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松浦まつうら重信しげのぶ

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松浦まつうら 重信しげのぶ/鎮信
松浦まつうら重信しげのぶぞう松浦まつうら史料しりょう博物館はくぶつかんくら
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 元和がんわ8ねん3月13にち1622ねん4がつ23にち
死没しぼつ 元禄げんろく16ねん10月6にち1703ねん11月14にち
改名かいめい 千代ちよづる幼名ようみょう)、重信しげのぶ、鎮信
別名べつめい みなもと三郎さぶろう通称つうしょう)、てんさちあん退すさしずかじいとくゆうごう)、まどかめぐみ法名ほうみょう)、鎮信
戒名かいみょう てんさちいん殿どのけいいむいさおゆうだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう墨田すみだてんさちてらきゅうてんさちあん
官位かんい したがえ肥前ひぜんもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家光いえみつ家綱いえつな綱吉つなよし
はん 肥前ひぜん平戸ひらどはんあるじ
氏族しぞく 松浦まつうら
父母ちちはは ちち松浦まつうら隆信たかのぶはは牧野まきの康成やすなりむすめたかし
兄弟きょうだい 重信しげのぶちょういさおいん秋山あきやま正俊まさとしせいぼうしつ松浦まつうら重賢しげかたしつ松浦まつうらたつじゅんしつ松浦まつうらしんかたしつ信忠のぶただ
つま 正室せいしつ松平まつだいら忠国ただくにむすめ
側室そくしつ志佐しさおか
むね松平まつだいら乗政のりまさ継室けいしつ松浦まつうらしんしつあきら牧野まきのただしたか正室せいしつ南部なんぶ政信まさのぶ正室せいしつ松浦まつうらしんかた養女ようじょ板倉いたくらしげるふゆ正室せいしつよりゆきはは熊沢くまさわただしれいしつ篤信とくしんひとし半之丞はんのじょうせんきく豊三郎とよさぶろう
養子ようしひじりしょういんマル
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松浦まつうら 重信しげのぶ(まつら しげのぶ)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう肥前ひぜんこく平戸ひらどはんだい4だい藩主はんしゅ平戸ひらど松浦まつうら29だい当主とうしゅ通称つうしょうみなもと三郎さぶろう官位かんいしたがえ肥前ひぜんもり隠居いんきょのちいみな曾祖父そうそふおな鎮信(しげのぶ)へとあらためており、その漢字かんじ表記ひょうきほうられている。そう文人ぶんじんぶんてんさち尊敬そんけいしててんさちあんむすび、てんさちごうする。後年こうねん退すさしずかじいとくゆうともしょうした。法名ほうみょうまどかめぐみまどかめぐみ)。

略歴りゃくれき

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元和がんわ8ねん1622ねん)3がつ13にちに3だい藩主はんしゅ松浦まつうら隆信たかのぶ長男ちょうなんとして江戸えど藩邸はんてい誕生たんじょうした。幼名ようみょう千代ちよづる

寛永かんえい6ねん1629ねん)、3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつはじめて拝謁はいえつ寛永かんえい12ねん1635ねん)12月、したがえ肥前ひぜんもり叙任じょにんされる。

寛永かんえい14ねん1637ねん)5がつちち隆信たかのぶ他界たかいし、9月7にちのこりょういで藩主はんしゅとなった。同年どうねん島原しまばららんきたので、にんけて11月14にち領国りょうごくもどり、長崎ながさき奉行ぶぎょう指示しじけて家臣かしん手薄てうすになった日見ひみ茂木もき両所りょうしょ警護けいごさせた。板倉いたくら重昌しげまさ戦死せんし原城はらのじょう攻撃こうげきにも松浦まつうらぜい参加さんかさせ、こうあったのでろく100せき加増かぞうされた。

らん終結しゅうけつ寛永かんえい16ねん1639ねん)、もと藩士はんし浮橋うきはしぬしすい江戸えど幕府ばくふ評定ひょうじょうしょ平戸ひらどはんキリシタン嫌疑けんぎがあるとうった浮橋うきはしぬしすい事件じけんこり、幕府ばくふ按検をけた。うったえは誣告ぶこくであるとして浮橋うきはしぬしすい伊豆いず大島おおしま流罪るざいとされたが、平戸ひらどった松平まつだいら信綱のぶつなは、平戸ひらどはんオランダとの独占どくせんてき交易こうえきによって強力きょうりょく兵備へいびっていることにおどろき、幕府ばくふ警戒けいかいつよめた。寛永かんえい18ねん1641ねん)、平戸ひらど商館しょうかん閉鎖へいさめいじられ、以後いご開港かいこう長崎ながさき出島でじま限定げんていされた。

このために、諸国しょこくもっとゆたかだった平戸ひらどはん巨利きょりうしな財政ざいせいくるしくなり、土地とちてない武士ぶしえたが、以後いご新田にった開発かいはつはじめとして畜産ちくさんなどしょ産業さんぎょう振興しんこうちかられ、のちには九州きゅうしゅうだいいち善治よしはる良政よしまさたたえられるまでになる。

寛永かんえい20ねん1643ねん)、朝鮮ちょうせん通信使つうしんし壱岐いきこく歓待かんたいする。正保まさやす2ねん1645ねん)、キリシタンがつかりこれを領地りょうちからう。うけたまわおう元年がんねん1652ねん)、平戸ひらど天台宗てんだいしゅうじゅこうてら草創そうそうした。万治まんじ元年がんねん1658ねん)、ふたた領国りょうごくでキリシタンがつかり、弾圧だんあつめいじられて60めいあまり斬首ざんしゅし、そのこうしょうされる。

あかりれき2ねん1656ねん)、重信しげのぶ家訓かくんよんじゅうじょうしるし、しょ有司ゆうし職務しょくむじゅうななじょうみとめる。

寛文ひろふみ4ねん1664ねん)、従弟じゅうてい松浦まつうらしんさだに1,500せき分与ぶんよした。結果けっか平戸ひらどはんは6まんせん7ひゃくせきとなる。寛文ひろふみ8ねん1668ねん)、高力こうりきたかしちょう島原しまばらはん改易かいえきとなり、幕府ばくふいのち小笠原おがさわらちょうかちともに4がつ27にち島原しまばらじょう接収せっしゅうやくとなった。

貞享ていきょう1685ねん)9がつつめしゅとなり、かりあいだれっする。元禄げんろく2ねん1689ねん)3がつ2にちおくつめすすむが、やまいにん退しりぞき、7がつ隠居いんきょして嫡男ちゃくなんむねいだ。また次男じなんあきらに1まんせき分与ぶんよして平戸ひらど新田にったはん初代しょだい藩主はんしゅとした。8月に剃髪ていはつし、いみなも鎮信とあらためた。

元禄げんろく16ねん(1703ねん)10がつ6にち向島むこうじま別邸べっていにて死去しきょ享年きょうねん82。墓所はかしょ本所ほんじょたかしさちてら戒名かいみょうてんさちいん殿どのけいいむいさおゆうだい居士こじ

人物じんぶつ

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好学こうがくひとで、神道しんとうたちばな三喜さんき吉川よしかわ惟足これたるに、天文てんもん秋山あきやまただしみぎ衛門えもん横川よこかわざい菴、国典こくてん漢籍かんせきぶんあんげんさとしまなび、ぜん隠元いんげんあん道者どうしゃちょうもと沢庵たくあん師事しじ法話ほうわばん禅師ぜんじしゅうえき不破ふわ慈庵に、書道しょどう里村さとむらげんひねに、かつ蘭学らんがくにもつうじ、とく茶道さどうわかころから愛好あいこうして、様々さまざま流派りゅうは茶人ちゃじん交流こうりゅうして研究けんきゅうかさねたうえ片桐かたぎりいししゅう藤林ふじばやしそうはじめ師事しじしていししゅうりゅう皆伝かいでんけ、独自どくじ流派りゅうはひらき、鎮信りゅうとしてられる茶道さどう一派いっぱてるにいたった。重信しげのぶは、行政ぎょうせい手腕しゅわんもさることながら、文化ぶんかじんとしてもられている。

家臣かしんから、しょしょう逸話いつわをききした『武功ぶこう雑記ざっき』をあらわした。

交流こうりゅう

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  • 儒学じゅがくしゃ山鹿やまが素行そこうとは意気投合いきとうごうして交友こうゆうふかく、その助言じょげんをよくいていた。素行そこうくなるとその山鹿やまがたいら千石せんごくかかえている。
  • また、素行そこうつうじて吉良きら義央よしなかとも交流こうりゅうがあったとされ、よしりょう秘伝ひでんの『吉良きら懐中かいちゅうしょう』が松浦まつうらつたわり、いまうつしが平戸ひらど現存げんそんする[1]

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 松浦まつうら関係かんけい文書ぶんしょ」(松浦まつうら史料しりょう博物館はくぶつかん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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