(Translated by https://www.hiragana.jp/)
相馬中村藩 - Wikipedia コンテンツにスキップ

相馬そうま中村なかむらはん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

相馬そうま中村なかむらはん(そうまなかむらはん)は、江戸えど時代じだい日本にっぽんで、きゅう陸奥みちのくこく標葉しねはぐんから宇多うだぐんまで(現在げんざい福島ふくしまけんはまどお北部ほくぶ)をおさめたはんである。藩主はんしゅせいから相馬そうまはん(そうまはん)、本拠地ほんきょちめいから中村なかむらはん(なかむらはん)ともばれるが、の「中村なかむらはん」と区別くべつするさいには相馬そうま中村なかむらはん陸奥むつ中村なかむらはんという。

はん政府せいふ中村なかむらしろ相馬そうま)であった。藩主はんしゅ一貫いっかんして相馬そうまで、家格かかくやなぎあいだ外様とざま大名だいみょうのちみかどかんあいだ譜代ふだい大名だいみょうれっせられる。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

相馬そうまたいら一門いちもん名家めいかであり、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき平泉ひらいずみ遠征えんせい1189ねん陸奥みちのくこく行方ゆくえぐん移住いじゅうして、7世紀せいき前半ぜんはん浮田うきた国造くにのみやつこりょう陸奥みちのくこく宇多うだぐん行方ゆくえぐん)を支配しはいおさめて以来いらい1492ねん標葉しねはぐん領土りょうど編入へんにゅうて、戊辰戦争ぼしんせんそう終結しゅうけつ1868ねん)までのやく740年間ねんかんわたってこの統治とうちした。このような長期間ちょうきかん統治とうちおこなった領主りょうしゅは、島津しまつ鹿児島かごしまけん)、相良さがら熊本くまもとけん)、南部なんぶ青森あおもりけん)など少数しょうすうである。

だい16だい当主とうしゅ相馬そうま義胤よしたねは、1600ねん徳川とくがわ家康いえやす会津あいづ上杉うえすぎ景勝かげかつめのため、しょう高城たかぎ帰郷ききょうした。まもなく石田いしだ三成みつなり挙兵きょへいし、関ヶ原せきがはらたたかきた。

関ヶ原せきがはら開戦かいせん直前ちょくぜん水戸みと本拠地ほんきょちとする佐竹さたけ所領しょりょうは53まんせきであった。周囲しゅうい岩城いわき多賀たがたに相馬そうまなどの諸家しょかは、養子ようし縁組えんぐみなどの縁戚えんせき関係かんけいによって、常陸ひたちみなもと嫡流ちゃくりゅうしょうする佐竹さたけ事実じじつじょう盟主めいしゅとしていた。しかも、水戸みと徳川とくがわ家康いえやす本拠地ほんきょちである江戸えどちかく、徳川とくがわおどかしうる勢力せいりょくであった。

このため、相馬そうま関ヶ原せきがはらたたかいに勝利しょうりして全国ぜんこく政権せいけん掌握しょうあくした家康いえやすによって、1602ねん佐竹さたけともにいったん改易かいえきされ、中村なかむらしろしょう高城たかぎおよび関ヶ原せきがはらたたか直前ちょくぜんしん本拠地ほんきょちとして築城ちくじょうした牛越うしごえじょう没収ぼっしゅうされた。水戸みとから秋田あきたげんうたてふうされた佐竹さたけ義宣よしのぶより秋田あきた1まんせきあたえるのでうつるようにさそわれたが、義胤よしたね嫡男ちゃくなん・のちの17だいたね[注釈ちゅうしゃく 1]改易かいえき撤回てっかい直訴じきそもとめたため、義胤よしたね佐竹さたけさそいを丁重ていちょうってたね江戸えどのぼらせた。1602ねん10月、たね訴状そじょうぶんとどけられ、本領ほんりょう安堵あんどされた。このとき徳川とくがわ家臣かしん本多ほんだ正信まさのぶ伊達だてまさしむねからのとりなしもあったという。対立たいりつ関係かんけいにあったせいむねからの斡旋あっせんは、せいむね1600ねん家康いえやすよりいのち上杉うえすぎ景勝かげかつきた信夫しのぶくちからめるべく大坂おおさかから帰国きこくするさい中通なかどお白河しらかわから白石しらいしまで上杉うえすぎりょうみちふさがれていたので、相馬そうま家臣かしん水谷みずたにたねおもせいむね領内りょうない通過つうか便宜べんぎはかったためという。所領しょりょう安堵あんどさい完成かんせいしたばかりの牛越うしごえじょう廃止はいししてゆえしょう高城たかぎ本拠ほんきょもどしている。1607ねんには江戸城えどじょう石垣いしがき普請ふしん人夫にんぷ600にん差出さしだしている。

1611ねんまでに、天正てんしょう時代じだい以前いぜん城代じょうだいかれていた中村なかむらしろ改修かいしゅう。これにより、相馬そうま本拠地ほんきょちしょう高城たかぎ中村なかむらじょうの2しろから、中村なかむらじょうの1しろのみに転換てんかんされた。1612ねん義胤よしたねしょう高城たかぎより泉田いずみた隠居いんきょした。初代しょだい藩主はんしゅが16だい義胤よしたねか17だいたねかは、はん成立せいりつ関ヶ原せきがはらたたかとするか大坂おおさかじんこうとするかとうによって諸説しょせつある(以下いかとう記事きじではたね初代しょだいとする)。たねおよび18だい義胤よしたねだい2だい藩主はんしゅ)のだいには、高禄こうろく家臣かしん城下じょうかへの移住いじゅう城下じょうか在住ざいじゅう家臣かしんの廩米知行ちぎょう在郷ざいきょう家臣かしん削減さくげん都合つごうさん検地けんちとうにより、近世きんせい大名だいみょうとしての体制たいせいととのった。また、19だい相馬そうまただしたねだい3だい藩主はんしゅ)は、徳川とくがわ譜代ふだい土屋つちやからの養子ようしであり、720ねんもの伝統でんとうつ「相馬そうま馬追うまおい」にこうてき色彩しきさいくわえ、現在げんざいまでつづ形式けいしき確立かくりつした。また、鎌倉かまくら時代じだいからのつながりで、藩士はんしおおくははんない各地かくち知行ちぎょうあたえられた。天明てんめい年間ねんかん発生はっせいした天明てんめいだい飢饉ききんではだい打撃だげきけ、領民りょうみんおおくが餓死がししたり逃散した。これに危機ききかんいたはん上層じょうそうは、ひそかに真宗しんしゅう教団きょうだん接触せっしょくし、禁制きんせいであった移民いみんえつ中国ちゅうごく現在げんざい富山とやまけんみなみ砺市)などから[1]はんなおしをはかった。

また、先述せんじゅつちゅうたね出自しゅつじから、1659ねんには、中村なかむらはん外様とざまからてんじて譜代ふだいなみあつかいをけることになった。23だいみことたねだい7だい藩主はんしゅ)は1712ねん譜代ふだいとなり、以後いご幕末ばくまつまで譜代ふだい大名だいみょうとしてみかどかんあいだめた。

二宮にのみや尊徳そんとく高弟こうていし、報徳ほうとく仕法しほう実践じっせん触媒しょくばいした。

1868ねん戊辰戦争ぼしんせんそうでは南隣みなみどなり磐城いわきひらはんきたとなり仙台せんだいはんとともに奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかし、7月(旧暦きゅうれき)にははま街道かいどう北上ほくじょうしてきた明治めいじ政府せいふぐんたいして、仙台せんだいはん米沢よねざわはん連携れんけいして応戦おうせんした(磐城いわきたたか)。しかし、すで同盟どうめいがわ敗色はいしょく濃厚のうこうであり、早々そうそう明治めいじ政府せいふぐんがわ降伏ごうぶく方法ほうほう打診だしん。7月29にち旧暦きゅうれき)には同盟どうめいがわはんへいへの糧食りょうしょく供給きょうきゅう停止ていし、8がつ2にち旧暦きゅうれき)にひらかれた重臣じゅうしん会議かいぎにより同盟どうめいからの離脱りだつ降伏ごうぶく内定ないていした。仙台せんだいはん重臣じゅうしんからの抗議こうぎけたものの決定けっていくつがえされず、8がつ7にち旧暦きゅうれき)には明治めいじ政府せいふぐんである薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんらのはんへい奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとく四条しじょうたかし中村なかむらじょうはいり、名実めいじつともに降伏ごうぶく決定けっていした[2]。これ以後いご中村なかむらじょう明治めいじ政府せいふぐん支配しはい拠点きょてんとなり、中村なかむらじょう解体かいたいされた。

1871ねん8がつ29にち廃藩置県はいはんちけんにより中村なかむらはん名実めいじつともに消滅しょうめつし、中村なかむらけん成立せいりつした。その中村なかむらけん1872ねん1がつ9にちにはたいらけんきゅう磐城いわきひらはん)と合併がっぺいされていわぜんけんとなり、そのいわぜんけん1876ねん8がつ21にち福島ふくしまけん成立せいりつによって消滅しょうめつした。

居城いじろ[編集へんしゅう]

中村なかむらしろ福島ふくしまけん相馬そうま中村なかむら北町きたまち)。1611ねん藩政はんせいかれるまえには、相馬そうま中村なかむら城代じょうだい本拠地ほんきょちであった。土佐とさこく中村なかむらしろ区別くべつするため、「相馬そうま中村なかむらしろ」とばれることもある。

領地りょうち[編集へんしゅう]

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

  1. 相馬そうま大膳だいぜんあきらとぎたね
  2. 相馬そうま大膳だいぜんあきら義胤よしたね
  3. 相馬そうま長門ながとまもるちゅうたね
  4. 相馬そうま出羽守でわのかみ貞胤さだたね
  5. 相馬そうま弾正だんじょうしょう弼昌たね
  6. 相馬そうま長門ながとまもるじょたね
  7. 相馬そうま弾正だんじょうしょう弼尊たね
  8. 相馬そうま長門ながとまもるじょたね
  9. 相馬そうま弾正だんじょうしょう弼祥たね
  10. 相馬そうまゆたかぜんもりじゅたね
  11. 相馬そうま長門ながとまもるえきたね
  12. 相馬そうま大膳だいぜん大夫たいふたかしたね
  13. 相馬そうま因幡いなばまもるまことたね

幕末ばくまつ領地りょうち[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしんのち標葉しねはぐん2むらきゅう三春みはるはんりょう)がくわわった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじは「相馬そうまさんたね」、このときに「みつたね」に、のちに再度さいどたね」に改名かいめいとう記事きじではすべて「たね」とする。
  2. ^ 標葉しねはぐんのうち2むら三春みはるはんりょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ みなみ砺市から福島ふくしまけんみなみ相馬そうま支援しえん”. みなみ砺市 (2011ねん4がつ17にち). 2012ねん1がつ17にち閲覧えつらん。 “きゅう相馬そうま中村なかむらはんりょう天明てんめいだい飢饉ききん(1810ねん)……激減げきげんした人口じんこう増加ぞうかはかるため……みなみ砺市うち全域ぜんいきからおおくのほう移民いみん
  2. ^ 亘理わたりまち亘理わたりまち』p559

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 岩本いわもとゆかりてる歴史れきしとしての相馬そうま はな相馬そうまじつ伊達だてに』(かたなすい書房しょぼう、2001ねんISBN 4887082576

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
陸奥みちのくこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1602ねん - 1871ねん 中村なかむらはん中村なかむらけん
次代じだい
いわぜんけん