真田さなだみゆきぬき

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真田さなだみゆきぬき
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 寛政かんせい3ねん9月2にち1791ねん9月29にち
死没しぼつ よしみひさし5ねん6月8にち1852ねん7がつ24にち
改名かいめい 松平まつだいら次郎丸じろうまる幼名ようみょう)→真田さなだみゆきぜんはつ)→こうぬきとげおう
別名べつめい 一誠いっせいときまこととき
戒名かいみょう 感応かんおういん殿どのいたりぬき一誠いっせいだい居士こじ
墓所はかしょ 長国寺ちょうこくじ
官位かんい したがえした豊後ぶんごもり伊豆いずもり信濃しなのもりしたがえよんした侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ みかどかんあいだせき老中ろうじゅう
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし
はん 信濃しなの松代まつだいはんあるじ
氏族しぞく 久松ひさまつ松平まつへい真田さなだ
父母ちちはは ちち松平まつだいら定信さだのぶははさだじゅんいん中川なかがわ
養父ようふ真田さなだみゆきせん
兄弟きょうだい 松平まつだいら定永さだながこうぬき
つま 正室せいしつまさひめしんがついん井上いのうえただしはじめむすめ
側室そくしつ喜瀬きせまきみさおいん)、寿ことぶきよしみきよしみさおいん
さいわいりょうむすめ朽木くちきつなじょうしつ
養子ようしさいわいただしこうきょう
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真田さなだ みゆきぬき(さなだ ゆきつら)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう老中ろうじゅうあに松平まつだいら定永さだなががいる。信濃しなの松代まつだいはんだい8だい藩主はんしゅ徳川とくがわ吉宗よしむね曾孫そうそんたる。老中ろうじゅうとして天保てんぽう改革かいかく一翼いちよくになったほか、藩政はんせい改革かいかくにもおおくの成果せいかげた。江戸えど時代じだい後期こうきにおける名君めいくん一人ひとりとして評価ひょうかされている。おくしたがえさん(1912ねん)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

寛政かんせい3ねん(1791ねん)9がつ2にち老中ろうじゅう首座しゅざとして寛政かんせい改革かいかく主導しゅどうした松平まつだいら定信さだのぶ長男ちょうなんとして白河しらかわはん江戸えど藩邸はんていまれる。ただし、側室そくしつであったこともあり、幼名ようみょう次郎丸じろうまる名付なづけられて、公的こうてきには次男じなんとされた。定信さだのぶ正室せいしつ松平まつだいら定永さだなが)がわずか11にちまれており、こちらは太郎丸たろうまる名付なづけられて長子ちょうし嫡男ちゃくなんあつかわれた。

文化ぶんか12ねん(1815ねん)、松代まつだいはん7だい藩主はんしゅ真田さなだみゆきせん養嗣子ようししとなった。よく文化ぶんか13ねん(1816ねん)には真田さなだみゆきぜん名乗なのり、先々さきざきだい幸弘ゆきひろむすめとおしゅう浜松はままつはんおも井上いのうえただしはじめとついでんだまさひめ正室せいしつとした。

文政ぶんせい6ねん(1823ねん)のこうせん隠居いんきょにより家督かとくぎ、藩政はんせい担当たんとうする。天保てんぽう改革かいかくはじまると水野みずの忠邦ただくにによって外様とざませきから譜代ふだいせきうつされ[1]老中ろうじゅう抜擢ばってきされて改革かいかく一翼いちよくになった。藩政はんせいにおいても佐久間さくま象山ぞうさんをはじめとする有能ゆうのう人材じんざいおお登用とうようして洋学ようがく研究けんきゅうたらせ、幕末ばくまつにおける人材じんざい育成いくせいおこなった。また殖産しょくさん興業こうぎょう産業さんぎょう開発かいはつ文武ぶんぶ奨励しょうれいなどにもつとめ、藩校はんこうとしては文武ぶんぶ学校がっこう開設かいせつ基礎きそきずいている。 1832ねん天保てんぽう3ねん)には産物さんぶつ会所かいしょ設置せっちした(明治めいじ2ねん松代まつだい商法しょうほうしゃあらためる)。また文人ぶんじんとしてもすぐれ、和歌わか秀逸しゅういつ作品さくひん数多かずおおのこした。しかし晩年ばんねんには、藩政はんせい改革かいかく路線ろせんめぐ対立たいりつから重臣じゅうしんたちによる内紛ないふんまねき、これが幕末ばくまつまでいた。

ひろし4ねん(1847ねん3月24にちには善光寺ぜんこうじ地震じしん発生はっせいし、松代まつだいはんりょうないでもおおきな被害ひがいしょうじた。こうぬき御用ごようばん牧野まきのただしみやびてた報告ほうこくしょや、月番つきばん家老がろう河原かわはらつなとく手記しゅきむしくら日記にっき』は被害ひがい状況じょうきょうじょう貴重きちょう記録きろくとなっている。

江戸えど在府ざいふちゅうには、府内ふないをおしのびであるくことをこのんだという。真田さなだへの養子ようしりのはなしおりには浪人ろうにん姿すがたになって松代まつだいはん隅々すみずみ見聞けんぶんしてまわったともいうが、こちらは伝説でんせついきない。

こうぬき正室せいしつまさひめとのあいだに4なん5じょもうけたが、いずれも夭折ようせつ早世そうせいした。そこで真田さなだ血筋ちすじもとめ、こうせんいもうと肥前ひぜん島原しまばらはんおも松平まつだいらただしとついでんだじゅうなんさいわいただし養嗣子ようししむかえたが、これもかぞえ15さい早世そうせいする。こうぬきには実子じっしとしてさいわいりょうがいたが、真田さなだ養子ようしりする前年ぜんねんまれたため、幕府ばくふには実父じっぷ定信さだのぶ末子まっしとどていた。結局けっきょくこの実子じっし養嗣子ようししとしてむかれたが、かぞえ30さい先立さきだたれたため、その庶長子ちょうしであるこうきょう嫡子ちゃくしこうぬきにとっては嫡孫ちゃくそん)となった。よしみひさし5ねん(1852ねん)5がつ6にちこうぬき隠居いんきょしてまごこうきょう家督かとくゆずると、6月8にちに62さい死去しきょした。

窪田くぼた清音きよね刀工とうこうみなもときよし麿まろ弟子入でしい斡旋あっせんしたのはこうぬきである。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

かんれき[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

側室そくしつ

  • 喜瀬きせまきみさおいん
  • 寿ことぶきよしみきよしみさおいん
  • 佐野さの

子女しじょ

養子ようし

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 長野ながのけん 通史つうしへん だい6かん 近世きんせい3』