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山本やまもと勘助かんすけ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山本やまもと 勘助かんすけ
山本やまもと勘助かんすけ松本まつもと楓湖ふうこさく恵林寺えりんじくら
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん あかりおう2ねん1493ねん)もしくはあかりおう9ねん1500ねん[1]
死没しぼつ えいろく4ねん9がつ10日とおか1561ねん10月18にち
改名かいめい 山本やまもと源助げんすけ大林おおばやし源助げんすけ大林おおばやし勘助かんすけ
山本やまもと勘助かんすけはれみゆきみちやすみちおにときごう
別名べつめい かんかい[2]かんかい勘助かんすけ
戒名かいみょう てついわおどういち禅定ぜんじょうもん
天徳てんとくいん武山たけやまどうおに居士こじ
墓所はかしょ 長野ながのけん長野ながの長谷寺はせでら愛知あいちけん豊川とよかわ
主君しゅくん 大林おおばやし?→ 武田たけだ信玄しんげん
氏族しぞく 山本やまもと大林おおばやし
父母ちちはは ちち山本やまもと貞幸さだゆきはは大橋おおはし入道にゅうどうむすめやす
兄弟きょうだい 吉野よしの貞継さだつぐ石松いしまつ光幸みつゆきはれみゆき
つる桑名くわな城内きうちしつ)、さだじゅう
むすめ山本やまもとじゅう左衛門尉さえもんのじょうしつ山本やまもとかんすけ(2だい)(勘蔵かんぞうしんきょう)山本やまもと助次すけじろう下村しもむらあんえみ
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山本やまもと 勘助かんすけ(やまもと かんすけ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう

きのえようぐんかん』においては勘助かんすけいみなはれみゆき出家しゅっけみちおにしょうしたという。勘助かんすけいみな出家しゅっけごうについては文書ぶんしょじょうからは確認かくにんされていなかったが、近年きんねん沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょ証文しょうもんさとし」「みちおにヨリぼうまで四代相続仕候覚」により、江戸えど時代じだい段階だんかい山本やまもとかんすけ[2]子孫しそんいみなを「はれみゆき」、出家しゅっけごうを「みちおに」と認識にんしきしていたことは確認かくにんされた。ただし「はれみゆき」のいみなについては、明治めいじ25ねん1892ねん)に星野ほしのひさしが「武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん)が家臣かしんたい室町むろまち将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるへんいみなである「はれあたえることは社会しゃかい通念つうねんじょうありえなかった」とも指摘してきしている。

きのえようぐんかんまききゅうでは天文てんもん16ねん武田たけだ晴信はるのぶが『甲州こうしゅう法度はっと次第しだい』をさだめたさい勘助かんすけ年齢ねんれいを55さいとしており、これにしたがうと生年せいねんあかりおう2ねん1493ねん)となる[3]一方いっぽう、『きのえようぐんかん末書まっしょ下巻げかんの「山本やまもと勘助かんすけうハさ。ヶ条かじょうこと」によれば、勘助かんすけ生年せいねんあかりおう9ねん(1500ねん)としている[3]。「ヶ条かじょうこと」ではかんすけ本国ほんごく武者むしゃ修行しゅぎょうおこない、駿河するが滞在たいざい今川いまがわ仕官しかんのぞみ、甲斐かいうつ武田たけだ仕官しかんし、出家しゅっけ川中島かわなかじまたたかいで戦死せんしする一連いちれん履歴りれき年齢ねんれいしるしているが、これには矛盾むじゅん存在そんざいしていることが指摘してきされる[1]生年せいねんには、ぶんかめ元年がんねん1501ねんせつもある。『きのえようぐんかん』によれば、没年ぼつねんえいろく4ねん1561ねん9がつ10日とおか川中島かわなかじまたたか討死うちじにしたとされる。

近世きんせいには武田たけだじゅうよんしょうふくめられ、武田たけだめいしん一人ひとりにもかぞえられて、武田たけだ信玄しんげん伝説でんせつてき軍師ぐんしとしての人物じんぶつぞう講談こうだんなどで一般いっぱんてきとなっているが、「山本やまもと勘助かんすけ」という人物じんぶつは『きのえようぐんかん』やその影響えいきょうけた近世きんせい編纂へんさんぶつ以外いがい確実かくじつせいたか史料しりょうでは一切いっさい存在そんざい確認かくにんされていないために、その実在じつざいについて長年ながねん疑問ぎもんされていた。しかし近年きんねんは「山本やまもと勘助かんすけ」と比定ひていできると指摘してきされる「山本やまもとかんすけ」の存在そんざい複数ふくすう史料しりょう確認かくにんされている[2]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

以下いか記述きじゅつする勘助かんすけ生涯しょうがい江戸えど時代じだい前期ぜんき成立せいりつの『きのえようぐんかん』をもとにするが、山本やまもと勘助かんすけは(戦後せんご発見はっけんされた市河いちかわ文書ぶんしょのぞき)『きのえようぐんかん以外いがい戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんき史料しりょうにはえない。勘助かんすけ生涯しょうがいとされるものはすべて『きのえようぐんかん』およびこれに影響えいきょうけた江戸えど時代じだい軍談ぐんだん作者さくしゃによる創作そうさくであるとかんがえられている。各地かくちのこ家伝かでん伝承でんしょう江戸えど時代じだいになって武田たけだ信玄しんげん軍師ぐんしとして名高なだかくなった勘助かんすけにちなんだ後世こうせい付会ふかいである可能かのうせいたかく、武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい伝承でんしょう伝説でんせつ同様どうよう英雄えいゆう物語ものがたりるいするものとするのが史家しかのあいだでは通説つうせつである(実在じつざいめぐ議論ぎろん参照さんしょう)。

生誕せいたん[編集へんしゅう]

山本やまもとはれみゆき生誕せいたん愛知あいちけん豊橋とよはし賀茂かもまち

きのえようぐんかん』などには三河みかわこく宝飯ほいぐん牛窪うしくぼ愛知あいちけん豊川とよかわ牛久保うしくぼまち)のだしとある。

江戸えど時代じだい後期こうき成立せいりつの『甲斐かいこくこころざし[注釈ちゅうしゃく 1]によれば、勘助かんすけ駿河するがこく富士ふじぐん山本やまもと静岡しずおかけん富士宮ふじのみや山本やまもと)の吉野よしの貞幸さだゆきやす三男さんなんまれ、三河そうごこく牛窪うしくぼしろあるじ牧野まきの家臣かしん大林おおばやしかん左衛門さえもん養子ようしはいっている。大河たいがドラマ風林火山ふうりんかざん』(NHK)もこのせつ採用さいようしている。甲斐かいこくこころざしは、きのえようぐんかん北越ほくえつ軍談ぐんだん記述きじゅつ引用いんようしている。

北越ほくえつ軍談ぐんだんでは愛知あいちけん豊田とよだ寺部てらべ本国ほんごくさんしゅう賀茂かもぐんかえり、という記述きじゅつ)。

日本にっぽん中世ちゅうせい研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃで、静岡大学しずおかだいがく教育きょういく学部がくぶ名誉めいよ教授きょうじゅ小和田こわだ哲男てつおによると、信憑しんぴょうせいひくいとされるが、『牛窪うしくぼ密談みつだん』に初出しょしゅつ[4]愛知あいちけん豊橋とよはし賀茂かも三河そうごこく八名やなぐん加茂かもむら)。

ろうじん[編集へんしゅう]

※「ろうじん」は「浪人ろうにん」とおな意味いみ江戸えど時代じだい以前いぜんおも使つかわれていた。山本やまもと勘助かんすけ原典げんてん史料しりょうである『きのえようぐんかん』ではこちらが使つかわれており、ほん項目こうもくでもこれをもちいる。

勘助かんすけは26さい(または20さい)のときに武者むしゃ修行しゅぎょうたびた。『武功ぶこう雑記ざっき』によれば、剣豪けんごう上泉かみいずみしげるつな弟子でしとらはく牛窪うしくぼ牧野まきのたずねたときに、わか勘助かんすけとらはく立会たちあい、まずとらはく一本いっぽんり、つづいて勘助かんすけ一本いっぽんった。しかし、勘助かんすけねたものたちが勘助かんすけけたと誹謗ひぼうしたため、いたたまれず出奔しゅっぽんしたという。上泉かみいずみしげるつな武者むしゃ修行しゅぎょうたのは勘助かんすけ死後しごえいろく7ねん1564ねん以後いごとされており、このはなし剣豪けんごう伝説でんせつにありがちな創作そうさくである。

勘助かんすけは10ねんあいだ中国ちゅうごく四国しこく九州きゅうしゅう関東かんとう諸国しょこく遍歴へんれきしてきょうりゅう(またはくだりりゅう兵法ひょうほう会得えとくして、しろり(築城ちくじょうじゅつ)や陣取じんとり(戦法せんぽう)をきわめた。のち勘助かんすけ武田たけだ信玄しんげんつかえたとき、諸国しょこく情勢じょうせいとして毛利もうり元就もとなり大内おおうち義隆よしたかしょうざいについてかたっている(はぎはんの『はぎ藩閥はんばつ閲録遺漏いろう』のなか子孫しそんしょうする百姓ひゃくしょう山本やまもとみなもと兵衛ひょうえはん提出ていしゅつした『山本やまもと勝次郎かつじろうかたはんぶつうつし山本やまもと言伝ことづてさとし)』がある。それによると勘助かんすけ大内おおうちつかえていたが天文てんもん10ねん妻子さいしのこして出奔しゅっぽんしたとあるが、そのはなし辻褄つじつまわない部分ぶぶんもあり裏付うらづけにとぼしい)。

天文てんもん5ねん1536ねん)、37さいになった勘助かんすけ駿河するが国主こくしゅ今川いまがわ義元よしもと仕官しかんせんとほっして駿河するがこくはいり、ろうじん家老がろう庵原いおはらただしたね屋敷やしき寄宿きしゅくし、重臣じゅうしん朝比奈あさひなしんおけとおして仕官しかんねがった。だが、今川いまがわ義元よしもと勘助かんすけ異形いぎょうきら召抱めしかかえようとはしなかった。勘助かんすけいろくろ容貌ようぼうみにくく、隻眼せきがん無数むすうきずがあり、あし不自由ふじゆうで、ゆびもそろっていなかった。今川いまがわ家中いえじゅう小者こものいちにんれぬまずしいろうじんで、しろったこともなく、へいひきいたこともない勘助かんすけ兵法ひょうほうきわめたなぞ大言壮語たいげんそうご法螺ほらであるとそしった。兵法ひょうほうで2、3手柄てがらてたことがあったが、勘助かんすけ当時とうじ流行りゅうこうしん当流とうりゅう塚原つかはら卜伝ぼくでん創設そうせつ)ではなくきょうりゅうであることをもってみとめようとはしなかった。勘助かんすけ仕官しかんかなわずろうじんのまま9ねんにわたり駿河するがまり鬱々うつうつとした日々ひびごした。

武田たけだつかえる[編集へんしゅう]

武田たけだじゅうよんしょう下段げだんひだりから2番目ばんめ山本やまもと勘助かんすけ江戸えど後期こうき武田たけだ神社じんじゃくら
山本やまもと勘助かんすけいのしし退治たいじ勝川かちがわはるていいのししきば勘助かんすけ片目かためうしな

勘助かんすけ兵法ひょうほうとしての名声めいせい次第しだい諸国しょこくこえ、武田たけだ重臣じゅうしん板垣いたがきしんかた駿河するがこくに「しろり(築城ちくじょうじゅつ)」につうじたろうじんがいるとわか甲斐かいこく国主こくしゅ武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん)に勘助かんすけ推挙すいきょした[注釈ちゅうしゃく 2]天文てんもん12ねん1543ねん)、武田たけだ知行ちぎょう100かん勘助かんすけ召抱めしかかえようともうれてた。ろうじんしゃ新規しんき召抱めしかかえとしては破格はかく待遇たいぐうであった。されることを心配しんぱいした庵原いおはらただしたねはまずは武田たけだから確約かくやく朱印しゅいんじょうをもらってから甲斐かいってはどうかとすすめるが、勘助かんすけはこれをことわりあえて武田たけだのために朱印しゅいんじょうけずに甲府こうふおもむくことにした。晴信はるのぶ入国にゅうこくにあたってろうじん勘助かんすけあなどられぬよう板垣いたがきうまやりそれに小者こもの用意よういさせた。勘助かんすけ躑躅つつじさきかん晴信はるのぶ対面たいめんする。晴信はるのぶ勘助かんすけざい見抜みぬ知行ちぎょう200かんとした。なお、『きのえようぐんかん』には駿河するが滞在たいざいは「きゅうねん」とあるが、駿河するが入国にゅうこく(1536ねん)と武田たけだ仕官しかん(1543ねん)の年月としつきが7ねんしかなく、年数ねんすうわない。

はれしんは「しろり」や諸国しょこく情勢じょうせいについて勘助かんすけかたり、その知識ちしきふかさに感心かんしんし、ふか信頼しんらいするようになったが新参しんざんしゃへの破格はかく待遇たいぐうからねたみをけて、家中いえじゅう南部なんぶそうしげる勘助かんすけ誹謗ひぼうした。晴信はるのぶはこれを改易かいえきして、ますます勘助かんすけ信頼しんらいした。南部なんぶそうしげる各地かくち彷徨うろつ餓死がししたという。

同年どうねん晴信はるのぶ信濃しなのこく侵攻しんこうすると勘助かんすけここのつのしろとす大功たいこうてて、そのざい証明しょうめいした。勘助かんすけは100かん加増かぞうされ知行ちぎょう300かんとなった。

天文てんもん13ねん1544ねん)、晴信はるのぶ信濃しなのこく諏訪すわぐん侵攻しんこうして諏訪すわよりゆきじゅうくだし、これをころした。なお、史実しじつでは晴信はるのぶ諏訪すわ侵攻しんこうよりゆきじゅう自害じがい天文てんもん11ねん1542ねん)である。

よりゆきじゅうには美貌びぼうひめがいた。よく天文てんもん14ねん1545ねん)、晴信はるのぶひめ側室そくしつむかえることをのぞむが、重臣じゅうしんたちはひめ武田たけだうらみをいており危険きけんであるとこぞって反対はんたいした。だが、勘助かんすけのみはひめ側室そくしつむかえることをつよ主張しゅちょうする。結局けっきょく諏訪すわ後継あとつぎがしいであろうという根拠こんきょから、ひめはれしんめば武田たけだ信濃しなの名門めいもん諏訪すわとのきずなとなるとかんがえた。晴信はるのぶ勘助かんすけげんひめ側室そくしつむかえる。ひめ諏訪すわ御料ごりょうじんばれるようになる。翌年よくねん諏訪すわ御料ごりょうじん男子だんしんだ。最後さいご武田たけだ当主とうしゅとなる四郎しろう勝頼かつより諏訪すわ勝頼かつより武田たけだ勝頼かつより)である(勝頼かつより武田たけだ滅亡めつぼうさいに、子息しそく信勝のぶかつ家督かとくゆず儀式ぎしきおこなったことから、信勝のぶかつ最後さいご当主とうしゅになったというせつもある)。

天文てんもん15ねん1546ねん)、晴信はるのぶ信濃しなのこく小県ちいさがたぐん村上むらかみ義清よしきよ戸石といししろめた。戸石といしじょうまもりはかた武田たけだぜいだい損害そんがいけた。そこへもうしょう村上むらかみ義清よしきよ救援きゅうえんけつけてはげしくたてて、武田たけだぜい総崩そうくずれとなり撤退てったいし、そのあいだ追撃ついげきけてぜんぐん崩壊ほうかい危機ききおちいった。勘助かんすけ晴信はるのぶ献策けんさくして50ひきいて村上むらかみぜい陽動ようどう。このあいだ晴信はるのぶ体勢たいせいなおし、武田たけだぜい勘助かんすけたくみな采配さいはいにより反撃はんげきて、村上むらかみぜいやぶったという。武田たけだ家家いえいえちゅうは「やぶぐんけんがえし」とばれる勘助かんすけ縦横無尽じゅうおうむじん活躍かつやくに「摩利まりささえてん」のようだと畏怖いふした。このこうにより勘助かんすけ加増かぞうされ知行ちぎょう800かん足軽あしがる大将たいしょうとなる[注釈ちゅうしゃく 3]。この功績こうせきにより、武田たけだ家臣かしんだれもが勘助かんすけ軍略ぐんりゃくみとめるようになった。なお、史実しじつでは戸石といしじょうおさむ防戦ぼうせん天文てんもん19ねん1550ねん)である。

立身りっしんした勘助かんすけひまけて駿河するが庵原いおはらただしたねたずね、年来ねんらい世話ぜわになった御礼おれい言上ごんじょうをして、主君しゅくん晴信はるのぶを「めい大将たいしょうである」ととなえた。

はれしん軍略ぐんりゃく政略せいりゃくについて下問かもんし、勘助かんすけはこれにこたえて様々さまざま治世ちせい献策けんさくをした。すぐれた「しろり」で高遠こうえんじょう小諸こもろじょうきずき、勘助かんすけ築城ちくじょうじゅつは「山本やまもと勘助かんすけ入道にゅうどうどうおにりゅう兵法ひょうほう」とばれた[6]。また、勘助かんすけ献策けんさくにより有名ゆうめいぶん国法こくほう甲州こうしゅう法度はっと次第しだい」が制定せいていされた。

はれしん勘助かんすけ諸国しょこく武将ぶしょうについてかたり、毛利もうり元就もとなり大内おおうち義隆よしたか今川いまがわ義元よしもと上杉うえすぎ憲政のりまさ松平まつだいら清康きよやすについてひょうし、ことに義元よしもとかんしては討死うちじに予見よけんした。後年こうねん義元よしもとおけ狭間はざまたたかはいしている。

天文てんもん16ねん1547ねん)、晴信はるのぶ上田うえだげんたたか村上むらかみ義清よしきよ決戦けっせん重臣じゅうしん板垣いたがきしんかた戦死せんしするなど苦戦くせんするが、勘助かんすけ献策けんさくにより勝利しょうりした。村上むらかみ義清よしきよ越後えちごこくはしり、長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)をたよった。以後いご謙信けんしんはしばしば北信濃きたしなの川中島かわなかじま侵攻しんこうして晴信はるのぶ戦火せんかまじえることとなる。なお、史実しじつでは上田うえだげんたたかいは天文てんもん17ねん1548ねん)であり、戸石といしじょうおさむ防戦ぼうせんまえである。また、村上むらかみ義清よしきよ上田うえだげんたたかいで勝利しょうりして一時いちじ反撃はんげきており、越後えちごこくのがれたのは天文てんもん22ねん1553ねん)である。

天文てんもん20ねん1551ねん)、晴信はるのぶ出家しゅっけして信玄しんげん名乗なのる。勘助かんすけもこれにならって出家しゅっけして法号ほうごうみちおにとき名乗なのった。史実しじつでは晴信はるのぶ出家しゅっけえいろく2ねん1559ねん)とされる。

天文てんもん22ねん1553ねん)、信玄しんげんいのちにより、謙信けんしんそなえるべく勘助かんすけ北信濃きたしなの海津かいづしろきずいた。城主じょうしゅとなった春日しゅんじつとらつな高坂こうさか昌信まさのぶは、勘助かんすけ縄張なわばりしたこのしろを「武略ぶりゃくいききわめられている」とかたっている。

真田さなださんだい』によると、勘助かんすけ真田さなだ幸隆ゆきたか懇意こんいであり、また馬場ばば信春のぶはるたいして勘助かんすけ築城ちくじょうじゅつ伝授でんじゅしている。

これらの『きのえようぐんかん』にかれた勘助かんすけ活躍かつやくから、江戸えど時代じだいには勘助かんすけ三国志さんごくししょかずら孔明こうめいのような「軍師ぐんし」とばれるようになる。なお、『きのえようぐんかん』では勘助かんすけ軍師ぐんしとは表現ひょうげんしていない。 「山本やまもとかんかい由来ゆらい」、「兵法ひょうほう伝統でんとうろく」によると勘助かんすけ兵法ひょうほう鈴木すずき日向ひゅうが守重もりしげたつ(家康いえやす初陣ういじんった人物じんぶつ)と伯父おじ山本やまもと成氏しげうじ、「吉野家よしのや系図けいず」ではちち貞幸さだゆき軍略ぐんりゃく師範しはんとなっている。

えいろく4ねん1561ねん)4がつ武田たけだ信玄しんげんわりだけじょう(長野ながのけん上水内かみみのちぐん信濃しなのまち)をとした。そのさい武田たけだ信玄しんげん信濃しなの侵攻しんこう参謀さんぼうわれたはら虎胤とらたね負傷ふしょうした。これにわって、山本やまもと勘助かんすけ参謀さんぼうになる。

川中島かわなかじまたたかい・勘助かんすけ[編集へんしゅう]

川中島かわなかじまたたか山本やまもと勘助かんすけ
川中島かわなかじまたたかいでにする山本やまもと勘助かんすけ
月岡つきおか芳年よしとし

えいろく4ねん1561ねん)、謙信けんしんは1まん3000のへいひきいて川中島かわなかじま出陣しゅつじんしてつま女山おんなやまはいり、海津かいづしろおどかした。信玄しんげんも2まんへいひきいて甲府こうふ発向はっこうし、海津かいづじょうはいった。りょうぐん数日すうじつおよ対峙たいじする。ぐんせき武田たけだ重臣じゅうしんたちは決戦けっせん主張しゅちょうするが、信玄しんげん慎重しんちょうだった。信玄しんげん勘助かんすけ馬場ばば信春のぶはる謙信けんしんやぶ作戦さくせん立案りつあんするようをめいじる。勘助かんすけ信春のぶはる軍勢ぐんぜいけてだい規模きぼ別働隊べつどうたい夜陰やいんじょうじてみつ妻女さいじょやま接近せっきんさせ、夜明よあけととも一斉いっせいめさせ、おどろいた上杉うえすぎぜい妻女さいじょやまりたところを平地ひらち布陣ふじんした本隊ほんたい挟撃きょうげきして殲滅せんめつする作戦さくせん献策けんさくした。啄木鳥けらくちばしはたき、おどろいたむしてきたところらうことにていることからのちに「啄木鳥けら戦法せんぽう」とづけられた。信玄しんげんはこのさくれて、高坂こうさか昌信まさのぶ馬場ばば信春のぶはるひきいるへい1まん2000の別働隊べつどうたい編成へんせいして妻女さいじょやまかわせ、自身じしんへい8000をひきいて八幡原はちまんぱらじんをしきしてくる上杉うえすぎぜいけた。だが、このとき上杉うえすぎかたでは、あつさにたおれるへいてきており、これ以上いじょう味方みかたへいくるしめるわけにもいかないとの謙信けんしん判断はんだんで、夜中よなか妻女さいじょやま下山げざんしていた。夜明よあけ、高坂こうさかぜい妻女さいじょやまめるがもぬけのからであった。偶然ぐうぜんにもおな両者りょうしゃ川中島かわなかじまたのである。

夜明よあけの濃霧のうむれた八幡原はちまんぱらで、信玄しんげん勘助かんすけおどろくべき光景こうけいにした。いるはずのない上杉かみすぎぜい1まん3000がかれらの眼前がんぜん進軍しんぐんしていたのである。謙信けんしんも、武田たけだぜい2まんにしておどろいた。武田たけだぜい上杉うえすぎぜいも、てきぐんうごきにまったがつかなかった。謙信けんしん武田たけだぜい突破とっぱするべくくるまかかりのじん武田たけだぜいしゃぐるいの猛攻もうこうをかける。信玄しんげんはこれにこうすべくつるつばさじんをしくが、武田たけだぜいしまくられ、武田たけだ武将ぶしょう相次あいついでにした。そのなか勘助かんすけがいた。『きのえようぐんかん』は勘助かんすけについて「てんうまや武田たけだ信繁のぶしげ殿どのに、諸角もろずみ豊後ぶんごまもる討死うちじに旗本はたもと足軽あしがる大将たいしょう両人りょうにん山本やまもと勘助かんすけ入道にゅうどうどうおに討死うちじに初鹿はつしか源五郎げんごろう討死うちじに」とのみ信繁のぶしげ信玄しんげんおとうと)ら戦死せんししゃ列挙れっきょして簡単かんたんしるしている。

山本やまもと勘助かんすけ遺髪いはつおさめた墓所はかしょ愛知あいちけん豊川とよかわ牛久保うしくぼまち
開基かいきしゃ 真木まきそうしげるねん宗法しゅうほうしるし

江戸えど時代じだい軍記ぐんきぶつ武田たけださんだい軍略ぐんりゃく』によれば、勘助かんすけおのれ献策けんさく失敗しっぱいによってぜんぐん崩壊ほうかい危機ききにあるせめ決意けついして、てきちゅう突入とつにゅう奮戦ふんせんして13たおすが、ついられた。『甲信越こうしんえつせんろく』では、決意けついした勘助かんすけわずかな家来けらいてきちゅう突入とつにゅうして獅子奮迅ししふんじんはたらきをするが、家来けらいたちは次々つぎつぎにし、それでも勘助かんすけ満身まんしん創痍そういになりながらもだい太刀たちるってたたかつづけるが、上杉うえすぎもうしょう柿崎かきざきけい手勢てぜいかこまれ、四方八方しほうはっぽうからやりまれ落馬らくばしたところを坂木さかきいそはちくびられている。享年きょうねん69。

勘助かんすけらの必死ひっし防戦ぼうせんにより信玄しんげん謙信けんしん猛攻もうこうちこたえた。乱戦らんせん最中さいちゅう謙信けんしんはただいち手薄てうすになった信玄しんげん本陣ほんじんみをかけた。馬上もうえ謙信けんしん床机しょうぎすわった信玄しんげんさん太刀たちわたりりかかったが、信玄しんげん軍配ぐんばいをもってかろうじてこれをしのいだ。ようやく別働隊べつどうたい高坂こうさかぜいけつけ上杉うえすぎぜい側面そくめんく。不利ふりさとった謙信けんしんへいき、戦国せんごく時代じだい未曾有みぞう激戦げきせんである川中島かわなかじまたたかいはわった。この両雄りょうゆう決戦けっせんを『きのえようぐんかん』は前半ぜんはん謙信けんしんち、後半こうはん信玄しんげんちとしている。

なお、推量ずいりょうなことを「山勘やまかん」「ヤマカン」とうが、一説いっせつにはやまほんかんすけ名前なまえ由来ゆらいとされている(大言たいげんかいうみ)。

実在じつざいめぐ議論ぎろん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいきのえようぐんかん登場とうじょう以後いご[編集へんしゅう]

歌川うたがわ国芳くによしさく

山本やまもと勘助かんすけ軍略ぐんりゃく築城ちくじょうけた武将ぶしょうとしてえがいた初出しょしゅつ史料しりょうは、江戸えど時代じだい初期しょき17世紀せいき初頭しょとう成立せいりつしたとかんがえられる『きのえようぐんかん』であり、そのもその印象いんしょう江戸えど時代じだい講談こうだんがれて、さまざまに脚色きゃくしょくされて天才てんさいはだの「軍師ぐんし山本やまもと勘助かんすけぞう形成けいせいされた。江戸えど時代じだいには『きのえようぐんかん』は軍学ぐんがく聖典せいてん尊重そんちょうされてひろまれ、山本やまもと勘助かんすけというめい軍師ぐんし存在そんざいひろわたることになる。

しかし、元禄げんろく年間ねんかん作成さくせい松浦まつうら鎮信てんさち)の『武功ぶこう雑記ざっき』によると、山本やまもと勘助かんすけ子供こどもがくのあるそうで、わがおや山本やまもと勘助かんすけはなし創作そうさくし、高坂こうさか弾正だんじょうさくいつわってきのえようぐんかん名付なづけたつくものだんじるなど、はやくから世上せじょう流布るふされためい軍師ぐんしとしての存在そんざいうたがわれることがあった。ここでは、山本やまもと勘助かんすけという人物じんぶつ存在そんざいみとめながらも、きのえようぐんかん偽作ぎさくであり、ぐんかんにあるような信玄しんげん軍師ぐんしではなく、山県やまがた家臣かしんであるとろんじている。

明治めいじ時代じだい評価ひょうか[編集へんしゅう]

明治めいじになって近代きんだいてき実証じっしょう主義しゅぎもとづいた歴史れきしがく日本にっぽんにもれられ、『太平たいへい』や『太閤たいこう』といった古典こてんてき軍記物語ぐんきものがたりたいする史料しりょう批判ひはんおこなわれ、その史料しりょうせい否定ひていされるようになった。明治めいじ24ねん1891ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ田中たなか義成よしなり論文ろんぶんきのえようぐんかんこう』を発表はっぴょうして、『きのえようぐんかん』の史料しりょうせい否定ひてい、『きのえようぐんかん』のみに登場とうじょうする「軍師ぐんし山本やまもと勘助かんすけ」は山県やまがたあきらけい配下はいか身分みぶんひくいち兵卒へいそつもとであろうとした。

田中たなかは『きのえようぐんかん』は軍学ぐんがくしゃ小幡おばた景憲かげのり高坂こうさか弾正だんじょう仮託かたくしていた創作そうさくぶつであるとし、『武功ぶこう雑記ざっき』の記述きじゅつ根拠こんきょとして、『きのえようぐんかん』は勘助かんすけ関山せきやま僧侶そうりょ覚書おぼえがき参考さんこうにしてかれ、この僧侶そうりょ覚書おぼえがきでは顕彰けんしょう意味いみちち誇大こだい活躍かつやくさせており(この時代じだい家伝かでんるいでは通例つうれいである)いち兵卒へいそつぎない勘助かんすけ武田たけだ軍師ぐんしとされてしまったとだんじた。ただし、田中たなかは『きのえようぐんかん』の史料しりょうせいひく評価ひょうかするものの、山本やまもと勘助かんすけ実在じつざいせいかんしてはうたがっていない。

実証じっしょう主義しゅぎ歴史れきしがく大家たいかである田中たなか義成よしなり見解けんかい権威けんいあるものとされ、田中たなか高弟こうてい渡辺わたなべゆうなどもこれを支持しじして、以後いごは『きのえようぐんかん』を歴史れきしがく論文ろんぶん史料しりょうとしてもちいることがはばかられるような風潮ふうちょうとなる。活動かつどうはおろか、名前なまえ自体じたいがその史料しりょうでの所見しょけんがない山本やまもと勘助かんすけ活動かつどうもまた史実しじつとはかんがえられなくなり、戦後せんごには1959ねん刊行かんこう奥野おくの高廣たかひろ武田たけだ信玄しんげん』において、勘助かんすけ架空かくう人物じんぶつとした。

市河いちかわ文書ぶんしょ発見はっけん[編集へんしゅう]

昭和しょうわ44ねん1969ねん)10がつ同年どうねん放送ほうそうされていた大河たいがドラマてん』に触発しょくはつされた北海道ほっかいどう釧路くしろ在住ざいじゅう視聴しちょうしゃが、先祖せんぞ伝来でんらい古文書こもんじょから戦国せんごく時代じだいのものとおもわれる「山本やまもとかんすけ」のしるされた1つう書状しょじょうさがし、北海道大学ほっかいどうだいがく信濃しなの史料しりょう編纂へんさんしつ鑑定かんていしたところしんぶつ確認かくにんされた。これは信濃しなのこく高井たかいぐんくにしゅで、戦国せんごく時代じだいには武田たけだ家臣かしん近世きんせいには上杉うえすぎ家臣かしんとなり、明治めいじ屯田とんでんへいとして北海道ほっかいどうわたった市河いちかわ子孫しそん伝来でんらいした古文書こもんじょぐんで、市河いちかわ文書ぶんしょばれる。現在げんざい大半たいはん所蔵しょぞうのもとをはな本間ほんま美術館びじゅつかん所蔵しょぞうされている。そのうち手元てもとのこした一部いちぶが「釧路くしろかわ文書ぶんしょ」で、「山本やまもとかんすけ文書ぶんしょはこのなかふくまれる。現在げんざい山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう。この書状しょじょう発見はっけんによって、実在じつざいそのものが否定ひていされかけていた山本やまもと勘助かんすけ存在そんざいに、あらたないちせきとうじられた。

市河いちかわ文書ぶんしょ発見はっけんけて、磯貝いそがい正義まさよし[7]佐藤さとう八郎はちろう[8]小林こばやし計一けいいちろう山梨やまなし長野ながのけん研究けんきゅうしゃによる研究けんきゅう相次あいつぎ、磯貝いそがい市河いちかわ文書ぶんしょ発見はっけんをもって「山本やまもとかんすけ」の実在じつざい立証りっしょうされたとしつつも、『きのえようぐんかん』における信玄しんげん軍師ぐんしとしての逸話いつわいみなの「はれみゆき」にかんしては疑問ぎもんたれるてん指摘してきした。

小林こばやしは「山本やまもとかんすけ」を『きのえようぐんかん』における山本やまもと勘助かんすけどう一人物いちじんぶつとし、さらにこの文書ぶんしょだいさん川中島かわなかじま合戦かっせんさいした弘治こうじ3ねん(1557ねん)の発給はっきゅうで、かんすけ従来じゅうらい見解けんかいによる山県やまがた家来けらいではなく、信玄しんげん側近そっきんとして使者ししゃつとめる地位ちいたか人物じんぶつひょうした[9]

一方いっぽう佐藤さとう八郎はちろう磯貝いそがい見解けんかい支持しじしつつも、「山本やまもとかんすけ」を「山本やまもと勘助かんすけ」にむすびつけるてんかんしては慎重しんちょうする見解けんかいしめした。

市河いちかわ文書ぶんしょ以降いこう研究けんきゅう[編集へんしゅう]

市河いちかわ文書ぶんしょ以降いこう山本やまもと勘助かんすけかかわる研究けんきゅう多様たようなものがられるが、勘助かんすけかかわる確実かくじつ記録きろく史料しりょうは『きのえようぐんかん以外いがいでは市河いちかわ文書ぶんしょのみであるという状態じょうたいつづいた。

山梨やまなしけん郷土きょうど史家しか上野うえの晴朗せいろうは『きのえようぐんかん』を肯定こうていてき評価ひょうかし、1985ねんには『山本やまもと勘助かんすけ』を刊行かんこうし、山梨やまなしけん北巨摩きたこまぐん高根たかねまちうえ蔵原くらはらげんきたもり高根たかねまち)に所在しょざいするつて山本やまもと勘助かんすけ墓石はかいし屋敷やしき紹介しょうかいした。上野うえのはこれらの墓石はかいしぐん中世ちゅうせい五輪ごりんとうたから篋印とうとし、付近ふきんには中世ちゅうせい土豪どごう屋敷やしき所在しょざいし、『甲斐かいこくこころざし』にしるされる八ヶ岳やつがだけみなみふもと山本やまもと勘助かんすけかかわる伝承でんしょう記述きじゅつから、勘助かんすけ国信くにのぶ国境こっきょうちかいこの地域ちいき配置はいちされた家臣かしんであるとした。また、1988ねんには渡辺わたなべ勝正かつまさが『武田たけだ軍師ぐんし山本やまもと勘助かんすけなぞ』を刊行かんこうした。渡辺わたなべは『はぎ藩閥はんばつ閲録』の『遺漏いろう』(江戸えど後期こうき天保てんぽう年間ねんかん成立せいりつ)に収録しゅうろくされている、勘助かんすけ子孫しそんしょうする長門ながと国三くにぞうすみ山本やまもと由緒ゆいしょしょ武田たけだ関係かんけい文書ぶんしょ紹介しょうかいし、勘助かんすけ子孫しそんもう利家としいえなか滞在たいざい子孫しそんのこしたとした。ただし、渡辺わたなべろんは『はぎ藩閥はんばつ閲録』・『遺漏いろう』などの編纂へんさん史料しりょう伝承でんしょうるものでいち史料しりょうもとづいていないてんや、紹介しょうかいしている武田たけだ文書ぶんしょかんしてはにせ文書ぶんしょである可能かのうせい指摘してきされている[10]

1990年代ねんだいには小和田こわだ哲男てつお戦国せんごく時代じだいにおける「軍師ぐんし」の役割やくわり検討けんとうし、軍師ぐんし合戦かっせん吉凶きっきょううらな軍配ぐんばいしゃとしての軍師ぐんしと、主君しゅくんたいして軍事ぐんじじょう助言じょげんおこな参謀さんぼうとして軍師ぐんし両面りょうめんがあることを指摘してきし、勘助かんすけ双方そうほう役割やくわりねた「軍師ぐんし」であったと指摘してきした[11]

1990年代ねんだい後半こうはんから2000年代ねんだい初頭しょとうにかけては『戦国せんごく遺文いぶん 武田たけだへん』や『山梨やまなしけん』の編纂へんさんおこなわれ、武田たけだ関係かんけい文書ぶんしょ徹底的てっていてき集成しゅうせい調査ちょうさ実施じっしされたが、勘助かんすけかんする新出にいで史料しりょう発見はっけんされなかった。2006ねんからは丸島まるしま和洋わよう武田たけだ一族いちぞく家臣かしんおおしるされた高野山こうのやま過去かこちょう紹介しょうかいおこなっているが、現在げんざいでも勘助かんすけかかわる発見はっけんされていない。一方いっぽう、1990年代ねんだいには国語こくご学者がくしゃ酒井さかい憲二けんじが『きのえようぐんかん』の国語こくごがく書誌しょしがくてきさい検討けんとうおこない、これが2000年代ねんだいには歴史れきしがく方面ほうめんにも波及はきゅうして、きのえようぐんかん史料しりょうせいかんするさい評価ひょうか提示ていじされた。

2007ねんには井上いのうえやすし原作げんさくのNHK大河たいがドラマ『風林火山ふうりんかざん』が制作せいさく放映ほうえいされ、前年ぜんねんから山本やまもと勘助かんすけかんする文献ぶんけんおお出版しゅっぱんされた。

真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょ発見はっけん[編集へんしゅう]

2007ねんにはしばつじ俊六しゅんろくが「山本やまもと勘助かんすけ虚像きょぞう実像じつぞう」『武田たけだ研究けんきゅう だい36ごう』を発表はっぴょうし、東大とうだい史料しりょう編纂へんさんしょ所蔵しょぞう古文書こもんじょ雑纂ざっさん」における「高崎山たかさきやま本家ほんけ文書ぶんしょ」の調査ちょうさ記録きろく注目ちゅうもくした。これは1892ねん明治めいじ25ねん)にきゅう上野うえのこく高崎たかさきはん山本やまもと当主とうしゅ所蔵しょぞう文書ぶんしょ鑑定かんてい依頼いらいしたさい記録きろくで、しばつじ文書ぶんしょ自体じたいしつわる写本しゃほんであるとしつつも、「山本やまもとかんすけあて武田たけだ晴信はるのぶ書状しょじょうについては一定いってい信憑しんぴょうせいがあるものと評価ひょうかした。

2008ねんには、群馬ぐんまけん安中あんなか安中あんなか学習がくしゅうもりふるさと学習がくしゅうかんによる同市どうし居住きょじゅうする真下ました所蔵しょぞう古文書こもんじょ調査ちょうさにおいて武田たけだ関係かんけい文書ぶんしょ発見はっけんされた。同年どうねんには山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかんによる資料しりょう調査ちょうさ実施じっしされ、「山本やまもとかんすけ」とその関係かんけいしゃとみられる5てん新出にいで文書ぶんしょ確認かくにんされた。なお、真下ました所蔵しょぞう古文書こもんじょぐん当初とうしょ真下ました文書ぶんしょ」と呼称こしょうされていたが、その調査ちょうさ本来ほんらいてきには真下ました伝来でんらいしたものではなく蒐集しゅうしゅうした古文書こもんじょであることが判明はんめいしたため、現在げんざいでは「真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょ」と呼称こしょうされている。

この5てん文書ぶんしょは「山本やまもとかんすけ文書ぶんしょが3つう、「かんすけ子孫しそん山本やまもとてとかんがえられている文書ぶんしょが2つうで、『市河いちかわ文書ぶんしょ以来いらいの「山本やまもとかんすけ関係かんけい文書ぶんしょとして注目ちゅうもくされているほか、山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん調査ちょうさにより「かんすけ子孫しそん動向どうこう判明はんめいした[12]

さらに、2009ねん11月には静岡しずおかけん沼津ぬまづで「だいじゅうよんかい国民こくみん文化ぶんかさい・しずおか2009」の一環いっかんとして開催かいさいされていた企画きかくてん北条ほうじょう沼津ぬまづ」において出展しゅってんされていた古文書こもんじょなかに、2007ねんしばつじ紹介しょうかいしていた「山本やまもとかんすけあて武田たけだ晴信はるのぶ書状しょじょう同一どういつ写本しゃほん発見はっけんされた。これにより文書ぶんしょ所蔵しょぞうから古文書こもんじょいえるいなどの「沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょ」が発見はっけんされ、高崎たかさき藩士はんしであった「山本やまもとかんすけ子孫しそん明治めいじ移住いじゅうしていたことが判明はんめいした。

真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょ沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょ発見はっけんともな山本やまもとかんすけ研究けんきゅう加速かそくし、とく沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょいえるいから初代しょだい山本やまもとかんすけ」の法号ほうごうが『きのえようぐんかん』における山本やまもと勘助かんすけ法号ほうごう同様どうようの「みちおに」であることが確認かくにんされた。近世きんせい初頭しょとうにおいては「山本やまもとかんすけ子孫しそん武田たけだ遺臣いしんさい仕官しかんねがった大名だいみょうあいだでは、初代しょだいかんすけは『きのえようぐんかん』における「山本やまもと勘助かんすけ」と同一どういつされており、両者りょうしゃどう一人物いちじんぶつであると指摘してきされるにいたった[13]。また、真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょ沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょ発見はっけん近世きんせい初頭しょとうにおける武田たけだ遺臣いしんである「かんすけ子孫しそんさい仕官しかんかんする事情じじょう豊富ほうふにもたらし、中世ちゅうせい近世きんせい移行いこうにおける大名だいみょう家臣かしん動向どうこうかんする史料しりょうとしても注目ちゅうもくされている[14]

一方いっぽうで、『きのえようぐんかん』における山本やまもと勘助かんすけ活躍かつやく軍師ぐんしとしての役割やくわりなどのてんについては解明かいめいされるにいたらず、課題かだいとしてのこされている[15]

2010ねん平成へいせい22ねん)には山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかんでシンボルてん実在じつざいした山本やまもとかんすけ」が開催かいさいされ、研究けんきゅう成果せいか一般いっぱん公開こうかいされた。同展どうてんではシンポジウムも開催かいさいされ、海老えびぬま真治しんじ丸島まるしま和洋わようしば裕之ひろゆき平山ひらやまゆうらによるしょ論考ろんこう発表はっぴょうされた。なお、2013ねんにはどうシンポジウムの成果せいかやその調査ちょうさなどが山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん監修かんしゅう海老えびぬま真治しんじへん『「山本やまもとかんすけ」の実像じつぞうさぐる』(えびすひかりさち出版しゅっぱん)として刊行かんこうされている。

子孫しそんとう[編集へんしゅう]

山本やまもとかんすけ」とその子孫しそん[編集へんしゅう]

川中島かわなかじま古戦場こせんじょう付近ふきん勘助かんすけはか長野ながの

真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょ沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょによれば、初代しょだい山本やまもとかんすけ子息しそくにはだい山本やまもとかんすけがいる。幼名ようみょう兵蔵ひょうぞういみな幸房こうぼうとされる。だいかんすけは『甲斐かいこくこころざしまききゅうじゅうろくでは「山本やまもと勘助かんすけ」の項目こうもくつづいて勘助かんすけ子息しそくの「山本やまもとぼう」をたてこうし、実名じつめいしょうとしつつ一本いっぽん系図けいずによればは「勘蔵かんぞうしんきょう」としている。「山本やまもとぼう」は天正てんしょう3ねん1575ねん)5がつ21にち長篠ながしのたたか戦死せんししたとし、『沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょ』でもだいかんすけ長篠ながしの合戦かっせん戦死せんししたとしるしている。また、『甲斐かいこくこころざしまきひゃくきゅうでは「饗庭あえば修理しゅうりあきら」をたてこうし、饗庭あえば利長としなが越前えちぜんまもる次男じなんじゅう左衛門さえもん頼元よりもと勘助かんすけむすめつまとし改姓かいせいし、山本やまもとじゅう左衛門尉さえもんのじょう名乗なのったとしている。

文書ぶんしょじょうにおいては『天正てんしょうみずのえうま起請文きしょうもん』において「信玄しんげん直参じきさんしゅ」に山本やまもとじゅう左衛門尉さえもんのじょうられ、武田たけだ滅亡めつぼう徳川とくがわ家康いえやすつかえていることが確認かくにんされている[16]

2009ねん群馬ぐんまけん安中あんなか発見はっけんされた真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょには「山本やまもとかんすけ文書ぶんしょふくむ5つう山本やまもと関係かんけい文書ぶんしょ存在そんざいしているが、そのなかには天正てんしょう4ねん推定すいていの「山本やまもとかんすけ」の後継こうけいてき立場たちばにあるとかんがえられている山本やまもとじゅう左衛門尉さえもんのじょうあて軍役ぐんえき文書ぶんしょふくまれている。また、慶長けいちょう7ねん(1602ねん)から慶長けいちょう11年間ねんかん推定すいてい結城ゆうき秀康ひでやす書状しょじょうじゅう左衛門尉さえもんのじょう平一へいいちあてで、徳川とくがわ家康いえやすつかえたかんすけじゅう左衛門尉さえもんのじょう子孫しそん越前えちぜん松平まつへいつかえた可能かのうせいかんがえられている。

また、真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょのうち天文てんもん17ねん山本やまもとかんじょあて武田たけだ晴信はるのぶばんぶつ東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ所蔵しょぞう古文書こもんじょ雑纂ざっさん」に収録しゅうろくされているが、注記ちゅうきれば「雑纂ざっさん所載しょさい山本やまもと文書ぶんしょ明治めいじ25ねん12月に小倉おぐらしげるぬき山本やまもと勘助かんすけ子孫しそんであるというきゅう上野うえのこく高崎たかさき藩士はんし山本やまもと所蔵しょぞううつし探訪たんぼうしたものであるという。高崎たかさき藩主はんしゅ松平まつだいら信綱のぶつな5なんしんきょうとする松平まつだいらで、家臣かしんだん関係かんけい資料しりょうである「高崎たかさき藩士はんし家格かかく家筋いえすじならびに苗字みょうじ断絶だんぜつしゃ一覧いちらん」にはしんじきょうからの家臣かしんに「かんすけ」「じゅう左衛門さえもん」を名乗なの藩士はんし存在そんざいしていることから、「雑纂ざっさん注記ちゅうき高崎たかさき藩士はんし山本やまもと比定ひていされるものとかんがえられている。

山本やまもとかんじょ子孫しそんにあたる沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょによれば、「山本やまもとかんすけ子孫しそん徳川とくがわつかえたのちふたた浪人ろうにん甲斐がいにいたが、寛永かんえい10ねん(1633ねんごろ山城やましろこくよどみはんあるじ永井ながいしょうせいさい仕官しかん藩士はんしとなり、「かんすけ」の名乗なのりをふくしたという。その永井ながい丹波たんばこく宮津みやづはんへのてんふうしたが丹波たんばうつり、のち松平まつだいらしんきょうつかえ、しんきょうてんふうにより常陸ひたちこく土浦つちうらはん下野げやこく壬生みぶはん越後えちごこく村上むらかみはんなどを最終さいしゅうてき上野うえのこく高崎たかさきはんとなっており、好事家こうずか真下ましたにより文書ぶんしょ収集しゅうしゅうされたものとかんがえられている。

沼津ぬまづさん本家ほんけ文書ぶんしょによれば「山本やまもとかんすけ子孫しそん初代しょだいかんすけ」を『きのえようぐんかん』における山本やまもと勘助かんすけ同一どういつしており、さい仕官しかんしたのちも甲州こうしゅうりゅう軍学ぐんがくまなんだ軍学ぐんがくしゃとして活躍かつやくしている。

山本やまもと勘助かんすけ」の子孫しそんしょうする諸家しょか[編集へんしゅう]

寛政かんせい年間ねんかん(1789ねん - 1801ねん)に編纂へんさんされた『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』によると、寛永かんえい12ねん(1635ねん)に幕府ばくふとうぐみ与力よりきとしてかかえられ、のちに250せき知行ちぎょうした山本やまもとただしじゅうきゅう兵衛ひょうえ九郎兵衛くろべえ)は、「山本やまもと勘助かんすけはれみゆき入道にゅうどうどうおに」の子孫しそんで、父祖ふそ牧野まきの康成やすなりつかえていたという[17][18]

越前えちぜん松平まつへい上級じょうきゅう家臣かしんであった菅沼すがぬま始祖しそは、秀康ひでやすつかえた山本やまもと成本なりもと左衛門さえもん内蔵ないぞうあたま対馬つしまもり)とされる(3代目だいめとき藩主はんしゅいのちによって母方ははかた菅沼すがぬませいあらためる。3代目だいめ以降いこう幕末ばくまつまで1000せき[17]とおる6ねん(1721ねん)に藩主はんしゅいのちで「しょ先祖せんぞ」が編纂へんさんされたさい菅沼すがぬま系図けいず焼失しょうしつしたために分明ぶんめいであるものの、山本やまもと勘助かんすけ子孫しそんであるという三河みかわこく牛久保うしくぼ出身しゅっしん山本やまもと成本なりもと始祖しそとする系図けいず提出ていしゅつしている[17]越前えちぜん松平まつへいはこの家伝かでん承認しょうにんし、幕府ばくふからのわせにも菅沼すがぬま山本やまもと勘助かんすけ縁者えんじゃであると回答かいとうするにいたっている[17]江戸えど時代じだい後期こうき文政ぶんせい13ねん(1830ねん)には、成本なりもと勘助かんすけまご明記めいきする「菅沼すがぬま」が成立せいりつすることとなる[17]

越後えちご長岡ながおかはん文書ぶんしょあおいむらさき神社じんじゃ文書ぶんしょ』などによると、どうはん家老がろう連綿れんめん家柄いえがらである山本やまもとは、山本やまもと勘助かんすけおとうと帯刀たいとう帯刀たてわき左衛門さえもん)の末裔まつえいとする[17]山本やまもと名跡みょうせきいだ、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん軍人ぐんじんとして著名ちょめい山本やまもと五十六いそろく連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんは、山本やまもと勘助かんすけおな家系かけいつらなる人物じんぶつであるとしてかく方面ほうめん紹介しょうかいされている。

肥後ひごはん正史せいしである『綿めんこう輯録まきよんじゅうろく」にれば、中津なかつ細川ほそかわさんときひゃくせきつかえた下村しもむらやすは、勘助かんすけにしたときにおさな三男さんなん長男ちょうなん次男じなん川中島かわなかじま討死うちじに誤記ごき)だった下村しもむらやすしわらい、すなわち山本やまもと勘助かんすけまごであったとされる。また、やめやす傳蔵でんぞうやす)もちちおなじくはちだいさんときつかえた(正保しょうほう年間ねんかんひゃくせき)。

その[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい後期こうき甲州こうしゅう博徒ばくと一人ひとりであるゆう天仙てんせんこれすけ(1824ねん? - 1863ねん)は剣術けんじゅつ名手めいしゅとしてられ、みずからを山本やまもと勘助かんすけ末流ばつりゅう自称じしょうしていたという[19]

山本やまもと勘助かんすけかんする文学ぶんがく伝説でんせつ信仰しんこう[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい文学ぶんがく美術びじゅつにおける勘助かんすけ[編集へんしゅう]

きのえようぐんかん』をもとに江戸前えどまえから、武田たけだ信玄しんげんつかえた「軍師ぐんし」としての人物じんぶつぞう軍談ぐんだん実録じつろく浄瑠璃じょうるり絵画かいが作品さくひんつうじて定着ていちゃくし、勘助かんすけ人物じんぶつぞう確立かくりつした。また、勘助かんすけ家族かぞく、とりわけはは越路こしじ架空かくう人物じんぶつ)が劇化げきかされ、たびたびげられている。以下いかとく著名ちょめいさくげる。

越路こしじさんばばばれる難役なんやくひとつにかぞえられている。

江戸えどには『中牧なかまき合戦かっせん』など武田たけだ題材だいざいとした実録じつろく成立せいりつするが、山本やまもと勘助かんすけあつかった実録じつろくとして『山本やまもと勲功くんこう』(別称べっしょうに「山本やまもと戦功せんこう」がある。

太平たいへいえいいさみでんろくじゅうなな山本やまもと勘助かんすけはれみゆき入道にゅうどう」(落合おちあいかおるいくさく

絵画かいが作品さくひんにおいては狩野かの了承りょうしょう山本やまもと勘助かんすけぞう』(江戸えど後期こうき山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかんくら)や松本まつもと楓湖ふうこ山本やまもと勘助かんすけ画像がぞう』(明治めいじ初期しょき恵林寺えりんじぞう武田たけだ信玄しんげんおおやけ宝物ほうもつかん保管ほかん展示てんじ)などがあり、法師ほうし武者むしゃ独眼どくがんなど『ぐんかん』にられる姿すがた反映はんえいしてえがかれている。また、近世きんせいにさかんに製作せいさくされた武田たけだじゅうよんしょうや、歌川うたがわ国芳くによし歌川うたがわかおるとら歌川うたがわかおるつやらの武者むしゃや、歌舞伎かぶき興行こうぎょうさいして製作せいさくされた役者やくしゃにおいても同様どうよう姿すがた勘助かんすけえがかれ、人々ひとびとあいだ定着ていちゃくしている。

きん現代げんだい文学ぶんがくにおける勘助かんすけ[編集へんしゅう]

1953ねん昭和しょうわ28ねん)10がつから翌年よくねん12がつまで『小説しょうせつ新潮しんちょう』に連載れんさいされた井上いのうえやすし歴史れきし小説しょうせつ風林火山ふうりんかざん』は、1969ねんには映画えいが監督かんとく稲垣いながきひろし)、1992ねん12月には里見さとみ浩太朗こうたろう主演しゅえん日本にほんテレビ系列けいれつの「年末ねんまつ大型おおがた時代じだいげきスペシャル」だい8さくとして、また、2006ねん正月しょうがつには北大路きたおおじ欣也きんや主演しゅえんテレビ朝日てれびあさひ系列けいれつにてテレビドラマがされた。さらに、井上いのうえやすし生誕せいたん100ねん記念きねんして2007ねん放送ほうそう大河たいがドラマ風林火山ふうりんかざん』の原作げんさくとなった。

海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろうは1960ねんから1962ねんまで『週刊しゅうかん朝日あさひ』に『てん』を連載れんさいし、渡辺わたなべゆう博士はかせ実在じつざいせつ採用さいようするとことわきをれて[よう出典しゅってん]勘助かんすけ登場とうじょうさせていない。この作品さくひんは1969ねんにNHK大河たいがドラマされ、同年どうねん市河いちかわ文書ぶんしょ発見はっけん経緯けいいにもなった。新田にった次郎じろう歴史れきし小説しょうせつ武田たけだ信玄しんげん』は1965ねん5がつごうから1973ねん9がつまで『歴史れきし読本とくほん』に連載れんさいされた。連載れんさいちゅうには市河いちかわ文書ぶんしょ発見はっけんされたものの、当時とうじはまだ勘助かんすけ実在じつざいうたがわれていたため、作中さくちゅう勘助かんすけ軍師ぐんしではなく忍者にんじゃとした。

これら以外いがいには横山よこやま光輝みつてる漫画まんが隻眼せきがんりゅう』があり、武田たけだ信玄しんげんつかえること以外いがいほとんどが創作そうさくとなっている。

これらの作品さくひんでの勘助かんすけは、新田にったの『武田たけだ信玄しんげん』をのぞいてすべ隻眼せきがんえがかれているが、どちらの失明しつめいしていたかは不明ふめいであるため、右目みぎめであったり左目ひだりめであったりとさだまっていない。

近年きんねんおも作品さくひん山本やまもと勘助かんすけ[編集へんしゅう]

山本やまもと勘助かんすけ以上いじょう説明せつめいとおり、史実しじつみとめられた情報じょうほうきわめてすくなく、それだけに古今ここん創作そうさく想像そうぞうりょくおおいに刺激しげきしてきた。

  • 風林火山ふうりんかざん』(井上いのうえやすし
    武田たけだ晴信はるのぶ仕官しかんした山本やまもと勘助かんすけ諏訪すわよりゆきじゅう暗殺あんさつ進言しんげんし、よりゆきじゅうころされ諏訪すわ武田たけだめられてほろぼされた。高遠こうえんじょうはいった勘助かんすけは、自害じがいかたくなにこばよりゆきじゅうむすめ由布ゆうひめ出会であい、そのうつくしさと気高けだかさに魅了みりょうされた。かたきちをちか由布ゆうひめ晴信はるのぶ由布ゆうひめ側室そくしつのぞむが、重臣じゅうしんたちはこれに反対はんたい勘助かんすけのみが側室そくしつむかえるべきとつよ主張しゅちょうした。勘助かんすけ武田たけだ諏訪すわきずなができること、そして由布ゆうひめしあわせをねがっていた。やがて、由布ゆうひめ四郎しろう勝頼かつせむ。
    勘助かんすけ由布ゆうひめへの思慕しぼじょういだきながら各地かくちたたかつづけるが、由布ゆうひめわかくして死去しきょしてしまう。かなしみにれる勘助かんすけにはやがて運命うんめい川中島かわなかじまたたかいがせまっていた。
    この作品さくひんではうつくしい由布ゆうひめ思慕しぼじょういだき、くそうとする勘助かんすけがストーリーのじくとなる。なお、『きのえようぐんかん』はそのような筋立すじだてではない。
    1969ねん映画えいが監督かんとく稲垣いながきひろし主演しゅえん三船みふね敏郎としお)され、同年どうねん日本にほんテレビでドラマ主演しゅえん東野とうの英治郎えいじろう)され、1992ねんふたた日本にほんテレビ主演しゅえん里見さとみ浩太朗こうたろう)で、2006ねんテレビ朝日てれびあさひ主演しゅえん北大路きたおおじ欣也きんや)で、2007ねんにNHK大河たいがドラマ(下記かき)で、テレビドラマがされている。
  • 信玄しんげんにん法帖ほうじょう』(山田やまだかぜ太郎たろう
    おおくの武田たけだ信玄しんげんモノの小説しょうせつとはことなり、信玄しんげんぼっして世界せかいえがく。足利あしかが義昭よしあき信長のぶなが討伐とうばつれいおうじるかたち上洛じょうらく目指めざ信玄しんげん上洛じょうらく途上とじょう落命らくめいする。しかし信玄しんげん遺言ゆいごんにはそのさん年間ねんかんすることがめいじられていた。武田たけだてきである徳川とくがわ家康いえやすは「甲斐かいとら」たる信玄しんげん存否そんぴうたがい、配下はいかあいだしゃはなつ。それに対抗たいこうするは、川中島かわなかじま敗戦はいせん隠者いんじゃ生活せいかつをしていたみちおにいつこと山本やまもと勘助かんすけかげ武者むしゃ駆使くしした様々さまざま謀略ぼうりゃくであった。
    この作品さくひんでは山本やまもと勘助かんすけ川中島かわなかじま敗戦はいせんでは戦死せんしせずびて、武田たけだかげからちからくしてきたというあたらしい解釈かいしゃくがなされている。
  • 武田たけだ信玄しんげん』(新田にった次郎じろう
    武田たけだ晴信はるのぶ倉科くらしなしゅう謀反むほん合議ごうぎまねかれたさい今川いまがわあいだしゃ山本やまもと勘助かんすけもぐんでいた。このことをはれしん見破みやぶられ、このことがもとで合議ごうぎわった。見破みやぶられたことを義元よしもとにとがめられるかたち勘助かんすけ武田たけだもぐんで武田たけだあいだしゃとしてはたらく。
    あいだしゃとして長尾ちょうび今川いまがわ織田おだなどの情報じょうほう収集しゅうしゅうしたり、禰津むすめ里見さとみ晴信はるのぶあいだったりする。
    次第しだい今川いまがわとの距離きょりひろがり、武田たけだ忠誠ちゅうせいをつくすようになる。おけ狭間はざまたたかいでは信玄しんげんいのちやな政綱せいこうとはかり今川いまがわ義元よしもと殺害さつがいする。
    最期さいご川中島かわなかじまたたか馬場ばば信春のぶはるひきいるべつどうたい敵襲てきしゅうつたえる途中とちゅう上杉うえすぎぐん雑兵ぞうひょうふとももをやりされ、使者ししゃとしての任務にんむたすもいのちとす。
    勘助かんすけ実在じつざいうたがわれたのちかれた作品さくひんであり、勘助かんすけ参謀さんぼうではなく使者ししゃあいだしゃとしてえがいている。
    この作品さくひんにおける勘助かんすけ隻眼せきがんではない。
    1988ねんにNHK大河たいがドラマ山本やまもと勘助かんすけやく西田にしだ敏行としゆき)でテレビドラマされている。
  • 風林火山ふうりんかざん』(2007ねんNHK大河たいがドラマ原作げんさく井上いのうえやすし脚本きゃくほん大森おおもり寿ことぶき美男よしお主演しゅえん内野うちのきよし
    物語ものがたり序盤じょばんで、独自どくじ勘助かんすけ青年せいねん時代じだいえがいたことがしん趣向しゅこうである。
    諸国しょこく遍歴へんれき武者むしゃ修行しゅぎょうたびをしている大林おおばやし勘助かんすけ甲斐かいこくはいり、合戦かっせんのどさくさに武田たけださむらいおそわれた農民のうみんむすめミツをたすける。勘助かんすけとミツはあいうようになるが、兵法ひょうほうきわめた勘助かんすけ軍師ぐんしとしててることをねがい、流浪るろうたびつづけることに。
    武田たけだ仕官しかんしたのち前述ぜんじゅつ大河たいがドラマ『武田たけだ信玄しんげん』とおなじくおけ狭間はざま今川いまがわ義元よしもと討死うちじにするよう仕向しむけるが、信玄しんげんいのちではなく勘助かんすけ独断どくだんうごいている。
    この作品さくひんでは、勘助かんすけは1500ねんあきらおう9ねん)に駿河するが国富こくふ郡山こおりやま本郷ほんごう誕生たんじょうしたという設定せっていになっている。
  • べにかえで(こうふうし)のこい』(宮本みやもと昌孝まさたか 徳間とくま文庫ぶんこ将軍しょうぐんほし 義輝よしてる異聞いぶん収録しゅうろく
    山本やまもと勘助かんすけ生涯しょうがいえがいた短編たんぺん小説しょうせつ武田たけだ信玄しんげん正室せいしつ三条さんじょうほうひそかに恋情れんじょういだく。勘助かんすけさんじょうほう寝所ねどこかえでえだのこしたために、三条さんじょうほう信玄しんげん密通みっつううたがわれる。
  • 伊達だておに -片倉かたくらしょう十郎じゅうろう-』(田中たなか克樹かつき 新潮社しんちょうしゃ コミックバンチ)
    川中島かわなかじま敗戦はいせんでは戦死せんしせず、各地かくち放浪ほうろうしていた。わかかりしころ片倉かたくらしょう十郎じゅうろう自分じぶんおにになれず主君しゅくんである武田たけだ信玄しんげんいましめることができなかったことかたり、しょうじゅうろうおおきな影響えいきょうあたえた。
    この作品さくひんでは長篠ながしの合戦かっせん武田たけだ大敗たいはいきっした原因げんいんは、騎馬きば過信かしん鉄砲てっぽうへの理解りかいふかめなかったことをげている。
  • おとこ』(さく小池こいけ一夫かずお 伊賀いが和洋かずひろ ビジネスジャンプ
    だい一部いちぶ甲斐かいおに山本やまもとかんかいへんとして連載れんさい武田たけだつかえるころより、(作中さくちゅうでは)服部はっとり半蔵はんぞうにより暗殺あんさつされるまでがえがかれている。
    かたぽうあし設定せってい軍師ぐんしとして奇抜きばつなアイデアや奇抜きばつ甲冑かっちゅうのデザイン、武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん)にくすようなど独自どくじ観点かんてんやファンタジー要素ようそふくまれた描写びょうしゃおおい。

伝説でんせつ[編集へんしゅう]

大阪おおさか藤井寺ふじいでら伝統でんとう工芸こうげいひん小山こやまうちわ」は、三好みよし動静どうせいさぐるため小山こやま地区ちく一時いちじんだ勘助かんすけが、あいだしゃであることをかくすためつくったことにはじまるとの伝承でんしょうがある[20]

信仰しんこう[編集へんしゅう]

武田たけだ菩提寺ぼだいじである甲州こうしゅう塩山しおやま小屋敷おやしき恵林寺えりんじ近在きんざい塩山しおやまさんにち市場いちばには不動明王ふどうみょうおうぞうまつられたどうがある[21]。この不動明王ふどうみょうおうぞうは「勘助かんすけ不動ふどう(さん)」と呼称こしょうされており、塩山しおやま小屋敷こやしき塩山しおやまさんにち市場いちばりょう地区ちくにおいて管理かんりされている[21]ぞうだかやく40センチメートル(台座だいざから後背こうはいいただきまで58センチメートル)で、どうない正面しょうめん仏壇ぶつだん安置あんちされている[22]

勘助かんすけ不動ふどう」は不動明王ふどうみょうおう特有とくゆうの「半眼はんがん」であるが、『きのえようぐんかん』における山本やまもと勘助かんすけ同様どうよう右目みぎめふさがれている[21]。1890ねん明治めいじ23ねん(1がつ)の恵林寺えりんじ住職じゅうしょくえんおうしるした由緒ゆいしょしょ勘助かんすけ不動尊ふどうそん再建さいけん有志ゆうし名簿めいぼ』によれば、武田たけだ滅亡めつぼう信心しんじんふかおとこほんぞうきざみ、毎年まいとし1がつ28にち祭礼さいれいおこなわれてきたとする伝承でんしょうしるしどう再建さいけんせた浄財じょうざい寄付きふしゃ名簿めいぼしるしている[21]どう位置いち再建さいけん現在地げんざいち移転いてんされたという[23]祭礼さいれいさいもちいられた版木はんぎさつのこされている[24]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 甲斐かいこくこころざし』は甲府こうふ勤番きんばん支配しはいまつ平定へいていのうにより編纂へんさん企図きとされ、文化ぶんか11ねん1814ねん)に完成かんせいした甲斐かいこく地誌ちし編纂へんさんさいしては文書ぶんしょ調査ちょうさおこなわれているが、武田たけだ戦国せんごくかんする記述きじゅつは『ぐんかん』からの影響えいきょうつよいことが指摘してきさえている。
  2. ^ 勘助かんすけ武田たけだ仕官しかんについては武田たけだ家臣かしん駒井こまい政武まさたけ用務ようむ日誌にっしであるとかんがえられている『こうしろとき』(きのえよう日記にっき)にも記事きじられる。現在げんざいつたわっている『こうしろとき』は武田たけだ用務ようむ日誌にっしもと近世きんせい段階だんかい武田たけだ遺臣いしん栗原くりはら事績じせき竄入ざんにゅうされたものであるとかんがえられており、勘助かんすけかんする記事きじも『ぐんかん』からの引用いんようであるとかんがえられている。『こうしろとき』についてはしばつじ俊六しゅんろく「『こうしろとき』をめぐるしょ問題もんだい」。
  3. ^ 武田たけだ足軽あしがる大将たいしょうについては、確実かくじつ文書ぶんしょ検討けんとうから甲斐かい出身しゅっしん小身しょうしん甲斐かいしゅう他国たこく出身しゅっしんしゃ大別たいべつされ、武田たけだ重要じゅうよう役職やくしょく甲斐かいしゅうにより独占どくせんされ、他国たこく出身しゅっしんしゃ武田たけだ仕官しかんした場合ばあい足軽あしがる大将たいしょう任命にんめいされることがおおかったことが指摘してきされており、三河みかわ出身しゅっしん山本やまもと勘助かんすけ足軽あしがる大将たいしょう任命にんめいされている『ぐんかん』の記述きじゅつ整合せいごうせいがあるものと指摘してきされている[5]
  4. ^ なお、どう論考ろんこう目次もくじには掲載けいさいされていない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 平山ひらやま(2006)、pp.42 - 44
  2. ^ a b c 山本やまもとかんすけ文書ぶんしょについては後述こうじゅつ
  3. ^ a b 平山ひらやま(2006)、p.44
  4. ^ に『三河みかわこくようまつ』(豊川とよかわ下長山しもながやま住職じゅうしょく佐野さのとも堯著・もとぶん5ねん1740ねん成立せいりつ下長山しもながやま牛窪うしくぼとなり)、『まいりかわこころざし』(西尾にしお神官しんかん渡辺わたなべまさしちょもとぶん元年がんねん1836ねん成立せいりつ
  5. ^ 平山ひらやま 西川にしかわ
  6. ^ 現在げんざい高遠こうえん城址じょうしの「勘助かんすけ曲輪くるわ」にのこしている。
  7. ^ 磯貝いそがい正義まさよし定本ていほん武田たけだ信玄しんげん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1977ねん)
  8. ^ 佐藤さとう八郎はちろう山本やまもと勘助かんすけ史料しりょう発見はっけん」(『甲斐かい』17ごう、1970ねん)[注釈ちゅうしゃく 4]
  9. ^ 小林こばやし計一けいいちろう山本やまもと勘助かんすけえる武田たけだ晴信はるのぶ書状しょじょう」(『日本にっぽん歴史れきし』268ごう、1970ねん)
  10. ^ 平山ひらやまゆう山本やまもと勘助かんすけかんじょ研究けんきゅう軌跡きせき」『「山本やまもとかんすけ」の実像じつぞうさぐる』、pp.42 - 43
  11. ^ 小和田こわだ哲男てつお軍師ぐんし参謀さんぼう 戦国せんごく合戦かっせん演出えんしゅつしゃたち』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1990ねん)、小和田こわだ哲男てつお呪術じゅじゅつうらないぼし戦国せんごく』(新潮しんちょう選書せんしょ、1998ねん)
  12. ^ 真下ました文書ぶんしょ』の紹介しょうかい翻刻ほんこく海老えびぬま真治しんじ群馬ぐんまけん安中あんなか真下ました文書ぶんしょ紹介しょうかい若干じゃっかん考察こうさつ-武田たけだ山本やまもと関係かんけい文書ぶんしょ-」(『山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きよう』3ごう、2009ねん)、「山本やまもとかんすけ子孫しそんについては「実在じつざいした山本やまもとかんすけ」(山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん、2010)
  13. ^ 平山ひらやまゆう山本やまもとかんすけとその一族いちぞく」『「山本やまもとかんすけ」の実像じつぞうさぐる』PP.137 - 138
  14. ^ 平山ひらやまゆう山本やまもと勘助かんすけかんじょ研究けんきゅう軌跡きせき」『「山本やまもと勘助かんすけ」の実像じつぞうさぐる』、p.50
  15. ^ 平山ひらやまゆう山本やまもとかんすけとその一族いちぞく」『「山本やまもとかんすけ」の実像じつぞうさぐる』P.139
  16. ^ 山本やまもとじゅう左衛門尉さえもんのじょうについては、しばつじ俊六しゅんろく山本やまもと勘助かんすけ虚像きょぞう実像じつぞう」(『武田たけだ研究けんきゅう』35ごう、2006ねん
  17. ^ a b c d e f 山本やまもと勘助かんすけ福井ふくい藩士はんし菅沼すがぬま”. 福井ふくい県立けんりつ文書ぶんしょかん. 2021ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  18. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきせんさんひゃくじゅういち国民こくみん図書としょばんだい7輯p.958
  19. ^ 黒駒くろこま勝蔵しょうぞうたい清水次郎長しみずのじろちょう 時代じだいうごかしたアウトローたち』(山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん、2013ねん)、p.15
  20. ^ 藤井寺ふじいでらのご紹介しょうかい特産とくさんひん紹介しょうかいその1「小山こやまうちわ」”. はなやいで大阪おおさか南河内みなみかわち観光かんこうキャンペーン協議きょうぎかいホームページ. 2017ねん3がつ31にち閲覧えつらん
  21. ^ a b c d 山本やまもと勘助かんすけ』(山梨やまなしにちにち新聞しんぶんしゃ、2006ねん)、p.152
  22. ^ 山本やまもと勘助かんすけ』(山梨やまなしにちにち新聞しんぶんしゃ、2006ねん)、pp. 152 -153
  23. ^ 山本やまもと勘助かんすけ』(山梨やまなしにちにち新聞しんぶんしゃ、2006ねん)、p.155
  24. ^ 山本やまもと勘助かんすけ』(山梨やまなしにちにち新聞しんぶんしゃ、2006ねん)、p.154

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

史料しりょうしゅう
たんちょ編著へんちょ
  • 平山ひらやまゆう山本やまもと勘助かんすけ』( 講談社こうだんしゃ2006ねん)ISBN 4-06-149872-X
  • 上野うえの晴朗せいろう山本やまもと勘助かんすけ 新装しんそうばん』 (新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2006ねん)ISBN 4-404-03295-1
  • 上野うえの晴朗せいろう萩原はぎはら三雄みつおへん山本やまもと勘助かんすけのすべて』 (新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2006ねん)ISBN 978-4-404-03432-8
    • かず雅彦まさひこ甲府こうふ城下町じょうかまち山本やまもと勘助かんすけ屋敷やしき
    • 西川にしかわ広平ひろへい山本やまもと勘助かんすけ足軽あしがる
    • 平山ひらやまゆう山本やまもと勘助かんすけきた時代じだい
    • 平山ひらやまゆう山本やまもと勘助かんすけはなぜ信玄しんげんつかえたのか」
    • 山下やました孝司たかし山本やまもと勘助かんすけ屋敷やしきはか伝承でんしょうをめぐって」
  • 笹本ささもと正治しょうじ軍師ぐんし山本やまもと勘助かんすけかたられた英雄えいゆうぞう』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ2007ねん)ISBN 4-404-03440-7
  • 大河たいがドラマ特別とくべつてん 風林火山ふうりんかざん 信玄しんげん謙信けんしん、そして伝説でんせつ軍師ぐんし図録ずろく山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん2007ねん4-5月、新潟にいがた県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん8-9月、大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかん10-12月
論文ろんぶん
  • しばつじ俊六しゅんろく山本やまもと勘助かんすけ虚像きょぞう実像じつぞう」( 『武田たけだ研究けんきゅう』36ごう、2007ねん)
  • 海老えびぬま真治しんじ群馬ぐんまけん安中あんなか 真下ました文書ぶんしょ紹介しょうかい若干じゃっかん考察こうさつ-武田たけだ山本やまもと関係かんけい文書ぶんしょ-」( 『山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きようだい』3ごう、2009ねん)
  • 平山ひらやまゆう山本やまもとかんすけ武田たけだ晴信はるのぶ書状しょじょう検討けんとう」 (『戦国せんごく研究けんきゅう』60ごう、2010ねん)
  • 平山ひらやまゆう武田たけだ家臣かしん山本やまもとかんすけ実像じつぞう―「真下ました所蔵しょぞう文書ぶんしょ」と「山本やまもと文書ぶんしょ」の発見はっけん―」( 『西上にしかみしゅう中世ちゅうせい安中あんなか学習がくしゅうもりふるさと学習がくしゅうかん、2010ねん)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]