安藤あんどうまもる

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安藤あんどう まもる
安東あんどうまもる就墓(岐阜ぎふけん岐阜ぎふりゅう峰寺みねでら
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん ぶんかめ3ねん1503ねん
死没しぼつ 天正てんしょう10ねん6月8にち1582ねん6月27にち
改名かいめい まもり就、みちあし入道にゅうどうごう)、無用むようときときごう
別名べつめい 安東あんどうまもる
戒名かいみょう りゅう峰寺みねでら殿しんがりちくいわおどうあしだい居士こじ
墓所はかしょ 岐阜ぎふけん岐阜ぎふりゅう峰寺みねでら
官位かんい 日向ひゅうがまもる伊賀いがまもる受領じゅりょうめい
主君しゅくん 土岐ときよりゆきげい斎藤さいとう道三どうさんりゅうりゅうきょう織田おだ信長のぶなが
氏族しぞく 伊賀いがながれ安藤あんどう
父母ちちはは ちち伊賀いが定重さだしげはは稲葉いなばりょうどおり伯母おば
兄弟きょうだい まもりみずうみ叔宗さかえ安東あんどうごう
不破ふわあししつほか
定治さだはるみぎ衛門えもん
とくがついん竹中たけなか重治しげはる正室せいしつ)、遠藤えんどうけいたかし正室せいしつほか
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安藤あんどう まもる(あんどう もりなり)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう美濃みのこく北方ほっぽうじょうおも西にし美濃みのさんにんしゅ一人ひとりせい安東あんどうとも表記ひょうきされる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

斎藤さいとう家臣かしん[編集へんしゅう]

ぶんかめ3ねん1503ねん)、安藤あんどう守利もりとし定重さだしげ)のとして誕生たんじょう[注釈ちゅうしゃく 1]美濃みの安藤あんどう元々もともと伊賀いがせいしょうしており、まもり就も伊賀いが伊賀いがまもるなどとき伊賀いがせい名乗なのった。

はじめ土岐ときよりゆきげいつかえていたが、美濃みのこく斎藤さいとう道三どうさんによって奪取だっしゅされると、みちさん家臣かしんとしてつかえた。稲葉いなばりょうどおり氏家うじいえただしもとらとならんで西にし美濃みのさんにんしゅうしょうされたという。村木むらきとりでたたかさいしては、みちさん家臣かしんとして織田おだ信長のぶなが援軍えんぐんとして派遣はけんされ、那古野なごのしろざいしろしたこともある。

弘治こうじ2ねん1556ねん)のみちさんとその斎藤さいとうよしりゅうこうそう長良川ながらがわたたか)ではりゅう協力きょうりょくしている。

りゅう死後しご斎藤さいとうりゅうきょうつかえた。しかしりゅうきょう一部いちぶ重臣じゅうしんだけを寵愛ちょうあいしてもり就をはじめとするさんにんしゅらをとおざけたため、諫言したがききいれられなかった。このためえいろく7ねん1564ねん)2がつ6にち白昼はくちゅうむすめ婿むこ竹中たけなか重治しげはる稲葉いなば山城やましろ(のちの岐阜ぎふじょう)を攻撃こうげきし、斎藤さいとう飛騨ひだもり以下いかろくめい殺害さつがいした。城主じょうしゅ斎藤さいとうりゅうきょうたたかわずに城下じょうか放火ほうか退城たいじょうした[1]

織田おだ家臣かしん[編集へんしゅう]

えいろく7ねん1564ねん)2がつ7にちまもり就はたてせいてら禁制きんせいあたえている。この禁制きんせいで「伊賀いがまもる 無用むよう」としょうしていることから、まもり就自ら、斎藤さいとうたいして無用むよう家臣かしんとなったことをおおやけしめしたものである。あるいは若年じゃくねん斎藤さいとうりゅうきょうでは、おのれ一族いちぞく子孫しそん生涯しょうがいまかせられるおもたりえない、といった意味いみふくまれているのかもれないとされている[2]

えいろく10ねん1567ねん)、信長のぶなが美濃みの侵攻しんこうぐんたいしてさんにんしゅらととも内応ないおうし、そのまま信長のぶなが家臣かしんとしてつかえた。そのえいろく11ねん1568ねん)の上洛じょうらくせんもとかめ元年がんねん1570ねん)の姉川あねがわたたかなどにも参加さんかしている。もとかめ2ねん1571ねん)の伊勢いせ長島ながしまめではさんにんしゅ氏家うじいえただしもと殿しんがりつとめて戦死せんししているが、まもり就もこの戦闘せんとう参加さんかしており負傷ふしょうしている。

えいろく11ねん1568ねん11月16にちづけで、まもり就が曲直瀬まなせ道三どうさん発給はっきゅうした書状しょじょうによると、上洛じょうらくしたさいみちさん面識めんしきゆうし、みちさん世話せわになったようである。帰国きこく名残惜なごりおしく、以後いごいちそう交流こうりゅうのぞんでいる様子ようすうかがえる(『曲直瀬まなせ文書ぶんしょ』)。このようなみちさんとの緊密きんみつ交友こうゆうはかもり就の意中いちゅうには、みちさん卓越たくえつした政治せいじ見識けんしきまなび、中央ちゅうおう政局せいきょく信長のぶなが内情ないじょうさぐろうとする目的もくてきがあったのではないかとされている[2]

以後いごも、天正てんしょう元年がんねん1573ねん)の槇島まきしましろめ、同年どうねん8がつ越前えちぜん朝倉あさくらめ、天正てんしょう2ねん1574ねん)7がつ伊勢いせ長島ながしま一向いっこう一揆いっき殲滅せんめつせん同年どうねん4がつ石山いしやま本願寺ほんがんじめなどのしょせん信長のぶなが直属ちょくぞく部隊ぶたいとして参加さんか。4がつまつ義昭よしあき信長のぶなが家臣かしんとのあいだ起請文きしょうもんわされた。義昭よしあきてた家臣かしん内訳うちわけ佐久間さくましんもり滝川たきがわ一益かずますはなわ直政なおまさで、信長のぶなががわ発給はっきゅうしゃはやししげるさだ佐久間さくましんもり柴田しばた勝家かついえ稲葉いなば一鉄いってつ安藤あんどうまもる就・氏家うじいえぼくぜん滝川たきがわ一益かずますである[3]天正てんしょう3ねん1575ねん)に信長のぶなが織田おだ信忠のぶただ家督かとくゆずり、美濃みのしゅうのほとんどが信忠のぶただしたけられたのちも、信長のぶなが直属ちょくぞく立場たちばであった。

天正てんしょう5ねん1577ねん)8がつには柴田しばた勝家かついえ援軍えんぐんとして加賀かが出陣しゅつじん天正てんしょう6ねん1578ねん)5がつには、羽柴はしば秀吉ひでよし中国ちゅうごく援軍えんぐんとして播磨はりまこく神吉かんきしろめへ出陣しゅつじん同年どうねん11がつには信長のぶなが謀反ぼうほんした荒木あらき村重むらしげ有岡ありおかしろ包囲ほういせんにも参加さんかと、各地かくち転戦てんせんつづけている。

織田おだ追放ついほう最期さいご[編集へんしゅう]

安東あんどうまもる就戦死地しち岐阜ぎふけん本巣もとすぐん北方きたかたまち

天正てんしょう8ねん1580ねん)8がつ突如とつじょ信長のぶなが野心やしんありとの嫌疑けんぎをかけられ、はやししげるさだ丹羽にわ氏勝うじかつとも粛正しゅくせい対象たいしょうとなり追放ついほうされる。この要因よういん美濃みの尾張おわり拠点きょてんとする信長のぶながにとって、かつての仇敵きゅうてきであり、美濃みの勢力せいりょくってきたまもり就の存在そんざいおだやかでなかったからであるとも推測すいそくされる[2]。『信長のぶながこう』にははやし丹羽にわふくめたさんめい追放ついほう理由りゆうとして「先年せんねん信長のぶながこう迷惑めいわく折節おりふし野心やしんふくもうすのゆえなり(先年せんねん信長のぶながこう苦闘くとうかさねていたおり、それにじょうじて野心やしんふくんだためであった)」とのみある。

天正てんしょう10ねん1582ねん6月2にち本能寺ほんのうじへんこり、信長のぶなが明智あけち光秀みつひでによりたれると、まもり就は定治さだはるとも挙兵きょへいして北方ほっぽうじょううばい、再起さいきこころみた。しかし当時とうじ北方ほっぽうじょう領主りょうしゅ稲葉いなば一鉄いってつりょうどおり)にめられ敗北はいぼく。6月8にち一族いちぞくども自害じがい美濃みの安藤あんどう滅亡めつぼうする。享年きょうねんは80とされる(『稲葉いなば』)が、正確せいかく生年せいねん不明ふめい

なお、天正てんしょう8ねん1580ねん)8がつ末弟ばっていごうまた放逐ほうちくされてどう10ねん1582ねん)6がつ8にちあに共々ともども誅伐ちゅうばつされているが、当時とうじおさなかったのちははおとうとにあたる山内やまうち一豊かずとよ近江おうみ長浜ながはま時代じだいからつかえ、せい山内さんないえながら明治めいじ時代じだいまでつづいた。また、まもり就のはちなんごうただし土佐とさはんとして系譜けいふたもった。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

結城ゆうき秀康ひでやす家臣かしんで、関東かんとう時代じだいからつかえた高屋たかやえつは、安藤あんどうまもる就の三男さんなんだったが美濃みの高屋たかや養子ようしとなって高屋たかやせい名乗なのった、とされている。福井ふくいはんぞく大坂おおさかじんにても武功ぶこうげているが、次代じだい断絶だんぜつしている。
石田いしだ三成みつなり家臣かしんで、関ヶ原せきがはらたたかいで戦死せんしした蒲生がもうすすむかんは、安藤あんどうまもる就のおとうとであった、とされている。斎藤さいとう滅亡めつぼう一旦いったん出家しゅっけしてそうひとし名乗なのったが、のち蒲生がもうきょうつかえて九州きゅうしゅう征伐せいばつでの功績こうせきによって蒲生がもう名字みょうじあたえられたという。きょう会津あいづあたえられると、はたかんななせんせきあたえられる(『蒲生がもう支配しはいちょう』)が、きょう死後しご混乱こんらんによって浪人ろうにんとなり、三成みなり仕官しかんしたという[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 生年せいねんえいただし5ねん1508ねん)ともいわれる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 勝俣かつまた 1980.
  2. ^ a b c 宮本みやもと 1978.
  3. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ信長のぶなが将軍しょうぐん義昭よしあき提携ていけいから追放ついほう包囲ほういもうへ―』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2014ねん、152ぺーじ 
  4. ^ 小島こじま一男かずお蒲生がもうすすむかん」『会津あいづ人物じんぶつ事典じてん武人ぶじんへん)』歴史れきし春秋しゅんじゅうしゃ、1995ねん、136ぺーじ 

参考さんこう論文ろんぶん[編集へんしゅう]

  • 宮本みやもと義己よしみ美濃みのさんにんしゅ去就きょしゅう織田おだ信長のぶなが美濃みの経略けいりゃく―」『歴史れきし手帳てちょう』6かん1ごう、1978ねん 
  • 吉田よしだ義治よしはる織田おだ政権せいけん成立せいりつ過程かていにおける美濃みの武士たけしだん西にし美濃みのさんにんしゅ動向どうこう中心ちゅうしんに―」『岐阜ぎふけん歴史れきし資料しりょうかんほう』25ごう、2002ねん 
  • 勝俣かつまた鎮夫しずお美濃みの斎藤さいとう盛衰せいすい」『岐阜ぎふけん通史つうしへん 原始げんし古代こだい中世ちゅうせい』1980ねん 

史料しりょう[編集へんしゅう]

  • 当代とうだい
  • たけ家事かじ
  • 信長のぶながこう
  • 宿毛すくも
  • 岩村いわむらとおるしゅん伊賀いがさき略記りゃっき
  • 岩村いわむらとおるしゅんほうくもいんくん山内やまうちでん

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ
漫画まんが

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]