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みなもときよし麿まろ

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大小だいしょう めい みなもときよし麿まろ よしみなが元年がんねんはちがつ江戸えど時代じだいすえの1848ねん特別とくべつ重要じゅうよう刀剣とうけんかたな脇差わきざし画像がぞう縮尺しゅくしゃく原寸げんすん比例ひれいせず)

みなもと きよし麿まろ(みなもと きよまろ、文化ぶんか10ねん3月6にち1813ねん4がつ6にち) - よしみひさし7ねん11月14にち1855ねん1がつ2にち))は江戸えど時代じだい後期こうき活躍かつやくした刀工とうこうであり、水心みずごころせいしゅう大慶たいけいちょくたねならび「江戸えどさんさく」としょうされた名工めいこう波乱はらんんだ人生じんせいおくったことから、新々しんしんがたな刀工とうこうなかでも人気にんきたかい。本名ほんみょう山浦やまうら たまき(やまうら たまき)。はつめいは「正行まさゆき」、ついで「秀寿ひでとし」で、師匠ししょうである旗本はたもと兵学へいがくしゃ窪田くぼた清音きよね(くぼたすがね)より「きよし」のいちをもらい「せい麿まろ」とする。本来ほんらいは「すがまろ」とうが、現在げんざいは「きよまろ」でひろかよっているため本稿ほんこうでも「きよまろ」としるす。

あに刀工とうこう山浦やまうら真雄まさお(やまうら さねお)で、1853ねんよしみひさし6ねん)の「松代まつだいはんあらためし」でそのさくがたな強靭きょうじんさが証明しょうめいされた逸話いつわ有名ゆうめいである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

そうぶくてらにあるみなもときよし麿まろはか

文化ぶんか10ねん(1813ねん)、信濃しなのこく小諸こもろはん赤岩あかいわむらげんひがし)の名主なぬし山浦やまうらあきらとも次男じなんとしてまれ、刀工とうこう目指めざしたあに真雄まさおとともに上田うえだはんこう河村かわむら寿ことぶきたかし刀工とうこうわざまなぶ。武士ぶしこころざして真田さなだみゆきぬき斡旋あっせん江戸えどのぼり、軍学ぐんがくしゃ剣術けんじゅつでもある旗本はたもと窪田くぼた清音きよねもんたたくが、のちに刀工とうこうとして評価ひょうかした清音せいおん後見こうけんで、清音せいおん屋敷やしきない鍛冶たんやじょうもう修行しゅぎょうし、さくがたな専念せんねんする。

天保てんぽう13ねん1842ねん)、清音せいおん尽力じんりょくにより一人ひとりさんりょうひゃくりの刀剣とうけんこう武器ぶきこういちひゃくいち」を依頼いらいされるが、いち完成かんせいさせたところで出府しゅっぷし、そのとしれに長州ちょうしゅうはぎあらわれ2年間ねんかんごした。

その江戸えどもどり、重要じゅうよう美術びじゅつひん認定にんていされている「(ひょうため窪田くぼた清音きよねくん 山浦やまうらたまきみなもときよし麿まろせいうらひろし丙午ひのえうまねんはちがつ」のめいがある2しゃく6すんごうがたな恩人おんじんである清音せいおんおくっている。きよし麿まろ作品さくひん魅力みりょくとして、てつ面白おもしろさと、かたなぶん躍動やくどうかんひとおおい。

四谷よつやきた伊賀いがまち現在げんざい新宿しんじゅく三栄さんえいまち一部いちぶ)に定住ていじゅうしたことから「四谷よつや正宗まさむね」の異名いみょうをとった。

よしみなが7ねん(1854ねん)11月14にち、42さい自害じがい

墓所はかしょ新宿しんじゅく須賀すかまちそうぶくてら

はぎ出奔しゅっぽんした背景はいけい[編集へんしゅう]

せい麿まろ天保てんぽう13ねん1842ねん)、窪田くぼた清音きよね尽力じんりょくにより一人ひとりさんりょうひゃくりの刀剣とうけんこう武器ぶきこういちひゃくいち」を依頼いらいされ、いち完成かんせいさせたところで出奔しゅっぽんした。 この出奔しゅっぽんについて、ながあいだわれていた定説ていせつでは、そのとしれに長州ちょうしゅうはぎあらわれ2年間ねんかんごしたのち江戸えどもど清音せいおんつみびたということになっていた。

しかし、生誕せいたん200ねん企画きかくてんころから、窪田くぼた清音きよね裏切うらぎ出奔しゅっぽんして、びをれてもどったというこれまでの定説ていせつくつがえした指摘してき相次あいついでいる。その根拠こんきょ以下いかのとおりである。

そのため、窪田くぼた収入しゅうにゅう激減げきげんした時期じきであり、経済けいざいてき事情じじょうおおきく影響えいきょうして窪田くぼた屋敷やしきからせい麿まろしたというせつ[1]

  • 村田むらた清風きよかぜ記念きねんかん文書ぶんしょから、きよし麿まろ村田むらた清風きよかぜ長州ちょうしゅう藩士はんしてた花押かおうくろしるしはいったせい麿まろ自筆じひつすみはがね代金だいきんなどの受取うけとりじょう発見はっけんされたことから、長州ちょうしゅうはんまねかれたのが自然しぜんかんがえるせつ[2]

『おれはせい麿まろ』を執筆しっぴつした山本やまもと兼一けんいちは、すくなくとも家老がろうかく重臣じゅうしんかたなうくらいだから、逃避行とうひこうおこなったとはおもえない。またねんほどのちゅうづちだから、いちから自分じぶん鍛冶たんやじょうひらいたともおもえない。はぎ在住ざいじゅう刀工とうこうのだれかの鍛冶たんやじょうりたはずであり、それなら、やはりはんまねかれたとかんがえるのが自然しぜんだと指摘してき[2]

  • 長州ちょうしゅうはん天保てんぽう11ねん(1840ねん)より着手ちゃくしゅした藩政はんせい改革かいかく一環いっかんとして、武術ぶじゅつ武器ぶき製作せいさく技術ぎじゅつ向上こうじょうのため、はんよりけん槍術そうじゅつ積極せっきょくてき招聘しょうへいしていたてんから、せい麿まろ窪田くぼた清音きよねつうじてはん改革かいかく中心ちゅうしん人物じんぶつだった村田むらた清風きよかぜからいち時期じきまねかれ、はぎさくがたなしたというせつ[3]

作風さくふう[編集へんしゅう]

作風さくふう相州あいしゅうでんぶんは互のみだれ、または互の丁子ちょうじ平地ひらち白髪はくはつすじばれる銀筋ぎんすじあらわれるのが特徴とくちょう

エピソード[編集へんしゅう]

  • 左利ひだりききのためヤスリかたむきがぎゃくである。
  • 刀工とうこうとして名高なだかきよし麿まろだが剣術けんじゅつ腕前うでまえたかく、清音せいおん道場どうじょうではだい稽古けいこもつとめていた。
  • 四谷よつやじゅうしたが、さき四谷よつやんでいた固山こやまはじめ挨拶あいさつがなかったため、たしじょうおくられたとつたえられている。
  • かなりの酒好さけずきだったらしく、さけどくのためにさくがたなができなくなったことを悲観ひかんして自害じがいしたというせつがある。
  • 浪士ろうしぐみ親友しんゆう山岡やまおか鉄舟てっしゅうとともに取締役とりしまりやくとなり[4]しんちょうぐみ支配しはい歴任れきにんした中條ちゅうじょう金之助きんのすけは、窪田くぼた清音きよね門弟もんていであるきよし麿まろからおくられたかたな懇望こんぼうし、清音せいおんよりゆずけている[5]
  • 日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくべい使節しせつだんとして訪米ほうべい横須賀よこすか製鉄せいてつしょ建設けんせつ推進すいしんした小栗上野介おぐりこうずけのすけは、きよし麿まろ窪田くぼた屋敷やしき修業しゅぎょうしていた時期じきに、窪田くぼた清音きよねから山鹿やまがりゅう兵学へいがくまなんでいた。小栗ささぐり製鉄せいてつしょ建設けんせつ原点げんてんは、せい麿まろさくがたなを10代から20だい多感たかん時期じきなまて、てつ基礎きそ知識ちしきたことだったのではとの新説しんせつが、小栗上野介おぐりこうずけのすけ顕彰けんしょうかい機関きかん発表はっぴょうされた。[6][7]

みなもときよし麿まろ題材だいざいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

研究けんきゅうしょ[編集へんしゅう]

  • せい麿まろ大鑑たいかん 普及ふきゅうばん中島なかじま宇一ういち刀剣とうけん春秋しゅんじゅうみやたい出版しゅっぱんしゃ
  • みなもときよし麿まろ』(信濃しなの毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ)1983ねん
  • 生誕せいたん200ねん記念きねん せい麿まろ』(佐野さの美術館びじゅつかん)2013ねん
  • 辻本つじもとただしおとこ刀剣とうけん人物じんぶつ』(刀剣とうけん春秋しゅんじゅう発行はっこうみやたい出版しゅっぱんしゃ発売はつばい
  • 伊藤いとう三平さんぺい江戸えど日本にっぽんがたな新刀しんとう新々しんしんがたな歴史れきしてき背景はいけい』(2016ねん東洋とうよう書院しょいん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 伊藤いとう三平さんぺい江戸えど日本にっぽんがたな新刀しんとう新々しんしんがたな歴史れきしてき背景はいけい』26しょう みなもときよし麿まろにおけるあじ追求ついきゅう幕臣ばくしん窪田くぼた清音きよねあに山浦やまうら真雄まさお影響えいきょう─、27しょう いつの時代じだいにも大切たいせつ芸術げいじゅつ支援しえんしゃ ─せい麿まろ場合ばあい─(2)せい麿まろ長州ちょうしゅうきと窪田くぼた清音きよね天保てんぽう改革かいかくでの失脚しっきゃく(3)長州ちょうしゅうはんがわ事情じじょう
  2. ^ a b ちょう58ごう 『おれはせい麿まろ刊行かんこうせて(山本やまもと兼一けんいち
  3. ^ 佐野さの美術館びじゅつかん生誕せいたん200ねん せい麿まろてん
  4. ^ 大森おおもり曹玄『山岡やまおか鉄舟てっしゅう
  5. ^ 生誕せいたん200ねん記念きねん せい麿まろ』P. 94
  6. ^ うえ新聞しんぶん2017ねん平成へいせい29ねん)12月13にち社会しゃかいめん幕臣ばくしん小栗上野介おぐりこうずけのすけ新説しんせつ 山鹿やまがりゅう兵学へいがくから影響えいきょう
  7. ^ 小栗上野介おぐりこうずけのすけ顕彰けんしょうかい機関きかんたつなみだい42ごう平成へいせい29ねん・2017)窪田くぼた清音きよね学問がくもん門弟もんてい小栗上野介おぐりこうずけのすけ行動こうどう