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建部たけべ政長まさなが

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建部たけべ政長まさなが
建部たけべ政長まさながぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 慶長けいちょう8ねん1603ねん
死没しぼつ 寛文ひろふみ12ねん4がつ18にち1672ねん5月15にち
改名かいめい 三十郎さんじゅうろう政長まさなが
別名べつめい 内匠たくみ通称つうしょう
墓所はかしょ 京都きょうときた紫野むらさきの大徳寺だいとくじ芳春よしはるいん
官位かんい したがえ丹波たんばまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ秀忠ひでただ家光いえみつ家綱いえつな
はん 摂津せっつ尼崎あまがさきはんおも播磨はりま林田はやしだはんあるじ
氏族しぞく 建部たけべ
父母ちちはは ちち建部たけべ光重みつしげはは池田いけだ輝政てるまさ養女ようじょ
兄弟きょうだい 有馬ありま吉政よしまさ重政しげまさ政長まさなが光延みつのぶ
つま 正室せいしつ酒井さかい忠勝ただかつ長女ちょうじょ
政勝まさかつ政明まさあきせいただしせい藤掛ふじかけえいしゅん正室せいしつ小堀こぼり正之まさゆき正室せいしつ松平まつだいら康紀やすのり正室せいしつ高木たかぎ正次まさつぐしつ川合かわい宗賀そうがしつ大嶋おおしまよしちか正室せいしつ人見ひとみむべさとしつ
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建部たけべ 政長まさなが(たけべ まさなが)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう摂津せっつこく尼崎あまがさきはんおも播磨はりまこく林田はやしだはん初代しょだい藩主はんしゅ官位かんいしたがえ丹波たんばまもる

略歴りゃくれき

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建部たけべ光重みつしげ三男さんなんとして誕生たんじょうした。幼名ようみょうさんじゅうろう通称つうしょう内匠たくみ

慶長けいちょう15ねん1610ねん)、豊臣とよとみ政権せいけんした尼崎あまがさき郡代ぐんだい700せきであったちち死去しきょにより家督かとくぐ。慶長けいちょう19ねん1614ねん)からの大坂おおさかじんにおいては、池田いけだ利隆としたかちゅうままし兄弟きょうだい幕下まくした戦功せんこうげ、元和がんわ元年がんねん1615ねん)7がつ21にち伯父おじ池田いけだ重利しげとしとも摂津せっつ川辺かわべぐん西成にしなりぐん尼崎あまがさきはん1まんせきあたえられ大名だいみょうてられた。元和がんわ3ねん1617ねん)9がつ11にち宗主そうしゅである姫路ひめじはんあるじ池田いけだてんふうにより播磨はりま林田はやしだうつりふうとなる。

元和がんわ4ねん1618ねん)、明石あかししろ普請ふしん手伝てつだえ元和がんわ5ねん1619ねん)の福島ふくしま正則まさのり改易かいえきしろり、寛永かんえい17ねん1640ねん)の池田いけだあきらきよし改易かいえきしろりをつとめた。藩政はんせいでは、林田川はやしたがわ治水ちすい工事こうじ民政みんせいなどに尽力じんりょくした。寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん)12月28にち丹波たんばまもる叙任じょにんする。

寛文ひろふみ7ねん1667ねん)8がつ28にち家督かとく三男さんなん政明まさあきゆずって隠居いんきょし、寛文ひろふみ12ねん1672ねん)4がつ18にちに70さい死去しきょした。墓所はかしょ京都きょうときた紫野むらさきの大徳寺だいとくじ芳春よしはるいん

系譜けいふ

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