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下手渡しもてどはん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

下手渡しもてどはん(しもてどはん)は、政争せいそうやぶれた三池みいけはん立花りっかが、文化ぶんか3ねん1806ねん)、陸奥みちのくこく伊達だてぐん下手渡しもてど福島ふくしまけん伊達だて月舘つきだてまち下手渡しもてど)に左遷させんされたことにより、1まんせきにてたてはんした。はんちょう下手渡しもてど陣屋じんやかれた。初代しょだい藩主はんしゅたねぜんさんきゅうじょう条目じょうもくにより、統治とうち基礎きそさだめた。

概要がいよう

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だい2だい藩主はんしゅたねぬる幕府ばくふ会計かいけい奉行ぶぎょうとなり、のち老中ろうじゅうかくまで累進るいしんしている。

よしみひさし3ねん1850ねん)にはやく半分はんぶん知行ちぎょう旧領きゅうりょうである三池みいけぐんない領地りょうちえをおこなった。

慶応けいおう4ねん(1868ねん)、だい3だい藩主はんしゅたねきょう外国がいこく奉行ぶぎょうされ、慶応けいおう4ねん1866ねん)1がつ10日とおか老中ろうじゅうかく会計かいけい総裁そうさいとなったが、すでに戊辰戦争ぼしんせんそうはじまっており、鳥羽とば伏見ふしみたたかにおいて敗北はいぼくきっした直後ちょくごであった。どう24にちたねきょうはそのしょくす。同年どうねん3がつ2にちには三池みいけ陣屋じんや藩士はんし主張しゅちょうれて官軍かんぐんがわにつくことにし、3月13にち一旦いったん下手渡しもてどもどったのち江戸えど経由けいゆしん政府せいふへと出向でむいたが、国許くにもとでは家老がろう屋山ややまがい下手渡しもてどはん代表だいひょうして奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい調印ちょういんするなどせい反対はんたい行動こうどうをとり、のち官軍かんぐんがわについたことが判明はんめいして奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい盟主めいしゅ仙台せんだいはんからいかりをった。同年どうねん5がつ15にちしん政府せいふ若年寄わかどしより老中ろうじゅうかく在任ざいにんちゅう責任せきにん問題もんだいしながらも、江戸えどにおいて佐幕さばく旗本はたもと説得せっとくたっていたことなどが評価ひょうかされて宥免ゆうめんされた[1]同年どうねん8がつ14にち、200めい仙台せんだいはんへい領内りょうない進入しんにゅうどう16にちには陣屋じんやちされ、領内りょうない仙台せんだいへい下手渡しもてどはんへいおよび来援らいえん柳河やなかわはんへいとの戦場せんじょうとなった。以上いじょう経緯けいいはんちょう焼失しょうしつしたため、同年どうねん9がつさんいけうつり、下手渡しもてどはんはいはんとなった。一方いっぽうでは下手渡しもてど旧領きゅうりょうぶん領地りょうちとして三池みいけはんのこされた。現在げんざい下手渡しもてどにはきゅう藩士はんしによりてられた「懐古かいこいしぶみ」がてられている。

歴代れきだい下手渡しもてど藩主はんしゅ

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立花りっか

外様とざま 1まんせき (1806ねん - 1868ねん

だい 氏名しめい 官位かんい 在職ざいしょく期間きかん 享年きょうねん 備考びこう
1 立花たちばなたねぜん
たちばな たねよし
したがえ
豊前ぶぜんもり
文化ぶんか3ねん - 天保てんぽう3ねん
1806ねん - 1832ねん
39 三池みいけはんよりうつりふう
2 立花たちばなたねあつし
たちばな たねはる
したがえ
主膳しゅぜんただし
天保てんぽう3ねん - よしみひさし2ねん
1832ねん - 1849ねん
37
3 立花たちばなたねきょう
たちばな たねゆき
したがえ
出雲いずもまもる
よしみなが2ねん - 明治めいじ元年がんねん
1849ねん - 1868ねん
70 ぜん藩主はんしゅしゅゆたか従弟じゅうてい明治めいじ元年がんねん(1868ねん)に三池みいけはんへ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 水谷みずたに憲二けんじ戊辰戦争ぼしんせんそうと「朝敵ちょうてきはん-敗者はいしゃ維新いしん-』(八木はちぼく書店しょてん、2011ねん)P264-266

外部がいぶリンク

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