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井伊いいただしきょう

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井伊いいただしきょう
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん あかりれき2ねん3月6にち1656ねん3月31にち
死没しぼつ とおる2ねん4がつ20日はつか1717ねん5月30にち
改名かいめい よし十郎じゅうろう幼名ようみょう)、ちょくきょう直治なおじちょく
別名べつめい 長寿ちょうじゅこう渾名あだな)、さとしおうぜんおう法名ほうみょう
戒名かいみょう 長寿ちょうじゅ院覚いんかくおう知性ちせい
墓所はかしょ 永源寺えいげんじ滋賀しがけんひがし近江おうみ
官位かんい せいよんじょうひだり中将ちゅうじょう掃部あたま
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ大老たいろう
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐ
はん 近江おうみ彦根ひこねはんおもだい4だいだい7だい
氏族しぞく 井伊いい
父母ちちはは ちち井伊いいただしなわはは桜井さくらい
養父ようふ井伊いいただしきよし
兄弟きょうだい ちょくきょういもうと阿部あべ正武まさたけ正室せいしつ)、いもうと中野なかの清三せいぞう正室せいしつ
つま 正室せいしつ:なし
側室そくしつたままい大橋おおはし寺沢てらさわ田山たやま平石ひらいし
直通ちょくつうちょくつねちょくのりちょくおもんみ直定なおさだむすめ井伊いいただしあさしつ)、むすめ阿部あべただしたかししつ)、ぼう三条さんじょうこうたかししつ)、むすめ木俣きまたまもるきちしつのち木俣きまたまもるよしみしつ)、むすめ松平まつだいら康弘やすひろしつ)、むすめしるしじゅうしつ
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井伊いい ただしきょう(いい なおおき)は、江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうき譜代ふだい大名だいみょう江戸えど幕府ばくふ大老たいろう近江おうみ彦根ひこねはんだい5だい藩主はんしゅおよびだい8だい藩主はんしゅ直治なおじ(なおはる)・ちょく(なおもり)とも名乗なのる。井伊いい直弼なおすけ高祖父こうそふ

井伊いいただしなわだい3だい藩主はんしゅ井伊いい直孝なおたかよんなん)の長男ちょうなんははさくらきょ正室せいしつ蜂須賀はちすか隆重たかしげむすめ縁組えんぐみするが、婚儀こんぎまでに死去しきょ側室そくしつたままい大橋おおはし寺沢てらさわ田山たやま平石ひらいし直通ちょくつう八男はちお)・ちょくつねじゅうなん)・ちょくのりじゅう二男じなん)・ちょくおもんみ十三男とみお)・直定なおさだ十四男としお)・むすめ井伊いいただしあさ正室せいしつ)・むすめ阿部あべただしたかし正室せいしつ)・ぼう三条さんじょうこうたかししつ)・むすめ木俣きまたまもるきちしつのち木俣きまたまもるよしみしつ)・むすめ松平まつだいら康弘やすひろしつ)・むすめしるしじゅうしつ)ら。幼名ようみょうよし十郎じゅうろう官位かんいせいよんじょうひだり中将ちゅうじょう掃部あたま

生涯しょうがい

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あかりれき2ねん(1656ねん)3がつ6にちまれ。ちちちょくなわ伯父おじ井伊いいただししげる万治まんじ元年がんねん1658ねん)に祖父そふ直孝なおたか廃嫡はいちゃくされるまえ死去しきょしており、叔父おじ井伊いいただしきよし世子せいしとなり祖父そふ死後しご家督かとくいだ。直孝なおたか遺言ゆいごんちょくなわであるちょくきょうこうがせるようにいいのこしていたため、寛文ひろふみ12ねん1672ねん11月27にちちょくきよし養子ようしになり、のべたから4ねん1676ねん)のちょくきよし死去しきょにより家督かとくいだ。

彦根ひこねでの治世ちせいは、のべたから6ねん1678ねん)に困窮こんきゅう拝借はいしゃくきん支給しきゅううったえた藩士はんし76にん追放ついほうのべたから7ねん1679ねん)に家中いえじゅう法度はっとさだめ、家臣かしんたいしてきびしく統制とうせいおこなった一方いっぽうで、下屋敷しもやしきけやき御殿ごてん)に楽々園らくらくえん瀟湘八景はっけい近江おうみ八景はっけいしたげん宮園みやその建造けんぞう[注釈ちゅうしゃく 1]領内りょうない琵琶湖びわこめんした松原まつばらこう長曾根ながそねこう改築かいちくするなど土木どぼく事業じぎょう莫大ばくだい資金しきんとうじた。さら貞享ていきょう2ねん1685ねん)には一転いってんして藩士はんしたいする融資ゆうし制度せいど開始かいし元禄げんろく4ねん1691ねん)には家老がろう木俣きまたまもるちょうめいじて藩士はんし家系かけい由緒ゆいしょあつめて「さむらいちゅう由緒ゆいしょしょ」を編纂へんさん元禄げんろく6ねん1693ねん)に藩士はんしたいしてうえまいめいじた。元禄げんろく10ねん1697ねん1がつ11にちには追放ついほうした藩士はんし76にん帰参きさんめいじたり[注釈ちゅうしゃく 2]元禄げんろく12ねん1699ねん)に彦根ひこねはん飢饉ききん発生はっせいしたときすくいまい支援しえんをしている。

のべたから8ねん1680ねん)、ためあいだつめとなり、徳川とくがわ綱吉つなよしだい5だい将軍しょうぐんにんじられた朝廷ちょうていへの返礼へんれい使者ししゃつとめた。のべたから9ねん1681ねん)、越後えちご騒動そうどう改易かいえきとなった松平まつだいら光長みつなが江戸えど屋敷やしきあずかる。

元禄げんろく元年がんねん1688ねん)11月には日光にっこう東照宮とうしょうぐう改修かいしゅうそう奉行ぶぎょう任命にんめいされ、元禄げんろく2ねん1689ねん)7がつから元禄げんろく3ねん1690ねん)7がつにかけて仙台せんだいはんおも伊達だて綱村つなむら協力きょうりょくしてだい規模きぼ修復しゅうふくたしてこうげたため、元禄げんろく8ねん1695ねん11月28にち江戸城えどじょう御用ごよう部屋へやりをめいぜられ老中ろうじゅう待遇たいぐうとなり、元禄げんろく10ねん6月13にちには大老たいろうとなった。しかし、3ねん元禄げんろく13ねん1700ねん3月2にちやまい理由りゆう辞任じにんしてくにかえ[注釈ちゅうしゃく 3]元禄げんろく14ねん1701ねん3月5にちはちなん直通ちょくつう家督かとくゆずって隠居いんきょした。同年どうねん12がつ直治なおじあらためた。

直通ちょくつう宝永ほうえい7ねん1710ねん)7がつに22さい早世そうせいしたため、じゅうなんちょくつねあとがせたが、ちょくつね同年どうねん10がつあいだもなく早世そうせいした。このため、つぎ男子だんし成長せいちょうするまで、剃髪ていはつしてさとしおうごうしていたのを還俗げんぞくしてちょく該とあらため、藩主はんしゅさいたたした。さらに翌年よくねん正徳まさのり元年がんねん1711ねん2がつ13にち大老たいろう再任さいにんし、官位かんいせいよんじょう中将ちゅうじょうまですすんでいる。これは当時とうじ徳川とくがわ家宣いえのぶだい6だい将軍しょうぐん就任しゅうにんしてあいだもない時期じきで、幕臣ばくしん筆頭ひっとう立場たちばである井伊いい政権せいけんくわわることで安定あんていはか目的もくてきがあったことが理由りゆうの1つとかんがえられる。

正徳しょうとく2ねん1712ねん)10がつ14にち家宣いえのぶ死去しきょ正徳しょうとく3ねん1713ねん3月26にち家宣いえのぶ息子むすこ家継いえつぐ元服げんぷくすると烏帽子えぼしおやつとめた。正徳しょうとく4ねん1714ねん2がつ15にちじゅうさんなんちょくおもんみ元服げんぷくすると2がつ23にち大老たいろう辞任じにんちょくおもんみ家督かとくゆずって隠居いんきょし、ちょくきょうもどしたのち正徳しょうとく5ねん1715ねん)12月に出家しゅっけしてぜんおきなあらためた。またじゅうよんなん直定なおさだにも1まんせきぶんし、彦根ひこね新田にったはん創設そうせつした。とおる2ねん(1717ねん)4がつ20日はつか彦根ひこねにて62さい死去しきょした。遺骸いがい歴代れきだい藩主はんしゅとはべつ永源寺えいげんじひがし近江おうみ)にほうむられた。戒名かいみょう長寿ちょうじゅ院覚いんかくおう知性ちせい

じゅう二男じなんちょくのり同族どうぞく遠江とおとうみ掛川かけがわはんおも井伊いいただしあさ養嗣子ようししとなり、宝永ほうえい3ねん1706ねん)に越後えちご与板よいたはんうつりふうされた。また、家臣かしんむすめとのあいだまれた外孫そとまご井伊いいただしいん与板よいた藩主はんしゅになっている。

経歴けいれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 1672ねん寛文ひろふみ)12ねん
    • 11月26にち世継よつぎとなる。
    • 12月28にちしたがえよん叙位じょい侍従じじゅう任官にんかんし、玄蕃げんばあたま兼任けんにんいみな直之なおゆき
  • 1676ねんのべたから4ねん)2がつ23にち家督かとく相続そうぞくし、藩主はんしゅとなる。
  • 1678ねんのべたから8ねん
    • 9月6にち玄蕃げんばあたまを掃部あたまにんがえ
    • 10月14にちひだり近衛このえけん少将しょうしょう転任てんにん。掃部あたま兼任けんにん留任りゅうにん
  • 1697ねん元禄げんろく10ねん)6がつ13にち幕府ばくふ大老たいろうとなる。
  • 1700ねん元禄げんろく13ねん)3がつ2にち大老たいろうやく御免ごめん
  • 1701ねん元禄げんろく14ねん
    • 3月5にち隠居いんきょ
    • 5月、いみな直治なおじあらためる。
    • 12月18にち、掃部あたまみぎ衛門えもん大夫たいふにんがえ
  • 1710ねん宝永ほうえい7ねん
    • 5月、出家しゅっけし、さとしおきなごうす。
    • 11月13にちさい家督かとく相続そうぞくみぎ衛門えもん大夫たいふを掃部あたまにんがえ
  • 1711ねん正徳まさのり元年がんねん
    • 2がつ13にち再度さいど大老たいろうとなる。
    • 5月21にちいみなちょく該とあらためる。
    • 10月1にちせいよんじょう昇叙しょうじょし、ひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう転任てんにん。掃部あたま兼任けんにん留任りゅうにん
  • 1714ねん正徳しょうとく4ねん
    • 2がつ13にち大老たいろう辞職じしょく
    • 2がつ23にち隠居いんきょし、掃部あたまみぎ衛門えもんとくにんがえし、いみなちょくきょうあらためる。
    • 12月23にち出家しゅっけし、ぜんおきなごうす。
  • 1717ねんとおる2ねん)4がつ20日はつか卒去そっきょ享年きょうねん62)。

参考さんこう資料しりょう=「柳営りゅうえい補任ほにん」、児玉こだまみゆき監修かんしゅう新田にったかんさんへん内閣ないかく文庫ぶんこぞう 諸侯しょこう年表ねんぴょう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、「系図けいず纂要」

人物じんぶつ

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  • 2大老たいろうつとめ、家督かとくぐことも2改名かいめいすることは4とめまぐるしい生涯しょうがいおくった。また歴代れきだい藩主はんしゅなかでは井伊いい直政なおまさ直孝なおたか父子ふし井伊いい中興ちゅうこう評価ひょうかされている。幕末ばくまつ井伊いい直弼なおすけちょくきょう尊敬そんけいし、手本てほんとしていた。
  • 元禄げんろく8ねん領内りょうないすべての領民りょうみんやく27まんにん)から1ぶんずつの奉加ほうがきんあつめて彦根城ひこねじょう北東ほくとう方向ほうこう鬼門きもん)に長寿ちょうじゅいん[注釈ちゅうしゃく 4]大洞おおほら弁財天べざいてん)を建立こんりゅうした。長寿ちょうじゅいん極彩色ごくさいしょく欄間らんまねむねこぞう彫刻ちょうこくがあることから「彦根ひこね日光にっこう」としょうされる。
  • 譜代ふだい大名だいみょう能楽のうがく興味きょうみがあるいえめずらしかったが、だい5だい将軍しょうぐん綱吉つなよしだい能楽のうがくきであったため、ちょくきょう貞享ていきょう3ねん1686ねん)に55にんもの能役者のうやくしゃ一斉いっせいかかえている。しかしのち元禄げんろく14ねん隠居いんきょとき1人ひとりのぞいて全員ぜんいん解雇かいこしている。
  • 大老たいろう在任ざいにんちゅうにはだい7だい将軍しょうぐん家継いえつぐ継嗣けいし問題もんだい江島えじま生島いくしま事件じけんなどに対処たいしょしている。また天和てんわ元年がんねん1681ねん)には不行跡ふぎょうせきとがめられて改易かいえきされた酒井さかい忠能ただやすあずかっている。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 現在げんざいけやき御殿ごてんのうち建物たてもの部分ぶぶん楽々園らくらくえん庭園ていえん部分ぶぶんげん宮園みやそのしょうしている。昭和しょうわ26ねん1951ねん)、国名こくめいしょう指定してい
  2. ^ 困窮こんきゅう他家たけへの仕官しかん結果けっか、すぐに帰参きさんできたものは23にんで、のこりの53にん病気びょうきすで死去しきょ行方ゆくえ不明ふめいとされた[1][信頼しんらいせいよう検証けんしょう]
  3. ^ 辞任じにん理由りゆうは、元禄げんろく10ねん2がつ計画けいかくされていた日光にっこうしゃさん財源ざいげん確保かくほのために大老たいろう登用とうようされながら実現じつげんできなかったためとしている。また、のべたから8ねんからつとめていた将軍しょうぐん綱吉つなよし参詣さんけい先導せんどうやく元禄げんろく11ねん1698ねん7がつ14にちから途絶とだえているが、任務にんむ達成たっせいできないため病気びょうきになったともされている[2]
  4. ^ 真言宗しんごんしゅう醍醐だいごてら日本にっぽんさんだい弁財天べざいてんの1つとされる弁財天べざいてん坐像ざぞう安置あんち楼門ろうもんとびら額縁がくぶち見立みたてたように真正面ましょうめん彦根城ひこねじょうのぞめる。

出典しゅってん

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  1. ^ 山上さんじょうくだふと元禄げんろく正徳しょうとく大老たいろう 井伊いいただしきょうちょく該』(いくともしゃ、2009ねん)P88 - P95。
  2. ^ 山上さんじょう(2009ねん)P198 - P203、P221 - P226、P235 - P238。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかん元禄げんろく大老たいろう 井伊いいただしきょう』(2006ねん

関連かんれん項目こうもく

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