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斎藤さいとうりゅうきょう

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斎藤さいとう りゅうきょう / 一色いっしきりゅうきょう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん16ねん3がつ1にち(1547ねん3月22にち)[1]または天文てんもん17ねん1548ねん
死没しぼつ 天正てんしょう元年がんねん8がつ10日とおか1573ねん9月6にち[2]
改名かいめい 喜太郎きたろう幼名ようみょう[よう出典しゅってん]斎藤さいとう/一色いっしきりゅうきょうとう義紀よしのりまたはただし
別名べつめい みぎ兵衛ひょうえ大夫たいふ治部じぶ大輔だいすけ
戒名かいみょう 瑞光ずいこういんりゅうふかしそうくもたまだい居士こじ
墓所はかしょ 常在寺じょうざいじ岐阜ぎふけん岐阜ぎふ)※位牌いはいのみ
主君しゅくん 足利あしかが義輝よしてる足利あしかが義昭よしあき朝倉あさくら義景よしかげ
氏族しぞく 斎藤さいとう一色いっしき
父母ちちはは ちち斎藤さいとうよしりゅうはは浅井あさい
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斎藤さいとう りゅうきょう / 一色いっしき りゅうきょう(さいとう たつおき / いっしき たつおき)は、戦国せんごく時代じだい美濃みのこく戦国せんごく大名だいみょうみちさんりゅう斎藤さいとう3だい美濃みの一色いっしょく2だい[3]ちち斎藤さいとうよしりゅう急死きゅうしにより若年じゃくねんにしてそのあとぐが、尾張おわり織田おだ信長のぶなが美濃みのうばられた。その越前えちぜん朝倉あさくら協力きょうりょくして美濃みの復帰ふっき目指めざしたが、実現じつげんすることなくにした。

美濃みの斎藤さいとうりゅうきょうちちよしりゅうだいから一色いっしょく名乗なのっており、『朝倉あさくら始末しまつ』をはじめとする越前えちぜん朝倉あさくらかんする記録きろくえるように、りゅうきょう自身じしんやその味方みかたは「一色いっしょく」だと認識にんしきしていた。しかしりゅうきょう敵対てきたいした織田おだでは一色いっしょくみとめない立場たちばから「斎藤さいとう」とつづけ、織田おだ記録きろくである『信長のぶながこう』などにより「斎藤さいとうりゅうきょう」のられている[3][4]

生涯しょうがい

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家督かとく相続そうぞく

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天文てんもん16ねん1547ねん)または17ねん1548ねん)に、斎藤さいとうよしりゅうつま浅井あさい浅井あさいひさせいむすめとされるが、年齢ねんれいてき浅井あさい亮政すけまさむすめとみられる)のあいだまれる[5]

えいろく4ねん1561ねん)5がつ11にちに、ちちよしりゅう急死きゅうしし14さい美濃みの斎藤さいとう家督かとくぐ。同月どうげつ13にちよしりゅう重病じゅうびょうとの情報じょうほうたのか、織田おだ信長のぶなが木曽川きそがわえて西にし美濃みの侵攻しんこう森部もりべ合戦かっせんとなった(森部もりべたたか[6]。このたたかいで重臣じゅうしん日比野ひびの清実きよみ長井ながいまもるやすらがにした。信長のぶなが自身じしん撤退てったいしたのち駐留ちゅうりゅうぐんによる攻撃こうげきつづき、和議わぎ織田おだかた撤退てったいるのは翌年よくねん2がつとなった[7]

えいろく5ねん1562ねん)には、有力ゆうりょく家臣かしんであった郡上ぐじょう八幡やはたじょうおも遠藤えんどうもりすう病没びょうぼつする。

美濃みのこく攻防こうぼうせん敗走はいそう

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稲葉いなば山城やましろ岐阜ぎふじょう

りゅうきょう信長のぶなが侵攻しんこう対処たいしょするため、ちちよしりゅう進攻しんこう対象たいしょうであったきた近江おうみ浅井あさい長政ながまさ同盟どうめいむすぼうとした。しかし信長のぶなが機先きせんせいされ、長政ながまさ信長のぶなが同盟どうめいむすび、ぎゃく美濃みの侵攻しんこうするようになる。このときりゅう時代じだいから同盟どうめいむすんでいた[よう出典しゅってん]六角ろっかく義賢よしかた浅井あさいりょう侵攻しんこうしたため、長政ながまさ美濃みのめを中止ちゅうしして撤退てったいしている。

えいろく6ねん1563ねん)、再度さいど侵攻しんこうした織田おだ信長のぶなが新加納しんかのうたたかい、家臣かしん竹中たけなか重治しげはる活躍かつやくもあって織田おだぐんやぶった(新加納しんかのうたたか[よう出典しゅってん]

えいろく7ねん1564ねん)2がつ6にち竹中たけなか重治しげはるとそのしゅうと安藤あんどうまもる斎藤さいとう飛騨ひだもり以下いか6にん殺害さつがいして稲葉いなば山城やましろうばり、りゅうきょうしろわれることとなった(郡上こおりかみ長滝ながたきてらぞう荘厳しょうごんこう記録きろく」、「あきら叔慶浚等しょそう法語ほうご雑録ざつろく所収しょしゅうかいかわ紹喜書状しょじょううつし[8]りゅうきょう鵜飼うかい山城やましろ、さらにゆうこう山城やましろ逃走とうそうした[よう出典しゅってん]同年どうねん10がつ書状しょじょう(「みことけいかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう文書ぶんしょ」)でりゅうきょう稲葉山いなばやまじょう帰還きかんしたことが判明はんめいするが、長期間ちょうきかん居城きょじょう占拠せんきょは、美濃みの国内こくない領主りょうしゅりゅうきょうたいする不信ふしん加速かそくさせることとなったとおもわれる[9]

織田おだ信長のぶながえいろく5ねんごろからはじまった小牧こまき山城やましろ築城ちくじょうにより圧力あつりょくがかかったひがし美濃みのにおいては(遠山とおやま織田おだ縁戚えんせきとなるなど元々もともと織田おだ影響えいきょうりょくつよ地域ちいきであったが)、有力ゆうりょく領主りょうしゅである市橋いちはしまるもう高木たかぎなどが織田おだつうじるようになる。

えいろく8ねん1565ねん)には、織田おだった加治田かじたじょうおも佐藤さとう忠能ただやすにより、どうほらじょうおもきししんしゅうたれた。このとき関城せきじょうおもであり、国内こくないさえとなっていた大叔父おおおじ長井ながいみち織田おだ武将ぶしょうとなっていた斎藤さいとう利治としはるやぶれ、ちゅう地方ちほう信長のぶなが勢力せいりょくけんはいった(ちゅう攻略こうりゃくせん)。8月には信長のぶながたいする防波堤ぼうはていとなっていた犬山いぬやましろ落城らくじょうした[10]

11月13にちには、足利あしかが将軍家しょうぐんけ一色いっしょくふじちょうにあてて、だいはつについて太刀たちいちこしうま一疋いっぴき祝言しゅうげんおくっている[11]

えいろく9ねん1566ねん)、近江おうみのがれていた足利あしかが義昭よしあきは、自身じしん上洛じょうらく協力きょうりょくもとめるため、りゅうきょう信長のぶなが和睦わぼくめいじ、両者りょうしゃはこれを承諾しょうだくした[12]同年どうねん8がつまつ上洛じょうらく支援しえんのためか美濃みの侵攻しんこうのためか目的もくてき不明ふめいだが信長のぶなが国境こっきょうぐんすすめ、よくうるう8がつりゅうきょうぐん衝突しょうとつした(河野こうのとうたたか)。8にち未明みめい信長のぶながやぶ撤退てったいしたが溺死できししゃすうれず、武具ぶぐててげる有様ありさまだったという(「中島なかじま文書ぶんしょ」)[13]

この時期じきりゅうきょう織田おだへの対抗たいこうのため甲斐かい武田たけだ信玄しんげん同盟どうめい締結ていけつのため交渉こうしょうすすめていた。11月には同盟どうめい成立せいりつのために奔走ほんそうしたことを感謝かんしゃするかいかわ紹喜ての書状しょじょうはっしている(「武田たけだ神社じんじゃ文書ぶんしょ」)。とはいえ信長のぶなが武田たけだとの交渉こうしょうすすめていたため、武田たけだ遠山とおやま中立ちゅうりつ立場たちばをとるだけの結果けっかとなり、信長のぶながたいする抑止よくしりょくとして機能きのうすることはなかった[14]どう文書ぶんしょつつ上書うわがきに「一色いっしょく治部じぶ大輔だいすけ」、署名しょめいは「とう」とあるため、同年どうねんうるう8がつから11月のあいだ足利あしかが義昭よしあきまたは義栄よしひでもしくはからへんいみなもらったものとみられる[15]

えいろく10ねん1567ねん)5がつちちりゅうの7回忌かいき法要ほうようおこなっているが、そのさい法語ほうご記録きろくした「かいかわまれあんとう語録ごろく」では「みなもとくん孝男たかおよしただし」とあり、とうから改名かいめいしていたことが確認かくにんできる。しかし、「義紀よしのり」と署名しょめいした書状しょじょううつしも4つう存在そんざいし、「ただし」と「」はているため、どちらが正確せいかくかは判然はんぜんとしないがいずれかの名前なまえ名乗なのったとみられる[16]

同年どうねん西にし美濃みのさんにんしゅ稲葉いなばりょうどおり氏家うじいえただしもと安藤あんどうまもる就らが信長のぶなが内応ないおうしたためつい稲葉いなば山城やましろ信長のぶながによってとされ(稲葉いなば山城やましろたたか)、8がつ15にち城下じょうか木曽川きそがわふねくだり、きた伊勢いせ長島ながしまへと退散たいさんした[17]。ただし「紹巴じょうは富士見ふじみどう」では8がつ13にちから20日はつかにかけて信長のぶなが長島ながしまめている記述きじゅつがあるため、稲葉いなば山城やましろ落城らくじょうを9がつとみるせつもある[18]落城らくじょう時期じきを8がつとみる場合ばあいには、りゅうきょうって織田おだぐん長島ながしませたのだとする。当時とうじ20さい以降いこうふたた大名だいみょうとして美濃みのかえくことはなかった。

織田おだへの反抗はんこう

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長島ながしま亡命ぼうめいしたりゅうきょうは、畿内きないへとうつ三好みよしさんにんしゅ接近せっきんしたものとみられる。えいろく12ねん1569ねん)1がつには三好みよしさんにんしゅ信長のぶなが擁立ようりつした室町むろまち幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきころそうとして敗退はいたいしている(本圀寺ほんごくじへん六条ろくじょう合戦かっせん)が、りゅうきょう長井ながいみちもそこにくわわっていたとされる(『信長のぶながこう』『当代とうだい』)[19]

さらもとかめ元年がんねん1570ねん)8がつには、三好みよし康長やすなが安宅あたか信康のぶやす十河そごうそん石山いしやま本願寺ほんがんじ法主ほっしゅ顕如けんにょらとともに三好みよしさんにんしゅ籠城ろうじょう支援しえん野田城のだじょう福島ふくしまじょうたたか)。信長のぶなが朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ後背こうはいおびやかされ、退却たいきゃくするまでちこたえた。

最期さいご

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その縁戚えんせき関係かんけいにあったことから越前えちぜんこく朝倉あさくら義景よしかげしたのがれて保護ほごされた。いわゆる客将かくしょうとしてぐうされたともつたわる。

もとかめ2ねん1571ねん)8がつ顕如けんにょ一色いっしょく治部じぶ大輔だいすけ(=りゅうきょう)にてて書状しょじょうおくり、「本意ほんい実現じつげんねがって黄金おうごん太刀たちおくっている[20][21]。また、よくもとかめ3ねん1572ねん)8がつ美濃みの郡上こおりかみぐん安養寺あんようじりょう越前えちぜん大野おおのぐん最勝寺さいしょうじせんしょうから、本願寺ほんがんじぼうかんであるしもあいだよりゆきだんたいして、本願寺ほんがんじから郡上こおりかみぐん大野おおのぐん門徒もんと協力きょうりょくめいじた”「一色いっしょく殿どの」の入国にゅうこく計画けいかく”の進行しんこうじょうきょうかんする書状しょじょうのこされている。それよりすこまえ同年どうねん正月しょうがつには、「一色いっしき義紀よしのり」としょうしていたりゅうきょうからじょうりょうたいして、せんしょう遠藤えんどう説得せっとくし、また自分じぶん日根野ひねのひろ長島ながしま派遣はけんする予定よていであったが、せんしょう病気びょうき計画けいかく延期えんきになってしまったとする書状しょじょうのこされている[22][23]

これらの文書ぶんしょから、朝倉あさくら越前えちぜん美濃みの門徒もんと支援しえんけたりゅうきょうきた越前えちぜん)から、長島ながしま門徒もんと支援しえんけた日根野ひねのみなみ伊勢いせ)から、美濃みの入国にゅうこく挟撃きょうげきする計画けいかく存在そんざいしたことがかり、同年どうねんふゆには実際じっさい作戦さくせん実行じっこうされたことを示唆しさする顕如けんにょ書状しょじょう[24]存在そんざいする。しかし朝倉あさくらぐんゆきのためにぜんぐん越前えちぜんげたこともあって、りゅうきょう美濃みのこく奪取だっしゅ復帰ふっきまでにはいたらず、おなじく越前えちぜんげたとられている[3][25]

天正てんしょう元年がんねん(1573ねん)8がつ義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ支援しえんし、信長のぶなが対決たいけつするために近江おうみこく北部ほくぶ出陣しゅつじんしたさいりゅうきょう従軍じゅうぐんしたが、8がつ14にち朝倉あさくらぐん織田おだぐんやぶれて刀禰とねざか追撃ついげきけたさい戦死せんしした[26]細川ほそかわ北岡きたおか文庫ぶんこ先祖せんぞ 氏家うじいえ甚左衛門えもん」や『たけ家事かじ』によれば、かつての重臣じゅうしんであった氏家うじいえただしもと嫡男ちゃくなん氏家うじいえただしあきら手勢てぜいられたとされている。享年きょうねん26または27[27]

法名ほうみょう瑞雲ずいうんあんりゅうきょう居士こじとされるが、『常在寺じょうざいじ記録きろく』には瑞光ずいこういんりゅうふかしそうくもたまだい居士こじごうしたとある[26]

生存せいぞんせつ

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本願寺ほんがんじ勢力せいりょくむすびついた、いわゆる「生存せいぞんせつ」がいくつかある。

越中えっちゅうきゅうみぎもん

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興国寺こうこくじ富山とやま)の伝説でんせつによると、りゅうきょう戦死せんししてはおらず、家宝かほう系図けいずってえいろく12ねん(1569ねん)、3月にえつ中国ちゅうごく新川しんかわぐん布市ぬのいちむらて、興国寺こうこくじかくれた。天下てんか情勢じょうせいからいえ再興さいこうすることかなわずとさとったりゅうきょうは、きゅうみぎもん改名かいめいし、付近ふきん原野げんや開拓かいたくした。開拓かいたくたって、「ふつちからである、けいちからなり」と一族いちぞくはげましてこのみついた。

信長のぶなが本願寺ほんがんじ石山いしやま合戦かっせんわった天正てんしょう8ねん(1580ねん)にきゅうみぎもんはこの経力きょうりきむらづけた。

江戸えど時代じだいはいった慶長けいちょう16ねん(1611ねん)、きゅうみぎもん家督かとくゆずり、くさだか持参じさんしてぬの興国寺こうこくじ出家しゅっけ住持じゅうじとなった。興国寺こうこくじには、りゅうきょう持参じさんしたというよろいくら念持仏ねんじぶつ木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい立像りつぞう)がつたえられている。

寛永かんえい9ねん(1632ねん)6がつ19にち示寂じじゃくし、はか富山とやま経力きょうりき本誓寺ほんせいじまえにあるという。享年きょうねん86(しくは享年きょうねん85)。

きゅうみぎもん子孫しそんは、文政ぶんせい3ねん(1820ねん)11月、えつ中国ちゅうごく新川しんかわぐん大泉おおいずみむらげん富山とやま大泉おおいずみ)にうつり、のち大正たいしょう2ねん(1913ねん)11月、富山とやまけん新川しんかわぐん堀川ほりかわむら小泉こいずみ富山とやま堀川小泉ほりかわこいずみ)に転住てんじゅうしたという。

木下きのしたさとしは、元和がんわ9ねん(1623ねん)に興国寺こうこくじ住職じゅうしょくになったという伝承でんしょうしたがうと高齢こうれいすぎるため、りゅうきょう息子むすことみるほう妥当だとうだとしている[28]

羽島はしま伝承でんしょう

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刀根とねざかたたかいをび、本願寺ほんがんじ合流ごうりゅうしたとする伝承でんしょうがある。りゅうきょう石山いしやま本願寺ほんがんじのがれ、本願寺ほんがんじ勢力せいりょくとも再起さいきしていたが、現在げんざい岐阜ぎふけん羽島はしま足近あぢかまちてら病死びょうしした、とされる。同地どうちねがいきょうてらには、りゅうきょうはかと、そのちちであるよしりゅう、さらにりゅうきょうとされるしょう兵衛ひょうえ義仁よしひと位牌いはいつたえられている。

土岐ときことがわ稿本こうほん美濃みの[29]』には、りゅうきょう石山いしやま本願寺ほんがんじたたかったのち天正てんしょう8ねん(1580ねん)の和議わぎ成立せいりつにより美濃みの羽島はしまぐん足近あぢかむら天正てんしょう10ねん(1582ねん)5がつ5にち自刃じじんし、石山いしやま本願寺ほんがんじ知己ちきりょうねがいが、伊勢いせ長島ながしまねがいきょうてらうつして一宇いちう建立こんりゅうしたという逸話いつわ掲載けいさいされている。

人物じんぶつ逸話いつわ

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  • 子女しじょられていない。しつについては、『美濃みのこくしょ旧記きゅうき』『美濃みの国明くにあきほそ』が浅井あさい長政ながまさむすめとするものの年代ねんだいてきうたがわしい[28]。『ぞくぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう日下部くさかべ系図けいず[30]」は朝倉あさくらけいのべ朝倉あさくら義景よしかげ叔父おじ)のむすめりゅうきょうしつとしている。
  • りゅうきょうたいする評価ひょうかは、『はじめあん信長のぶなが[31]』ではびへつらうもの重用じゅうようしたとあり、『老人ろうじん雑話ざつわ』は「きょく痴人ちじん也」、『ほらどう軍記ぐんき[32]』では政道せいどうただしくなかったとされるように、そうじてきわめてわるいものである。とはいえこの評価ひょうか織田おだ信長のぶながほろぼされた戦国せんごく大名だいみょうとして、信長のぶなが優秀ゆうしゅうさをてるためにひくくされているめんがある[33]。さらに、稲葉いなば山城やましろうばった竹中たけなか重治しげはるを『はじめあん太閤たいこう以降いこうたか評価ひょうかするながれのなかで、その行為こういに「主君しゅくんりゅうきょうを諫めるためだった」という理由りゆうけがされたために、必然ひつぜんてきりゅうきょう暗愚あんぐあつかわれることとなった[34]
  • 斎藤さいとう以来いらい家臣かしんだん一色いっしょく家臣かしんだん名字みょうじ改名かいめいさせた。(日根野ひねのひろ一色いっしょく守護しゅごだい延永のぶなが名乗なのるなど)
  • 前述ぜんじゅつ越中えっちゅう富山とやまけん)に土着どちゃくしたせつ関連かんれんして、富山とやまにはきゅうみぎもんりゅうきょう)がづるおしえられてひらいたとする由来ゆらい鉱泉こうせんがあり「れいづる源泉げんせん」としょうしている。経力きょうりきといって長年ながねんつづき、のちに浦上うらかみよんばんくずらえられたかくれキリシタンがあづけられた、などの歴史れきしがある。大正たいしょう6ねん(1917ねん)に廃業はいぎょうし、れいづる鉱泉こうせんまつられていた木造もくぞう薬師やくし如来にょらいぞう現在げんざい本誓寺ほんせいじ富山とやま経力きょうりき)に安置あんちされている。富山とやまはんだい9だい藩主はんしゅ前田まえだとしみき所蔵しょぞうしていたとされる、経力きょうりきふゆ景色けしきえがいた石川いしかわけん金沢かなざわつたわる[よう出典しゅってん]
  • りゅうきょう畿内きない在住ざいじゅうキリシタン目指めざした。その記録きろくいくつかのこっている。
    • ルイス・フロイスは『日本にっぽんちゅうで、「非常ひじょう有能ゆうのう思慮しりょふか美濃みの国主こくしゅ義弟ぎていにあたる若者わかものがいた」と記録きろくし、キリストきょうそうただし世界せかい創造そうぞうなどについてかれると聴聞ちょうもんしたこと逐一ちくいちめ、つぎ教会きょうかい姿すがたあらわしたさいにはそのすべてを明白めいはくに、流暢りゅうちょうに、一言ひとこといち間違まちがいなく反復はんぷくすることが出来できたために人々ひとびとはとてもおどろいたとしている。しかし、「非常ひじょう有能ゆうのう思慮しりょふかい」とされているのはりゅうきょう義弟ぎていである[28]
    • ガスパル・ヴィレラたいして「人間にんげんデウスによって祝福しゅくふくされ、万物ばんぶつ霊長れいちょうであると保障ほしょうされてるとう。ならば、なぜ人間にんげんかいにかくもおおくの不幸ふこうちており、戦乱せんらんわらないのか。万物ばんぶつ霊長れいちょうたらんと創造そうぞうされたのなら、なぜ人間にんげん意志いし容易よういしたがわないのだろうか。こんなすさんだなか一生懸命いっしょうけんめい善良ぜんりょうきているものたち現世げんせいではなんむくいもけられないのは、何故なぜなのか」と質問しつもんした。ヴィレラはりゅうきょう疑問ぎもんたいし、そのすべてに納得なっとくがいくよう道理どうりげて説明せつめいしたと記録きろくされている[よう出典しゅってん]

登場とうじょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 美濃みのこくしょ旧記きゅうき』より
  2. ^ たけ家事かじ』より
  3. ^ a b c 木下きのしたさとしもとかめ年間ねんかん斎藤さいとうりゅうきょう動向どうこう」『戦国せんごく研究けんきゅう』76ごう、2016ねん 
  4. ^ 木下きのした 2020, pp. 243–244.
  5. ^ 木下きのした 2020, p. 199.
  6. ^ 木下きのした 2020, p. 208.
  7. ^ 木下きのした 2020, pp. 208–209.
  8. ^ 木下きのした 2020, pp. 214–215.
  9. ^ 木下きのした 2020, pp. 220–221.
  10. ^ 木下きのした 2020, pp. 225–226.
  11. ^ 桑田そうでん 1973, p. 216.
  12. ^ 木下きのした 2020, p. 228.
  13. ^ 木下きのした 2020, pp. 229–235.
  14. ^ 木下きのした 2020, pp. 237–241.
  15. ^ 木下きのした 2020, pp. 239–240.
  16. ^ 木下きのした 2020, pp. 242–243.
  17. ^ 桑田そうでん 1973, p. 214.
  18. ^ 木下きのした 2020, pp. 248–249.
  19. ^ 木下きのした 2020, p. 251.
  20. ^ もとかめ2ねん8がつ23にちづけ顕如けんにょ書留かきとめ」『大系たいけい真宗しんしゅう史料しりょう文書ぶんしょ記録きろくへん4』43ごう
  21. ^ 木下きのした 2020, pp. 252–253.
  22. ^ 岐阜ぎふ県立けんりつ図書館としょかん所蔵しょぞう文書ぶんしょ」『岐阜ぎふけん資料しりょうへん古代こだい中世ちゅうせい補遺ほい』8ごう
  23. ^ 木下きのした 2020, pp. 254–257.
  24. ^ 天正てんしょう元年がんねん正月しょうがつ27にちづけ顕如けんにょ書留かきとめ」『大系たいけい真宗しんしゅう史料しりょう文書ぶんしょ記録きろくへん4』84ごう
  25. ^ 木下きのした 2020, p. 257.
  26. ^ a b 桑田そうでん 1973, p. 215.
  27. ^ 木下きのした 2020, pp. 257–258.
  28. ^ a b c 木下きのした 2020, p. 259.
  29. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん6がつ20日はつか閲覧えつらん
  30. ^ 日下部くさかべ系図けいずべつほん”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブ. 2024ねん6がつ20日はつか閲覧えつらん
  31. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん6がつ20日はつか閲覧えつらん
  32. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん6がつ20日はつか閲覧えつらん
  33. ^ 木下きのした 2020, pp. 276–280.
  34. ^ 木下きのした 2020, pp. 280–284.
  35. ^ 信長のぶなが戦記せんきリイドしゃ(2019ねん10がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 桑田くわたただしおや斉藤さいとう道三どうさん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1973ねん 
  • 木下きのした, さとし斎藤さいとうよんだいひとてん守護しゅごし、ふつそうつたえず―』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2020ねん2がつ10日とおかISBN 978-4-623-08808-9 

関連かんれん項目こうもく

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