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池田いけだ利隆としたか

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池田いけだ 利隆としたか
池田いけだ利隆としたかぞう林原はやしばら美術館びじゅつかんくら
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天正てんしょう12ねん9月7にち1584ねん10がつ10日とおか
死没しぼつ 元和がんわ2ねん6月13にち1616ねん7がつ26にち
改名かいめい 新蔵しんくら幼名ようみょう)、利隆としたか
別名べつめい てるじきせんたかしげんたかし
戒名かいみょう 興国こうこくいん殿どのしゅんだけそうすぐるだい居士こじ
墓所はかしょ 京都きょうと京都きょうと右京うきょう花園妙心寺はなぞのみょうしんじまち妙心寺みょうしんじ護国ごこくいん
岡山おかやまけん備前びぜん吉永よしながまち和意谷わいだに和意谷わいだに池田いけだ墓所はかしょ
兵庫ひょうごけん姫路ひめじ山野井やまのい国清寺こくせいじ
官位かんい したがえよん侍従じじゅうみぎ衛門えもんとく武蔵むさしもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ秀忠ひでただ
はん 播磨はりまこく姫路ひめじはん藩主はんしゅ
氏族しぞく 池田いけだ利隆としたかりゅう
父母ちちはは ちち池田いけだ輝政てるまさはは糸子いとこ中川なかがわ清秀きよひでむすめ
義母ぎぼ徳川とくがわ家康いえやすむすめとくひめ    
兄弟きょうだい 利隆としたかせいとらてるだか利政としまさ茶々ちゃちゃひめちゅうままし忠雄ただおてるきよし政綱せいこうこうかちいんてるきょう
つま 正室せいしつ鶴子つるこ徳川とくがわ秀忠ひでただ養女ようじょ
光政みつまさつねもと女子じょしせいさだ長姫おさひめ
養女ようじょ能勢のせよりゆきたかししつ
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和意谷わいだに池田いけだ墓所はかしょのおやま池田いけだ利隆としたか夫妻ふさい墓所はかしょひだり利隆としたかはか

池田いけだ 利隆としたか(いけだ としたか)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう播磨はりまこく姫路ひめじはんだい2だい藩主はんしゅ岡山おかやまはん池田いけだ宗家そうけ2だい

生涯しょうがい

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天正てんしょう12ねん1584ねん9月7にち池田いけだ輝政てるまさ長男ちょうなんとして美濃みのこく岐阜ぎふまれる。ははは、中川なかがわ清秀きよひでむすめ糸子いとこ[1]はは糸子いとこは、産後さんご病気びょうき保養ほようのため実家じっかかえり、池田いけだにはもどらないまま、元和がんわ元年がんねん1615ねん)、豊後ぶんごこくおかしろ死去しきょした[1]

羽柴はしばあたえられてしょうした[2]

慶長けいちょう5ねん1600ねん)、ちち輝政てるまさとともに上杉うえすぎ景勝かげかつ征伐せいばつ出陣しゅつじん[3]。つづく関ヶ原せきがはらたたかちちとともにひがしぐんかた参戦さんせんする。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)2がつ異母弟いぼていちゅうままし備前びぜんこく岡山おかやまはん藩主はんしゅにんじられると、幼年ようねんちゅうままし[ちゅう 1]わって執政しっせい代行だいこうとして3がつ岡山おかやまじょうはいった。利隆としたか岡山おかやま実質じっしつてき領主りょうしゅとして藩政はんせい担当たんとうし、慶長けいちょう9ねん1604ねん)には慶長けいちょう検地けんちばれる領内りょうない検地けんち実施じっしした[ちゅう 2]。またへいのう分離ぶんりおこない、ぜん岡山おかやま領主りょうしゅであった宇喜多うきた秀家ひでいえ小早川こばやかわ秀秋ひであきらの夫役ぶやく廃止はいしなど、江戸えどにおける近代きんだいてき体制たいせい確立かくりつした。

慶長けいちょう10ねん1605ねん)、したがえよん侍従じじゅう叙任じょにんされ、みぎ衛門えもんとく兼任けんにんした(このときは豊臣とよとみせい[4]同年どうねん徳川とくがわ秀忠ひでただ養女ようじょつるひめ榊原さかきばら康政やすまさむすめ)を正室せいしつむかえて幕府ばくふとの関係かんけいふかめた。慶長けいちょう12ねん1607ねん)6がつ2にち武蔵むさしもり転任てんにんして松平まつだいらせいたまわ松平まつだいら武蔵むさしもり利隆としたか名乗なのった[5]慶長けいちょう18ねん1613ねん)1がつちち輝政てるまさ死去しきょしたため、6がつ家督かとくいだ。そのさいちち輝政てるまさ後室こうしつ義母ぎぼ正院しょういん化粧けしょうりょうである西にし播磨はりまさんぐん宍粟しさわぐん佐用さようぐん赤穂あこうぐん)10まんせきおとうとちゅうつぎ分与ぶんよし、姫路ひめじはん所領しょりょうは42まんせきとなった。

慶長けいちょう19ねん1614ねん)からの大坂おおさかじんでは徳川とくがわかたくみし、大坂おおさかふゆじん緒戦しょせん尼崎あまがさき合戦かっせん参加さんかした[ちゅう 3]池田いけだ家臣かしん従兄弟いとこにあたる池田いけだ重利しげとし尼崎あまがさき代官だいかんとして尼崎あまがさきじょうまもりをかためたことから、戦後せんご1まんせきたまわって大名だいみょうとなった[6]

元和がんわ2ねん1616ねん)6がつ13にち義弟ぎていにあたる京極きょうごく高広たかひろ京都きょうと四条しじょう屋敷やしき病死びょうしした。享年きょうねん33。墓所はかしょ京都きょうと妙心寺みょうしんじ護国ごこくいん岡山おかやまけん和意谷わいだに池田いけだ墓所はかしょ兵庫ひょうごけん姫路ひめじ山野井やまのい国清寺こくせいじ家督かとく長男ちょうなん光政みつまさいだ。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このときちゅうつぎは5さいだった。
  2. ^ この慶長けいちょう検地けんちわたしとく小作こさくりょう)が否定ひていされて江戸えど時代じだい近代きんだいてきほん百姓ひゃくしょう体制たいせい整備せいびされた。
  3. ^ この尼崎あまがさき合戦かっせんで、片桐かたぎり且元への助勢じょせい消極しょうきょくてきだったために家康いえやすいかりをまねいたが、利隆としたか要衝ようしょう尼崎あまがさき堅守けんしゅするためだったとして懸命けんめい弁明べんめいしてこときをた(『うめれいすい』)。
  4. ^ 実名じつめい鳥取とっとりせい栄山さかえやまみょうようてら所蔵しょぞう肖像しょうぞうによる。
  5. ^ はは継母けいぼであるとくひめ。『いん年表ねんぴょう』では許嫁いいなずけとされているが、史料しりょうではみられない。慶長けいちょう7ねん(1602ねんぼつ

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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