 元康 )の正室 である築山殿 の姉妹 にあたる。また、浅倉 直美 はこの婚姻 を婿養子 としての縁組 とし、「助五郎 」の仮名 は元々 氏 広 の名乗 りであったとする。この説 は確定 したものではないが、仮 に婚姻 が事実 であれば、天正 年間 以前 に死去 したか、松平 元康 の今川 氏 からの離反 によって関口 氏 広 が自害 に追 い込 まれた永 禄 5年 (1562年 )以降 に離縁 したとみられている。なお、氏規 の小田原 への帰還 も、養父 ・氏 広 の失脚 ・自害 が一因 であるとしている[31][32][33][5]。氏規 の子女 については、「寛永 諸家 系図 伝 」などでは四 男 三 女 が挙 げられている[34]。「高室 院 文書 」では次男 として竜 千代 の存在 が確認 できる。系図 では三男 勘 十 郎 のみ幼名 が伝 えられていないから、竜 千代 がそれにあたる可能 性 がある。次男 ・菊 千 代 、四男 ・松 千代 は早世 したと伝 えられ、次男 菊 千 代 が早世 したため、三男 ・竜 千代 が次男 と称 されたと考 えれば整合 的 に解釈 出来 る[35]。三男 勘 十 郎 は天正 8年 (1580年 )生 まれ。幼名 を竜 千代 と称 したとみられる。天正 15年 (1587年 )3月 21日 に、家臣 朝比奈 泰 寄 を子 ・勘 十 郎 の陣 代 に任 じている[36]。天正 18年 (1590年 )1月 には竜 千代 の被官 が、本拠 の三崎 城 か小田原 城 に籠城 している[37]。既 に竜 千代 衆 ともいうべき独自 の家臣 団 が編成 されている。滅亡 後 は氏規 と共 にし、天正 19年 (1591年 )12月27日 には在京 している[38]。その後 の動向 は勘 十 郎 と同 一人物 とすれば、竜 千代 は豊臣 秀次 に仕 え、秀次 改易 後 は家康 に仕 えた。慶長 5年 (1600年 )1月 21日 、父 より1ヶ月 前 に死去 。享年 21。法名 は松 竜 院 殿 月 照 梅 翁 大 禅定 門 [29][39]。北条 直定 室 は元和 3年 (1617年 )6月 18日 に死去 、法名 智 清 禅定 尼 。日 牌 は子 ・氏 時 によって、氏 時 の紀伊 入国 後 の元 和 9年 (1623年 )に建立 された[39]。白樫 三郎兵衛 室 は、元和 元年 (1615年 )9月 5日 死去 、法名 安 養 院 殿 光 誉 松 顔 大 禅定 尼 [29]。白樫 氏 は紀伊 出身 で浅野 氏 家臣 と思 われる[40]。娘 の東条 長 頼 室 は、具体 的 なことは伝 えられていない。東条 長 頼 は受領 名 紀伊 守 を称 し、父 ・行長 が豊臣 家 から徳川 家 に転 じたのに伴 い、当初 から家康 に仕 え、家康 の旗本 になったとされる[41][40]。東条 長 頼 はのちに大藩 である福島 正則 の改易 の際 の使者 に選 ばれるなど、一定 の格式 と重用 が見 られる。
人物 [編集 ]
- 「
改正 三 河 後 風土記 」では、氏規 を「智謀 と武勇 、双方 の研鑽 に励 む北条 一族 の名将 である」と評 している[42]。 徳川 家康 から北条 氏規 宛 の書状 などが多数 現存 しており、後述 の豊臣 秀吉 が後 北条 氏 に上洛 を求 めた際 には、家康 からの働 きかけは氏規 に対 するものが多 く、家康 が氏規 を北条 氏 の窓口 役 として見 ていた事実 がうかがえる。駿府 人質 時代 に家康 も駿府 で人質 となっていたため、この頃 から二 人 に親交 があったとする説 があり、『大 日本 史料 』などはこの説 を載 せている。また『駿 国 雑誌 』(19世紀 前期 の駿河 国 の地誌 、阿部 正信 著 )・『武徳 編 年 集成 』では、家康 と住居 が隣 同士 だったとも伝 えている。今川 義元 が小田原 に赴 きその帰途 の途中 、「かみ」にも伝言 を伝 えられている。「かみ」は通常 、母 か妻 を指 す用語 で義元 と氏規 の関係 でいえば、寿 桂 尼 は「大 方様 」と記 されるはずであり、義元 の正室 はおらず、瑞 渓 院 も小田原 にいて該当 しないため、残 るのは氏規 の妻 ということになる。氏規 が駿府 時代 に妻 を娶 ったことはこれまで分 かっていないが、駿府 で元服 後 、義元 の仲介 によって妻 を娶 った可能 性 を黒田 基樹 は指摘 している[注釈 6]。
関連 作品 [編集 ]
伊東 潤 『虚 けの舞 ―織田 信雄 と北条 氏規 』彩 流 社 、ISBN 4-7791-1139-0今村 翔 吾 『狐 の城 』(『蹴 れ、彦五郎 』収録 )祥伝社 、2022年
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
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北条 家 (伊勢 家 )の祖 である伊勢 盛時 (北条早雲 )は義元 の父 である今川 氏 親 の叔父 でかつ後見人 として今川 御 一家 衆 の待遇 を受 けていた[8]。 - ^
黒田 基樹 は仮名 の助五郎 は今川 家 の仮名 の五郎 にちなむものとし、氏真 を一門 衆 として助 けるという見方 、もしくは今川 御 一家 衆 として関口 刑部 少 輔家の後継 者 に位置付 けられたとしている[9]。 - ^
下山 治久 は義元 の養嗣子 となり、氏真 に次 いで次男 扱 いであったとしている[10]。 - ^
今川 家 ・駿河 国 で成長 したことや室町 幕府 直 臣 の立場 からの延長 に位置 したと考 えられている[16]。 - ^
北条 左 馬 助 は初代 玉縄 城 城主 の北条 氏 時 が名乗 っていたもので、氏規 はその家格 を継承 する存在 であったと考 えられている[16]。 - ^
関口 氏 広 の後継 者 とされていた場合 、家康 とは相 婿 の関係 になり、隣 同士 の伝承 も自然 なこととして受 け止 めることも出来 ると指摘 している[43]。
出典 [編集 ]
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韮山 町 史 編纂 委員 会 1995, pp. 817–823. - ^
黒田 &浅倉 2015. - ^ a b
黒田 2017, pp. 88. - ^
黒田 2017, pp. 88・163. - ^ a b
浅倉 直美 著 「北条 家 の繁栄 をもたらした氏康 の家族 」、黒田 基樹 編 『北条 氏康 とその時代 』戎 光 祥 出版 〈シリーズ・戦国 大名 の新 研究 2〉、2021年 、41頁 。 - ^ 『
来 連川 文書 』戦国 遺文 後 北条 氏 編 4463 - ^
黒田 2017, pp. 89. - ^
黒田 2017, pp. 20. - ^
黒田 2017, pp. 89-90、193-195. - ^
下山 治久 『後 北条 氏 家臣 団 人名 辞典 』東京 堂 出版 、2006年 9月 。ISBN 978-4490106961。 - ^
浅倉 直美 著 「北条 氏規 家臣 朝比奈 氏 について」、戦国 史 研究 会 編 『戦国 期 政治 史 論集 【東国 編 】』岩田 書院 、2017年 12月。ISBN 978-4-86602-012-9。 - ^ 「
小西 八郎 氏 収集 朝比奈 文書 」 - ^
黒田 2017, pp. 90. - ^ 『
光源院 殿 御代 當 参 衆 並足 軽 以下 衆 覚 』『後 鑑 』所収 - ^ a b
黒田 2017, pp. 91、194. - ^ a b c
黒田 2017, pp. 92. - ^ a b c
韮山 町 史 編纂 委員 会 1995, p. 818. - ^
黒田 2018, pp. 123. - ^
韮山 町 史 編纂 委員 会 1995, pp. 818–819. - ^ a b c
韮山 町 史 編纂 委員 会 1995, p. 820. - ^
黒田 2018, pp. 167. - ^
黒田 2018, pp. 191. - ^
黒田 2018, pp. 194–195. - ^
韮山 町 史 編纂 委員 会 1995, p. 821. - ^
黒田 2018, pp. 216–218. - ^
韮山 町 史 編纂 委員 会 1995, pp. 822–823. - ^ 『
北条 五 代 記 』 - ^
豊臣 秀吉 知行 方 目録 (神奈川 県立 歴史 博物館 蔵 )(横浜 市 歴史 博物館 1999, p. 32(写真 掲載 )) - ^ a b c 「
北条 家 過去 帳 」 - ^
黒田 2005, pp. 213. - ^
黒田 2017, pp. 186-187・194-195.. - ^
浅倉 直美 著 「北条 氏 との婚姻 と同盟 」、黒田 基樹 編 『今川 義元 』戎 光 祥 出版 〈シリーズ・戦国 大名 の新 研究 第 1巻 〉、2019年 6月 、226-228頁 。ISBN 978-4-86403-322-0。 - ^
浅倉 直美 著 「小田原 北条 氏 と織田 ・徳川 氏 」、橋詰 茂 編 『戦国 ・近世 初期 西 と東 の地域 社会 』岩田 書院 、2019年 6月 。ISBN 978-4-86602-074-7。 - ^
黒田 2017, pp. 194. - ^
黒田 2005, pp. 213–214. - ^ 「
朝比奈 文書 」 - ^ 「
岡本 文書 」 - ^ 「
高室 院 文書 」 - ^ a b
黒田 2005, pp. 214. - ^ a b
黒田 2005, pp. 215. - ^ 「
寛永 諸家 系図 伝 」 - ^
相川 2009, pp. 256. - ^
黒田 2017, pp. 186–187.
参考 文献 [編集 ]
韮山 町 史 編纂 委員 会 編 『韮山 町 史 』第 10巻 《通史 Ⅰ自然 ・原 始 ・古代 ・中世 》、韮山 町 史 刊行 委員 会 、1995年 3月 31日 。NDLJP:9541049。(要 登録 )横浜 市 歴史 博物館 『特別 展 秀吉 襲来 -近世 関東 の幕開 け』横浜 市 歴史 博物館 、1999年 。黒田 基樹 『戦国 北条 一族 』新人物往来社 、2005年 9月 。ISBN 4-404-03251-X。相川 司 『戦国 ・北条 一族 』新 紀元 社 Truth In History シリーズ〈Truth In History シリーズ〉、2009年 11月。ISBN 978-4-7753-0774-8。黒田 基樹 ;浅倉 直美 編 『北条 氏康 の子供 たち』宮 帯 出版 社 、2015年 12月。ISBN 978-4-8016-0017-1。黒田 基樹 『北条 氏康 の妻 瑞 渓 院 政略 結婚 からみる戦国 大名 』平凡社 〈中世 から近世 へ〉、2017年 12月。ISBN 978-4-582-47736-8。黒田 基樹 『北条 氏政 乾坤 を截破し太虚 に帰 す』ミネル ヴァ書房 〈ミネルヴァ日本 選評 伝 〉、2018年 2月 。ISBN 978-4-623-08235-3。