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小田原おだわらじょう

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小田原おだわらじょう
神奈川かながわけん
天守(復興天守)
天守てんしゅ復興ふっこう天守てんしゅ地図
別名べつめい 小峯こみねじょう小峰こみねじょう)、小早川こばやかわじょう小早川こばやかわかん
城郭じょうかく構造こうぞう 平山ひらやましろ
天守てんしゅ構造こうぞう ふくごうしきそうとうがた3じゅう4かい(1633ねん きずけ
(1706ねん さい
(1960ねん RCみやつこ復興ふっこう
築城ちくじょうぬし 大森おおもりよりゆきはる
築城ちくじょうねん おうひさし24ねん1417ねん
おも改修かいしゅうしゃ 杉村すぎむら北条ほうじょう氏綱うじつな氏政うじまさ氏直うじなお大久保おおくぼ忠世ただよ稲葉いなば正勝まさかつ
おも城主じょうしゅ こう北条ほうじょう阿部あべ稲葉いなば
大久保おおくぼ
はいじょうねん 1871ねん明治めいじ4ねん
遺構いこう 石垣いしがきるい水堀みずほり空堀からぼりだい堀切ほりきりるいかく障子しょうじほりあと
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 天守てんしゅもん
位置いち 北緯ほくい3515ふん3.77びょう 東経とうけい1399ふん12.39びょう / 北緯ほくい35.2510472 東経とうけい139.1534417 / 35.2510472; 139.1534417座標ざひょう: 北緯ほくい3515ふん3.77びょう 東経とうけい1399ふん12.39びょう / 北緯ほくい35.2510472 東経とうけい139.1534417 / 35.2510472; 139.1534417
地図ちず
小田原城の位置(神奈川県内)
小田原城
小田原おだわらじょう
小田原城の位置(日本内)
小田原城
小田原おだわらじょう
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小田原おだわらじょう(おだわらじょう)は、神奈川かながわけん小田原おだわらにあった戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだいにかけての日本にっぽんしろ平山ひらやましろ)。北条ほうじょう本拠地ほんきょちとして有名ゆうめいである。江戸えど時代じだいには小田原おだわらはんはんちょうがあった。城跡じょうせきくに史跡しせき指定していされている。

絵図えず
どうもん (復元ふくげん

概要がいよう

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北条ほうじょうは、居館きょかんいま天守てんしゅ周辺しゅうへんき、後背こうはいにあたる八幡山はちまんやま現在げんざい小田原おだわら高等こうとう学校がっこうがある場所ばしょ)をつめしろとしていた。 居館きょかんについては北条ほうじょう以前いぜん大森おおもり以来いらいのものとするのが通説つうせつであるが、大森おおもり時代じだいにはより東海道とうかいどうちかく15世紀せいき遺構いこう実際じっさい発掘はっくつされている現在げんざいさんまる北堀きたほり付近ふきんにあったとする異説いせつもある。3だい当主とうしゅ北条ほうじょう氏康うじやす時代じだいには難攻不落なんこうふらく無敵むてきしろといわれ、上杉うえすぎ謙信けんしん武田たけだ信玄しんげん攻撃こうげきえた。江戸えど時代じだい居館きょかん近世きんせい城郭じょうかくへと改修かいしゅうされ、現在げんざい小田原おだわら城址じょうししゅかく部分ぶぶんとなったが、八幡山はちまんやま放置ほうちされた。そのため、近世きんせい城郭じょうかく中世ちゅうせい城郭じょうかく江戸えどとおして並存へいそんし、現在げんざい両方りょうほう遺構いこうのこ全国ぜんこくてきてもめずらしい城郭じょうかくである。

最大さいだい特徴とくちょうは、豊臣とよとみぐん対抗たいこうするためにつくられた広大こうだい外郭がいかくである。八幡山はちまんやまからうみがわいたるまで小田原おだわらまち全体ぜんたいそう延長えんちょう9キロメートルるい空堀からぼりかこんだものであり、豊臣とよとみだい坂城さかきそう構をしのいでいた。慶長けいちょう19ねん1614ねん)、徳川とくがわ家康いえやすみずかすうまん軍勢ぐんぜいひきいてこのそうかま撤去てっきょさせている。地元じもと地方ちほう城郭じょうかくにこのようなだい規模きぼそうかまえがあることを警戒けいかいしていたというせつもある。ただし、完全かんぜんには撤去てっきょされておらず、現在げんざい北西ほくせい中心ちゅうしん遺構いこうのこる。地図ちずにも存在そんざいしめされており、小田原おだわら城下じょうかしろがい境界きょうかいでありつづけた。明治めいじ初期しょきにおける小田原おだわらまち境界きょうかいそうかまである。

北条ほうじょう没落ぼつらく城主じょうしゅとなったのは大久保おおくぼであるが、2だい藩主はんしゅ大久保おおくぼ忠隣ただちか時代じだい政争せいそうやぶれ、一度いちど改易かいえきにあっている。一時いちじは2だい将軍しょうぐん秀忠ひでただ大御所おおごしょとして隠居いんきょするしろとするかんがえもあったといわれるが、実現じつげんしなかった。その城代じょうだいかれた時期じきもあったが、阿部あべ春日局かすがのつぼね稲葉いなば、そして再興さいこうされた大久保おおくぼふたたにゅうふうされた。小田原おだわらはんはい鉄砲てっぽうおんなといわれた箱根はこね関所せきしょ幕府ばくふからあずかる立場たちばであった。

なお、小田原おだわらはん大久保おおくぼ大名だいみょうとなったささえはん分家ぶんけ)には荻野おぎの山中さんちゅうはん現在げんざい神奈川かながわけん厚木あつぎ)がある。

小田原おだわらじょうは、江戸えど時代じだいとおして寛永かんえい10ねん1633ねん)と元禄げんろく16ねん1703ねん)の2だい地震じしんい、なかでも、元禄げんろく地震じしんでは天守てんしゅなどが倒壊とうかいするなどの甚大じんだい被害ひがいけている。天守てんしゅ再建さいけんされたのは宝永ほうえい3ねん1706ねん)で、この再建さいけん天守てんしゅ明治めいじ解体かいたいされるまで存続そんぞくした[1]また老朽ろうきゅうした天守てんしゅ木造もくぞう復元ふくげん計画けいかくもある。

構造こうぞう

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平地ひらち

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近世きんせい大久保おおくぼ忠世ただよ稲葉いなば正勝まさかつによって改修かいしゅうされた部分ぶぶん現在げんざい小田原おだわら城址じょうし公園こうえんおよび、その近辺きんぺんである。主要しゅようのすべてに石垣いしがきもちいたそう石垣いしがきづくりのしろである。佐倉さくらじょう川越かわごえしろなどのように、るいのみのしろおお関東かんとう地方ちほうにおいては特殊とくしゅえ、関東かんとう入口いりくちとしての小田原おだわらじょう重要じゅうようせいうかがえる。なお、現在げんざいのようなそう石垣いしがきしろになったのは寛永かんえい9ねん1632ねん)にはじめられただい改修かいしゅうのことである。本丸ほんまる中心ちゅうしんに、ひがしまるおよびさんまるかさね、本丸ほんまる西側にしがわ屏風岩びょうぶいわ曲輪くるわみなみ小峯こみね曲輪くるわきた蔵米くらまいきょくもうけ、4方向ほうこうまもりをかためていた。このほか小峯こみね曲輪くるわまるあいだたか曲輪くるわまる南側みなみがわにおちゃつぼきょくおよび馬屋うまや曲輪くるわまる北側きたがわ弁才天べんざいてんきょくと、けい4つの小曲しょうきょくもうけられ、馬出まいだし(うまだし)として機能きのうした。建造けんぞうぶつとしては、本丸ほんまる天守てんしゅおよび桝形ますがた常磐木ときわぎもんまるには居館きょかんどうもんひらがそれぞれもうけられ、小田原おだわらじょう全体ぜんたいでは、城門じょうもんが13むねほどが8ほどてられていたものとかんがえられている。江戸えど末期まっきには、海岸かいがんに3砲台ほうだい建設けんせつされている。

明治めいじ初期しょきほとんどの建物たてものこわされたが、本丸ほんまるまるちゃつぼ曲輪くるわ馬屋うまやきょく復元ふくげんすすんでいる。たか曲輪くるわには図書館としょかん郷土きょうど文化ぶんかかんかれ、小峯こみね曲輪くるわ報徳ほうとく二宮にのみや神社じんじゃ屏風岩びょうぶいわきょくゆう園地えんちとなっている。御蔵おぐらべいきょく球場きゅうじょうとなったのち一時いちじてき駐車ちゅうしゃじょうとなっていたが、現在げんざい復元ふくげん整備せいびちゅう弁財天べざいてんきょく城址じょうし公園こうえんがい住宅じゅうたくとなっており旭丘あさひがおか高校こうこうこう存在そんざいする。

なお、小田原おだわら城址じょうし公園こうえん隣接りんせつする市有しゆうには、小田原おだわら箱根はこね商工しょうこう会議かいぎしょ事務所じむしょとしていた1971ねん昭和しょうわ46ねん)に建設けんせつされた商工しょうこう会館かいかん地下ちか1かい地上ちじょう5かいて)があったが、周辺しゅうへん弁財天べざいてん曲輪くるわ蓮池はすいけがあった場所ばしょくに史跡しせき指定してい範囲はんいないだったことから文化庁ぶんかちょう許可きょかてられた[2]。しかし、きゅう商工しょうこう会館かいかんえがむずかしいことから、小田原おだわら箱根はこね商工しょうこう会議かいぎしょは2021ねん2がつ小田原おだわら本町ほんちょうしん事務所じむしょ移転いてんしており、きゅう商工しょうこう会館かいかん寄贈きぞうする意向いこうつたえている[2]

八幡山はちまんやまかく

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平地ひらちたいするつめじょうたる。小田原おだわら合戦かっせんにおいて、北条ほうじょう氏政うじまさがここにじんいたとされる。大森おおもり時代じだいからの本来ほんらい小田原おだわらじょうともわれるが、異説いせつもありはっきりしない。ひがしからじゅんに、ひがし曲輪くるわほん曲輪くるわ西にし曲輪くるわ藤原ふじわらひらめどくえのきたいらつらなるれんくるわしき構造こうぞうほん曲輪くるわ南側みなみがわみなみ曲輪くるわ西にし曲輪くるわ北側きたがわ鍛冶たんやきょくき、まもりをかためている。現在げんざい大半たいはん宅地たくちひがしきょく一部いちぶ史跡しせき公園こうえんとなったが、ほん曲輪くるわとその北側きたがわおよみなみきょく住宅じゅうたくである。西にし曲輪くるわ藤原ふじわらたいら現在げんざい小田原おだわら高校こうこうで、鍛冶たんやきょく庭球ていきゅうじょうどくえのきたいら貯水池ちょすいちおよ城山しろやま公園こうえんとなっている。往時おうじ面影おもかげはほとんどのこっていない。

そう

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はちす上院じょういん るい

小田原おだわらじょう中核ちゅうかくまるそうほりさんまるそうほりそう構堀によってさんじゅうかこわれた構造こうぞうとなっている。まるそうほり平地ひらちおよ八幡山はちまんやまかく外周がいしゅうほりつながったものである。さんまるそうほり近世きんせい城郭じょうかくさんまるほりくわえ、南側みなみがわ天神山てんじんやま丘陵きゅうりょう尾根おねはし空堀からぼり、そしてさい西端せいたん小峰こみねだい堀切ほりきりによって構成こうせいされる。小峰こみねだい堀切ほりきり中世ちゅうせい城郭じょうかく最大さいだい遺構いこうである。東側ひがしがわへとびる八幡山はちまんやま丘陵きゅうりょう天神山てんじんやま丘陵きゅうりょう谷津たにつ丘陵きゅうりょうあつまるてんにあり、かく丘陵きゅうりょう西側にしがわ山地さんち切断せつだんしている。そう構堀は上述じょうじゅつのように小田原おだわらまち全体ぜんたいをとりかこんだ、連続れんぞくした空堀からぼり水堀みずほりである。山地さんち空堀からぼり小峰こみねだい堀切ほっきりよりさらに西にし小田原おだわらじょう最高さいこうしょとなるおかねだいをとりこんでおり、ここから北西ほくせい桜馬場さくらのばば稲荷いなりもりそう構堀は比較的ひかくてきよくのこる。平地ひらち水堀みずほり消滅しょうめつ、あるいは暗渠あんきょしたが、南西なんせいはや川口かわぐち東部とうぶはちす上院じょういん近辺きんぺんかろうじてるいのこる。

歴史れきし沿革えんかく

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もとは、平安へいあん時代じだい末期まっき相模さがみこく豪族ごうぞく土肥どい一族いちぞくである小早川こばやかわとおひらた土肥どい小早川こばやかわとされる)の居館きょかんであったとされる。

鉢木はちのき物語ものがたり」にて、北条ほうじょうよりゆきから佐野さのみなもと左衛門さえもんあたえられたという物語ものがたりがある。

おうひさし23ねん1416ねん上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん禅秀ぜんしゅうかたであった土肥どい失脚しっきゃくし、駿河するがこく根拠こんきょいていた大森おおもりがこれをうばって、相模さがみこく伊豆いずこく方面ほうめん勢力せいりょくひろげた。

あかりおう4ねん1495ねん)、伊豆いずこく支配しはいしていた伊勢いせたいらながれ伊勢いせ盛時せいじ北条早雲ほうじょうそううん)がだい森藤もりとうよりゆきからうばい、きゅう構を大幅おおはば拡張かくちょうした。ただし、年代ねんだいについてはあかりおう4ねん(1495ねん)、以後いご大森おおもり依然いぜんとして城主じょうしゅであったことをしめすとされる古文書こもんじょ[3]存在そんざいしており、実際じっさい盛時せいじ小田原おだわらじょううばったのはもうすこおそくてもぶんかめ元年がんねん1501ねん))とかんがえられている[4]。ただし、盛時せいじくなるまで韮山にらやまじょう根拠こんきょとしており、小田原おだわらじょう拠点きょてんとしたのは息子むすこ伊勢いせ氏綱うじつな北条ほうじょう氏綱うじつな最初さいしょであったとされ、その時期じき氏綱うじつな家督かとくいだえいただし15ねん1518ねん)もしくは盛時せいじ死去しきょしたよくえいただし16ねん1519ねん)ののちとみられている[5]以来いらい北条ほうじょう氏政うじまさ北条ほうじょう氏直うじなお父子ふし時代じだいまで戦国せんごく大名だいみょう北条ほうじょうの5だいにわたる居城きょじょうとして、南関東みなみかんとうにおける政治せいじ的中てきちゅう心地ごこちとなった。

えいろく4ねん1561ねん)、北関東きたかんとうにおいてのち北条ほうじょう敵対てきたいする上杉うえすぎ謙信けんしん越後えちごから侵攻しんこうし、小田原おだわらじょうたたかとなる。軍記ぐんきなどでは、11まん3せんせきはちしゅういにしえせんろくより)ともいわれるだい軍勢ぐんぜい小田原おだわらじょう包囲ほうい。1かげつにわたる篭城ろうじょうせんのち上杉うえすぎぐん攻撃こうげきふせったとつたえているが、実際じっさいは10日間にちかんほどの包囲ほういであったとみられる[6]

えいろく11ねん1568ねん甲斐かいこく武田たけだ信玄しんげん駿河するが今川いまがわ領国りょうごくへの侵攻しんこう開始かいしし(駿河するが侵攻しんこう)、こう北条ほうじょうかぶとしょう同盟どうめい破棄はき越後えちご上杉うえすぎとのえつしょう同盟どうめいむす武田たけだかた対抗たいこうした。信玄しんげんはこれにたいして北関東きたかんとうくにしゅ同盟どうめい北条ほうじょう領国りょうごく圧力あつりょくくわえ、よくえいろく12ねん10月1にちから4にち1569ねん11月9にちから12にち)にかけてのち北条ほうじょう領国りょうごく侵攻しんこうし、小田原おだわらじょう包囲ほういする軍事ぐんじてき示威じい活動かつどうおこない、撤退てったいさいして追尾ついびしたのち北条ほうじょうぜい三増峠みませとうげたたかにおいて撃退げきたいした。のち北条ほうじょう武田たけだ駿河するが領有りょうゆう承認しょうにんかぶとしょう同盟どうめい回復かいふくしている経緯けいいからも、このとき小田原おだわらめは本格ほんかくてき侵攻しんこうではなく軍事ぐんじてき示威じい行為こういぎないものであったとかんがえられている。

こう北条ほうじょうによる小田原おだわらじょう改築かいちくおおきいものではすくなくても2あったとかんがえられている。最初さいしょ伊勢いせ盛時せいじ北条早雲ほうじょうそううん)が小田原おだわらじょう直後ちょくごで、ほぼどう時期じき鎌倉かまくらだい被害ひがいをもたらしただい地震じしんがあったとわれており(あかりおう地震じしん参照さんしょうのこと)、文献ぶんけんじょう記録きろくはないものの距離きょりてきちか小田原おだわら被害ひがいけた可能かのうせいがあり、戦闘せんとう地震じしんによる打撃だげき回復かいふくさせるための改築かいちくおこなわれたとられている(ただし、前述ぜんじゅつとおり、地震じしん発生はっせい当主とうしゅ大森おおもりであった可能かのうせいおよ同氏どうし改築かいちくおこなった可能かのうせい否定ひてい出来できない。また、近年きんねん研究けんきゅうすすみ、地震じしんじょうじて、または、地震じしん混乱こんらんじょうじてしろうばったとするせつている[7])。もう1えいろく9ねん1566ねん)からどう12ねん時期じき小田原おだわらじょう改築かいちくかんする文書ぶんしょ多数たすう発給はっきゅうされており、この時期じき相次あいついだ上杉うえすぎ武田たけだ侵攻しんこうそなえたものとかんがえられている。また、かぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめい時期じきのぞけば、小田原おだわらじょう西にしとなり位置いちする駿河するがこく駿東すんとうぐんこう北条ほうじょうふくめたしょ勢力せいりょくによる争奪そうだつながつづいており、こう北条ほうじょう時代じだい全体ぜんたいつうじて一番いちばん緊迫きんぱくした国境こっきょうであった駿東すんとう方面ほうめんへのさえとして小田原おだわらじょう重要じゅうようされており、関東かんとう地方ちほう大半たいはん制圧せいあつしたのちもその中央ちゅうおう本拠地ほんきょち移動いどうさせずに小田原おだわらじょう本拠ほんきょとした理由りゆうかんがえられている[8]。なお、北条ほうじょう氏康うじやす居館きょかんには会所かいしょ寝殿しんでんそなわっており、えいろく元年がんねん1558ねん)に小田原おだわらはいった古河ふるかわ公方くぼう足利あしかがよし氏康うじやすてい宿舎しゅくしゃとしていたことがられている[9]

石垣山いしがきやまいちじょうからのぞ小田原おだわらじょう

安土あづち桃山ももやま時代じだい

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天正てんしょう18ねん1590ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよし天下てんか統一とういつ仕上しあげとして隠居いんきょ北条ほうじょう氏政うじまさ当主とうしゅ氏直うじなお指揮しきする北条ほうじょう開戦かいせんし、当時とうじ北条ほうじょう台頭たいとう対抗たいこうしていた関東かんとう大名だいみょう佐竹さたけ義重よししげ宇都宮うつのみや国綱くにつならとともにすうじゅうまん大軍たいぐん小田原おだわらじょうそう攻撃こうげきした。小田原おだわら征伐せいばつ小田原おだわら合戦かっせん小田原おだわらやくなど)とばれるこのたたかいにおいて秀吉ひでよし圧倒的あっとうてき物資ぶっしをもってかこむとともに別働隊べつどうたいをもって関東かんとう各地かくち北条ほうじょうささえじょう各個かっこ撃破げきはし、篭城ろうじょうせんによっててき兵糧ひょうろう不足ふそく逆襲ぎゃくしゅうしようとした北条ほうじょう意図いとくじき、3かげつ篭城ろうじょうせんすえほとんど無血むけつ開城かいじょうさせた。この篭城ろうじょうせんにおいて、北条ほうじょうがわ和議わぎ抗戦こうせん継続けいぞくをめぐって議論ぎろんしたが一向いっこう結論けつろんなかった故事こじ小田原評定おだわらひょうじょうという言葉ことばになっている。その秀吉ひでよし国綱くにつなとともに下野げやこく宇都宮うつのみやじんうつし、さんじんした東北とうほく地方ちほうしょ大名だいみょう処遇しょぐう決定けってい秀吉ひでよし国内こくない統一とういつ事業じぎょうはこれをもって完成かんせいした(宇都宮うつのみや仕置しおき)。

そう構(だい構)の建造けんぞう時期じき

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こう北条ほうじょうえいろく12ねん(1569ねん)に武田たけだ信玄しんげん小田原おだわらじょうめられたことで未曾有みぞう小田原おだわらじょうだい改修かいしゅうはじまったといわれているが、年代ねんだい普請ふしん内容ないようについてはいまだに不明ふめい部分ぶぶんおおい。

えいろく12ねんさんまるだい普請ふしん(だい改修かいしゅう)

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このころしろ普請ふしん作業さぎょう内容ないようるいほり築造ちくぞう主体しゅたいさんまる外郭がいかく充実じゅうじつさせながら、あらたに外周がいしゅうさんまる外郭がいかく構成こうせいし、さんまる低地ていち部分ぶぶん優先ゆうせんとなり、つぎ山岳さんがく外郭がいかく築造ちくぞうした。

习歳だい普請ふしん 

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天正てんしょう6ねん(1578ねん)正月しょうがつ

普請ふしん内容ないよう

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さんまるだい普請ふしん(だい改修かいしゅう)山岳さんがくさんまる普請ふしん(新堀しんぼり)

天正てんしょう11ねん(1583ねん)~天正てんしょう12ねん(1584ねん)3がつ13にち期間きかん

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普請ふしん内容ないよう

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北条ほうじょう氏照うじてる屋敷やしき要害ようがいないれるため、寺地てらち提供ていきょうもとめ、結果けっかてき北条ほうじょう家臣かしん朝倉あさくら土地とち買収ばいしゅうしている。

いぬとしだい普請ふしん

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天正てんしょう13ねん(1585ねん)2がつ

おつとりだい普請ふしん

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天正てんしょう13ねん(1585ねん)3がつ

普請ふしん内容ないよう

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こう北条ほうじょう時代じだい小田原おだわらじょうまるさんまるともに山地さんち部分ぶぶん広大こうだいで、山城やましろ意識いしきしてしろ拡大かくだいしたとおもわれているが不明ふめいである。さんまる外郭がいかく普請ふしん翌年よくねんには天神山てんじんやま尾根おね拡張かくちょう外郭がいかく完成かんせい

としだい普請ふしん

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天正てんしょう15ねん(1587ねん)正月しょうがつ

あいだい普請ふしん

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天正てんしょう15ねん(1587ねん)5がつ

とらとしだい普請ふしん

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天正てんしょう17ねん(1589ねん)のあきから天正てんしょう18ねん(1590ねん)正月しょうがつ

普請ふしん内容ないよう

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関東かんとうささえじょうぐん普請ふしんそう構(だい構)の築造ちくぞう城下町じょうかまち農村のうそん城内じょうないれて、豊臣とよとみとの全面ぜんめん対決たいけつ意識いしきした。

江戸えど時代じだい以降いこう

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戦後せんご北条ほうじょう領土りょうど徳川とくがわ家康いえやすあたえられ、江戸城えどじょう居城きょじょうとしてえらんだ家康いえやす腹心ふくしん大久保おおくぼ忠世ただよ小田原おだわらじょういた。小田原おだわらきゅうしろ現在げんざい小田原おだわら市街地しがいち包摂ほうせつするような巨大きょだい城郭じょうかくであったが、大久保おおくぼ入部にゅうぶ時代じだい規模きぼ縮小しゅくしょうさせ、以後いご17世紀せいき中断ちゅうだんのぞいて明治めいじ時代じだいまで大久保おおくぼ居城きょじょうした。なお、天守閣てんしゅかく元禄げんろく地震じしんにより発生はっせいした火災かさい焼失しょうしつした。一方いっぽう北条ほうじょうは、一族いちぞく北条ほうじょうもり河内かわうちこく狭山さやま現在げんざい大阪おおさか大阪おおさか狭山さやま)1まんせきおさめる外様とざま大名だいみょうとして明治めいじいたっている。

きん現代げんだい

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水堀みずほり まる
  • 明治めいじ3ねん1870ねん)から明治めいじ5ねん1872ねん)にかけ、城内きうち建造けんぞうぶつはほとんどこわされ、天守てんしゅだいには大久保おおくぼ神社じんじゃてられた。
  • 1901ねん明治めいじ34ねんきゅう城内じょうない小田原おだわら御用邸ごようてい設置せっちされた。
  • 1909ねん明治めいじ42ねん唯一ゆいいつこわされなかったまるひら修築しゅうちく工事こうじおこなわれた。
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさいにより、御用邸ごようてい大破たいはし、その廃止はいしされた。現存げんそんしていたまるひら倒壊とうかい石垣いしがきだい部分ぶぶん崩壊ほうかいした。
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん)から1931ねん昭和しょうわ6ねん)にかけて上記じょうき石垣いしがきなおされている。しかし、以前いぜんよりひくんでしまったため、偉容いようそこねてしまっている。
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん震災しんさい倒壊とうかいしたまるひらすみとして復興ふっこうされたが、予算よさん関係かんけい規模きぼが2ぶんの1となっている。
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん関東大震災かんとうだいしんさい崩壊ほうかいした天守てんしゅだい整備せいび開始かいし。その小田原おだわら城址じょうし小田原おだわら城址じょうし公園こうえんとして整備せいびされる。
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん天守てんしゅだい石積いしつみ工事こうじ完成かんせい。その小田原おだわら市制しせい施行しこう20周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう天守てんしゅ復興ふっこう計画けいかくされ、現存げんそんしているきゅう天守てんしゅ模型もけいもとにし、天守てんしゅ再建さいけん工事こうじおこなわれる[10]天守てんしゅ再建さいけんされるまでのあいだ天守てんしゅだいには観覧かんらんしゃかれていた[11][12]
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん)5がつ25にち天守てんしゅ再建さいけん工事こうじ完成かんせい[10][13]。ただし、再建さいけんした天守てんしゅ鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞうによるもので、小田原おだわら当局とうきょく要望ようぼうにより天守てんしゅ最上階さいじょうかい高欄こうらんけられ、天守てんしゅ本来ほんらい姿すがた忠実ちゅうじつ再現さいげんするものではない。天守てんしゅからは太平洋たいへいよう笠懸かさかけさん石垣いしがき山城やましろがよくえる。
  • 現在げんざい小田原おだわらでは、しろ中心ちゅうしん江戸えど末期まっき姿すがた復元ふくげんすることを計画けいかくしており、天守てんしゅ復興ふっこう手始てはじめに1971ねん昭和しょうわ46ねん)には常盤木ときわぎもん(ときわぎもん)(外観がいかん復元ふくげん)、1990ねん平成へいせい2ねん)には住吉橋すみよしばし1997ねん平成へいせい9ねん)にはどうもん(あかがねもん)、2009ねん平成へいせい21ねん)には馬出まいだしもん復元ふくげんした。
  • 2006ねん平成へいせい18ねん)4がつ6にち日本にっぽん100名城めいじょう(23ばん)に選定せんていされた。
  • 2013ねん平成へいせい25ねん)2がつ天守てんしゅ木造もくぞう復元ふくげん目指めざすNPO法人ほうじん「みんなでおしろをつくるかい」が設立せつりつされた[14]
  • 2013ねん平成へいせい25ねん御用ごようまい曲輪くるわあとほりあと,北条ほうじょう時代じだいいけ庭園ていえんあと発見はっけんされた[15]
  • 2015ねん平成へいせい27ねん)7がつから2016ねん平成へいせい28ねん)3がつまで耐震たいしん工事こうじおよ屋根やねかわらかべ修復しゅうふくおこなわれたため天守てんしゅない入館にゅうかんできなくなっていた[16][17][18]
  • 2016ねん平成へいせい28ねん)5がつ1にち耐震たいしん工事こうじ修復しゅうふく終了しゅうりょうし、さい公開こうかいされた[19]
  • 2018ねん平成へいせい30ねんふゆやく38ねんぶりにほりみず全部ぜんぶ排水はいすい清掃せいそうする。この模様もようは2018ねん4がつ22にち放送ほうそうのテレビ番組ばんぐみ緊急きんきゅうSOS!いけみずぜんぶだい作戦さくせん日本にっぽんさんだいいけ”だ!小田原おだわらじょう善光寺ぜんこうじ日比谷公園ひびやこうえん』で放送ほうそうされた[20][21]

遺構いこうとう

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移築いちく建造けんぞうぶつ

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建造けんぞうぶつとしては、県内けんない中井なかいまち中井なかいまち史跡しせき文化財ぶんかざい)の民家みんかまるにあった幸田こうだもんつたわるもん現存げんそんしているが、当時とうじ部材ぶざいすこしだけしか使つかわれていないようであり、おおきさのめんでもちがいがあることから確定かくていにはいたっていない。また、市内しない民家みんかにも城門じょうもん移築いちく現存げんそんしているが、改造かいぞういちじるしくこちらも移築いちく城門じょうもん確定かくていいたっていない。

中世ちゅうせい城郭じょうかく遺構いこう

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中世ちゅうせい小田原おだわらじょう遺構いこうとしては、

  • 小峰こみねだい堀切ほりきりるい中堀なかほり
  • 八幡山はちまんやまかく ひがしかく
  • しん三ノ丸さんのまるるい
  • 稲荷いなりもりほり
  • 高校こうこうわきポケットパークのるい障子しょうじほりあと
  • 大久保おおくぼ神社じんじゃ付近ふきん残存ざんそんるい
  • かねたい曲輪くるわ付近ふきん空堀からぼりおよびるい
  • はや川口かわぐち付近ふきん重土じゅうどるい
  • 幸田こうだくちおよびはちす上院じょういん付近ふきんるい

などが、それぞれ現存げんそんする。また、遺跡いせき調査ちょうさではきゅうさんまる幸田こうだくちもんがあった付近ふきん小田原おだわらさかえまちいち丁目ちょうめ)で障子しょうじほりあと確認かくにんされている。ほりあとの1ごうほりはばやく20メートルの障子しょうじほりで、2ごうほりはばやく7メートル[22][23]

史跡しせき指定してい

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1938ねん昭和しょうわ13ねん8がつ8にち、「小田原おだわら城跡じょうせき」としてくに史跡しせき指定していされた。1959ねん昭和しょうわ34ねん)5がつ29にち一部いちぶ地域ちいき追加ついか指定していしたが、1974ねん昭和しょうわ49ねん)と1975ねん昭和しょうわ50ねん)のりょう年度ねんどにわたって小田原おだわら保存ほぞん管理かんり計画けいかく策定さくてい事業じぎょうおこなった結果けっかしゅとして外郭がいかく指定していにおいて良好りょうこう遺構いこうのこそんたしかめられたため、そのうち、こう北条ほうじょう時代じだいのものとおもわれる北東ほくとうがわ空堀からぼりと、江戸えど時代じだい絵図えずなどでられる「はや川口かわぐち関連かんれん遺構いこうかんがえられるじゅうるいについて1977ねん昭和しょうわ52ねん)5がつ4にち、さらに当該とうがい部分ぶぶん追加ついか指定していがなされた。そのもたびたび追加ついか指定していおこなわれている。[24]

史跡しせき指定してい範囲はんいは、小田原おだわら城内じょうのうち本町ほんまちさかえまち浜町はまちょう城山しろやま板橋いたばし十字じゅうじ谷津たにつ南町みなみまちにおよんでいる。

立地りっち

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所在地しょざいち

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  • 神奈川かながわけん小田原おだわら城内じょうのうち6-1

交通こうつう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 小田原おだわらじょう歴史れきし小田原おだわらじょうがいあるきガイド】”. www.scn-net.ne.jp. 2019ねん12月31にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 小田原おだわらじょう隣接りんせつきゅう商工しょうこう会館かいかん 寄贈きぞう意向いこう”. 神奈川かながわ新聞しんぶん (2022ねん9がつ14にち). 2022ねん9がつ14にち閲覧えつらん
  3. ^ あかりおう5ねん(1496ねん)7がつ24にちされたと推定すいていされている長尾ながお能景よしかげあて山内やまうち上杉うえすぎ顕定あきさだ書状しょじょうによれば、相模さがみんだ顕定あきさだぐん大森おおもり式部しきぶしょう輔・式部しきぶ大輔だいすけ扇谷おうぎや上杉うえすぎちょうあきら)・三浦みうらみちすん伊勢いせ新九郎しんくろう盛時せいじ入道にゅうどうおとうと弥次やじろうらがこめ要害ようがいとしたことがしるされている。要害ようがい具体ぐたいてき名称めいしょうかれていないものの文面ぶんめん全体ぜんたい内容ないようから小田原おだわらじょうである可能かのうせいたかく、しかもあきらおう5ねん(1496ねん)の時点じてん大森おおもり伊勢いせ北条ほうじょう)が共闘きょうとう関係かんけいであったことがられ、同年どうねん以前いぜん両氏りょうししろ小田原おだわらじょう)をうば敵対てきたい関係かんけいになかったのは確実かくじつとみられている(佐藤さとう博信ひろのぶ大森おおもりとその時代じだい」『中世ちゅうせい東国とうごく足利あしかが北条ほうじょう研究けんきゅう岩田いわた書院しょいん、2006ねん、P154-P157(はら論文ろんぶんは『小田原おだわら通史つうしへんはらふみ古代こだい中世ちゅうせい(1998ねん)に所収しょしゅう))。
  4. ^ 佐藤さとう博信ひろのぶ盛時せいじ伊豆山いずさん権現ごんげんから小田原おだわら城下じょうか所領しょりょう没収ぼっしゅうしたぶんかめ元年がんねん(1501ねん)にはすで盛時せいじ小田原おだわらじょう支配しはいしていたとして、城主じょうしゅ交替こうたいを1496ねん-1501ねんあいだ推定すいていする(前掲ぜんけい佐藤さとう論文ろんぶん、2006ねん、P157-159)。
  5. ^ 前掲ぜんけい佐藤さとう論文ろんぶんP169。
  6. ^ 東国とうごく戦国せんごく合戦かっせん市村いちむら高男たかお吉川弘文館よしかわこうぶんかん)P156、『関東かんとう戦国せんごくあきら)』千野ちのはらやすしかた(崙書房しょぼう出版しゅっぱん)P137、『北条ほうじょう氏康うじやす東国とうごく戦国せんごく世界せかい山口やまぐちひろしゆめ工房こうぼう)P91、『武田たけだ信玄しんげん平山ひらやまゆう吉川弘文館よしかわこうぶんかん)P47
  7. ^ うしけい」は津波つなみ? 小田原おだわらじょう奪取だっしゅ新説しんせつ神奈川かながわ カナロコ 2013ねん7がつ25にち
  8. ^ 池上いけがみ裕子ゆうこ戦国せんごくにおけるあい駿しゅん関係かんけい推移すいい西側にしがわ国境こっきょう問題もんだい」(初出しょしゅつ:『小田原おだわら郷土きょうど文化ぶんかかん研究けんきゅう報告ほうこく』27ごう(1991ねん)/所収しょしゅう:黒田くろだ基樹もとき 編著へんちょ『シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんかん 北条ほうじょう氏康うじやす』(戒光さち出版しゅっぱん、2018ねんISBN 978-4-86403-285-8
  9. ^ 佐々木ささき健策けんさく相模さがみ府中ふちゅう小田原おだわら構造こうぞう」(所収しょしゅう浅野あさの晴樹はるき齋藤さいとう慎一しんいち へん中世ちゅうせい東国とうごく世界せかい 3北条ほうじょう』(2008ねん高志こうし書店しょてんISBN 978-4-86215-042-4
  10. ^ a b 小田原おだわら写真しゃしんかん 小田原おだわらじょう天守閣てんしゅかく再建さいけん”. 小田原おだわら. 2018ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  11. ^ 昭和しょうわ子供こどもゆう園地えんち
  12. ^ 小田原おだわら城址じょうしの 150 ねん モダン・オダワラ・キャッスル 1868-2017」
  13. ^ 復興ふっこう天守閣てんしゅかく施工しこう松井建設まついけんせつ
  14. ^ 小田原おだわらで「みんなでおしろをつくるかい設立せつりつ市民しみんでつくる木造もくぞう天守閣てんしゅかく
  15. ^ 平成へいせい25ねん終了しゅうりょう御用ごようまい曲輪くるわ発掘はっくつ調査ちょうさしん発見はっけん!(2がつ16にち(土)見学けんがくかい開催かいさい)
  16. ^ 小田原おだわらじょう天守閣てんしゅかくが2015ねんがつから耐震たいしん工事こうじ休館きゅうかん
  17. ^ 小田原おだわらじょう天守閣てんしゅかく耐震たいしん改修かいしゅうとう検討けんとう委員いいんかい
  18. ^ 小田原おだわらじょう天守閣てんしゅかく耐震たいしん改修かいしゅう本格ほんかくスタート 外壁がいへき足場あしば /神奈川かながわ
  19. ^ 小田原おだわらじょうがリニューアル 初日しょにち入館にゅうかんりょう熊本くまもとじょう修復しゅうふく
  20. ^ テレひがしいけみず」ついに38ねんぶり小田原おだわらじょうみず”. 株式会社かぶしきがいしゃスポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ. スポーツニッポン (2018ねん3がつ10日とおか). 2018ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん
  21. ^ 緊急きんきゅうSOS!いけみずぜんぶだい作戦さくせん日本にっぽんさんだいいけ”だ!小田原おだわらじょう善光寺ぜんこうじ日比谷公園ひびやこうえん〜|いけみずぜんぶ”. テレビ東京てれびとうきょう. 2018ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  22. ^ さんまる地区ちくで「なぞほり」がふた発見はっけん 江戸えど古地こち記載きさい 毎日新聞まいにちしんぶん 2012ねん1がつ25にち
  23. ^ 小田原おだわらじょうなぞほりつかる、場内じょうないの「縄張なわばり」解明かいめいする手掛てがかりか/小田原おだわら カナロコ 2012ねん1がつ26にち
  24. ^ 史跡しせき小田原おだわら城跡じょうせき八幡山はちまんやまくるわそう保存ほぞん管理かんり計画けいかく策定さくてい報告ほうこくしょ小田原おだわら教育きょういく委員いいんかい、2010)、p.20

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小田原おだわらじょう天守閣てんしゅかく編集へんしゅう発行はっこう小田原おだわらじょう天守閣てんしゅかく展示てんじ案内あんない』 2016ねん10がつ31にち
  • 小田原おだわら編集へんしゅう発行はっこう小田原おだわら べつへん 城郭じょうかく平成へいせい7ねん10がつ15にち

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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