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酒井さかいただし

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酒井さかい ただし
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文政ぶんせい10ねん6月19にち1827ねん7がつ12にち[1]
死没しぼつ 明治めいじ28ねん1895ねん11月30にち
別名べつめい かんかいよし通称つうしょう
墓所はかしょ 東京とうきょう豊島としま駒込こまごめ染井そめい霊園れいえん
官位かんい したがえしたしたがえよんした侍従じじゅう雅楽ががくあたま
ひだり近衛このえけん少将しょうしょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ老中ろうじゅう大老たいろう
主君しゅくん 徳川とくがわ家茂いえもち慶喜よしのぶ
はん 播磨はりま姫路ひめじはんあるじ
氏族しぞく 酒井さかい雅楽ががくあたま分家ぶんけ旗本はたもと雅楽ががくあたま宗家そうけ雅楽ががくあたま分家ぶんけ男爵だんしゃく
父母ちちはは ちち酒井さかいただし誨、ははしょう
養父ようふ酒井さかい忠顕ただあき
兄弟きょうだい ちゅう忠恕ただひろちゅうあつし
つま 本多ほんだじょけんむすめ
忠弘ただひろ男爵だんしゃく後嗣こうし)、光徳みつのり徳行とっこう玉子たまご本荘ほんじょう宗義むねよし正室せいしつ)、鈴子すずこ平野ひらのちょうさちしつ
養子ようし忠敬ちゅうけいちゅうあつし雅楽ががくあたま後嗣こうし
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酒井さかい ただし(さかい ただしげ)は、江戸えど時代じだい末期まっき大名だいみょう明治めいじ時代じだい日本にっぽん華族かぞく男爵だんしゃく)。

雅楽ががくあたまけい酒井さかい21代目だいめ当主とうしゅで、幕末ばくまつ播磨はりま姫路ひめじはんだい8だい藩主はんしゅとなり、江戸えど幕府ばくふ最後さいご大老たいろうつとめた。慶応けいおう3ねん(1867ねん)におとうとちゅうあつし家督かとくゆずり、明治めいじ13ねん(1880ねん)に姫路ひめじ酒井さかいからちゅうあつしとそれぞれに分家ぶんけ明治めいじ22ねん(1889ねん)にそろって華族かぞく男爵だんしゃくれっせられた[2]

来歴らいれき

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姫路ひめじはん分家ぶんけ旗本はたもと酒井さかいただし(5000せき)の長男ちょうなんとしてまれる。本家ほんけ姫路ひめじ藩主はんしゅ酒井さかい忠顕ただあきがなかったため、その養子ようしとなり、万延まんえん元年がんねん(1860ねん)に家督かとく相続そうぞくする。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)5がつ幕命ばくめいにより京都きょうと守衛しゅえい京都きょうと所司代しょしだい臨時りんじ代行だいこう特命とくめいびて上洛じょうらく入京にゅうきょうした。安政あんせい大獄たいごく京都きょうと所司代しょしだい就任しゅうにんした若狭わかさ小浜おばまはんおも酒井さかい忠義ただよしは、万延まんえん元年がんねん桜田さくらだ門外もんがいへん大老たいろう井伊いい直弼なおすけ暗殺あんさつされたのちつづきそのしょくにあり、罷免ひめん朝廷ちょうていから要求ようきゅうされていた。幕府ばくふ忠義ちゅうぎ罷免ひめんし、後任こうにんとして大坂おおさか城代じょうだい松平まつだいらそうしげる内定ないていしたが、そうしげる安政あんせい大獄たいごく当時とうじ寺社じしゃ奉行ぶぎょうにんにあり直弼なおすけ信任しんにん非常ひじょうあつかったため、朝廷ちょうていそうしげる所司代しょしだい就任しゅうにんにも内諾ないだくあたえなかった。このため所司代しょしだいしょく空席くうせきという、開幕かいまく以来いらい異常いじょう事態じたいとなっていた。このため、9がつまつ牧野まきのただしきょう後任こうにん所司代しょしだいとして正式せいしき承認しょうにんされるまで4かげつあいだ臨時りんじ所司代しょしだいにんにあたった。

京都きょうとちゅう警備けいび功績こうせきにより、文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)6がつ18にち老中ろうじゅう首座しゅざとなる。老中ろうじゅう就任しゅうにん兵庫ひょうご開港かいこうをめぐって朝廷ちょうてい対策たいさく奔走ほんそうする一方いっぽう年末ねんまつに14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち上洛じょうらく決定けっていすると、常陸ひたち水戸みとはんあるじ徳川とくがわ慶篤よしあつ武蔵むさしにんはんあるじ松平まつだいら忠誠ちゅうせいとも江戸城えどじょう留守居るすいやくめいじられる。ちょうど1ねん元治もとはる元年がんねん1864ねん)6がつ18にち老中ろうじゅうしょく退しりぞいたが、8かげつもと2ねん慶応けいおう元年がんねん1865ねん)2がつ1にちには大老たいろうとなった。そしてだい長州ちょうしゅう征討せいとう事後じご処理しょり幕府ばくふぐん西洋せいようしき軍制ぐんせい導入どうにゅうなど、幕政ばくせい改革かいかく尽力じんりょくした。一方いっぽうはんない台頭たいとうしてきた尊王そんのうろんたいしては「徳川とくがわ譜代ふだいしんとして幕府ばくふ存亡そんぼうをともにするのが道理どうりである」とし、元治もとはる元年がんねん重臣じゅうしん河合かわい屏山へいざん幽閉ゆうへいして多数たすう尊王そんのう粛清しゅくせいする「甲子きのえねごく」とばれる事件じけんこしている[3]

慶応けいおう3ねん1867ねん)2がつ隠居いんきょし、おとうと養子ようしちゅうあつし家督かとくゆずる。ところが戊辰戦争ぼしんせんそうさい鳥羽とば伏見ふしみたたか責任せきにんわれたただしあつし江戸えど蟄居ちっきょおなじく江戸えどにいたただし謹慎きんしんをしていたが、憤懣ふんまんやるかたないちゅう績は慶応けいおう4ねん1868ねん)5がつ5にち江戸城えどじょうしん政府せいふぐんだいとくたいして、謹慎きんしん姿勢しせいつらぬいている徳川とくがわ処遇しょぐうへの不満ふまんともに、酒井さかい徳川とくがわ譜代ふだい家臣かしんであり、徳川とくがわとの主従しゅうじゅう関係かんけいってまで朝廷ちょうていつかえるのは君臣くんしんはんするので、このさい所領しょりょう返上へんじょうしたいとする嘆願たんがんしょ提出ていしゅつする。対応たいおう苦慮くりょしたしん政府せいふは、ただしあつしわり遠縁とおえん伊勢崎いせざきはん主家しゅかから急遽きゅうきょ養子ようしはいって酒井さかい宗家そうけ相続そうぞくした最後さいご藩主はんしゅ酒井さかい忠邦ただくにちゅう績の翻意ほんいうながすようめいじるが、いまだ姫路ひめじはん最高さいこう意思いし決定けっていしゃ自負じふするちゅう績はもとより遠縁とおえん別家べっけから養子ようしはいったばかりのかぞえ15さい忠邦ただくに言葉ことばみみ道理どうりもなく、ただしあつしまでもがちゅう績のかんがえに賛同さんどうする有様ありさまらちがあかなかった。立場たちばをなくした姫路ひめじはんしん政府せいふせまられるままにはんない佐幕さばく粛清しゅくせいし、ちゅう績・ただしあつし側近そっきん一掃いっそうした(「つちのえたつごく」)。改元かいげんあって明治めいじ元年がんねんとなった直後ちょくご同年どうねん9がつ14にちちゅう績は実弟じってい静岡しずおかはん酒井さかい忠恕ただひろかたでの同居どうきょみとめられ、これで事態じたいはやっと収拾しゅうしゅうされた(のちただしあつしもこの忠恕ただひろかたあづけられている)[4]

明治めいじ13ねん(1880ねん)11月、終身しゅうしん華族かぞくとなる。明治めいじ22ねん(1889ねん)5がつには忠邦ただくに酒井さかい忠興ただおき酒井さかい伯爵はくしゃくとはべつ一家いっかてることがゆるされて、永世えいせい華族かぞくれつして男爵だんしゃくさづけられた。明治めいじ28ねん(1895ねん)に死去しきょ享年きょうねん68。墓地ぼち染井そめい霊園れいえんであるが、近年きんねん無縁むえんとなり、撤去てっきょ予定よていされている[5][6]

経歴けいれき

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栄典えいてん

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登場とうじょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい上巻じょうかんかすみ会館かいかん、1996ねん)p.639
  2. ^ かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい 1996, p. 642.
  3. ^ 戊辰戦争ぼしんせんそうと「朝敵ちょうてきはん-敗者はいしゃ維新いしん-』176-177ぺーじ
  4. ^ 戊辰戦争ぼしんせんそうと「朝敵ちょうてきはん-敗者はいしゃ維新いしん-』181-185ぺーじ
  5. ^ 江戸えど幕府ばくふ最後さいご大老たいろう姫路ひめじ城主じょうしゅ酒井さかいただし績のはか撤去てっきょ危機きき 理由りゆうは…墓地ぼち管理かんりりょう滞納たいのう神戸こうべ新聞しんぶん2019.2.25づけ(2019.2.26access)
  6. ^ 東京とうきょうよりのおらせ」
  7. ^ 官報かんぽうだい1758ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1889ねん5がつ13にち

参考さんこう資料しりょう

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  • かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい 上巻じょうかんかすみ会館かいかん、1996ねん平成へいせい8ねん)。ISBN 978-4642036702 
  • 柳営りゅうえい補任ほにん
  • 内閣ないかく文庫ぶんこぞう 諸侯しょこう年表ねんぴょう東京とうきょうどう出版しゅっぱん
  • 増補ぞうほ幕末ばくまつ明治めいじ重職じゅうしょく補任ほにんしょはん一覧いちらん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい
  • 水谷みずたに憲二けんじ戊辰戦争ぼしんせんそうと「朝敵ちょうてきはん-敗者はいしゃ維新いしん-』八木はちぼく書店しょてん、2011ねん
  • 東京とうきょうよりのおらせ」東京とうきょう、2016ねん染井そめい霊園れいえん所在しょざい
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
姫路ひめじ酒井さかいちゅう績分
初代しょだい
1889ねん - 1895ねん
次代じだい
酒井さかい忠弘ただひろ
当主とうしゅ
先代せんだい
酒井さかいただし績家
初代しょだい
1880ねん - 1895ねん
次代じだい
酒井さかい忠弘ただひろ
先代せんだい
酒井さかい忠顕ただあき
酒井さかい雅楽ががくあたま
21だい
1860ねん - 1867ねん
次代じだい
酒井さかいただしあつし