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佐和山さわやまはん

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佐和山さわやまはん(さわやまはん)は、近江おうみこく現在げんざい滋賀しがけん彦根ひこね古沢ふるさわまち)に存在そんざいしたはんはんちょう佐和さわ山城やましろ[1]

概要がいよう

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佐和山さわやま織田おだ信長のぶなが時代じだいから要衝ようしょうなされ、信長のぶながとく信任しんにんあつかった重臣じゅうしん丹羽にわ長秀ながひで城主じょうしゅとした。

天正てんしょう19ねん1591ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよしのもとで奉行ぶぎょうとして辣腕らつわんるっていた石田いしだ三成みつなり佐和山さわやまじょうはいる。ただし、このときくら入地いりじ代官だいかんとして城代じょうだい資格しかく入城にゅうじょうしたものである(また、三成みなり個人こじん所領しょりょう美濃みのこくうちにあった)。ぶんろく4ねん1595ねん)に19まん4000せきをもって正式せいしき佐和山さわやまじょう城主じょうしゅにんじられた[2]

三成みなり治下ちか佐和山さわやまはその善政ぜんせいによってみんゆたかになり、「三成みなりぎたるものがふたつあり。しま左近さこんしま左近さこん)と佐和山さわやましろ」とわれるほどであった。ちなみに三成みなり善政ぜんせいしめすものとして、古橋ふるはし領民りょうみん凶作きょうさくくるしんでいるとき、三成みつなり年貢ねんぐ免訴めんそして領民りょうみんたすけたり、様々さまざま法令ほうれい制定せいていして領内りょうない整備せいびするなどの手腕しゅわん発揮はっきしている。

関ヶ原せきがはらたたか石田いしだ滅亡めつぼうしたのち佐和山さわやまには関ヶ原せきがはらたたかいで武功ぶこうげた徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとり井伊いい直政なおまさが18まんせきはいり、佐和山さわやまはんたてはんした。しかし直政なおまさは2ねん慶長けいちょう7ねん1602ねん)に死去しきょした。これは関ヶ原せきがはらたたかいによる戦傷せんしょうによるものとわれているが、世間せけんでは三成みなり亡霊ぼうれいまじなころされたともうわさされた。直政なおまさのちいだちょくつぎは、あらたに彦根城ひこねじょう築城ちくじょうするようにめいじられた。そして彦根城ひこねじょう完成かんせいともに、佐和山さわやまはんはいはんとなった。

江戸えど時代じだい以前いぜん佐和山さわやま城主じょうしゅ

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石田いしだ

19まん4せんせき

だい 氏名しめい よみ 官位かんい官職かんしょく 在任ざいにん期間きかん 備考びこう
1 三成みつなり みつなり したがえ
治部じぶしょう
ぶんろく4ねん - 慶長けいちょう5ねん
1595ねん - 1600ねん
石田いしだただしつぎの2なん
豊臣とよとみ政権せいけん奉行ぶぎょう

歴代れきだい藩主はんしゅ

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井伊いい

譜代ふだい - 18まんせき

だい 氏名しめい よみ 官位かんい官職かんしょく 在任ざいにん期間きかん ぜん藩主はんしゅとの続柄つづきがら備考びこう
1 直政なおまさ なおまさ したがえよん
兵部ひょうぶしょう侍従じじゅう
慶長けいちょう5ねん - 慶長けいちょう7ねん
1600ねん - 1602ねん
井伊いいただしおや長男ちょうなん
2 ちょくつぎ なおつぐ 慶長けいちょう7ねん - 元和がんわ元年がんねん
1602ねん - 1615ねん
直政なおまさ長男ちょうなん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 二木ふたき謙一けんいち監修かんしゅう工藤くどうひろし正編せいへんくにべつ はん城下町じょうかまち事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2004ねん9がつ20日はつか発行はっこう(393ページ)
  2. ^ 伊藤いとうしんあきら石田いしだ三成みつなり佐和山さわやま入城にゅうじょう時期じきについて」『らくきた史学しがく』4ごう、2003ねん