苗木なえぎはん

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苗木なえぎはん(なえぎはん)は、現在げんざい岐阜ぎふけん中津川なかつがわ苗木なえぎ存在そんざいした、江戸えど幕府ばくふ譜代ふだい大名だいみょう最小さいしょうしろはん居城きょじょう苗木なえぎじょう美濃みのこく恵那えなぐん一部いちぶ加茂かもぐん東部とうぶ領地りょうちとしていた[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

苗木なえぎはん成立せいりついた過程かてい[編集へんしゅう]

苗木なえぎはんはん遠山とおやまともせいである。

ともせいもと飯羽間いいばま遠山とおやま出身しゅっしんであったが、遠山とおやまただしれん死去しきょにより苗木なえぎ遠山とおやま後継こうけいえたため、織田おだ信長のぶながいのちにより祖父そふ友勝ともかついだ。

友勝ともかつくなると飯羽間いいばまじょうおもであったちち遠山とおやまともただし苗木なえぎ遠山とおやまいだ。

天正てんしょう11ねん1583ねん)、ともちゅうひがし美濃みの覇権はけんめぐって森長もりながあらそい、そのくださそえってたたかってやぶ苗木なえぎじょううばわれた。ともちゅうともせい家臣かしんれて徳川とくがわ家康いえやすたよってび、三河みかわほうじょうおも菅沼すがぬまじょう配下はいかぞくしたが、ともちゅうすうねんぼっした。

天正てんしょう18ねん1590ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつこう北条ほうじょうたおしたのち徳川とくがわ関東かんとうてんふうとなると、ともせい榊原さかきばら康政やすまさ(あるいは井伊いい直政なおまさ)にぞくして、その領地りょうちである上野うえのこく館林たてばやしうつった。このとき苗木なえぎ遠山とおやま遠山とおやまわたるみぎ衛門えもんけい榊原さかきばら康政やすまさ家臣かしんとなり500せきて、館林たてばやし長岡ながおか遠山とおやまとなった。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)2がつもり忠政ただまさてんふうともなかわしり秀長ひでなが苗木なえぎ城主じょうしゅとなったが、同年どうねん関ヶ原せきがはらたたかかわしり秀長ひでなが西にしぐんくみしたため戦後せんご所領しょりょう没収ぼっしゅうされ、ひがしぐんくみしてひがしたたか武功ぶこうげ、苗木なえぎじょう奪還だっかんしたともせいに1まん500せきあたえられて苗木なえぎはんたてはんした。

苗木なえぎはん成立せいりつ過程かてい[編集へんしゅう]

徳川とくがわ幕府ばくふうら木曽きそばれる付知つけちむら川上かわかみむら加子母かしもむらさんそん良材りょうざい産地さんちであるため、苗木なえぎ遠山とおやまからげて直轄ちょっかつにして苗木なえぎはんあづけていたが、元和がんわ元年がんねん1615ねん尾張おわりはんりょう移管いかんした。尾張おわりはんさんヶ村かそん代官だいかんいて支配しはいした。

ともせいはその大坂おおさかふゆじんではくわ名城めいじょう守備しゅび大坂おおさかなつじんでは松平まつだいら忠明ただあきぞくして武功ぶこうげ、元和がんわ5ねん1619ねん)12月19にち苗木なえぎ死去しきょした。

藩政はんせいにおいてはしょうはんゆえの、幕府ばくふ相次あいつ手伝てつだ普請ふしん軍役ぐんえきなどにより、財政ざいせい窮乏きゅうぼうはやくからはじまる。歴代れきだい藩主はんしゅ藩政はんせい維持いじのためきびしい倹約けんやくれいし、天保てんぽう年間ねんかんにはきゅうまい全額ぜんがくげをおこなうなどした。

だい3だい藩主はんしゅ遠山とおやまともさだ新田にった開発かいはつおこなって4286せき新田しんでん開発かいはつしたが、だい5だい藩主はんしゅ遠山とおやまともゆかり大坂おおさかばんだい6だい藩主はんしゅ遠山とおやまともしょう駿府すんぷばんによる出費しゅっぴ重荷おもにとなった。

とおる7ねん1722ねん)6がつ15にち遠山とおやまともゆかり遺言ゆいごんにより、おとうと遠山とおやまともひさし美濃みのこく加茂かもぐんにおいて500せきぶんされて、旗本はたもととなり寄合よりあい所属しょぞくした。

とおる17ねん1732ねんうるう5がつ25にちだい6だい藩主はんしゅおい遠山とおやまともしょう死去しきょにより、旗本はたもととなっていた叔父おじともひさし末期まっき養子ようしとして家督かとく相続そうぞくした。ともひさし藩主はんしゅ相続そうぞくにあたり、ぶんされていた500せき幕府ばくふ返上へんじょうした結果けっか表高おもてだかが1まん21せきとなった。

しかし500せき幕府ばくふ返上へんじょうしたことは苗木なえぎはんにとっておおきな痛手いたでで、幕府ばくふへの対応たいおうつたなかったとのことで江戸えど家老がろう大脇おおわき権右衛門ごんうえもん失脚しっきゃくした。

500せき飛騨ひだちか加茂かもぐん佐見さみむらの4むら大野おおの小野おの寺前てらまえ吉田よしだ)を幕府ばくふわたし、高山たかやま陣屋じんや飛騨ひだぐんだい支配しはいとなった。

しかし13ねんのべとおる2ねん1745ねん高山たかやま陣屋じんや飛騨ひだぐんだい長谷川はせがわただしたかし(ちゅうかさ)から幸田こうだ高成たかなり(ぜん太夫たゆう)にわると、佐見さみむら210せき本田ほんだであるが、290せき新田しんでんなのでうえともできないのでべつむらから本田ほんだを290せきすようにもとめられた。

そのため下野げやむら369せきのうち、290せき幕府ばくふ高山たかやま陣屋じんや飛騨ひだぐんだい)にわたすこととし、のこり79せき苗木なえぎはんのこした。そのことにより、佐見さみむら新田しんでんぶんの290せき苗木なえぎはんもどった。

幕末ばくまつから廃藩置県はいはんちけんいた過程かてい[編集へんしゅう]

最後さいご藩主はんしゅだい12だい遠山とおやまともろく文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)と元治もとはる元年がんねん1865ねん)の2にわたって若年寄わかどしよりとなり、慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)に大坂おおさか警備けいびだい長州ちょうしゅう征伐せいばつ参加さんかしたことなどの出費しゅっぴかさなって財政ざいせいくるまとなり、従来じゅうらい倹約けんやくれいくわえて5種類しゅるい藩札はんさつ発行はっこうによる改革かいかくはかったが、つい財政ざいせい破綻はたんした。

明治維新めいじいしん、14まん3せんりょう藩札はんさつ1まん5900りょうあったはん借金しゃっきんは、苗木なえぎじょうやぶ却にともな建材けんざい武具ぶぐなどの売却ばいきゃく藩士はんしそつ全員ぜんいん帰農きのういえろく奉還ほうかんさせろく支給しきゅう削減さくげんし、さらには帰農きのうほうもとづいてきゅう士族しぞく政府せいふから支給しきゅうされる扶持ふちまいだい参事さんじ以下いか40めいが3年間ねんかん返上へんじょうさせること、はんごと遠山とおやまともろくいえろく全額ぜんがく窮民きゅうみん救済きゅうさいはん経費けいひとすることにより、明治めいじ4ねん1871ねん)8がつには5まん2600りょう藩札はんさつ5せんりょうにまでに縮小しゅくしょうした。しかしきゅう苗木なえぎ藩士はんし生活せいかつ年々ねんねん逼迫ひっぱくし、自殺じさつしゃまで事態じたいとなった。

廃仏毀釈はいぶつきしゃく[編集へんしゅう]

岐阜ぎふけん東白川ひがししらかわむら役場やくばわきにある「よっりの南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」。苗木なえぎはん廃仏毀釈はいぶつきしゃくに4つにられて庭石にわいしなどにされたのち、廃仏毀釈はいぶつきしゃく破片はへんあつ修復しゅうふくされたもの。中央ちゅうおうったときあとのこ

維新いしん直後ちょくご平田ひらた国学こくがく影響えいきょうけた藩政はんせい改革かいかくはかられ、青山あおやまけいどおり青山あおやま直通ちょくつう親子おやこらが先頭せんとうって、領内りょうない徹底てっていした廃仏毀釈はいぶつきしゃく実行じっこうされた(東白川ひがししらかわむら蟠龍寺わだかまたつじなどのれいがある)。

明治めいじ3ねん1870ねん)8がつ7にち苗木なえぎはんちょうわきまえかん政府せいふ役人やくにん)にたいして「神葬しんそうさいねがい」を進達しんたつし、即日そくじつづけで「ねがいつう」の指令しれいけた。これが苗木なえぎはん廃仏毀釈はいぶつきしゃく端緒たんしょである。

同年どうねん9がつ3にち苗木なえぎはんだい参事さんじ青山あおやま直通ちょくつうは、領内りょうないすべての寺院じいんから住職じゅうしょくして、「今回こんかい王政おうせい復古ふっこニツキ領内りょうない寺院じいん廃寺はいじ申付もうしつけこうはやヤカニ御請おうけスヘシ、就ヒテハ還俗げんぞくスルしゃニハ従来じゅうらいてらゆう資産しさん及寺とうしもサレ苗字みょうじ帯刀たいとうもとむら内里うちざとただし上席じょうせきタルヘシ」ともうわたした。

苗木なえぎ藩主はんしゅ菩提寺ぼだいじくも林寺はやしじ住職じゅうしょくであったつよしそうはじめは、塔頭たっちゅうせいたけいん住職じゅうしょく柞田くにたをはじめとする12ヶてら住職じゅうしょくあつめて対策たいさく協議きょうぎした。

住職じゅうしょく14にん協議きょうぎした結果けっか還俗げんぞくすることがまったが、くも林寺はやしじつよしそうはじめ戴だけは還俗げんぞくこばんだ。

青山あおやまけいどおりつよしそうはじめ戴にたいし、5にん扶持ふち教諭きょうゆとして雇用こようするとの条件じょうけん説得せっとくしたが、これもこばみ、黄金おうごん300りょう苗木なえぎ遠山とおやま歴代れきだい位牌いはい仏具ぶつぐもらけて、下野したのむらなかでも幕府ばくふりょうであったがために苗木なえぎはん廃仏毀釈はいぶつきしゃくおよばなかった地域ちいきにあった法界寺ほうかいじ一室いっしつうつった。

同年どうねん9がつ27にち苗木なえぎはんちょうは「支配しはい廃寺はいじ還俗げんぞく申付もうしつけこうとどけ」を提出ていしゅつし、支配しはい一同いちどう神葬しんそう改宗かいしゅうしたので、管内かんないの15かてら廃寺はいじと、その寺僧じそうたちに還俗げんぞくもうけたことを、べんかん進達しんたつした。

くも林寺はやしじはじめとする苗木なえぎ領内りょうないすべての寺院じいん取壊とりこわされて廃寺はいじとされた。

このとどしょによると、廃寺はいじは15かてらとなっているが、実際じっさいには苗木なえぎくも林寺はやしじ塔頭たっちゅうせいたけいん寿ことぶきあきらいん加茂かもぐん大沢おおさわむら蟠龍寺わだかまたつじ廃寺はいじとなっている。

廃藩置県はいはんちけん明治めいじ4ねん11月22にち1872とし1がつ2にち)、苗木なえぎけん(きゅう苗木なえぎはん)が岐阜ぎふけん吸収きゅうしゅうされ消滅しょうめつすると、廃仏毀釈はいぶつきしゃく終了しゅうりょうした。

はんりょう(版籍はんせき奉還ほうかん時点じてん)[編集へんしゅう]

  • 美濃みのこく恵那えなぐん
    • (中津川なかつがわ)日比ひび野村のむら上地うえじむら瀬戸せとむら坂下さかしたむら上野うえのむら田瀬たせむら福岡ふくおかむら高山たかやまむら蛭川ひるかわむら下野したのむら一部いちぶ
    • (恵那えな)中野方なかのほうむら毛呂けろくぼむらひめ栗村くりむら
  • 美濃みのこく加茂かもぐん
    • (恵那えな)河合かわいむら飯地いいじむら
    • (八百津やおつまち)峯村みねむら下立おりたてむら福地ふくちむら
    • (白川しらかわまち)赤河あこうむら切井きりいむらいぬむら上田うえだむら広野こうのむら若松わかまつむら名倉なぐらむら宇都うづむら中屋ちゅうやむら須崎すさきむら有本ありもとむら室原むろはらむら久田ひさた島村しまむら成山なりやまむら徳田とくだむら黒川くろかわむら油井あぶらいむら
    • (東白川ひがししらかわむら)神土かんどむら越原おっばらむら下野したのむらかしわ本村もとむらひさ須見すみむら宮代みやしろむら大沢おおさわむら
    • (下呂げろ)田島たじまむら

代官だいかん[編集へんしゅう]

村方むらかた直接ちょくせつ支配しはいおこなったのは「代官だいかん」であり、代官だいかんはん機構きこうのなかでぐん奉行ぶぎょう指図さしずけて、民政みんせい直接ちょくせつ担当たんとうしゃであった。また寛文ひろふみ11ねん(1671ねん)の「分限ぶげんちょう」でも中小ちゅうしょうせいかくろくにん代官だいかん補任ほにんされている。これらの代官だいかんは、それぞれ管轄かんかつ区域くいき担当たんとうし、管轄かんかつない一般いっぱん民政みんせいや、年貢ねんぐ徴集ちょうしゅうにあたったもので、その分担ぶんたん区域くいきつぎのようであった(後藤ごとう時男ときおちょ 『苗木なえぎ藩政はんせい』)。以下いかむっつにかれている。これらりょうむら支配しはい体制たいせいは、とおるまでつづいたようである。

  • 地回じまわむら支配しはい……… 城下町じょうかまち日比ひび野村のむら上地うえじむら
  • 北方きたかたむら支配しはい………… 黒川くろかわむら中屋ちゅうやむら須崎すさきむらかしわ本村もとむらひさ須見すみむら宮代みやしろむら大沢おおさわむら下野したのむら神土かんどむら越原おっばらむら有本ありもとむら名倉なぐらむら油井あぶらいむら田嶋たじまむら打尾うちおむら広野こうのむら若松わかまつむら久田ひさた嶋村しまむら成山なりやまむら
  • 坂下さかしたむら支配しはい…… 上野うえのむら下野したのむら田瀬たせむら福岡ふくおかむら高山たかやまむら坂下さかした三郷みさと
  • 中通なかとおりむら支配しはい………… 飯地いいじむら中之なかのかたむら峯村みねむら下立おりたてむら塩見しおみむら(飯地いいじ枝郷えだごう)・福地ふくちむら切井きりいむら赤河あこうむらいぬむら上田うえだむら
  • 南方なんぽうむら支配しはい………… 蛭川ひるかわむらひめ栗村くりむら毛呂けろくぼむら河合かわいむら
  • 瀬戸せとむら支配しはい…………… 瀬戸せとむら

宝永ほうえい7ねん(1710ねん)の「巡見じゅんけん記録きろくでは、支配しはい管轄かんかついつつにっている。

  • 地廻じまわむら々 
  • 北方きたかたむら々 
  • 坂下さかしたむら
  • 中通なかとおりむら
  • 南方なんぽうむら

とおる17ねん1732ねん苗木なえぎはん下野したのむらうちの500せき幕府ばくふ返上へんじょうしたため、下野したのむら一部いちぶ公儀こうぎ御領ごりょう(天領てんりょう)となった。

のべとおる2ねん(1745ねん)には、さらに以下いかよん区域くいきとなり、代官だいかんよんにんとなり、同時どうじ支配しはいむら々の移動いどうがみられる。支配しはいない下野したのむら天領てんりょうとなってえていることから、よん区分くぶんせいはそのまま版籍はんせき奉還ほうかんまでつづいた。

  • 地廻じまわ支配しはい…………… 城下町じょうかまち日比ひび野村のむら上地うえじむら瀬戸せとむら
  • 坂下さかした蛭川ひるかわむら支配しはい坂下さかした三郷みさと上野うえのむら田瀬たせむら福岡ふくおかむら高山たかやまむら蛭川ひるかわむら
  • 南方中みなみがたなかどおり支配しはい………… 中之なかのかたむら切井きりいむら赤河あこうむらいぬむら上田うえだむら峯村みねむら下立おりたてむら飯地いいじむら河合かわいむらひめ栗村くりむら毛呂けろくぼむら
  • 北方ほっぽう支配しはい……………… 黒川くろかわむら神土かんどむら越原おっばらむら有本ありもとむら佐見さみ新田しんでん久田ひさた嶋村しまむら成山なりやまむら油井あぶらいむら名倉なぐらむら中屋ちゅうやむらかしわ本村もとむら

家臣かしんだん[編集へんしゅう]

士分しぶんは、うえから給人きゅうにん中小ちゅうしょうせい徒士かち家格かかくかれ、それ以外いがい足軽あしがる中間ちゅうかんひとしがあった。

苗木なえぎ下屋敷しもやしき[編集へんしゅう]

苗木なえぎじょうよりきた中津川なかつがわ並松なみまつ下屋敷しもやしきがあった。

江戸えど屋敷やしき[編集へんしゅう]

  • 上屋敷かみやしき (将監しょうげんきょう) 東京とうきょうみなとしば
  • 下屋敷しもやしき (麻布あざぶ広尾ひろお)東京とうきょうみなと南麻布みなみあざぶ 

藩札はんさつ[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふとおる15ねん(1730ねん)にかくはんたい年限ねんげんして藩札はんさつ発行はっこう許可きょかした。苗木なえぎはん元治もとはる年間ねんかん金札きんさつりょう一両いちりょう二分にぶんいちふんしゅとう発行はっこうした。

渡船とせん[編集へんしゅう]

上地うえじむら木曽川きそがわ渡船とせんは、慶長けいちょう年間ねんかん開始かいしされたが当初とうしょいかだ往復おうふくしていたが、元和がんわ年間ねんかんいた苗木なえぎはんひとせんうませんそうきゅうし、船人ふなびと6にん扶持ふちあたえた。

年貢ねんぐまい[編集へんしゅう]

黒瀬くろせ街道かいどう細目さいもくむら黒瀬くろせみなと(加茂かもぐん八百津やおつまち)まで陸路りくろはこび、水運すいうん伊勢いせこく桑名くわな宿やどおくった。 

版籍はんせき奉還ほうかん廃藩置県はいはんちけん[編集へんしゅう]

明治めいじ2ねん6がつ17にち1869ねん)7がつ25にち版籍はんせき奉還ほうかん勅許ちょっきょされ、藩主はんしゅはんごととなった。

  • 版籍はんせき奉還ほうかんかんろく

(だい参事さんじ)石原いしはらじょうやす青山あおやま直通ちょくつう 玄米げんまい10せき月給げっきゅう25りょう、(けんだい参事さんじ)宮地みやじたか棚橋たなはしちょうなり 玄米げんまい10せき月給げっきゅう23りょう、(しょう参事さんじ)小池こいけぼう玄米げんまい10せき月給げっきゅう20りょう、(けんしょう参事さんじ)水野みずのただしかなえ 玄米げんまい10せき月給げっきゅう18りょう、(会計かいけい主事しゅじ)1めい、(家令かれい)1めい、(こおり主事しゅじ)1めい、(すすむのう主事しゅじ)1めい、(公用こうようじん)2めい、(だい監察かんさつ)1めい、(小隊しょうたいちょう)1めい、(おもべんごと)2めい、(こおり理事りじ)2めい、(会計かいけい理事りじ)5めい、(家令かれい)1めい、(家扶かふ)2めい、(監察かんさつ)2めい、(教授きょうじゅ)欠員けついん、(ふく公用こうようじん)欠員けついん、(しょう副長ふくちょう)1めい、(こうかん)1めい、(医師いし)2めい

苗木なえぎけんはいけんねがい[編集へんしゅう]

明治めいじ4ねん(1871ねん)7がつ14にち廃藩置県はいはんちけんにより、苗木なえぎはん苗木なえぎけんとなったが、同年どうねん11がつ20日はつか府県ふけん統合とうごうにより岐阜ぎふけん編入へんにゅうされて消滅しょうめつした。     けん廃合はいごううごきのなか全国ぜんこくにもさきがけて苗木なえぎからはいけん運動うんどうおこっていることは注目ちゅうもくすべきことである。

苗木なえぎけんでは廃藩置県はいはんちけん直後ちょくごはちがついちななにち県政けんせい最高さいこう責任せきにんしゃであるだい参事さんじ青山あおやま直道なおみち石原いしはらじょうやすは、

「…とうけんノ如キ区々くくいちしょう地方ちほうなお官庁かんちょうけんおけこうテハ 官員かんいん俸給ほうきゅう其他こう廨諸入費にゅうひノミ莫大ばくだいニシテまんいち国家こっかニ裨補ナク、しんとうらニもと餐ノつみ増殖ぞうしょくこうおそれ悚至ごくたてまつそんこう ふくテ冀クハそくしんとうしょくムヲめんセラレ はいけんおおせこうさま仕度したくたてまつこんいのりこう 此段よろしむくいかなでたてまつねがいこう…」

とうけんしょうけん役所やくしょくことは役人やくにん給料きゅうりょうその莫大ばくだい費用ひようがかさみ、国家こっか利益りえきとならない。したがってだい参事さんじりょう免職めんしょく苗木なえぎけんはいけんを吏官にねがたものである。

また同日どうじつけん役人やくにんだい参事さんじ免官めんかんねがいしたことにならって「わたしきょう於テモそくかいめんおおせした 此段ふくたてまつねがいこう」と辞職じしょくねがいだい参事さんじあて提出ていしゅつしたのでりょうだい参事さんじ連名れんめい同日どうじつこのむねを吏官へとどた。

幕末ばくまつから廃藩置県はいはんちけんいた過程かてい[編集へんしゅう]

さらに明治めいじ4ねん廃藩置県はいはんちけんにより、苗木なえぎはん苗木なえぎけん岐阜ぎふけん吸収きゅうしゅうされ、当初とうしょ約束やくそくされていたいえろく奉還ほうかん補償ほしょう不可能ふかのうとなった。また明治めいじ政府せいふからではなく苗木なえぎはんちょう指示しじによりはんよりいちはやいえろく奉還ほうかんして、全員ぜんいん士族しぞくから平民へいみんうつっていたため、きゅう藩士はんしそつきゅう士族しぞくとしてみとめられないという事態じたいおちいった。このことなどにより、財政ざいせい改革かいかく後述こうじゅつする廃仏毀釈はいぶつきしゃく主導しゅどうしただい参事さんじ青山あおやま直通ちょくつううらみが集中しゅうちゅうした。

廃藩置県はいはんちけん[編集へんしゅう]

明治めいじ9ねん1876ねん)にきゅう藩士はんし4めい青山あおやま直通ちょくつう暗殺あんさつ計画けいかく決行けっこう当人とうにん当日とうじつ不在ふざいだったため屋敷やしき放火ほうかされる。明治めいじ24ねん1891ねん)にも襲撃しゅうげき未遂みすい事件じけんこっている。

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

遠山とおやま

1まんせき外様とざま譜代ふだいかくやなぎあいだ城主じょうしゅ

  1. ともせい
  2. しゅうとも
  3. ともさだ
  4. ともはる
  5. ともゆかり
  6. ともしょう
  7. ともひさし
  8. 友明ともあき
  9. 友清ともきよ
  10. ともずい
  11. とも寿ことぶき
  12. ともしょうのちともろく

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 苗木なえぎ藩政はんせい研究けんきゅう後藤ごとう時男ときお 中津川なかつがわ 1968ねん(1982ねん再版さいはん
  • 江戸えど300はん意外いがいな「その」―「はん」から「けん」へ 教科書きょうかしょおしえない歴史れきし日本にっぽん博学はくがく倶楽部くらぶ PHP文庫ぶんこ 2005ねん 
  • 恵那えなぐん』 だいななへん 江戶えど時代じだい近世きんせい領主りょうしゅ時代じだい」)だいじゅう八章はっしょう しょはんぶん 其二そのじ 苗木なえぎはん江戸えど p231~p239 恵那えなぐん教育きょういくかい 1926ねん
  • 中津川なかつがわ ちゅうまきⅠ』 だいへん 近世きんせいいちだいいちしょう 支配しはい体制たいせいむらのしくみ だいよんせつ 苗木なえぎ遠山とおやま家臣かしんだん p81~p121 中津川なかつがわ 1988ねん
  • 福岡ふくおかまち 通史つうしへん 下巻げかん』(だい 近世きんせいだいいちしょう 近世きんせいにおける苗木なえぎはん概観がいかん  だいいちせつ 苗木なえぎはん成立せいりつりょうむら支配しはい  よん 代官だいかん支配しはい区域くいき 福岡ふくおかまち 1992ねん
  • 蛭川ひるかわむら』 だいよんせつ 近世きんせい 苗木なえぎ遠山とおやま苗木なえぎはん行政ぎょうせい p207~p270 蛭川ひるかわむら編纂へんさん委員いいんかい 1974ねん
  • 恵那えな 通史つうしへん だい2かんだいしょう しょ領主りょうしゅ成立せいりつ系譜けいふ だいよんせつ 苗木なえぎりょう p132~p140 恵那えな編纂へんさん委員いいんかい 1989ねん
  • あたらしおさむ東白川ひがししらかわむら 通史つうしへん』 だいしょう 近世きんせい江戸えど時代じだい) だいいちせつ 苗木なえぎはん成立せいりつ領内りょうない支配しはい p135~p163 東白川ひがししらかわむら編纂へんさん委員いいんかい 1982ねん
  • 白川しらかわまち』 だいへん 白川しらかわまち歴史れきし だいさんしょう 近世きんせい 苗木なえぎはん代々だいだい p135~p137 白川しらかわまち編纂へんさん委員いいんかい 1968ねん
  • 八百津やおつまち 史料しりょうへん』  だいななせつ 苗木なえぎはん廃仏毀釈はいぶつきしゃくについて 183p~243p
  • 苗木なえぎはん終末しゅうまつ』 東山ひがしやま道彦みちひこ 三野みの新聞しんぶんしゃ  1981ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 二木ふたき謙一けんいち監修かんしゅう工藤くどうひろし正編せいへんくにべつ はん城下町じょうかまち事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2004ねん9がつ20日はつか発行はっこう(304ページ)
  2. ^ 苗木なえぎ新谷しんたにった苗木なえぎはん3だい遠山とおやまともさだつまのため没後ぼつご建立こんりゅうしたてら法華宗ほっけしゅうせい中山なかやまふつこうてらしょうした。ともさだつま実家じっか久世くぜ法華宗ほっけしゅうであったためとくにこのつま位牌いはいしょとして建立こんりゅうしたといわれており、明治めいじ3ねん廃仏毀釈はいぶつきしゃくおり廃寺はいじとなった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
美濃みのこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1600ねん - 1871ねん 苗木なえぎはん苗木なえぎけん
次代じだい
岐阜ぎふけん