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真田さなだ幸綱ゆきつな

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
真田さなだ 幸綱ゆきつな / 真田さなだ 幸隆ゆきたか
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし10ねん1513ねん
死没しぼつ 天正てんしょう2ねん5月19にち1574ねん6月8にち
改名かいめい 次郎じろう三郎さぶろう幼名ようみょう)→幸綱ゆきつな幸隆ゆきたか?→一徳かずのりときごう
別名べつめい 通称つうしょうみなもとふとし左衛門さえもん弾正だんじょうちゅう
渾名あだな弾正だんじょうおに弾正だんじょう
主君しゅくん 海野うみのとうつな長野ながのぎょうせい武田たけだ信玄しんげん
氏族しぞく 真田さなだ
父母ちちはは ちち真田さなだよりゆきあきら異説いせつあり]
はは海野うみのとうつなむすめ異説いせつあり]
兄弟きょうだい 綱吉つなよし幸綱ゆきつな矢沢やざわ頼綱よりつな常田つねだたかしひさし鎌原かんばらみゆきじょう海野うみのみゆきけい萩原はぎはら綱重つなしげ[1]
つま 正室せいしつきょうくもいん河原かわはら隆正たかまさいもうと
側室そくしつ羽尾はおみゆきぜんむすめ
信綱のぶつな昌輝まさてる昌幸まさゆきしんじいん金井かないだかかちしんきょう?、むすめ根津ねづ志摩しままもる信忠のぶただしつ)、むすめ長坂ながさかあきらこくしつ)、むすめ遠山とおやまみぎすけしつ
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真田さなだ 幸綱ゆきつな(さなだ ゆきつな) / 真田さなだ 幸隆ゆきたか(さなだ ゆきたか、こうりゅう)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう信濃しなの在地ざいち領主りょうしゅで、甲斐かいこく戦国せんごく大名だいみょうである武田たけだ家臣かしん息子むすこさんにんともに、武田たけだじゅうよんしょうにもかぞえられる。

幼名ようみょう次郎じろう三郎さぶろう通称つうしょうみなもとふとし左衛門さえもん剃髪ていはつして一徳かずのりときごうす。しょ系図けいずでは幸隆ゆきたかしるされるが、確実かくじつどう時代じだい史料しりょうにおいては幸綱ゆきつなしるされ[2]、またに“たかし”をつうとするものがまったくないことなどから、えいろく5ねんごろまでは幸綱ゆきつな名乗なのり、幸隆ゆきたか晩年ばんねんあらためたものであるとかんがえられている[3] 。「幸隆ゆきたか」のかんして、『高野山こうのやま蓮華れんげじょういん過去かこちょう』では一徳かずのりときみちごうともない「一徳かずのりとき幸隆ゆきたか」としるされており、みちごう原則げんそくとして音読おんよされることから、「幸隆ゆきたか」のみは「こうりゅう」であるともかんがえられている[4]

出身しゅっしん信濃しなの小県ちいさがたぐんぞく海野うみので、海野うみのひら合戦かっせんでいったん所領しょりょううしなうが信濃しなの侵攻しんこうした武田たけだ晴信はるのぶつかえて旧領きゅうりょう真田さなだ本城ほんじょう(松尾城まつおじょう)(長野ながのけん小県ちいさがたぐん真田さなだまち)を回復かいふく以後いご武田たけだ信濃しなの先方せんぽうしゅとして活躍かつやくし、真田さなだいしずえきずいた。

生涯しょうがい

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信濃しなのこく小県ちいさがたぐん現在げんざい長野ながのけんひがし)の豪族ごうぞく海野うみのとうつな[5]、あるいはむねつなむすめ婿むこ真田さなだよりゆきあきら[6]としてまれたとされている。幸綱ゆきつな出自しゅつじについては様々さまざま家系かけいとともに諸説しょせつあり、真田さなだ自体じたい幸綱ゆきつな以前いぜん記録きろくすくないとはいえ存在そんざいしているため、真田さなだよりゆきあきらむねつなむすめ婿むことするせつや、海野うみのとうつなである幸綱ゆきつなよりゆきあきら養子ようしになったなど、様々さまざま見解けんかいがあり確定かくていしていない。

上野うえのこく亡命ぼうめい

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甲斐かいこくでは守護しゅご武田たけだによる国内こくない統一とういつおこなわれ信濃しなのへの進出しんしゅつ開始かいししており、武田たけだ信虎のぶとら天文てんもん10ねん1541ねん)に同盟どうめい関係かんけいにある信濃しなの諏訪すわぐん諏訪すわよりゆきじゅうや、信濃しなの小県ちいさがたぐん村上むらかみ義清よしきよとも信濃しなの小県ちいさがたぐん佐久さくぐん侵攻しんこうする。同年どうねん5がつ23にち海野うみのたいらたたかにより海野うみの一族いちぞく敗北はいぼくして上野うえのこく亡命ぼうめいしている。幸綱ゆきつな合戦かっせん参加さんかしていたことをしめ史料しりょういものの、とも箕輪みのわしろおも長野ながのぎょうただしたよって上野うえののがれている。

武田たけだ信虎のぶとら海野うみのひら合戦かっせんから帰国きこくした同年どうねん6がつ14にち嫡男ちゃくなん武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん)により駿河するが追放ついほうされ、晴信はるのぶ家督かとく継承けいしょうする。晴信はるのぶはまず天文てんもん11ねん1542ねん)に独断どくだん関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲政のりまさ和睦わぼくして領地りょうち割譲かつじょうした諏訪すわよりゆきじゅうほろぼすと、本格ほんかくてき佐久さく小県ちいさがたぐん侵攻しんこう再開さいかいする。

旧領きゅうりょう回復かいふく時期じき

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幸綱ゆきつな晴信はるのぶ武田たけだ帰属きぞくして旧領きゅうりょう回復かいふくしているが、その帰属きぞく時期じき諸説しょせつある。『こうしろとき』にれば、幸綱ゆきつな調しらべりゃくもちいて佐久さく抵抗ていこうつづける望月もちづき一部いちぶ武田たけだかた臣従しんじゅうさせたという。江戸えど時代じだい初期しょきの『きのえようぐんかん』にれば、天文てんもん17ねん1548ねん)の上田うえだげんたたか板垣いたがきしんかたわき備として参戦さんせんしている。一方いっぽう江戸えど時代じだい成立せいりつした真田さなだ史料しりょうでは、『武内たけうちつたえ』が天文てんもん13ねんせつとともに武田たけだ足軽あしがる大将たいしょうである山本やまもと勘助かんすけかんすけ)の推挙すいきょがあったとする伝承でんしょうつたえ、『沼田ぬまた』が天文てんもん14ねんせつ、『滋野しげの』が天文てんもん15ねんせつつたえている。初期しょき軍役ぐんえきは10程度ていど推定すいていするせつがあり動員どういん兵力へいりょくは300 - 400にん程度ていどかんがえられるが功名こうみょうかさねた後年こうねんは200ほどであっただろうとされている。

近年きんねん研究けんきゅうでは、いのさか直一なおかず諏訪すわむすめ諏訪すわ御料ごりょうじん)が武田たけだ晴信はるのぶ側室そくしつとなるさいに、おな滋野しげの一族いちぞく禰津養女ようじょとなっていることから禰津幸綱ゆきつな推挙すいきょしたと推測すいそくして天文てんもん12ねんせつ提唱ていしょう[7][注釈ちゅうしゃく 1]しばつじ俊六しゅんろく武田たけだ佐久さく侵攻しんこう平行へいこうして相模さがみこう北条ほうじょう関東かんとう侵攻しんこうし、関東かんとう管領かんりょうである上杉うえすぎ憲政のりまさ天文てんもん15ねん1546ねん)4がつかわえつ夜戦やせん上杉うえすぎいきおい上野うえのこくから駆逐くちくしていることから、幸綱ゆきつな帰属きぞく天文てんもん15ねんとしている。笹本ささもと正治しょうじ天文てんもん17ねん上田うえだげんたたか敗戦はいせん契機けいきに、晴信はるのぶ村上むらかみ義清よしきよ対策たいさく人材じんざいもとめてそれにおうじた、あるいは自分じぶんからんだのが幸綱ゆきつなであったと推測すいそくしている。

武田たけだ臣従しんじゅう

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武田たけだ臣従しんじゅうしたのちは、信濃しなの先方せんぽうしゅとして軍役ぐんえきつとめ、村上むらかみ義清よしきよかた望月もちづき調しらべりゃくなどをおこなっている。天文てんもん19ねん1550ねん)7がつには小県ちいさがたぐん諏訪すわ知行ちぎょう約束やくそくされており[8][注釈ちゅうしゃく 2]同年どうねん9がつ戸石といししろ砥石といしじょうめは幸綱ゆきつな要請ようせいにもよるものとわれている[よう出典しゅってん]戸石といししろめで幸綱ゆきつなむら上方かみがた清野きよの寺尾てらおなどを調しらべりゃくするが、戸石といしくず砥石といしくず)とばれる大敗たいはい一時いちじ失敗しっぱいする。

天文てんもん20ねん1551ねん)にふたた石城せきじょうめがおこなわれ、『こうしろとき』にれば幸綱ゆきつな調しらべりゃく同年どうねん5がつ26にちしろはわずか1にち攻略こうりゃくされたという。

だいいち川中島かわなかじま合戦かっせん

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天文てんもん22ねん1553ねん)、葛尾かつらおしろ落城らくじょうした村上むらかみ義清よしきよ越後えちごこくのがれ、幸綱ゆきつな旧領きゅうりょう完全かんぜん回復かいふくする。義清よしきよ越後えちごこく長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしんたより、きのええつ両国りょうこく信濃しなの領有りょうゆうめぐって対峙たいじし、川中島かわなかじまたたか展開てんかいすることとなる。幸綱ゆきつなたい長尾ながお上杉うえすぎ)の最前線さいぜんせんかれることとなり、つづ真田さなだ本城ほんじょう本拠地ほんきょちとし、戸石といししろばんねた。

このころ関東かんとう進出しんしゅつしたのち北条ほうじょう上野うえのこく上杉うえすぎ憲政のりまさ庇護ひごした長尾ながお景虎かげとら対峙たいじするが、幸綱ゆきつな天文てんもん23ねん1554ねん)にかぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめいもとづく北条ほうじょう氏康うじやす吾妻あづまぐんざいしろもとめる出兵しゅっぺい要請ようせいけており[10]えいろく4ねんからはじまる西上野にしうえの侵攻しんこうなど関東かんとう方面ほうめん戦略せんりゃくかかわっていたとかんがえられている[よう出典しゅってん]

弘治こうじ2ねん1556ねん)9がつ8にちには埴科はにしなぐん東天とうてんかざりじょう攻略こうりゃくし、小山田おやまだとらみつる備中びっちゅうもり)とともにしろばんつとめる。

出家しゅっけ

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きのえようぐんかん』にれば、えいろく2ねん1559ねん)に晴信はるのぶ出家しゅっけして信玄しんげん名乗なのると、自身じしん剃髪ていはつして一徳かずのりときごうしたという。

だいよん川中島かわなかじまたたか

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きのえようぐんかん』によれば、えいろく4ねん1561ねんの、だい4川中島かわなかじまたたかいでは、嫡男ちゃくなん真田さなだ信綱のぶつなとともに妻女さいじょやま上杉本かみすぎもとじんへの夜襲やしゅうくわわっていたという。川中島かわなかじまたたかのち武田たけだ信玄しんげん西上野にしうえの侵攻しんこう開始かいしするが、武田たけだ提訴ていそされていた吾妻あづまぐんないでの鎌原かんばら羽尾はお所領しょりょう抗争こうそうは、双方そうほう真田さなだ同族どうぞくでもあることから、幸綱ゆきつな調停ちょうていかかわっている。えいろく6ねん1563ねん)には羽尾はお支援しえんした上杉うえすぎかた斎藤さいとう居城きょじょういわひつじょうを、えいろく8ねん1565ねん)にはかさみ山城やましろを、えいろく10ねん1567ねん)には白井しらいしろ攻略こうりゃくしている。近年きんねんしばつじ俊六しゅんろくらの研究けんきゅうによると、嫡男ちゃくなん信綱のぶつなともに、武田たけだ上野うえの攻略こうりゃく拠点きょてん箕輪みのわしろだいであった時期じきもあるようである。これは譜代ふだいしゅみのあつかいである[よう出典しゅってん]

隠居いんきょ

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えいろく10ねん1567ねん)、病気びょうきのために家督かとく真田さなだ信綱のぶつなゆずって隠居いんきょしたとされている。このため、信玄しんげん駿河するが侵攻しんこう西上にしがみ作戦さくせんにはくわわらず、もっぱら信濃しなの北部ほくぶおようえしゅう方面ほうめんおさえとして活動かつどうした。

死去しきょ

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天正てんしょう2ねん1574ねん)5がつ19にち戸石といししろ病死びょうしした。享年きょうねん62。墓所はかしょ長野ながのけん上田うえだ真田さなだまち曹洞宗そうとうしゅう真田山さなだやま長谷寺はせでら (上田うえだ)にある。肖像しょうぞう長野ながのけん長野ながの松代まつだいまち長国寺ちょうこくじ (長野ながの)所蔵しょぞう

関連かんれん作品さくひん

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映像えいぞう作品さくひん
トレーディングカードアーケードゲーム

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、笹本ささもと正治しょうじ諏訪すわむすめが禰津養女ようじょになったこと自体じたい推測すいそくで、根拠こんきょにならないとしている。
  2. ^ 笹本ささもと正治しょうじ真田さなだ文書ぶんしょには不自然ふしぜんてんがあることを指摘してきし、他所よそから流入りゅうにゅうしてきた可能かのうせいがあるものとしている[9]

出典しゅってん

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  1. ^ しばつじ 1996, p. 8.
  2. ^ 高野山こうのやま蓮華れんげじょういん過去かこちょう長野ながのけん真田さなだまち山家やまえ神社じんじゃ所蔵しょぞう白山はくさん神社じんじゃ奥宮おくのみやとびらながろく5ねんめい
  3. ^ しばつじ 1996.
  4. ^ 平山ひらやま 2011, pp. 103–104.
  5. ^ 江戸えど時代じだい松代まつだいはんにより編纂へんさんされた真田さなだ系図けいずによる。
  6. ^ 矢沢やざわ菩提寺ぼだいじ泉寺いずみでら所蔵しょぞうの「りょう泉寺いずみでら矢沢やざわ系図けいず」にる。
  7. ^ いのさか直一なおかず真田さなださんだいろく 伝説でんせつから史実しじつへ』理論りろんしゃ、1966ねん 
  8. ^ 真田さなだ文書ぶんしょ真田さなだ宝物ほうもつかんぞう
  9. ^ 笹本ささもと 2009, pp. 23–25.
  10. ^ 神奈川かながわ県立けんりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう文書ぶんしょ天文てんもん23ねん推定すいてい10がつ5にちづけ真田さなだ幸隆ゆきたかあて北条ほうじょう氏康うじやす書状しょじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • しばつじ俊六しゅんろく真田さなだ昌幸まさゆき吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1996ねんISBN 464205202X 
  • 笹本ささもと正治しょうじ真田さなださんだい 真田さなだ日本一にっぽんいちへいミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2009ねんISBN 4623054446 
  • 平山ひらやまゆう真田さなだ幸綱ゆきつな」『新編しんぺん武田たけだ信玄しんげんのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん 
  • 平山ひらやまゆう真田さなださんだい 幸綱ゆきつな昌幸まさゆき信繁のぶしげ史実しじつせまる』PHP研究所けんきゅうじょ〈PHP新書しんしょ〉、2011ねん 
  • 橋場はしば日月じつげつ真田さなだ幸村ゆきむら 戦国せんごくきた知将ちしょうさんだい学研がっけん、2004ねん 

関連かんれん項目こうもく

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