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織田おだ高長こうちょう

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織田おだ高長こうちょう
織田おだ高長こうちょうぞう氷上ひかみまち公民館こうみんかんぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天正てんしょう18ねん1590ねん
死没しぼつ のべたから2ねん8がつ18にち1674ねん9月17にち
改名かいめい 乱麻らんまりょ幼名ようみょう)→信友のぶともはつ)→高長こうちょういちがんごう
別名べつめい 長岡ながおか主膳しゅぜん官途かんと出雲いずもまもる
戒名かいみょう とくくもいん
墓所はかしょ 奈良ならけん宇陀うだ大宇陀おおうだ岩室いわむろとくげんてら
滋賀しがけん近江八幡おうみはちまん安土あづちまち石寺いしてら長谷川はせがわ屋敷やしき墓所はかしょ
京都きょうと京都きょうと右京うきょう花園妙心寺はなぞのみょうしんじまち妙心寺みょうしんじ
官位かんい したがえよん侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 織田おだ秀雄ひでお細川ほそかわ忠興ただおき前田まえだ利常としつね織田おだしんあきら徳川とくがわ家光いえみつ家綱いえつな
はん 豊前ぶぜん小倉こくらはん加賀かが金沢かなざわはん上野うえの小幡おばたはん後見こうけん大和やまと宇陀うだ松山まつやまはんあるじ
氏族しぞく 織田おだ信雄のぶおけいだか長流ちょうりゅう
父母ちちはは ちち織田おだ信雄のぶおはは久保くぼ三右衛門さんえもんむすめ
兄弟きょうだい 秀雄ひでおしょうひめ重雄しげお、於加なんじ高雄たかお
佐々ささ一義かずよししつ信良のぶよし高長こうちょうしんじため良雄よしお長雄ながおたまゆういん生駒いこま政勝まさかつしつ生駒いこまただしかちしつ
つま やぶ政一まさかずむすめ富田とみたむすめ
津田つだ勝広かつひろちょうよりゆき長政ながまさ信久のぶひさ
津田つだ頼房よりふさ杉原すぎはらしげるちょう継室けいしつ
織田おだまさしとき正室せいしつ織田おだ一之かずゆきしつ
土方ひじかたじんしつ平野ひらの長政ながまさ正室せいしつなど
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織田おだ 高長こうちょう(おだ たかなが)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう大和やまとこく宇陀うだ松山まつやまはん2だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえよん侍従じじゅう高長こうちょうけい織田おだ初代しょだい

なお、「織田おだ高長こうちょうぞう」(氷上ひかみまち公民館こうみんかんぞう)は、天保てんぽうえがかれたものである。

生涯しょうがい

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天正てんしょう18ねん1590ねん)、織田おだ信雄のぶおおとことして誕生たんじょう

ちち信雄のぶお改易かいえきはじめは長兄ちょうけい秀雄ひでおいで細川ほそかわ忠興ただおき、さらに前田まえだ利常としつねもとせた。前田まえだ家時いえときだい前田まえだ配下はいか部将ぶしょうとして、大坂おおさかなつじん参加さんかしている。一説いっせつによれば、細川ほそかわせていたときは長岡ながおか主膳しゅぜん[1]しょうし、やぶ政一まさかずむすめ結婚けっこんし、豊前ぶぜんりゅう王城おうじょうおもになっていたという。慶長けいちょう16ねん1611ねん)に細川ほそかわり、前田まえだせた。

上野うえのこく小幡おばたはんおもであったよんけい信良のぶよし寛永かんえい3ねん1626ねん)5がつ死去しきょすると、ちち信雄のぶお高長こうちょう前田まえだからもどし、まださいだったおいしんじあきら後見こうけんにあたらせた。寛永かんえい6ねん1629ねん)4がつしたがえよん侍従じじゅう叙任じょにんされる。寛永かんえい7ねん1630ねん)、ちち信雄のぶお死去しきょともない、信雄のぶお事実じじつじょう隠居いんきょりょうであった大和やまと宇陀うだ松山まつやま3まん1200せき相続そうぞくする。これにたいし、上野うえの小幡おばた藩主はんしゅであったしんあきら家臣かしんだんからは、宇陀うだりょうしんじあきらのものである、とする異論いろん幕府ばくふされるが、幕府ばくふ宇陀うだりょう独立どくりつさせて高長こうちょう相続そうぞくみとめた。

寛永かんえい7ねん1630ねん)12月、大御所おおごしょ徳川とくがわ秀忠ひでただ使者ししゃとして上洛じょうらくする。一方いっぽう、3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ使者ししゃ高家こうか旗本はたもと吉良きらよしふゆであった。この人選じんせんは、織田おだ徳川とくがわ親密しんみつさおよび江戸えど幕府ばくふないでの織田おだ家格かかくたかさをしめすものである。秀忠ひでただ次男じなん血縁けつえんじょう織田おだ信長のぶながだいおいにあたる忠長ただなが正室せいしつあに信良のぶよしむすめであり、『徳川とくがわ実紀みき』には、秀忠ひでただ長男ちょうなんで3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ名家めいか優遇ゆうぐう逸話いつわとして、当時とうじまだ無官むかんであった高長こうちょうちょうよりゆきを、信長のぶなが子孫しそんにあたることを理由りゆうに、正月しょうがつ単独たんどく拝賀はいがさせたことをしるしている。

寛永かんえい9ねん1632ねん)、信雄のぶお菩提寺ぼだいじ建立こんりゅうし、信雄のぶお法名ほうみょうとくげんいんからとくげんてらとした。万治まんじ2ねん1659ねん)12月23にち隠居いんきょして次男じなんちょうよりゆき家督かとくゆずる。以後いごいちいわごうした。

のべたから2ねん1674ねん)8がつ18にち大和やまと松山まつやまにて死去しきょ享年きょうねん83。松山まつやまとくげんてら埋葬まいそうされた。のち織田おだ柏原かしわばらてんふうにともなって、信雄のぶおから信武のぶたけまで4だい遺骸いがい摠見てらてらいきであった安土あづちじょうあと長谷川はせがわ秀一ひでかずやしきあと改葬かいそうされた。4だい宝塔ほうとう現存げんそんしている。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 長岡ながおか」は細川ほそかわ所縁しょえん苗字みょうじ