磯野いそのいんあきら

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磯野いその いんあきら
太平たいへいえいいさみでんじゅうはち礒野いその丹波たんばまもる定正さだまさいんあきら
落合おちあいかおるいくさく
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん だいひさし3ねん1523ねん
死没しぼつ 天正てんしょう18ねん9がつ10日とおか1590ねん10月8にち
別名べつめい いんあきらしゅうあきら礒野いそのいんあきら
官位かんい 丹波たんばまもる
主君しゅくん 浅井あさいひさせい長政ながまさ織田おだ信長のぶなが
氏族しぞく 磯野いその
父母ちちはは ちち磯野いそのいんむね
行信ゆきのぶ政長まさなが小堀こぼり正次まさつぐ正室せいしつ
養子ようしいん安養寺あんようじしゅ
しんじきよし織田おだ信勝のぶかつ長男ちょうなん
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磯野いその いんあきら(いその かずまさ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう浅井あさいのち織田おだ家臣かしん近江おうみこく佐和さわ山城やましろおも

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

浅井あさい家臣かしん時代じだい[編集へんしゅう]

小谷おたに城下じょうか磯野いその屋敷やしきあと滋賀しがけん長浜ながはま

だいひさし3ねん1523ねん)、磯野いそのいんむねとして誕生たんじょう磯野いその代々だいだい京極きょうごく家臣かしんであったが、浅井あさい亮政すけまさ台頭たいとうくっするかたち浅井あさい配下はいかくわわる。いんあきらちちいんむね磯野いその一族いちぞくすじから養子ようしとして佐和山さわやまじょう本拠ほんきょ磯野いそのいんきちむかえられている。主家しゅかすじ磯野いその山城やましろ本拠ほんきょ磯野いその西にしくだり、筑前ちくぜんこく高祖こうそ城主じょうしゅ原田はらだ家臣かしんとなり、博多はかた転職てんしょくし、鋳造ちゅうぞうぎょういとなんだ。

ちち死後しご叔父おじいんきよし家督かとくぎ、そのあといんあきらいだ。いんあきら佐和山さわやまじょう本拠ほんきょとし、武勇ぶゆうけたことからたい六角ろっかくせん度々たびたび武功ぶこうかさね、合戦かっせんでは浅井あさい軍団ぐんだん先鋒せんぽうまかされるようになる。大野木おおのき国重くにしげ野村のむら定元さだもと三田村みたむら秀俊ひでとしらととも浅井あさいよんつばさうたわれた。

もとかめ元年がんねん1570ねん6月28にち姉川あねがわたたかでは、織田おだぐんふかみ、一時いちじ織田おだ信長のぶなが本陣ほんじんちかくにまでせまったが、のちひかえていた織田おだがわ稲葉いなば一鉄いってつ氏家うじいえぼくぜん安藤あんどうまもるらがけ、その朝倉あさくらぐん撃破げきはした徳川とくがわ家康いえやすぐん増援ぞうえんもあり、浅井あさいがわ総崩そうくずれとなり敗退はいたいした。このいんあきら織田おだ本陣ほんじんせま猛攻もうこうは、「いんあきら姉川あねがわじゅういちだんくずし」という逸話いつわとしてのこる( 浅井あさいさんだい[1]

織田おだ家臣かしん時代じだい[編集へんしゅう]

姉川あねがわたたかいののち浅井あさい小谷おたにじょうとの陸路りくろ横山よこやましろ拠点きょてんとした織田おだぐんにより分断ぶんだんされ、佐和山さわやまじょうてきちゅう孤立こりつする状態じょうたいとなっていた。そのため、いんあきらよくもとかめ2ねん1571ねん2がつ24にち佐和山さわやまじょう攻撃こうげきされたさい信長のぶなが降伏ごうぶくした(信長のぶながこう まき3)。

降伏ごうぶくいんあきら佐和山さわやまじょうえに、近江おうみ高島たかしまぐんあたえられている。このころ織田おだ宿将しゅくしょうは、琵琶湖びわこ周辺しゅうへん配置はいちされており、この高島たかしまぐん拝領はいりょうは、「横山よこやま木下きのした藤吉郎とうきちろう佐和山さわやま丹羽にわ長秀ながひで安土あづち中川なかがわ重政しげまさ長光寺ちょうこうじ柴田しばた勝家かついえ永原ながはら佐久間さくましんもり宇佐うささん明智あけち光秀みつひで」と同等どうとうという破格はかく待遇たいぐうであった。いんあきら武功ぶこう織田おだでもみとめられていたとかんがえられる。ただし、信長のぶながおい津田つだしんきよしを嗣養子ようしとさせられている(丹羽たんばでん)。

そのいんあきら天正てんしょう元年がんねん1573ねん)9がつ杉谷すぎたによしじゅうぼう捕縛ほばく信長のぶながこう まき6)し、天正てんしょう3ねん1575ねん)8がつには越前えちぜん一向いっこう一揆いっき鎮圧ちんあつ信長のぶながこう まき8)に従軍じゅうぐんしている。

しかし、天正てんしょう4ねん1576ねん正月しょうがつには、津田つだしんきよし高島たかしまより上洛じょうらくしており(けんみるきょう)、また、同年どうねん12がつ朽木くちき商人しょうにんあてに、天正てんしょう5ねん1577ねんうるう7がつには横江よこえたかしぜんてらあてに、津田つだしんきよし安堵あんどじょう発行はっこうしていることから、このころにはいんあきら権益けんえき縮小しゅくしょうまた家督かとく譲渡じょうとおこなわれていたとかんがえられる[2]

出奔しゅっぽんとその[編集へんしゅう]

天正てんしょう6ねん1578ねん2がつ3にちいんあきら信長のぶなが意思いしそむいて叱責しっせきされ出奔しゅっぽんし、領地りょうち高島たかしまぐん津田つだしんきよしあたえられた(信長のぶながこう まき11)。信長のぶなが叱責しっせき内容ないよう不明ふめいであるが、一説いっせつには家督かとくゆずるよう、しんきよし信長のぶながせまったがこばんだためともいう。本能寺ほんのうじへんにおいてしんきよし信長のぶながくなると高島たかしまぐんもどって帰農きのう天正てんしょう18ねん1590ねん)9がつ10日とおか死去しきょした。享年きょうねん68[2]

行信ゆきのぶ以下いか一族いちぞく石田いしだ三成みつなりのち藤堂とうどう高虎たかとら高虎たかとら天正てんしょう年間ねんかんに、いんあきらつかえていた)につかえて家名かめい存続そんぞくさせた。まごくだりひさしは、大坂おおさかじん藤堂とうどうぐんぞくして八尾やお若江わかえたたか増田ますだもり功績こうせきげている。むすめ小堀こぼり正次まさつぐとつぎ、茶人ちゃじん小堀こぼり政一まさかずんでいる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ただしこのじゅういちだんくずしは、江戸えど時代じだい元禄げんろくの『浅井あさいさんだい』が初出しょしゅつのため疑問ぎもんするせつもある。
  2. ^ a b 磯野いその太郎たろう 磯野いそのいん彦『近江おうみ磯野いその

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • 磯野いその太郎たろう磯野いそのいん彦『近江おうみ磯野いその』1984ねん
  • 谷口たにぐち克広かつひろ信長のぶながえた家臣かしんたち―失脚しっきゃく粛清しゅくせい謀反むほん―』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2007ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]