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菊間きくまはん

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菊間きくまはん(きくまはん)は、明治維新めいじいしん短期間たんきかん上総かずさこく市原いちはらぐん菊間きくまむら現在げんざい千葉ちばけん市原いちはら菊間きくま)にはんちょういて存在そんざいしたはん越後えちごこく三河みかわこくにも管轄かんかつゆうした。1868ねん駿河するが沼津ぬまづはん5まんせき水野みずのうつりふうされて成立せいりつし、1871ねん廃藩置県はいはんちけんまで存続そんぞくした。

歴史れきし

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菊間藩の位置(千葉県内)
千葉
千葉ちば
鶴牧
鶴牧つるまき
八幡→
八幡やはた
木更津
木更津きさらづ
菊間
菊間きくま
関連かんれん地図ちず千葉ちばけん[注釈ちゅうしゃく 1]

慶応けいおう4ねん/明治めいじ元年がんねん1868ねん)5がつしん政府せいふ徳川とくがわ家達いえさと駿河するがこく遠江とおとうみこくうち70まんせきあたえ(駿府すんぷはん)、駿しゅんとお大名だいみょう房総ぼうそうへの移転いてんめいじた。沼津ぬまづはん5まんせき藩主はんしゅであった水野みずの忠敬ちゅうけいただのりも、駿河するが国内こくない領地りょうち2まん3700せきうえとなり、上総かずさこく市原いちはらぐんうちにおいて代地だいちあたえられた[1][2]。7月13にち菊間きくまむらへのはんちょう移転いてん正式せいしき決定けってい[2]、これにより菊間きくまはん成立せいりつした[1]。8月30にち沼津ぬまづじょうしん政府せいふわたされた[2]

しん領地りょうちへは先遣せんけんたい派遣はけんされ、八幡宿はちまんしゅく現在げんざい市原いちはら八幡やはた)の旅籠はたご藤田ふじた」をかり陣屋じんやとして、土地とち測量そくりょうまちりなどをおこなった[3]。のちにかり陣屋じんやきくあいだせんひかりいんうつされた[3]藩主はんしゅ忠敬ちゅうけい江戸えど屋敷やしきうつっており、このあいだ版籍はんせき奉還ほうかんともなって菊間きくまはん知事ちじ任命にんめいされた[3]忠敬ちゅうけい明治めいじ2ねん(1869ねん)7がつ26にちきくあいだはいった[3][注釈ちゅうしゃく 2]

藩士はんし移転いてん一時いちじおこなわれたわけではなく、明治めいじ元年がんねん(1868ねん)からどう5ねん(1872ねん)にかけてすうかれておこなわれた[3]沼津ぬまづじょうわたしにより、まず藩士はんし沼津ぬまづ周辺しゅうへんしょむら分宿ぶんしゅくした[3]家屋かおく解体かいたいされて浜本はまもと市原いちはら八幡やはた)まで海路かいろ輸送ゆそうし、菊間きくままで村田川むらたがわ遡上そじょうさせたという[3]

明治めいじ2ねん(1869ねん)、能満のうまん地区ちく原野げんや藩士はんしはらげ(1人ひとりたり平均へいきん5たん[4])、茶園ちゃえん経営けいえいさせた[5]。また、藩士はんし11めい資金しきんしあって「能満のうまん開墾かいこんしゃ」を結成けっせいし、原野げんや開拓かいたくにあたっている[4][注釈ちゅうしゃく 3]

明治めいじ4ねん(1871ねん)3がつ三河そうごこく飛地とびちりょうで、宗教しゅうきょう政策せいさくをめぐる事件じけん発生はっせいする(大浜おおはま騒動そうどう菊間きくまはん騒動そうどう鷲塚わしづか騒動そうどう[6][7][8]大浜おおはま陣屋じんや派遣はけんされたしょう参事さんじ服部はっとりじゅん[7]明治めいじ政府せいふ方針ほうしんしたが寺院じいん統廃合とうはいごう神道しんとう儀礼ぎれい導入どうにゅうすすめようとし[9]浄土真宗じょうどしんしゅう東本願寺ひがしほんがんじ)の僧侶そうりょ門徒もんと三河みかわまもる法会ほうえ対立たいりつしたもので[7]はん役人やくにん藤岡ふじおかかおる殺害さつがいされる事態じたい発展はってんした[7]事件じけん三河みかわ護法ごほうかい指導しどうしゃであった石川台いしかわだいみね門徒もんと1めい処刑しょけいされた[9]

明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんにともないきくあいだはんはいされ、菊間きくまけんとなった[1]菊間きくまけん同年どうねん11がつだいいち府県ふけん統合とうごうにより木更津きさらづけん統合とうごうされた[1]

歴代れきだい藩主はんしゅ

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水野みずの

きゅう譜代ふだい、5まんせき

  1. 水野みずの忠敬ちゅうけい

領地りょうち

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はいはん時点じてん領地りょうち

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三河みかわこく飛地とびちりょう変遷へんせんは「きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう」ではすで額田ぬかたけん所属しょぞくとされているため詳細しょうさい不明ふめい

上総かずさこく

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菊間きくま

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菊間きくま陣屋じんや菊間きくまはんちょう)は、菊間きくまむらくもさかい(くものきょう)という小字こあざかれた[1]村田川むらたがわ菊間きくま台地だいち地形ちけい利用りようして[10]すうせんつぼ用地ようち[3]防禦ぼうぎょてきした陣屋じんや計画けいかくしていたとされる[10]鐘楼しゅろうそなえた宏壮こうそうはんごと御殿ごてんと、かいての「医局いきょく」は完成かんせいしたが[3]はんちょうについては土地とち造成ぞうせいして土台どだいきずいた時点じてん廃藩置県はいはんちけんむかえ、建設けんせつ中断ちゅうだんしたという[3][注釈ちゅうしゃく 4]

廃藩置県はいはんちけん御殿ごてん木更津きさらづけん管理かんりうつったとされる[3][注釈ちゅうしゃく 5]医局いきょく建物たてもののち菊間きくまむら役場やくばとして使用しようされたが[3][16]、1900ねん明治めいじ33ねん)に暴風雨ぼうふううのため倒壊とうかいした[16]。21世紀せいき現在げんざい陣屋じんやあと遺構いこうべるようなものはなく[17][18]忠魂碑ちゅうこんひ[18]や「高柳たかやなぎ先生せんせいいしぶみ[19][注釈ちゅうしゃく 6]などの石碑せきひならとなっている。

菊間きくま徳永とくながたい地区ちくには武家ぶけ屋敷やしき長屋ながやきずかれた[10]きくあいだとその周辺しゅうへん大厩おおまや山木やまき草刈くさかり)には藩士はんし644移住いじゅうして、人口じんこうすうせんにんえたという[3][注釈ちゅうしゃく 7]増加ぞうかした人口じんこうんで商家しょうかならぶようになったが、廃藩置県はいはんちけん秩禄処分しょぶんけて商人しょうにんたちはり、商業しょうぎょうてき発展はってん頓挫とんざしたという[3]廃藩置県はいはんちけん藩士はんし子孫しそんおおきくあいだ八幡やはたらした[15]

三河みかわこく

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大浜おおはま陣屋じんや広場ひろばにある陣屋じんや容器ようきである空穂うつぼ(うつぼ)をかたどっている[21]

三河みかわこくりょう管轄かんかつするために碧海あおみぐん大浜おおはまむら現在げんざい愛知あいちけん碧南へきなん羽根はねまち周辺しゅうへん)に大浜おおはま陣屋じんやかれた[21]

明和めいわ5ねん(1768ねん)、旗本はたもと水野みずのただしとも側用人そばようにんにんじられたさい大浜おおはま周辺しゅうへんで6000せき加増かぞうされ[21]大名だいみょう大浜おおはまはんおも)となった[注釈ちゅうしゃく 8]明和めいわ6ねん(1769ねん)に大浜おおはま陣屋じんやかれた[21]ちゅうともはのちに駿河するがこく沼津ぬまづ居城きょじょううつすが(沼津ぬまづはん)、大浜おおはま陣屋じんやには沼津ぬまづから代官だいかん郡代ぐんだい)・手代てだい派遣はけんされた[6]

陣屋じんや跡地あとちは「碧南へきなん大浜おおはま陣屋じんや広場ひろば」(碧南へきなん羽根はねまちいち丁目ちょうめ[21])となっており、「菊間きくまはん陣屋じんや」としるされた記念きねん(「陣屋じんや」)がてられている[21]。このいしぶみははじめ1911ねん明治めいじ44ねん)に建立こんりゅうされたが、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう青銅せいどう供出きょうしゅつされて台座だいざのみとなったため、1959ねん昭和しょうわ34ねん)に再建さいけんされたという経緯けいいゆうする[21]

越後えちごこく

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越後えちごこく領地りょうち支配しはいする代官だいかんしょは、蒲原かまはらぐん五泉いいずみまち現在げんざい新潟にいがたけん五泉いいずみ)にかれた[22]明治めいじ3ねん(1870ねん)、越後えちごこく管轄かんかつ村松むらまつはんおよび新発田しばたはん移管いかんされた[23][注釈ちゅうしゃく 9]

伊豆いずこく

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)』[24]や『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』の「菊間きくまはん」の項目こうもく[25]では、菊間きくまはん伊豆いずこくにも管轄かんかつゆうしたとある。

沼津ぬまづはん時代じだい伊豆いずこく君沢きみざわぐん賀茂かもぐん田方たがたぐんうち領地りょうちがあった[26]君沢きみざわぐん中村なかむら静岡しずおかけん三島みしまなか)の鈴木すずき屋敷やしきないかれた「中村なかむら役所やくしょ」で君沢きみざわぐん田方たがたぐんしょむら管轄かんかつしていた[26]。また、文政ぶんせい年間ねんかん賀茂かもぐん白浜しらはまむら板戸いたど一色いっしょく下田しもだ白浜しらはま)に陣屋じんやいた[26]

明治めいじ元年がんねん(1868ねん)、沼津ぬまづじょうわたした水野みずの忠敬ちゅうけいは、田方たがたぐん戸田とだむら沼津ぬまづ戸田とだ名主なぬし勝呂すぐろ一時いちじせたという[26]。『東京とうきょう新聞しんぶん』の橋本はしもと敬之たかゆき伊豆いずまなぶ研究けんきゅうかい理事りじちょう寄稿きこう記事きじによれば、沼津ぬまづはん伊豆いず国内こくない領地りょうちは、菊間きくまはんへのうつりふうがれて菊間きくまはんりょうとなったとする[26]。ただし、『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』のかくむら記事きじ[注釈ちゅうしゃく 10]では、明治めいじ元年がんねん沼津ぬまづはんから韮山にらやまけん管轄かんかつうつされたとある。

文化ぶんか

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菊間きくまはんは、藩校はんこうとして「あきらおやかん」を開設かいせつした[10]。「あきらおやかん」のは、沼津ぬまづはん時代じだいいた藩校はんこういだものである[10]沼津ぬまづじょうわたされたのち、あきらおやかん一時期いちじき江戸えど藩邸はんていうつされ[30]あきらしん館内かんないに「洋学ようがくきょく」がもうけられたという[30]明治めいじ5ねん(1872ねん)の学制がくせい施行しこう小学校しょうがっこうとなり(現在げんざい市原いちはら市立しりつ菊間きくま小学校しょうがっこう[注釈ちゅうしゃく 11]藩士はんし教員きょういんつとめた[31]。このほか、私塾しじゅくかまえた藩士はんしもいた[31]

ゆかりの人物じんぶつ

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日本にっぽん工業こうぎょう教育きょういくおおきな足跡あしあとのこした手島てじま精一せいいちきくあいだはん出身しゅっしん[32][15]江戸えど藩邸はんていまれた[30]きくあいだあかりおやかんまな[15]江戸えど藩邸はんてい洋学ようがくきょくまなんだとも[30])、明治めいじ3ねん(1870ねん)に米国べいこく留学りゅうがくした[30]せいいち実兄じっけい田辺たなべ貞吉さだきち菊間きくまはんしょう参事さんじつとめ、のちに実業じつぎょうかい活躍かつやくした[33]

菊間きくまはんだい参事さんじつとめた三浦みうら千尋ちひろ佐太郎さたろう)は江川えがわ英龍ひでたつ坦庵たくあん)に砲術ほうじゅつまなび、韮山にらやまじゅく塾頭じゅくとうつとめた[33]千尋ちひろ三浦みうらとおる英学えいがくまなび、のちにプロテスタント[注釈ちゅうしゃく 12]牧師ぼくしとして活躍かつやくした[30]

大浜おおはま騒動そうどう当事とうじしゃとしてられる服部はっとりじゅん江川えがわ坦庵たくあん砲術ほうじゅつまなび、蘭学らんがくおさめたという人物じんぶつで、幕末ばくまつ沼津ぬまづはんからの脱藩だっぱんくわだててらえられたという経歴けいれきゆうする[30]服部はっとりじゅん服部はっとりあやゆう教育きょういくしゃ政治せいじとして活動かつどうした[30]

本山もとやますすむ維新いしん江戸えどもうけられた菊間きくまはん洋学ようがくきょく教授きょうじゅにんじられ、明治めいじ2ねん(1869ねん)に海軍かいぐんみさおねりしょ(のちの海軍兵学校かいぐんへいがっこう)に出仕しゅっしし、最終さいしゅうてきには海軍かいぐん少将しょうしょうまでのぼった[33]高見沢たかみざわしげる明治めいじ4ねん(1871ねん)にみつぎしんせいとなり、大阪おおさかへい学寮がくりょう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう前身ぜんしん)にまなんだが、ジャーナリストにてんじて民権みんけん新聞しんぶん日新にっしんこと』の記者きしゃ編集へんしゅうちょうつとめ、『東京とうきょう開化かいか繁盛はんじょう』をあらわした[33]

菊間きくまはんけんだい参事さんじおおやけじんつとめたじゅう川中かわなかは、明治めいじ3ねん(1870ねん)に米国べいこく留学りゅうがくしている[35]明治めいじ5ねん(1872ねん)の文部省もんぶしょう博覧はくらんかい米国べいこくの「めくらいん」からかえったという視覚しかく障碍しょうがいしゃ往復おうふく書簡しょかん出展しゅってんしており、西洋せいよう視覚しかく障碍しょうがいしゃ教育きょういく日本にっぽん紹介しょうかいした先駆せんくしゃ一人ひとりとされる[35]

柔術じゅうじゅつ戸塚とつか彦介ひこすけ沼津ぬまづはんつかえており、水野みずのうつりふうとともにきくあいだ移住いじゅうした[13]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい
  2. ^ 竹内たけうち(2001ねん)は移動いどう時期じきしるしていないものの、隠居いんきょ水野みずの忠寛ただひろ忠敬ちゅうけい先々さきざきだい藩主はんしゅ忠敬ちゅうけい養父ようふである水野みずの忠誠ちゅうせいちち)ははじめ八幡やはた観音かんおんまち称念寺しょうねんじかり住居じゅうきょとし、のちにきくあいだ徳永とくながだいうつったとしるしている[3]
  3. ^ このほか、忠敬ちゅうけい士族しぞく授産じゅさんのために蚕業さんぎょう組合くみあい組織そしきした[5]
  4. ^ はんちょう陣屋じんや)は未完成みかんせいであったという記述きじゅつ複数ふくすう書籍しょせきられる[11][12]。1889ねん明治めいじ22ねん)の『上総かずさこく町村ちょうそん』によれば「菊間きくまはんちょう」はすでにはたけとなっている[13] 。1916ねん大正たいしょう5ねん)の『千葉ちばけん市原いちはらぐん』によればきくあいだはんの「おおやけ廨」(「廨」は役所やくしょ)について言及げんきゅうがあり、稲荷いなり神社じんじゃ南西なんせいがわにあるすうせん畑地はたちがその跡地あとちであるとする[14]おおやけ廨の高楼こうろうにはどきがね設置せっちされていたとあり[14]はんちょうはんことてい御殿ごてん)が混同こんどうされている可能かのうせいがある。
  5. ^ 千葉ちばけん市原いちはらぐん』によれば、木更津きさらづけん移管いかんされたのは「おおやけ廨」の建物たてもの[14]竹内たけうち(2001ねん)によれば、きくあいだには水野みずの広壮こうそう旧宅きゅうたくのこっていたといい、忠敬ちゅうけいがしばしばきくあいだおとずれたこと、だい世界せかい大戦たいせんちゅう水野みずの人々ひとびときくあいだ疎開そかいしたことがしるされている[15]
  6. ^ 高柳たかやなぎ先生せんせい」は、菊間きくま藩儒はんじゅ藩校はんこう教授きょうじゅ小学しょうがく訓導くんどうなど教育きょういくしゃとして活動かつどうした高柳たかやなぎくに(1889ねんぼつ)である[20]
  7. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめい辞典じてん』によれば、明治めいじ6ねん(1873ねん時点じてん藩士はんしかずが644にんという[5]
  8. ^ 水野みずのはかつて信濃しなの国松くにまつほん藩主はんしゅであったが、水野みずのただしつねちゅうとも従兄じゅうけい)が刃傷にんじょう事件じけんこし、旗本はたもととして家名かめい存続そんぞくみとめられた。
  9. ^ 開港かいこうとなった新潟にいがた周辺しゅうへん支配しはい関係かんけい再編さいへん関連かんれんする措置そち一環いっかん[23]五泉いいずみまち村松むらまつはんりょうとなった[22]
  10. ^ 中村なかむら[27]白浜しらはまむら[28]戸田とだむら[29]
  11. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめい辞典じてん』によれば、菊間きくま小学校しょうがっこう明治めいじ7ねん(1874ねん)にせんひかりいんにおいて開校かいこうしたとある[5]
  12. ^ 明治めいじ8ねん(1875ねん)にスコットランド一致いっち長老ちょうろう教会きょうかい牧師ぼくしとなった[34]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e 菊間きくまはんちょうあと”. 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい. 2023ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 竹内たけうちかつ 2001, p. 89.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 竹内たけうちかつ 2001, p. 90.
  4. ^ a b 能満のうまんむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d 菊間きくまむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 碧南へきなん歴史れきしへのいざない NO.10 大浜おおはま陣屋じんやってどんなもの?”. 市民しみん病院びょういん ハナちゃん通信つうしん. 碧南市民病院へきなんしみんびょういん管理かんり. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  7. ^ a b c d 碧南へきなん歴史れきしへのいざない NO.11 大浜おおはま騒動そうどうってなにがあったの?”. 市民しみん病院びょういん ハナちゃん通信つうしん. 碧南市民病院へきなんしみんびょういん管理かんり. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  8. ^ <特別とくべつてん> 三河みかわ大浜おおはま騒動そうどう150ねん近代きんだいひかりかげ”. 西尾にしお岩瀬いわせ文庫ぶんこ. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 仏教ぶっきょう弾圧だんあつへの暴動ぼうどう大浜おおはま騒動そうどう」 愛知あいち西尾にしお企画きかくてん 31にちまで”. 朝日新聞あさひしんぶん. (2022ねん8がつ17にち). https://digital.asahi.com/articles/ASQ8J6QFMQ82OBJB00N.html 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん 
  10. ^ a b c d e 竹内たけうちかつ 2001, p. 92.
  11. ^ 千葉ちばけん市原いちはらぐん, p. 350.
  12. ^ 房総ぼうそうにおける近世きんせい陣屋じんや, p. 3.
  13. ^ a b 上総かずさこく町村ちょうそん だいいちへん, 24/83コマ.
  14. ^ a b c 千葉ちばけん市原いちはらぐん, p. 860.
  15. ^ a b c d 竹内たけうちかつ 2001, p. 93.
  16. ^ a b 千葉ちばけん市原いちはらぐん, p. 857.
  17. ^ 上総かずさきくあいだ陣屋じんや”. 城郭じょうかく放浪ほうろう. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  18. ^ a b 菊間きくま陣屋じんや市原いちはら菊間きくま”. くんのホームページ. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  19. ^ 上総かずさ きくあいだ陣屋じんや写真しゃしんしゅう”. 城郭じょうかく放浪ほうろう. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  20. ^ 千葉ちばけん市原いちはらぐん, p. 862.
  21. ^ a b c d e f g 碧南へきなん大浜おおはま陣屋じんや広場ひろば”. 碧南へきなん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  22. ^ a b 五泉いいずみまち(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  23. ^ a b 越後えちご佐渡さどヒストリア[だい97あらたなはん仲間入なかまいきくあいだはんから村松むらまつはん”. 新潟にいがた県立けんりつ公文書こうぶんしょかん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  24. ^ 川名かわなのぼる. “菊間きくまはん”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). 2023ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  25. ^ 菊間きくまはん”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  26. ^ a b c d e “<さい発見はっけん!伊豆いずまなぶ講座こうざ伊豆いず沼津ぬまづはん 水野みずの幕末ばくまつまで統治とうち. 東京とうきょう新聞しんぶん. (2021ねん5がつ23にち). https://www.tokyo-np.co.jp/article/106036 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん 
  27. ^ 中村なかむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  28. ^ 白浜しらはまむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  29. ^ 戸田とだむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん
  30. ^ a b c d e f g h 沼津ぬまづはん出身しゅっしん明治めいじ人物じんぶつ小伝しょうでん, p. 2.
  31. ^ a b 竹内たけうちかつ 2001, pp. 92–93.
  32. ^ 千葉ちばけん市原いちはらぐん, p. 863.
  33. ^ a b c d 沼津ぬまづはん出身しゅっしん明治めいじ人物じんぶつ小伝しょうでん, p. 3.
  34. ^ めくら教育きょういく名前なまえのこしたじゅう川中かわなか, p. 3.
  35. ^ a b めくら教育きょういく名前なまえのこしたじゅう川中かわなか, p. 2.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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  • 鶴牧つるまきはん - 江戸えど時代じだい後期こうき以降いこう市原いちはらぐんない所在しょざいしたはん鶴牧つるまき藩主はんしゅ水野みずの菊間きくま藩主はんしゅ水野みずの分家ぶんけすじにあたる。

外部がいぶリンク

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先代せんだい
上総かずさこく
はんとしては沼津ぬまづはん
行政ぎょうせい変遷へんせん
1868ねん - 1871ねん 菊間きくまはん菊間きくまけん
次代じだい
木更津きさらづけん