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小幡おばたはん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

小幡おばたはん(おばたはん)は、上野うえのこく甘楽かんらぐんの「小幡おばたりょう」とばれた地域ちいきおさめたはん、ないしは小幡おばたりょうのうちの小幡おばたむら現在げんざい群馬ぐんまけん甘楽かんらぐん甘楽かんらまち小幡おばた)を居所きょしょとしたはん[1]。17世紀せいきはつ織田おだはいって最初さいしょ福島ふくしまむらに、17世紀せいきなか以降いこう小幡おばたむら小幡おばた陣屋じんや小幡おばたじょう)にはんちょういた。織田おだが7だいやく150ねん転出てんしゅつすると、奥平おくだいら松平まつへいはいり、廃藩置県はいはんちけんまで4だいやく100ねんつづいた。

歴史れきし

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小幡藩の位置(群馬県内)
前橋
前橋まえばし
高崎
高崎たかさき
白井
白井しらい
安中
安中あんなか
上里見
上里見かみさとみ
小幡
小幡おばた
関連かんれん地図ちず群馬ぐんまけん[注釈ちゅうしゃく 1]
地図
1.小幡おばたしろ 2.宮崎みやざき 3.福島ふくしま 4.国峰くにみねじょう 5.ななにち 6.吉井よしい

小幡おばた」という地名ちめい

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小幡おばた」という地名ちめいには、「小幡おばたりょう」とばれる広域こういき用法ようほうと、織田おだ城下町じょうかまち整備せいびする「小幡おばたむら」を用法ようほうとがある。

鎌倉かまくら時代じだい甘楽かんらぐんがく荘内そうないで「小幡おばたさと」という地域ちいきめいもちいられるようになる[2]。また、この小幡おばたさと拠点きょてんとする小幡おばた登場とうじょうした[2][3]戦国せんごくくにしゅとして発展はってんした小幡おばた国峰くにみねじょう拠点きょてんとし、西上にしかみしゅうおおきな影響えいきょうゆうした[3]。のちに小幡おばた陣屋じんやかれる小幡おばたむらは、この国峰くにみねじょう北東ほくとうふもと位置いちする。

広義こうぎの「小幡おばたりょう」をおさめたはんるか、狭義きょうぎの「小幡おばたむら」を居所きょしょとしたはんるかのちがいにより、「小幡おばたはん」のだてはんについては書籍しょせきによって記述きじゅつちがいがられる。小幡おばたむら陣屋じんやいた織田おだにゅうふう以後いごしょしょ共通きょうつうして「小幡おばたはん」とあつかっている。

織田おだにゅうふうまで

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奥平おくだいらしんあきらりょうの3まんせき

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徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入国にゅうこく小幡おばたりょう3まんせきおさめたのは、徳川とくがわ家康いえやすむすめ婿むこ奥平おくだいらしんあきらであった。これをもって「小幡おばたはん」のたてはんとする書籍しょせきもある[4][5]奥平おくだいらしんあきら居城きょじょうとしたのは、宮崎みやざきじょう現在げんざい群馬ぐんまけん富岡とみおか宮崎みやざき)であった[1][5]。このことにより奥平おくだいらしんあきらにゅうふうした土地とちを「上野うえの宮崎みやざき」とし、その領国りょうごくを「宮崎みやざきはん」となす(「小幡おばたはん」にはふくめない[注釈ちゅうしゃく 2]見解けんかいもある。

慶長けいちょう6ねん1601ねん)3がつ前年ぜんねん関ヶ原せきがはらたたか戦功せんこうにより、しんあきら美濃みの加納かのうはん10まんせき加増かぞううつりふうされた。このとき宮崎みやざきじょうはいじょうになったとされる。

水野みずの永井ながいりょうの1まんせき

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奥平おくだいら転出てんしゅつ慶長けいちょう7ねん(1602ねん)、水野みずの忠清ただきよが1まんせき小幡おばたりょうはいった[3]

なお、甘楽かんらぐん東部とうぶ慶長けいちょう15ねん(1610ねん)から井伊いい直孝なおたか白井しらいはんおも)の領地りょうちとなっており、井伊いい福島ふくしま現在げんざい甘楽かんらまち福島ふくしま)に陣屋じんやいた[3]

元和がんわ元年がんねん(1615ねん)に水野みずの転出てんしゅつした[3]同年どうねん甘楽かんらぐん東部とうぶ井伊いい支配しはいはなれた)。元和がんわ2ねん(1616ねん)、永井ながいただしかち小幡おばたりょうで1まんせき加増かぞうけてはいっている[3]。『日本にっぽんこう辞典じてん』は、水野みずのから永井ながい交替こうたいした1まんせきを(だいいちの)「小幡おばたはん」としてあつか[6]

後述こうじゅつとおり、元和がんわ元年がんねん(1615ねん)には織田おだ小幡おばたりょうのうち2まんせき領主りょうしゅとしてはいる。書籍しょせきによっては2つの「小幡おばたはん」が併存へいそんしていたとしるしている。たとえば『日本にっぽんこう辞典じてん』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)は、「小幡おばたはん」の項目こうもくで、「近世きんせい初頭しょとう奥平おくだいらしんあきら領地りょうちさんまんせき」としたうえで、1まんせき領地りょうち水野みずの永井ながい)と2まんせき領地りょうち織田おだ)をゆうする2つのはん一時期いちじき併置へいちされたという叙述じょじゅつとなっている[7]。『日本にっぽんこう辞典じてん巻末かんまつ附録ふろく大名だいみょう配置はいち」においても2つの「小幡おばたはん」が併置へいちしたとしるしている[6]

はん城下町じょうかまち事典じてん』は、「水野みずの永井ながい小幡おばた居所きょしょいた事実じじつはなく」、織田おだ小幡おばたむら)ににゅうふうしていたことをかんがえれば「水野みずの永井ながいざいふう疑問ぎもんである」とする[4]。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』は「織田おだ永井ながいあるいは水野みずのとともに小幡おばた領内りょうない領有りょうゆうしていたともかんがえられ、水野みずの永井ながい両氏りょうしとりわけ永井ながいとう藩主はんしゅでなかった可能かのうせいもある」とする[5]

織田おだ治世ちせい

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藩邸はんてい御殿ごてんあと
らく山園やまぞの

元和がんわ元年がんねん1615ねん)7がつ23にち織田おだ信長のぶなが次男じなん信雄のぶおに、大和やまとこく宇陀うだぐん3まんせき上野うえのこく2まんせき領地りょうちあたえられた[3]宇陀うだには信雄のぶお自身じしんはいり(大和やまと宇陀うだはん)、小幡おばたりょう信雄のぶおよんなん信良のぶよしあたえられることになり、信良のぶよし元和がんわ2ねん(1616ねん)に福島ふくしま御殿ごてんはいった[3]小幡おばたはん織田おだ信長のぶながまごであったことから、特別とくべつ国主こくしゅかく待遇たいぐうあたえられた[8]

寛永かんえい3ねん(1626ねん)に信良のぶよしぼっすると、2さいしんじあきら跡目あとめ相続そうぞく[3]だい2だい藩主はんしゅとなった。信雄のぶおいのちによって、しんあきら叔父おじにあたる織田おだ高長こうちょう後見こうけんつとめた[3]。このしんあきらのときに検地けんちおこなわれて藩政はんせい基礎きそかためられた。小幡おばたむら小幡おばた陣屋じんや建設けんせつされ、はんちょう福島ふくしまからうつされたのもしんじあきら時代じだいである[3]寛永かんえい6ねん(1629ねん)に移転いてん決定けっていされ、そのまちりや水道すいどう敷設ふせつなどが計画けいかく実施じっしされ、寛永かんえい19ねん(1642ねん)に普請ふしん終了しゅうりょうしてはんちょう移転いてんしたとされる[3]小幡おばた陣屋じんや隣接りんせつして庭園ていえんらく山園やまぞの」が造営ぞうえいされているが、この庭園ていえんについては造営ぞうえい時期じきさくにわしゃがはっきりしない[3]。『楽山らくざんえん由来ゆらい』によれば元和がんわ7ねん(1621ねん)に織田おだ信雄のぶお造営ぞうえいしたとつたえており[3]、これをしんじれば小幡おばたむらにははんちょう建設けんせつされる以前いぜん庭園ていえん別邸べっていがあった可能かのうせいがある[3]

しんじあきら治世ちせい末期まっきから財政難ざいせいなんはじまり、たかられき5ねん1755ねん)のだい5だい藩主はんしゅ織田おだしんみぎだいには収入しゅうにゅうが6269りょうであるのにたいして、支出ししゅつが2ばいちかくの1まん2844りょうおよんだ。だい7だい藩主はんしゅしんじくにだいである明和めいわ3ねん(1766ねん)には、はん財政ざいせい再建さいけんをめぐって重臣じゅうしんあいだ紛争ふんそうしょうじたが[3]、これをきっかけとして明和めいわ4ねん1767ねん)に尊王そんのう思想家しそうか山県やまがた大弐だいにらがらえられた(明和めいわ事件じけん)。明和めいわ事件じけん連座れんざしてしんじくに蟄居ちっきょ処分しょぶんとなり、しんくにあといだ養嗣子ようしししん出羽でわ高畠たかはたはんうつされた。このとき、国主こくしゅかく待遇たいぐう廃止はいしされた。

奥平おくだいら松平まつへい治世ちせい

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明和めいわ4ねん(1767ねん)9がつに、上野うえの上里見かみさとみはんおも幕府ばくふ若年寄わかどしよりつとめていたまつ平忠恒たいらのただつね奥平おくだいら松平まつへい)が2まんせきはいる。なお、ちゅうつね織田おだ縁戚えんせきであり[3]奥平おくだいら松平まつへい奥平おくだいらしんあきら子孫しそんにあたるいえである。

奥平おくだいら松平まつへい歴代れきだい藩主はんしゅ4にん若年寄わかどしより寺社じしゃ奉行ぶぎょう奏者そうしゃばんなどを歴任れきにんした。しかしはん財政ざいせい困窮こんきゅう領内りょうない荒廃こうはいすすみ、寛政かんせい11ねん1799ねん)に困窮こんきゅう農民のうみん救済きゅうさい低利ていり貸付かしつけきん制度せいどめぐみみんこう)を制度せいどしたが、効果こうかはなかった。はん借金しゃっきんであるが、天保てんぽう15ねん1844ねん)には収入しゅうにゅうたいして借金しゃっきんが10ばいちかくの7まん4032りょうにまでなっていたとわれている。松平まつだいらただしめぐみ若年寄わかどしよりつとめた功績こうせきにより、よしみなが3ねん(1850)に「城主じょうしゅかく」の格式かくしきみとめられており[3][1]以後いご小幡おばた陣屋じんや」は「小幡おばたじょう」とばれる[3]

幕末ばくまつには激動げきどうなみまれてるべきところもほとんどなく、明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうではしん政府せいふがわくみしてはん維持いじするのが精一杯せいいっぱいであった。翌年よくねん版籍はんせき奉還ほうかん最後さいご藩主はんしゅ忠恕ただひろはんごととなり、明治めいじ4ねん廃藩置県はいはんちけん小幡おばたはんはいされて小幡おばたけんとなり、同年どうねん10がつには群馬ぐんまけん編入へんにゅうされた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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奥平おくだいら

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譜代ふだい 3まんせき

  1. しんじあきら(のぶまさ)〔したがえ美作みさくまもる

水野みずの

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譜代ふだい 1まんせき

  1. 忠清ただきよ(ただきよ)〔したがえ隼人はやとせい

永井ながい

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譜代ふだい 1.7まんせき

  1. ちょくかち(なおかつ)〔したがえ右近うこん大夫たいふ

織田おだ

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外様とざま 2まんせき

  1. 信良のぶよし(のぶよし)〔したがえよんひだり少将しょうしょう
  2. しんじあきら(のぶまさ)〔したがえよん兵部ひょうぶ大輔だいすけ
  3. 信久のぶひさ(のぶひさ)〔したがえよん越前えちぜんまもる 侍従じじゅう
  4. しん(のぶなり)〔したがえよん美濃みのまもる 侍従じじゅう
  5. しんみぎ(のぶすけ)〔したがえよん兵部ひょうぶ大輔だいすけ
  6. 信富しんとみ(のぶとみ)〔したがえ和泉いずみまもる
  7. しんじくに(のぶくに)〔したがえ美濃みのまもる

松平まつだいら奥平おくだいら

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譜代ふだい 2まんせき

  1. ちゅうつね(ただつね)〔したがえ宮内みやうちしょう輔〕
  2. ちゅうぶく(ただよし)〔したがえ采女うねめせい
  3. ちゅうめぐみ(ただしげ)〔したがえ宮内みやうちしょう輔〕
  4. 忠恕ただひろ(ただゆき)〔したがえ摂津せっつもり

藩邸はんてい

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幕末ばくまつ領地りょうち

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい
  2. ^ 日本にっぽんこう辞典じてん巻末かんまつ附録ふろく大名だいみょう配置はいち」(はん網羅もうら志向しこうするものではなく、主要しゅようはんについてげるひょう)では「小幡おばたはん」の藩主はんしゅとして奥平おくだいらげられていない[6]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 小幡おばたはん”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)(コトバンク収録しゅうろく. 2022ねん2がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 小幡おばたきょう(中世ちゅうせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてんきゅう地名ちめい. 2022ねん5がつ15にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 甘楽かんらまち歴史れきしをたどる”. 甘楽かんらまち. 2022ねん2がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ a b はん城下町じょうかまち事典じてん, p. 144.
  5. ^ a b c 小幡おばたはん近世きんせい”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてんきゅう地名ちめい. 2022ねん5がつ15にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c 日本にっぽんこう辞典じてん, p. 巻末かんまつ82.
  7. ^ 日本にっぽんこう辞典じてん, p. 371.
  8. ^ 羽前うぜん天童てんどう織田おだ」など
  9. ^ 織田おだ織田おだ信秀のぶひで以来いらいの「勤皇きんのう」を自負じふしている。のちに同族どうぞく織田おだしげるおやは、勅使ちょくし饗応きょうおう作法さほう指南しなん畠山はたけやまよしやすし)を同役どうやく前田まえだ利昌としまさきびしく指導しどう斬殺ざんさつされている。
  10. ^ よしみえい慶応けいおう 江戸えどきり絵図えず」(尾張おわりきよし七板なないた)

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽんこう辞典じてん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん 
  • 二木ふたき謙一けんいち監修かんしゅう工藤くどうひろしただしへんはん城下町じょうかまち事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2004ねん 

関連かんれん項目こうもく

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関連かんれんリンク

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先代せんだい
上野うえのこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1617ねん - 1871ねん 小幡おばたはん小幡おばたけん
次代じだい
群馬ぐんまけんだい1