佐和さわ山城やましろ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
佐和さわ山城やましろ
滋賀しがけん
JR琵琶湖線の車窓より望む佐和山
JR琵琶湖びわこせん車窓しゃそうよりのぞ佐和山さわやま
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう そうさんそうせつあり。1595ねんきずけ現存げんそん
築城ちくじょうぬし つて佐保さほ
築城ちくじょうねん 鎌倉かまくら時代ときよ
おも改修かいしゅうしゃ 石田いしだ三成みつなり
おも城主じょうしゅ 佐保さほ小川おがわ磯野いその
丹羽にわ石田いしだ井伊いい
はいじょうねん 慶長けいちょう11ねん1606ねん
遺構いこう 石垣いしがきるいほり曲輪くるわ、ほか
指定してい文化財ぶんかざい 指定してい
位置いち 北緯ほくい3516ふん46.2びょう 東経とうけい13616ふん8.13びょう / 北緯ほくい35.279500 東経とうけい136.2689250 / 35.279500; 136.2689250
地図ちず
佐和山城の位置(滋賀県内)
佐和山城
佐和さわ山城やましろ
テンプレートを表示ひょうじ
佐和さわ山城やましろ

佐和さわ山城やましろ(さわやまじょう)は、近江おうみこく坂田さかたぐん滋賀しがけん彦根ひこね)の佐和山さわやまにあった中世ちゅうせい中期ちゅうきから近世きんせい初期しょきにかけての日本にっぽんしろ山城やましろ)。げん佐和山さわやま城址じょうし

坂田さかたぐんおよび直近ちょっきん犬上いぬかみぐんのみならず、ゆたか政権せいけんにおいて畿内きない東国とうごくむす要衝ようしょうとして、軍事ぐんじてきにも政治せいじてきにも重要じゅうよう拠点きょてんであり[1]16世紀せいきすえには織田おだ信長のぶなが配下はいか丹羽にわ長秀ながひで豊臣とよとみ秀吉ひでよし奉行ぶぎょう石田いしだ三成みつなり居城きょじょうとし、関ヶ原せきがはら合戦かっせん井伊いい一時いちじてき入城にゅうじょうしたことでもられる[2]

歴史れきし[編集へんしゅう]

佐々木ささきろくかく浅井あさい織田おだ時代じだい[編集へんしゅう]

佐和山さわやまじょう歴史れきしは、鎌倉かまくら時代ときよ近江おうみ守護しゅごしょく佐々木ささきそう地頭じとうであった佐々木ささき定綱さだつなろくなん佐保さほつなきずいたとりではじまりとされ、たてひさ年間ねんかん1190- 1198ねん)の文書ぶんしょにそのえる。

六角ろっかくまさしよりゆきひさしよりゆき高頼たかより氏綱うじつな定頼さだよりだい期間きかん六角ろっかく犬上いぬかみぐん支配しはいし、応仁おうにんらんのち家臣かしん小川おがわ左近さこん大夫たいふ小川おがわ伯耆ほうきもり城主じょうしゅとしていた。

しかし戦国せんごく時代じだい後半こうはんはいると、きた近江おうみにおける六角ろっかく勢力せいりょく衰退すいたいし、それにともなっては新興しんこう勢力せいりょくである浅井あさい伸張しんちょうした。佐和山さわやまじょうもその支配しはいはいって、しろ磯野いそのいんきちわたされ、小谷おたにしろささえじょうの1つとなった。

もとかめ年間ねんかんには城主じょうしゅ磯野いそのいんあきら織田おだ信長のぶながらと8ヶ月かげつにおよぶ戦闘せんとうひろげた。しかし、1571ねんもとかめ2ねん)2がついんあきら降伏ごうぶくし、わって織田おだ家臣かしん丹羽にわ長秀ながひで入城にゅうじょう浅井あさい旧領きゅうりょう朝倉あさくら旧領きゅうりょう南部なんぶ、すなわち、きた近江おうみろくぐん若狭わかさこく支配しはい拠点きょてんとした。

羽柴はしば豊臣とよとみ時代じだい[編集へんしゅう]

天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ本能寺ほんのうじへんのちおこなわれた清洲きよす会議かいぎでは、明智あけち光秀みつひで討伐とうばつこうがあったほり秀政ひでまさあたえられ、秀政ひでまさ翌年よくねん入城にゅうじょうした。これ以降いこう事実じじつじょう豊臣とよとみ政権せいけんしたしろとなってゆく。ほり秀政ひでまさ留守るすちゅうおとうと多賀たがしげるしゅ城代じょうだいつとめた。天正てんしょう13ねん1585ねん)には、うたてふうとなった堀家ほりいえわって堀尾ほりお吉晴よしはる入城にゅうじょう。このころにはやく10キロ南西なんせいにあたる至近しきん安土あづちじょうはいじょうとなった。さらに石田いしだ三成みつなり入城にゅうじょうしたとされる。入城にゅうじょう時期じきについては天正てんしょう18ねん1590ねん)7がつせつ[3]と、ぶんろく4ねん1595ねん)7がつせつがあったが、伊藤いとうしんあきら研究けんきゅうにより、天正てんしょう19ねん1591ねん)4がつであることが確定かくていした(ただし、伊藤いとう天正てんしょう19ねん入城にゅうじょう城代じょうだいくら入地いりじ代官だいかんとしての入城にゅうじょうで、三成みつなり正式せいしき佐和山さわやま城主じょうしゅにんじられてきた近江おうみ4ぐんあたえられたのはぶんろく4ねん7がつであったことも立証りっしょうしている)[4]三成みつなりは、当時とうじ荒廃こうはいしていたという佐和山さわやまじょうだい改修かいしゅうおこなって山頂さんちょうそうさんそうせつあり)の天守てんしゅたかくそびえたつほどの近世きんせい城郭じょうかくきずき、当時とうじ落首らくしゅに「三成みなりぎたるものがふたつあり しま左近さこん佐和山さわやましろ[5]わしめた。ただし、三成みつなり奉行ぶぎょうにんまっとうするために伏見ふしみじょう滞在たいざいすることがおおく、実際じっさいしろまかされていたのはちちせいつぎであった。城内きうちつくりはきわめて質素しっそで、しろ居間いまなども大抵たいてい板張いたばりで、かべはあらかべのままであった。庭園ていえん樹木じゅもくもありきたりで、手水ちょうずばち粗末そまついしで、城内きうち様子ようす当時とうじ人々ひとびともすこぶる案外あんがいかんじたとしるされている(『甲子きのえね夜話やわ』)[6]

佐和山さわやまじょうたたか[編集へんしゅう]

佐和山さわやまじょうたたか
戦争せんそう関ヶ原せきがはらたたか
年月日ねんがっぴ1600ねん9月17にち
場所ばしょ近江おうみこく 佐和さわ山城やましろ
結果けっかひがしぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
ひがしぐん 西にしぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
時計回りの三つ巴 小早川こばやかわ秀秋ひであき
脇坂わきさか安治やすじ
朽木くちきもとつな
小川おがわゆうただし
あかちょく
井伊いい直政なおまさ
田中たなか吉政よしまさ
長谷川はせがわまもる
石田いしだただしつぎ 
石田いしだただしきよし 
石田いしだちょうなり 
宇多うたよりゆきただし 
宇多うたよりゆきじゅう 
戦力せんりょく
15000 2800
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
関ヶ原せきがはらたたか

慶長けいちょう5ねん1600ねん9月15にち関ヶ原せきがはらたたかさんなりやぶった徳川とくがわ家康いえやすは、小早川こばやかわ秀秋ひであきぐん先鋒せんぽうとして佐和山さわやまじょう攻撃こうげきした。しろ兵力へいりょく大半たいはん関ヶ原せきがはらたたかいに出陣しゅつじんしており、守備しゅび兵力へいりょくは2800にんであった。城主じょうしゅ不在ふざいにもかかわらずしろへい健闘けんとうしたが、やがて城内じょうない長谷川はせがわまもるなど一部いちぶへい裏切うらぎり、てき手引てびきしたため、同月どうげつ18にち奮戦ふんせんむなしく落城らくじょうし、ちちせいつぎせいきよしこうがついん三成みなりつま)など一族いちぞくみな戦死せんしあるいは自害じがいしててた。江戸えど時代じだいの『石田いしだ軍記ぐんき』では佐和山さわやまじょう炎上えんじょうしたとされてきたが、本丸ほんまる西にしまる散乱さんらんするかわらには焼失しょうしつした痕跡こんせきみとめられず、また落城らくじょう翌年よくねんには井伊いい直政なおまさがすぐに入城にゅうじょうしているので、これらのことから落城らくじょうというよりは開城かいじょうちかいのではないかとする指摘してきもある[7]

家康いえやす従軍じゅうぐんした板坂いたさかぼくとき陥落かんらくした佐和山さわやまじょう金銀きんぎんすこしもなく、三成みつなりは殆んどたくわえをっていなかったとしるしている(『慶長けいちょう年中ねんじゅうぼくとき』)[8][9]

徳川とくがわ時代ときよ、そして、はいじょう[編集へんしゅう]

石田いしだ滅亡めつぼうのち徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとりである井伊いい直政なおまさがこのふうぜられ、入城にゅうじょうした。井伊いいが、このまま佐和山さわやまじょう利用りようすると、領民りょうみん井伊いい石田いしだ継承けいしょうしたような錯覚さっかくいだき、領民りょうみんたちぜん領主りょうしゅへの思慕しぼることができないことから、あらたに佐和山さわやまじょうから直線ちょくせん距離きょりで1.6キロほど西にし至近しきんあらたな彦根城ひこねじょう築城ちくじょう計画けいかくした[10]。しかし、直政なおまさ築城ちくじょう着手ちゃくしゅできないまま、関ヶ原せきがはら合戦かっせんでの戦傷せんしょうがもとで慶長けいちょう7ねん1602ねん)に死去しきょ計画けいかく嫡子ちゃくしちょくつぎぐこととなり、大津おおつじょう佐和山さわやまじょう小谷おたにしろ観音寺かんおんじじょうなどのちくざい利用りようしつつ、天下てんか普請ふしんによって彦根城ひこねじょう完成かんせいさせている。佐和山さわやまじょう慶長けいちょう11ねん1606ねん)、完成かんせいした彦根城ひこねじょう天守てんしゅちょくつぎうつったことにともない、はいじょうとなった。なお、彦根城ひこねじょう城下町じょうかまちまでをふくめた全体ぜんたい完成かんせい元和がんわ8ねん1622ねん)のことである。

佐和山さわやまじょう建造けんぞうぶつ彦根城ひこねじょう移築いちくされたもののほかは徹底的てっていてきしろわりされたため、城址じょうしにはなにのこっていない[11][12][13]。しかしそれでも、石垣いしがき一部いちぶるいほり曲輪くるわせんかん井戸いどあと[14]西にしまるにあるほのお硝櫓あとしおあと[15]などの施設しせつ一部いちぶ現存げんそんしており、また、ときとしてあらたに遺構いこう発見はっけんされる。[よう出典しゅってん]

構造こうぞう[編集へんしゅう]

山城やましろとして、山上さんじょうには本丸ほんまる中心ちゅうしんとして西にしまるまる三ノ丸さんのまるがあり、また隣接りんせつする尾根おね太鼓たいこまる法華ほっけまるの2つの曲輪くるわがある。東山ひがしやまみちせっする大手おおて方面ほうめんには、谷戸たにとふさかたち内堀うちぼり区画くかくされたさむらい敷地しきち箇所かしょあり、さらにその外側そとがわ城下町じょうかまち外堀そとぼりがある。琵琶湖びわこせっする搦手からめてこうにも城下町じょうかまちがあり、みずうみにはひゃくあいだきょうかっていた[16]

佐和さわ山城やましろ井伊いい彦根城ひこねじょううつさい徹底的てっていてきやぶしろけており、とく本丸ほんまる天守てんしゅだいでは9あいだ(15メートル前後ぜんこう)をとした[14]つたえられている。本丸ほんまる自体じたい岩盤がんばん露出ろしゅつするまで破壊はかいされ、石垣いしがきほとん撤去てっきょされた[17]。なお、徹底的てっていてき破壊はかいされた本丸ほんまるのぞき、山上さんじょうきょく実際じっさいには複数ふくすう曲輪くるわ構成こうせいされた[18]

現在げんざい本丸ほんまるあとのある山頂さんちょうにはさんとう三角さんかくてんいしさき」が設置せっちされており、標高ひょうこうは232.57mである[19]

ギャラリー[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • 佐和山さわやまはん豊臣とよとみ政権せいけん近江おうみこくてたいちはんで、佐和山さわやまじょうはんちょうとし、石田いしだ三成みつなり藩主はんしゅとする。徳川とくがわ政権せいけんした井伊いいがれたのち、彦根ひこねはんたてはんえてはいされた。
  • 佐和山さわやま遊園ゆうえん一個人いっこじんによって石田いしだ三成みつなりテーマパーク構想こうそうされ、1970年代ねんだいなかばより建設けんせつされつづけているが、事実じじつじょう廃園はいえん状態じょうたいとなっている。
  • 佐和山さわやまいちじょう復元ふくげんプロジェクト :彦根城ひこねじょう築城ちくじょう400ねんさいイベントとして、2007ねん平成へいせい19ねん)9がつ1にちから16にちまでの期間きかん限定げんてい開催かいさいされた。
  • 佐和山さわやま城跡じょうせきは、西側にしがわ山麓さんろくにあるりゅう潭寺彦根ひこね古沢ふるさわまち1104)が所有しょゆうしているが、好意こういにより無料むりょうでの入山にゅうざん許可きょかされており、境内けいだい登山とざんこうがある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 渡辺わたなべゆう佐和山さわやまじょういて」『歴史れきし地理ちり近江おうみごう三省堂さんせいどう書店しょてん、1912ねん 
  2. ^ はやし 昭男あきお 編著へんちょ佐和山さわやま城跡じょうせき 個人こじん住宅じゅうたく建設けんせつ工事こうじともな埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい発掘はっくつ調査ちょうさ事業じぎょう」『彦根ひこね埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ44』 彦根ひこね教育きょういく委員いいんかい、2009ねん
  3. ^ 高柳たかやなぎ 1968, 岩沢いわさわすなお石田いしだ三成みつなり近江おうみ佐和山さわやま領有りょうゆう」.
  4. ^ 伊藤いとうしんあきら石田いしだ三成みつなり佐和山さわやま入城にゅうじょう時期じきについて」『らくきた史学しがく』4ごう、2003ねん 
  5. ^ 今井いまい, p. 120.
  6. ^ 今井いまい, p. 213.
  7. ^ 城郭じょうかく談話だんわかい, 中井なかいひとし佐和山さわやまじょう歴史れきし構造こうぞう」.
  8. ^ 二木ふたき謙一けんいち関ケ原せきがはら合戦かっせん戦国せんごくのいちばんなが―』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1982ねん)21ぺーじ
  9. ^ 今井いまい, p. 204.
  10. ^ 三池みいけ, p. 267-268.
  11. ^ 三池みいけ, p. 30-32.
  12. ^ 三成みなり佐和さわ山城やましろ徹底てってい破壊はかい 政権せいけん交代こうたいせしめ”. 京都きょうと新聞しんぶん. (2016ねん3がつ24にち). http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20160324000202 
  13. ^ 痕跡こんせき一掃いっそう居城いじろせしめ」破壊はかい発掘はっくつ裏付うらづけ”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2016ねん3がつ25にち). https://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c 2017ねん7がつ4にち閲覧えつらん 
  14. ^ a b 中井なかいひとしちょ 地図ちずたのしむ近江おうみ ふうなかだちしゃかん 2017ねん11月24にち だいいちさつ p.88
  15. ^ 彦根ひこね教育きょういく委員いいんかい文化財ぶんかざい設置せっちした西にしまる 現地げんち看板かんばん
  16. ^ 佐和山さわやま城跡じょうせき - 滋賀しがけん
  17. ^ 石田いしだ三成みつなり佐和さわ山城やましろ徳川とくがわ破壊はかいくされていた 彦根ひこね教委きょうい調査ちょうさあきらかに”. 産経さんけいWEST. (2016ねん3がつ26にち). https://www.sankei.com/article/20160325-M2CJP2U565KFLIBULPRQ5F6Y7M/ 
  18. ^ 佐和さわ山城やましろ彦根ひこね
  19. ^ 国土こくど地理ちりいん 基準きじゅんてん成果せいかとう閲覧えつらんサービス

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 高柳たかやなぎひかり寿ことぶき博士はかせ頌寿記念きねんかい へん戦乱せんらん人物じんぶつ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1968ねん 
  • 今井いまい林太郎りんたろう石田いしだ三成みつなり吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ 新装しんそうばん〉、1988ねん 
  • 三池みいけ純正じゅんせいきたもう一人ひとり武将ぶしょう 石田いしだ三成みつなりみやたい出版しゅっぱんしゃ、2009ねん 
  • 城郭じょうかく談話だんわかい近江おうみ佐和さわ山城やましろ彦根城ひこねじょうサンライズ出版しゅっぱん、2007ねん8がつISBN 4-883-25282-5 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]