(Translated by https://www.hiragana.jp/)
明石城 - Wikipedia コンテンツにスキップ

明石あかししろ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
明石あかししろ
兵庫ひょうごけん
坤櫓(左)と巽櫓(右)
ひつじさるひだり)とたつみみぎ
別名べつめい 春城しゅんじょう錦江きんこうじょう
城郭じょうかく構造こうぞう れんかくはしごかく混合こんごうしき平山ひらやましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし(天守てんしゅだいはあり)
築城ちくじょうぬし 小笠原おがさわら忠真ただざね
築城ちくじょうねん 1618ねん元和がんわ4ねん
おも改修かいしゅうしゃ 松平まつだいらただしつね
おも城主じょうしゅ 松平まつだいら越前えちぜんけい
はいじょうねん 1874ねん明治めいじ7ねん
遺構いこう 石垣いしがきほり移築いちくもん
指定してい文化財ぶんかざい くに重要じゅうよう文化財ぶんかざいたつみひつじさる)、くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ へい
位置いち 北緯ほくい3439ふん10.07びょう 東経とうけい13459ふん30.47びょう / 北緯ほくい34.6527972 東経とうけい134.9917972 / 34.6527972; 134.9917972座標ざひょう: 北緯ほくい3439ふん10.07びょう 東経とうけい13459ふん30.47びょう / 北緯ほくい34.6527972 東経とうけい134.9917972 / 34.6527972; 134.9917972
地図ちず
明石城の位置(兵庫県内)
明石城
明石あかししろ
テンプレートを表示ひょうじ
しろ天守てんしゅだい

明石あかししろ(あかしじょう)は、兵庫ひょうごけん明石あかし明石公園あかしこうえんにあった日本にっぽんしろきゅう明石あかしはん政庁せいちょう藩主はんしゅ居所きょしょかれた。別名べつめい春城しゅんじょう(きはるじょう、きしゅん-)、錦江きんこうじょう(きんこうじょう)ともばれる。

概要がいよう[ソースを編集へんしゅう]

JR明石あかしえき北側きたがわ位置いちし、えきホームより間近まぢかのぞめる。縄張なわばりはれんかくはしごかく混合こんごうしき平山ひらやましろである。丘陵きゅうりょう舌端ぜったんきずかれ、本丸ほんまる付近ふきん柿本人麻呂かきのもとのひとまろまつった人丸ひとまるづかがあったとわれており、この嘉吉よしきちらん激戦げきせんとなった。

明石あかしは、山陽さんようどうとおり、きたには丹波たんばこく但馬たじまこくへのみちかれ、淡路島あわじしま四国しこくのルートがあり、古来こらいより交通こうつう要衝ようしょうであった。徳川とくがわ幕府ばくふ西国さいこく外様とざま大名だいみょうおさえのしろとして、姫路城ひめじじょうについで着目ちゃくもくした。

現在げんざい中堀なかほり内側うちがわ兵庫ひょうご県立けんりつ明石公園あかしこうえんとして整備せいびされ、日本にっぽんさくら名所めいしょ100せん指定していされている。石垣いしがき1995ねん平成へいせい7ねん)の阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい被害ひがいけたが全面ぜんめん修復しゅうふくされた。

沿革えんかく[ソースを編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[ソースを編集へんしゅう]

1617ねん元和がんわ3ねん信濃しなの松本まつもとはんおもより明石あかし藩主はんしゅとなった小笠原おがさわら忠真ただざねは、明石あかしじょう西方せいほう明石川あかしがわ河口かこう西岸せいがんにあった船上せんじょうじょう入城にゅうじょうした。譜代ふだい大名だいみょうたる小笠原おがさわら10まんせき居城きょじょうとして城郭じょうかく建設けんせつするよう、同年どうねんだい2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただより築城ちくじょう命令めいれいされた。このとき様子ようすを『本田ほんだ』によると、

元和がんわろくねんうまはる明石あかし新城しんじょうきずけさるむね上意じょういニ而本美濃みのまもる殿どの右近うこんさま相談そうだん地形ちけい見立みたて言上ごんじょうなりとのニ而美濃みのまもる明石あかし両度りょうど御方おかた見分けんぶんしお見分けんぶん塩屋しおやあずかさるしょはますこ入江いりえゆういちしょまた明石あかしより西にしかまかさかあずかさるしょたかおかあるにいちしょまた明石あかし人丸ひとまるさんいちしょ見立みたてゆう相談そうだん上人しょうにん丸山まるやまごく — 本田ほんだ小笠原おがさわら文庫ぶんこぞう
船上せんじょうじょうからの移築いちくとされるたつみ
伏見ふしみじょうからの移築いちくとされるひつじさる
航路こうろほん絵図えずひだり上部じょうぶ明石あかしじょうえがかれている)/神戸こうべ市立しりつ博物館はくぶつかんぞう

しるされている。この文中ぶんちゅうにある「元和がんわろくねん」とは「元和がんわよんねん」の誤記ごきではないかとおもわれ、「本多ほんだ美濃みのまもる殿どの」とは当時とうじ姫路城ひめじじょう城主じょうしゅであった本多ほんだ忠政ただまさことである。この『本田ほんだ』によると、徳川とくがわ秀忠ひでただより築城ちくじょう命令めいれいがあり、本多ほんだ忠政ただまさ小笠原おがさわら忠真ただざね相談そうだんしながら(忠政ただまさ忠真ただざね義父ぎふにあたる)、築城ちくじょうからまちりまでった。当初とうしょ検討けんとうされたさんヵ所かしょ塩屋しおやまち現在げんざい神戸こうべ垂水たるみ塩屋しおやまち周辺しゅうへん)、かにがさか現在げんざい明石あかし和坂かにがさか周辺しゅうへん)と人丸ひとまるさん赤松山あかまつやま)が検討けんとうされたが、人丸ひとまるさんにはおおきないけがありじょう防備ぼうび役立やくだつとして人丸ひとまるさんさだまった。徳川とくがわ秀忠ひでただ旗本はたもと都筑つづき為政いせい村上むらかみ吉正よしまさ建部たけべ政長まさながらを普請ふしん奉行ぶぎょうとして派遣はけんし、築城ちくじょうとしてぎんいちせんぬき支給しきゅうした。

人丸ひとまるさん利用りようし、三木みきしろ高砂たかさごじょう枝吉えだよししろ船上せんじょうじょう木材もくざい使用しよう着工ちゃっこうされ、ひつじさる伏見ふしみじょうたつみ船上せんじょうじょうのこざい使用しようされたとつたえられている。また細川ほそかわ忠興ただおき書状しょじょうには、忠興ただこうから忠真ただざね中津なかつじょう天守てんしゅおくったとあり、この部材ぶざい転用てんようされた。元和がんわ5ねん1619ねん正月しょうがつから作事さくじはじまり、元和がんわ6ねん1620ねん正月しょうがつには小笠原おがさわら忠真ただざね船上せんじょうじょうからうつみ、同年どうねん6がつから城内きうち建物たてもの関係かんけい工事こうじ開始かいしされた。このとき天守てんしゅたいせきまでまれたが、てられなかった。

築城ちくじょう並行へいこうして城下町じょうかまちまちりも実施じっしされ、当時とうじ小笠原おがさわら忠真ただざね客分きゃくぶんだった宮本みやもと武蔵むさし指導しどうしたと『赤石あかいしちゅう』『播磨はりまあきら』『播州ばんしゅう明石あかし記録きろく』『小笠原おがさわら忠真ただざねいちだい覚書おぼえがき』などかく史書ししょ記録きろくされている。

歴代れきだい城主じょうしゅ[ソースを編集へんしゅう]

徳川とくがわ秀忠ひでただぞう松平まつだいら西福寺さいふくじぞう

苦心くしんして明石あかしじょう築城ちくじょうした小笠原おがさわら忠真ただざねは、1632ねん寛永かんえい9ねん豊前ぶぜん小倉こくらはん小倉こくらじょう)にてんふうとなった。よく1633ねん寛永かんえい10ねん信濃しなの松本まつもとはんより 松平まつだいらいさおただし戸田とだ)が7まんせき入城にゅうじょうしたが、急死きゅうししたため松平まつだいら光重みつしげ城主じょうしゅとなった。しかしその松平まつだいら光重みつしげ1639ねん寛永かんえい16ねん) が美濃みの加納かのうはん加納かのうしろ)にてんふうとなると、大久保おおくぼただししょくが7まんせき入城にゅうじょうしたが、1649ねん慶安けいあん2ねん)のわずか10年間ねんかん肥前ひぜん唐津からつはん唐津からつじょう)にてんふうする。

その丹波たんば篠山しのやまはんより松平まつだいら忠国ただくにが7まんせき入城にゅうじょう、その松平まつだいら信之のぶゆきとも名君めいくんとしてられ、林崎はやしざき掘割ほりわり用水路ようすいろ一里塚いちりづか設置せっち海岸かいがん防風ぼうふうりん造成ぞうせい、そしておおくの新田にった開発かいはつつとめた。文化ぶんかじんでもあったらしく城内じょうないじゅうけいえらんでこのときに「春城しゅんじょう」のけた。しかしその松平まつだいら信之のぶゆきも、1679ねんのべたから7ねん大和やまと郡山こおりやまはんぐん山城やましろ (大和やまとこく))にてんふうとなると、わりに郡山こおりやまじょうにいた本多ほんだ政利まさとしが6まんせき入城にゅうじょうする。しかし、領内りょうないおさめることができず1682ねん天和てんわ2ねんわずか3ねん苛政かせいめられ陸奥みちのく岩瀬いわせはんに1まんせきげんてんふうとなり、その改易かいえきになった。わずか50ねんあいだ城主じょうしゅまぐるしくわったが、本多ほんだうたてふうのち越前えちぜん松平まつだいら直明なおあきが6まんせき入城にゅうじょうし、以後いご明治維新めいじいしんまで10代、189年間ねんかん親藩しんぱんとして松平まつだいら居城きょじょうとなった。かくしろのこざいあつめて築城ちくじょうしたせいか、老朽ろうきゅうはやだい2だい藩主はんしゅ松平まつだいらただしつね1739ねんもとぶん4ねん)にはだい修築しゅうちくおこなわれた。最後さいご明石あかし城主じょうしゅ松平まつだいらただしで、1874ねん明治めいじ7ねんはいじょうれいによりはいじょうとなる。

17だいにわたる歴代れきだい城主じょうしゅは、下記かきテンプレートの戸田とだ松平まつへい明石あかしはん初代はつよ藩主はんしゅ (1633-1634)」参照さんしょう

きん現代げんだい[ソースを編集へんしゅう]

  • 1881ねん明治めいじ14ねん) - 神戸こうべ相生あいおい小学校しょうがっこう現在げんざい湊川みなとがわ小学校しょうがっこう)の建築けんちく用材ようざいとするため、北東ほくとううしとら解体かいたいされた。
  • 1883ねん明治めいじ16ねん) - 明石あかし町内ちょうない有志ゆうしにより整備せいびされ明石公園あかしこうえんとなる。
  • 1898ねん明治めいじ31ねん) - 皇室こうしつ御料地ごりょうちとなる。
  • 1901ねん明治めいじ34ねん) - たつみひつじさる修理しゅうりおこなわれ、北西ほくせいいぬい解体かいたいされた。またいたんでいた本丸ほんまるまる本丸ほんまる土塀どべいこわされた。
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん4がつ15にち - 兵庫ひょうごけん御料地ごりょうち県立けんりつ明石公園あかしこうえんとして開園かいえんした。
  • 1995ねん平成へいせい7ねん1がつ17にち - 阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさいにより石垣いしがきくずれるなどのおおきな被害ひがいける[1]
  • 1999ねん平成へいせい11ねんやく5ねんおよ修復しゅうふく工事こうじ完了かんりょう。2むね曳家移動いどうさせ土台どだい石垣いしがき修復しゅうふくもと位置いちもどす。もどしたのちじくぐみ補正ほせいかべ屋根やね修復しゅうふくおこなった。同時どうじたつみひつじさるつなへい復元ふくげんされた。
  • 2003ねん平成へいせい15ねんさんまるに「武蔵むさし庭園ていえん」を整備せいび一般いっぱん公開こうかい[2][3]
  • 2006ねん平成へいせい18ねん4がつ6にち - 日本にっぽん100名城めいじょう(58ばん)に選定せんていされた。
  • 2014ねん平成へいせい26ねん10月8にちから10月13にちまで「明石あかしじょうイルミネーションプロジェクト〜夜空よぞらかぶひかり天守閣てんしゅかく」がおこなわれた[4][5]
  • 2018ねん平成へいせい30ねん5月9にち NHK「歴史れきし秘話ひわヒストリア309かいしろくにニッポンをつくったおとこ 伝説でんせつ棟梁とうりょう 中井なかいただしきよし」にて、江戸えど時代じだい初期しょき大工だいくあたま中井なかいただしきよし考案こうあん建築けんちくほう(統一とういつ規格きかく導入どうにゅう)をあらわとして紹介しょうかいされた。
  • 2019ねん平成へいせい31ねん):築城ちくじょう400ねんむかえるにあたりへい漆喰しっくいなおし、樹木じゅもく伐採ばっさいおこなわれた[6]

城郭じょうかく[ソースを編集へんしゅう]

本丸ほんまる中心ちゅうしんはいし、東側ひがしがわまる、そのひがしひがしまるはいされ、南側みなみがわさんまる西側にしがわには稲荷いなりかくもうけられた。本丸ほんまるまるひがしまる明石あかしじょうしゅかく部分ぶぶんで、この部分ぶぶん石垣いしがきるいほりなどの作事さくじ徳川とくがわ幕府ばくふ担当たんとうし、さんまる町屋まちやかんしては、小笠原おがさわら徳川とくがわ幕府ばくふ共同きょうどう事業じぎょうとしてすすめられた。

天守てんしゅいが本丸ほんまる四隅よすみ三重みえ4もうけられていた

もん[ソースを編集へんしゅう]

本丸ほんまる ひがしまる まる 稲荷いなり曲輪くるわ おび曲輪くるわ きた曲輪くるわ 山里やまざと曲輪くるわ さんまる 屋敷やしき曲輪くるわ けい
三重みえ 4 なし なし なし なし なし なし なし なし 4
じゅう なし 1 2 2  1 なし なし なし なし 6
ひら なし なし なし なし なし 3 1 6 なし 10
もん 2箇所かしょ 2箇所かしょ 2箇所かしょ 3箇所かしょ 4箇所かしょ 2箇所かしょ 2箇所かしょ 5箇所かしょ 6箇所かしょ 27箇所かしょ
  • 合計ごうけい:20
  • もん合計ごうけい:27むね

本丸ほんまる西南せいなん天守てんしゅだいひろさはやく152つぼがある。ひろさから推察すいさつすると5じゅう規模きぼ相当そうとう天守てんしゅきずかれる予定よていだったが、天守てんしゅ建設けんせつされず、四隅よすみたつみひつじさるいぬいうしとら建設けんせつされた。『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』によると「ひつじさる天守てんしゅ代用だいようとなっている」とされている。4のうち南側みなみがわの2むね、すなわちたつみ(たつみやぐら、南東なんとうがわ)、ひつじさる(ひつじさるやぐら、南西なんせいがわ)が現存げんそんこく重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。たつみひつじさるむね破風はふ)の方向ほうこうことなっている。西側にしがわ明石川あかしがわ自然しぜん外堀そとぼりとし、南側みなみがわ運河うんがってみなとねた外堀そとぼり現在げんざい明石あかしこう)とした。北側きたがわおおとりいけつよしいけ)と自然しぜんりんたにすじ防備ぼうびかためた。

ひつじさる

桁行けたゆき6あいだ梁間はりま5あいだたかさ7あいだ2しゃく9すん入母屋いりもやづくりつま南北なんぼくく。昭和しょうわ57ねん改修かいしゅう工事こうじしろから移築いちくされたとかった。

たつみ

桁行けたゆき5あいだ梁間はりま4あいだたかさ7あいだ1すん入母屋いりもやづくりつま東西とうざいく。

居館きょかん[ソースを編集へんしゅう]

藩主はんしゅ居館きょかん本丸ほんまるにあり3かいての立派りっぱ建物たてもので、部屋へやには名前なまえ画風がふうから長谷川はせがわ等伯とうはく弟子でしかんがえられる長谷川はせがわひとしひとしになる、ふすま花鳥かちょう山水さんすい」がかざられていた。現存げんそんするのは、晩冬ばんとうからはる前兆ぜんちょうえがいたきょく屏風びょうぶろくせきぜん12めんだが、本来ほんらいなつからあきにかけての花鳥かちょう山水さんすいたい存在そんざいし、四季しき花鳥かちょう構成こうせいしていたものと推定すいていされる。この居館きょかん1631ねん寛永かんえい8ねん)に失火しっか焼失しょうしつしてしまったが、ふすま一部いちぶ遺物いぶつとしてのこり、大坂おおさか蔵屋敷くらやしきはこされて幕末ばくまつまでつたえられた。このときまではろくきょく一双いっそう屏風びょうぶだったが、明治めいじになって12ぶく掛軸かけじく[7]、さらに現状げんじょうおなじように改装かいそうされた。その1959ねん昭和しょうわ34ねん)にみぎから2番目ばんめから4番目ばんめたるさんせきりにされ、2,3番目ばんめアメリカひと、4番目ばんめフランスひと外交がいこうかんわたった。その3ねんフリーア美術館びじゅつかんのこさんせき[注釈ちゅうしゃく 1]入手にゅうしゅした。1996ねん平成へいせい8ねんサザビーズアメリカひとから電話でんわがあり、これをけてサザビーズがフランスにあるものめて、さんせきそろってオークションにかけられた。これが日本人にっぽんじんコレクターとされて里帰さとがえりし、現在げんざい愛媛えひめけん美術館びじゅつかん寄託きたくされている[8][9]

庭園ていえん[ソースを編集へんしゅう]

現在げんざい陸上りくじょう競技きょうぎじょうがある区域くいき宮本みやもと武蔵むさし設計せっけいした「樹木じゅもく屋敷やしき」があった[10]

播磨はりま国明くにあき石城せきじょう絵図えず国立こくりつ公文書こうぶんしょかん内閣ないかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう
明石あかししろ推定すいてい 国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

文化財ぶんかざい[ソースを編集へんしゅう]

  • 重要じゅうよう文化財ぶんかざい
    • 1957ねん昭和しょうわ32ねん)6がつ18にちたつみひつじさるくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい
  • 史跡しせき
    • 2004ねん平成へいせい16ねん)9がつ30にち城跡じょうせきくに史跡しせき指定してい

周辺しゅうへん情報じょうほう[ソースを編集へんしゅう]

  • 織田おだ長屋門ながやもん元船もとふな上城かみしろ長屋門ながやもん明石あかし指定してい文化財ぶんかざい家老がろうしょく織田おだ一族いちぞく末裔まつえいである。尾張おわりはん家老がろう一族いちぞく一族いちぞくには天童てんどう柏原かしわばらはん藩主はんしゅや(高家こうか旗本はたもとつとめたものもいる。また、一部いちぶには一族いちぞくながら家来けらいすじになり津田つだせい名乗なのったものもいる。
  • つき照寺しょうじ山門さんもん伏見ふしみじょうはいじょう伏見ふしみじょうやくもん明石あかしじょう切手きってもんとして移築いちく、さらに明治めいじはいじょうつき照寺しょうじ移築いちく明石あかし指定してい文化財ぶんかざい

見学けんがく交通こうつう[ソースを編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ Freer and Sackler Galleries : Birds in Landscape 123 Smithsonian Institution

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ 明石あかししろ
  2. ^ 明石あかしじょう武蔵むさし庭園ていえん」の開園かいえんについて
  3. ^ 田村たむらひろずみ大阪おおさか文化ぶんか担当たんとう) (2015ねん5がつ8にち). 剣豪けんごうさくにわでもあじ武蔵むさし庭園ていえん」(回廊かいろう) : 兵庫ひょうごけん明石あかし. オリジナルの2015ねん9がつ6にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.is/20150906041453/http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC24HAU_U5A420C1960E00/ 
  4. ^ 新開しんかい真理まり (2014ねん9がつ25にち). ““まぼろし”の天守閣てんしゅかくでんかざりいろどろう 明石公園あかしこうえんで10がつもよおし”. オリジナルの2014ねん10がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141015075556/http://www.kobe-np.co.jp/news/akashi/201409/0007361183.shtml 
  5. ^ ひかり天守閣てんしゅかく目見めみ兵庫ひょうご明石あかしじょう. (2014ねん10がつ8にち). オリジナルの2014ねん10がつ9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.is/20141009112701/http://www.sankei.com/photo/daily/news/141008/dly1410080028-n1.html 
  6. ^ 明石あかしじょう石垣いしがきくっきり 築城ちくじょう400ねん樹木じゅもく伐採ばっさい
  7. ^ フリーア美術館びじゅつかん所蔵しょぞうの「花鳥かちょう山水さんすい屏風びょうぶのうち、全体ぜんたいのなかでもっと右側みぎがわたる屏風びょうぶ裏側うらがわ張付はりつけられた、平井ひらいあつし麿まろによるけより。
  8. ^ 原田はらだ平作へいさく徳井とくいひろし日本にっぽん美術びじゅつ里帰さとがえりコレクション」『美術びじゅつフォーラム21』だい2ごう所収しょしゅう醍醐だいご書房しょぼう、2000ねん5がつISBN 978-4-925185-07-3
  9. ^ 明石あかしじょうふすまべい収蔵しゅうぞう 築城ちくじょう400ねん往時おうじ姿すがたいまも 御殿ごてんいろどった12めん焼失しょうしつまぬかれる
  10. ^ 明石あかしじょう 武蔵むさし庭園ていえん

参考さんこう文献ぶんけん[ソースを編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけいだい12かん 大阪おおさか兵庫ひょうご新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1981ねん3がつ、418-421ぺーじ
  • 朽木くちき史郎しろう/橘川きつかわ真一しんいち編著へんちょ『ひょうごのじょう紀行のりゆきじょう神戸こうべ新聞しんぶん総合そうごう出版しゅっぱんセンター、1998ねん4がつ、68-74ぺーじ
  • "郷土きょうどしろものがたり"ひがし地区ちく編集へんしゅう委員いいんかい郷土きょうどしろものがたり』ひがし播編、兵庫ひょうごけん学校がっこう厚生会こうせいかい、1973ねん2がつ、8-30ぺーじ
  • 森口もりぐちただし兵庫ひょうごけんじゅうはちはん-近世きんせいしろ陣屋じんや-』中外ちゅうがい書房しょぼう、1977ねん2がつ、18-25ぺーじ
  • 黒田くろだ義隆よしたか/編著へんちょ明石あかしはんりゃく明石あかしまもるかい1981ねん、8-13ぺーじ

関連かんれん項目こうもく[ソースを編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[ソースを編集へんしゅう]