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福江ふくえはん

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福江ふくえはん(ふくえはん)は、江戸えど時代じだい肥前ひぜんこくにおいて、五島列島ごとうれっとう全域ぜんいきおさめたはん五島ごしまはん(ごとうはん)ともばれる。はん成立せいりつから版籍はんせき奉還ほうかんまで外様とざま大名だいみょう五島ごしま藩主はんしゅつとめた。石高こくだかは1まん5000せき一時いちじ富江とみえりょうに3000せきぶんし、1まん2000せきとなる)で、はんちょう石田いしだしろ当初とうしょ江川えがわじょう現在げんざい長崎ながさきけん五島ごしま)で城主じょうしゅ大名だいみょうだった。

りゃく

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文治ぶんじ3ねん1187ねん)、平家ひらかもり平忠盛たいらのただもり次男じなん平清盛たいらのきよもり異母弟いぼてい)が宇久島うくしま上陸じょうりくし、宇久うくせい名乗なのる。かんおう2ねん1351ねん)、宇久うくさとし宇久うくより福江ふくえとう岐宿きしくうつり、天正てんしょう15ねん1587ねん)、宇久うくじゅんげん(すみはる)が五島ごしませいへとあらためる。はん成立せいりつ江戸えど時代じだい初頭しょとう慶長けいちょう8ねん1603ねん)に、初代しょだい藩主はんしゅ五島ごしまげんみやび五島ごしまじゅんげん嗣子しし)が徳川とくがわ家康いえやすに謁し、1まん5せんせき所領しょりょうみとめる朱印しゅいんじょう下賜かしされたことにはじまる。

だい2だい藩主はんしゅもりとしは、げんみやび養子ようしとして慶長けいちょう17ねん1612ねん)にそのあといだ。元和がんわ5ねん1619ねん)、げんみやび実子じっし五島ごしまかくみぎ衛門えもん養子ようしであった大浜おおはましゅみずが、後継こうけいしゃ権利けんり主張しゅちょうもりとし失政しっせい幕府ばくふたい直訴じきそした。しかし幕府ばくふもりとし正当せいとうせいみとめ、しゅみずうったえを退しりぞけた。もりとしおもすいとその一派いっぱ処刑しょけいした。いわゆる「大浜おおはましゅみず事件じけん」である。この事件じけん藩主はんしゅ支配しはいけん強化きょうか着手ちゃくしゅし、藩政はんせいいしずえきずいた。へいのう分離ぶんり徹底てっていと、かく知行ちぎょう居住きょじゅうしていた家臣かしんだんたいし「福江ふくえなおり(ふくえなおり)」とばれる福江ふくえ城下じょうかへの移住いじゅう強制きょうせいした。福江ふくえなおりは寛永かんえい11ねん1634ねん)に完了かんりょうしている。寛永かんえい12ねん1635ねん)には領内りょうない検地けんち実施じっしし、曖昧あいまいであった家臣かしんだん知行ちぎょうだか序列じょれつ決定けっていした。さらに、慶長けいちょう19ねん1614ねん)に焼失しょうしつした江川えがわしろわって、寛永かんえい14ねん1637ねん)、石田いしだ陣屋じんや建設けんせつしてはんちょう整備せいびおこなった。うけたまわおう元年がんねん(1652ねん)、漁場ぎょじょうとして最盛さいせいむかえて居住きょじゅうしゃえていた男女群島だんじょぐんとうに「女島めしま奉行ぶぎょう」をあらたに設置せっちした[1]

だい4だい藩主はんしゅもりまさる幼少ようしょう藩主はんしゅとなり、寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん)、その後見こうけんやく叔父おじもりきよし富江とみえりょう3000せきぶんされた。この捕鯨ほげいさかんではん財政ざいせい基盤きばんとなっていた。しかし富江とみえりょう成立せいりつ直後ちょくごから福江ふくえ領有りょうゆう川村かわむら現在げんざい南松浦みなみまつうらぐんしん上五島かみごしままち)と富江とみえりょうぎょむらしん上五島かみごしままち)の漁民ぎょみんあいだで、流血りゅうけつにまでいた漁業ぎょぎょうけん問題もんだい発生はっせいした。幕府ばくふ仲介ちゅうかいにより元禄げんろく2ねん1689ねん)、入会にゅうかい制度せいど成立せいりつして問題もんだい解消かいしょうした。その捕鯨ほげいによる利潤りじゅんはん財政ざいせいうるおうこととなった。

捕鯨ほげいうるおっていたはん財政ざいせいも、江戸えど時代じだい後半こうはんになると度重たびかさなる飢饉ききんにより逼迫ひっぱくすることとなった。このため、だい6だい藩主はんしゅもりけい領内りょうない労働ろうどう人口じんこう把握はあくして確保かくほするため、とおる6ねん1721ねん)より「ひとあらため」とばれる徹底てっていした人身じんしん把握はあく政策せいさく開始かいしし、かく世帯せたい家族かぞくすう年齢ねんれい世帯せたいぬしとの続柄つづきがら出自しゅつじ身分みぶんこまかくひとづけちょう記載きさいした。

だい7だい藩主はんしゅもりみちたかられき11ねん1761ねん)、「さんねん奉公ほうこうせい」とばれる藩政はんせい史上しじょう最大さいだいあくせい開始かいしした。これは領民りょうみん長女ちょうじょのぞむすめが16さいたっすると福江ふくえ武家ぶけへ3年間ねんかん無給むきゅう奉公ほうこうされるといういわば奴隷どれい制度せいどちかいものであった。3ねん奉公ほうこうのちさとかえ結婚けっこんするのであるが、離婚りこんすると再度さいど、3年間ねんかん奉公ほうこうされた。こめ5せきまたはぎん300もんめはんせば免除めんじょされるというみちもあったが、相当そうとう裕福ゆうふく領民りょうみんでなければ捻出ねんしゅつできるがくではなく、ほとんどの領民りょうみん奉公ほうこうされた。「ひとあらため」とともにこの制度せいど幕末ばくまつまでつづいた。

よしみひさし2ねん1849ねん)、幕府ばくふより築城ちくじょう許可きょか富江とみえ藩主はんしゅ五島ごしまもりぬき受領じゅりょうし、だい10代藩主はんしゅ五島ごしまもりしげる着工ちゃっこうした。文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)、だい11だい五島ごしま藩主はんしゅ盛徳せいとくによって、日本にっぽんもっとあたらしいしろとして石田いしだしろ竣工しゅんこうした。

明治めいじ4ねん1871ねん)、廃藩置県はいはんちけんにより福江ふくえけんとなる。のち、長崎ながさきけん編入へんにゅうされた。明治めいじ2ねん(1869ねん)にきゅう藩主はんしゅ五島ごしま華族かぞくれっし、明治めいじ17ねん(1884ねん)に子爵ししゃくとなった。盛徳せいとくあといだもりぬしには男子だんしがなかったが、きゅう新発田しばたはん主家しゅか溝口みぞぐちただしじゅうろくなん盛光もりみつ養子ようしむかえることで無事ぶじいえ存続そんぞくさせた。しかし盛光もりみつ後継こうけいしゃだったもりあきら昭和しょうわ20ねん1945ねん8がつ9にち長崎ながさき原子げんしばくだん被爆ひばくしたことが原因げんいん9月2にち卒去そっきょした。もりあきら夫人ふじんあいだには子供こどもがいなかったため、当主とうしゅながあいだ不在ふざいであったが1986ねん夫人ふじんおい夫人ふじんいもうと)である典昭のりあき養子ようしはいり、当主とうしゅいでいる[2]

歴代れきだい藩主はんしゅ

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五島ごしま 外様とざま 1まん5000せき→1まん2000せき→1まん5000せき

  1. げんみやび
  2. もりとし
  3. もり
  4. もりまさる ぶんにより1まん2せんせき
  5. もりとおる
  6. もりけい
  7. もりみち
  8. 盛運せいうん
  9. もりしげる
  10. もりしげる
  11. 盛徳せいとく 合併がっぺいにより1まん5あまりせんせき

富江とみえりょう富江とみえはん

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五島ごしまだい23だい当主とうしゅ福江ふくえはんだい3だい藩主はんしゅ)・五島ごしまもりおとうと五島ごしまもりきよし富江とみえ五島ごしま初代しょだい当主とうしゅ)が、寛文ひろふみ元年がんねん(1661ねん)、宗家そうけ福江ふくえはんよりぶんして富江とみえはん成立せいりつし、政庁せいちょうとして富江とみえ陣屋じんやきずかれた。石高こくだかは3000せきで、高家こうか交代こうたい寄合よりあい大名だいみょうかく)としてあつかわれた。

だい6だい当主とうしゅ五島ごしまはこぶりゅう瑞鳳ずいほうこう)は、将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりがわしゅだい番頭ばんがしらやく京都きょうと二条城にじょうじょうざいつがえだい坂城さかきばん諸国しょこく巡見じゅんけん使歴任れきにんした。だい7だい当主とうしゅ五島ごしまもりぬき将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもちがわしゅ)の時代じだいには、だか1まん600せきとなった。

慶応けいおう4ねん1868ねん)、福江ふくえほんはん藩主はんしゅ五島ごしま盛徳せいとく政府せいふもうたことにより、だい8だい当主とうしゅ五島ごしま盛明もりあきだい領地りょうち没収ぼっしゅう福江ふくえはん併合へいごうされ、わりに蔵米くらまいさんせんせきわたすことになったが、これは福江ふくえはん海防かいぼうなどによる出費しゅっぴえるため、収入しゅうにゅうぞう目指めざしたものであった。富江とみえ領民りょうみん反発はんぱつし、武装ぶそう蜂起ほうきしてはげしく抵抗ていこうした(富江とみえ騒動そうどう)。明治めいじ2ねんしん政府せいふにより沙汰さたされ、旧領きゅうりょうないの1せんせきのみがみとめられた。ただしこの1せんせき認可にんか実体じったいいものであり、同年どうねんちゅうおなじくしん政府せいふにより代替だいたいとして北海道ほっかいどう寿都すっつまちあたえられたが、これも移住いじゅうなどの行動こうどうおこなっていない。

歴代れきだい富江とみえ領主りょうしゅ

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五島ごしま 表高おもてだか交代こうたい寄合よりあい 3000せき

  1. もりきよし
  2. もりあきら - しつ筒井つつい正勝まさかつむすめ元禄げんろく元年がんねん(1688ねん)に藩校はんこう成章せいしょうかん開設かいせつした。
  3. もりしょう
  4. もりみね - しつ小笠原おがさわら貞通さだみちむすめ
  5. もりきょう - 五島ごしまもりみちよんなんしつ奥田おくだこうはじめむすめ
  6. うんりゅう - しつ京極きょうごく高文たかふみむすめ後室こうしつはやし忠英ただひでむすめ
  7. もりぬき - 婿養子むこようし[※ 1]徳川とくがわ家茂いえもちさむらいやく福江ふくえほんはん福江ふくえじょう築城ちくじょう許可きょかりつける。異国いこく船方ふなかた在役ざいえき
  8. もりあきら - 実父じっぷ溝口みぞぐちようただし
  9. もとみん - 実父じっぷ五条ごじょうためじょう
  10. さと千代ちよ - 初代しょだい富江とみえ町長ちょうちょう

幕末ばくまつ領地りょうち

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このほか明治維新めいじいしんのち富江とみえりょうだい8だい当主とうしゅ五島ごしま盛明もりあき後志しりべこく磯谷いそだにぐん南部なんぶ領地りょうちとしている。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実父じっぷ松平まつだいら維賢?

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
肥前ひぜんこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1603ねん - 1871ねん 福江ふくえはん福江ふくえけん
次代じだい
長崎ながさきけん