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井伊いいただしかち

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井伊いい ただしかち
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天正てんしょう18ねん1590ねん)2がつ
死没しぼつ 寛文ひろふみ2ねん7がつ11にち1662ねん8がつ24にち
改名かいめい まんせんだい幼名ようみょう)→ちょくつぎはつ)→ちょくかち
戒名かいみょう 雲光院うんこういん殿どの月山がっさんりょうあきらだい居士こじ
墓所はかしょ 静岡しずおかけん袋井ふくろいねむとき
官位かんい 兵部ひょうぶしょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつ
はん 近江おうみ佐和山さわやまはんおも彦根ひこねはんおも)→上野うえの安中あんなかはんあるじ
氏族しぞく 井伊いい
父母ちちはは ちち井伊いい直政なおまさ
はは徳川とくがわ家康いえやす養女ようじょはな松平まつだいらやすしおやむすめ
兄弟きょうだい 政子まさこ松平まつだいら忠吉ただよし正室せいしつ)、ちょくかち直孝なおたかとくきょういん伊達だてしげるむね正室せいしつ
つま 正室せいしつ鳥居とりい忠政ただまさむすめ
継室けいしつ中島なかじま新左衛門しんざえもんむすめ
直好なおよし井伊いいただししげる正室せいしつ
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井伊いい ただしかち(いい なおかつ)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての譜代ふだい大名だいみょう徳川とくがわ家臣かしん近江おうみ彦根ひこねはん2だい藩主はんしゅのち上野うえの安中あんなかはん初代しょだい藩主はんしゅちょくかちけい井伊いい初代しょだい

生涯しょうがい

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天正てんしょう18ねん1590ねん)、徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとり井伊いい直政なおまさ長男ちょうなんとして遠江とおとうみこく浜松はままつ誕生たんじょう慶長けいちょう7ねん1602ねん)、ちち直政なおまさ関ヶ原せきがはらたたかさいった鉄砲てっぽうきず原因げんいん病死びょうしすると、そのあといで彦根ひこね藩主はんしゅとなり、ちょくつぎあらためた。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)から徳川とくがわ家康いえやすいのちけ、西国さいこくけての防衛ぼうえい拠点きょてんとしての彦根城ひこねじょう築城ちくじょうにとりかかり、慶長けいちょう11ねん1606ねん)に完成かんせいすると佐和さわ山城やましろから彦根城ひこねじょう居城きょじょううつした。ただし、ちょくつぎ実質じっしつてき彦根ひこねはんおも地位ちいにはあったが、家督かとく継承けいしょうしゃとしては分家ぶんけ初代しょだいとして本家ほんけ歴代れきだい当主とうしゅとしてはかぞえない[1]

若年じゃくねんのためしばらくは家老がろう政務せいむ代行だいこうしていたが、元々もともと個性こせいつよものおおかった配下はいか家臣かしんがまとまらず、また徳川とくがわちょくしんから直政なおまさよせとなり家康いえやすいのちでそのまま井伊いい家臣かしんとされた「付人つきびと」としょうされた重臣じゅうしんなかにはちょくつぎわず、機会きかいがあればふたた旗本はたもと徳川とくがわちょくしん)にもどりたいとねがものもいたため、家中いえじゅう内部ないぶ対立たいりつ深刻しんこくした。家康いえやす木俣きまたまもるかち鈴木すずき重好しげよしりょう家老がろうとしてちょくつぎ補佐ほささせる方針ほうしんであったが、慶長けいちょう10ねん1605ねん)には付人つきびとむくはら正直まさなお西郷さいごうしげるいん中心ちゅうしんとした家臣かしんだん鈴木すずき重好しげよしじゅうたつ父子ふし不正ふせい家康いえやす直接ちょくせつ告発こくはつしたために重好しげよし追放ついほうされ[注釈ちゅうしゃく 1]慶長けいちょう15ねん1610ねん)に木俣きまたまもるかちくなると、ちょくつぎ家康いえやす了承りょうしょうもりしょう養子ようし守安もりやすではなく鈴木すずきしげるたつむくはら正直まさなお家老がろうにんじたものの、父子ふしそろって家中いえじゅう人望じんぼうていた木俣きまた排除はいじょ家臣かしんたち動揺どうようさせた[注釈ちゅうしゃく 2][2]

このように家中いえじゅう動揺どうようおさまらないなか慶長けいちょう14ねん12月の段階だんかいで、家康いえやす彦根ひこね松平まつだいらただしてるあたえ、ちょくつぎちゅうてる川中島かわなかじまうつすことをかんがえていた。ただし翌年よくねんうるう2がつ越後えちご福嶋ふくしま騒動そうどうにより、ちゅうてるほり旧領きゅうりょう加増かぞうされたためうたてふう沙汰止さたやみとなった。

慶長けいちょう19ねん1614ねん)、大坂おおさかじんはじまると、愚鈍ぐどんであったため江戸えどめられていたちょくつぎ[3]名代なだいとして、家康いえやす直孝なおたか井伊いいぐん大将たいしょう指名しめいし、ちょくつぎ安中あんなか関所せきしょ警護けいごつとめた。大坂おおさかふゆじん家康いえやす期待きたいこたえたはたらきをせた直孝なおたか正式せいしき井伊いい家督かとくがせ、ちょくつぎ上野うえの安中あんなかはん3まんせきぶんされた。このときにちょくつぎからちょくかちあらためた。井伊いい家督かとく交替こうたい公式こうしきにはちょくつぎ病弱びょうじゃく理由りゆうとしているものの、当時とうじ井伊いい彦根ひこねはん)は家康いえやす直接ちょくせつ統制とうせいかれていたとされ、ちょくつぎちょくかち)・直孝なおたかあいだ家臣かしんだん分割ぶんかつについても家康いえやすいのちけた幕府ばくふ年寄としより老中ろうじゅう)が決定けっていしたとされている。このため、実際じっさいにはちょくつぎ付人つきびと対立たいりつなどで家康いえやすから家中かちゅう統制とうせいする「器用きよう」がないと判断はんだんされてしまったちょくつぎ当主とうしゅからわれたとみられている[2]。この分割ぶんかつでは、井伊谷いいのや以来いらい家臣かしんちょくつぎに、甲斐かい武田たけだ遺臣いしんなどは異母弟いぼてい直孝なおたか配属はいぞくされた。また井伊いい領地りょうちのうち彦根ひこね直孝なおたか上野うえのやすちゅうちょくつぎ領有りょうゆうとされた。

寛永かんえい9ねん1632ねん)に隠居いんきょして長男ちょうなん直好なおよし家督かとくゆずる。直好なおよし正保まさやす2ねん1645ねん)に三河みかわこく西尾にしおはん万治まんじ2ねん1659ねん)に遠江とおとうみ掛川かけがわはんうつりふうされ、隠居いんきょであるちょくかちもこれにしたがった。

寛文ひろふみ2ねん1662ねん)7がつ11にち遠江とおとうみ掛川かけがわしろ病死びょうしした。享年きょうねん73。病弱びょうじゃくといわれていたが、結果けっかとして井伊いい宗家そうけ家督かとくいだ直孝なおたかより長命ちょうめいであった。

子孫しそん掛川かけがわから越後えちごこく与板よいたうつり、与板よいたはんとして幕末ばくまつまでつづいた。

逸話いつわ

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慶長けいちょう8ねん(1603ねん)、井伊いいただしつぎ彦根城ひこねじょう築城ちくじょうしていた。工事こうじ順調じゅんちょうすすんでいるかとおもわれたが、肝心かんじん天守てんしゅ築造ちくぞう工事こうじおくれがてきた。側近そっきんは、人柱ひとばしらてることをもうしたがちょくつぎは「人柱ひとばしらなどてても、工事こうじすすむわけではない」とくびたてらない。工事こうじおくれだけがかさなり、ついには普請ふしん奉行ぶぎょうむすめきく人柱ひとばしらとして名乗なのた。きく人柱ひとばしらとされたのちは、工事こうじ順調じゅんちょうすす天守てんしゅ天守てんしゅだいにすえられた。工事こうじとどこおりなくすすんだおれいをしたいと普請ふしん奉行ぶぎょうせると、そこにはきく姿すがたがあった。ちょくつぎ人柱ひとばしられたはこそらばことすりえていたのだった(すすむゆうしゃムック「戦国せんごく武将ぶしょう名城めいじょう」など)。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ継室けいしつ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ じゅうたつむくばら西郷さいごうらとたがいに起請文きしょうもんわして和解わかい
  2. ^ 異母弟いぼてい直孝なおたか重臣じゅうしん和田わだきよし閑にててこのことに不満ふまんべた書状しょじょうのこっている。

出典しゅってん

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  1. ^ 井伊いい彦根ひこねはん』(彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかん、2009ねん
  2. ^ a b 小宮山こみやま敏和としかず近世きんせい初期しょきにおける譜代ふだい大名だいみょう家中かちゅう〉の成立せいりつ」『譜代ふだい大名だいみょう創出そうしゅつまくはん体制たいせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねんISBN 978-4-642-03468-5
  3. ^ 当代とうだい慶長けいちょう19ねん12月4にちじょう