(Translated by https://www.hiragana.jp/)
織田達勝 - Wikipedia コンテンツにスキップ

織田おだいたるかち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田おだ いたるかち
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
官位かんい 大和やまとまもる[1]
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 尾張おわりしたよんぐん守護しゅごだい
主君しゅくん 斯波しば義統よしむね
氏族しぞく 清州きよす織田おだ大和やまともり
父母ちちはは 養父ようふ織田おだいたるじょう
兄弟きょうだい いたるじょういたるかち
織田おだ信秀のぶひで正室せいしつ
養子ようし信友のぶとも
テンプレートを表示ひょうじ

織田おだ いたるかち(おだ たつかつ/みちかつ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょう斯波しば家臣かしん尾張おわりこくしたよんぐん守護しゅごだい官位かんい大和やまとまもる尾張おわり清洲きよすしろおも

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

ちち織田おだ勝秀かつひでとも[1]

えいただし10ねん1513ねん)、あにとされる先代せんだい織田おだいたるじょう尾張おわり守護しゅご斯波しばよしたちあらそい、殺害さつがいされたのちたち遠江とおとうみこく遠征えんせい原因げんいんとされる)、まもなく清洲きよす織田おだ織田おだ大和やまともり)の後継こうけいしゃとして歴史れきしおもて舞台ぶたい登場とうじょうする。清洲きよすさん奉行ぶぎょう補佐ほさけるも、やがて、さん奉行ぶぎょうひとつで家臣かしんすじの「織田おだ弾正だんじょうちゅう当主とうしゅである勝幡しょばたじょうおも織田おだしんじょう台頭たいとうするようになる。

えいただし13ねん1516ねん)、妙興寺みょうこうじ寺領じりょう安堵あんどはんぶつしている。清州きよすさん奉行ぶぎょう連署れんしょによるものである。とおるろく3ねん1530ねん)、守護しゅご斯波しば義統よしむね代理だいりとしてへいひきいて上洛じょうらくしたが、軍事ぐんじ目的もくてきではなかったのでそのまま帰還きかんした。この行動こうどう織田おだ一族いちぞく反発はんぱつまねいてしまった。天文てんもん元年がんねん1532ねんごろにはしんじじょう後継こうけいしゃである「織田おだ弾正だんじょうちゅう当主とうしゅ織田おだ信秀のぶひであらそい、いたるしょうおなさん奉行ぶぎょうの「織田おだ藤左衛門とうざえもん」ととも信秀のぶひでたたかったが、その和睦わぼくしている。

没年ぼつねんについてはしょうであるが、えいただし年間ねんかん後半こうはんから天文てんもん年間ねんかん後半こうはんまで存在そんざい確認かくにんされ、非常ひじょう長期間ちょうきかんにわたり守護しゅごだい地位ちいにあったと推測すいそくされる。そのいたるかちわり、信友のぶともあらたな守護しゅごだいとなった。

なお織田おだ出自しゅつじについては諸説しょせつあるが、えいただし15ねん1518ねん)、いたるかち自身じしん亀井かめいさん円福寺えんぷくじ提示ていじした制札せいさつに「藤原ふじわらいたるかち」とあり[2]、このことからすくなくともだちしょう自身じしん藤原ふじわらしょうしていたとつたわる。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか
  2. ^ 文化財ぶんかざいなど | 円福寺えんぷくじについて”. 時宗じしゅう 亀井かめいさん 圓福寺えんぷくじ. 2020ねん5がつ17にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]