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駿河するが侵攻しんこう

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駿河するが侵攻しんこう(するがしんこう)は、戦国せんごく時代じだい合戦かっせんえいろく11ねん1568ねん)からもとかめ2ねん1571ねん)までおこなわれた甲斐かいこく戦国せんごく大名だいみょうである武田たけだ信玄しんげんによる駿河するがこく今川いまがわりょうこう北条ほうじょうりょうへの侵攻しんこう

駿河するが侵攻しんこうまえ情勢じょうせい

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侵攻しんこう開始かいしねん以前いぜん

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武田たけだ信玄しんげん
内房うつぶさこうたたかい」のくびづか静岡しずおかけん富士宮ふじのみや市内しないぼう[1]

天文てんもん23ねん1554ねん)に駿河するが今川いまがわ甲斐かい武田たけだ相模さがみ北条ほうじょうとのあいだ駿しゅんかぶとしょうさんこく同盟どうめい締結ていけつされた。今川いまがわ義元よしもと武田たけだ信玄しんげん北条ほうじょう氏康うじやすさん大名だいみょう政略せいりゃく結婚けっこん基盤きばんとした軍事ぐんじ同盟どうめいであった。

その今川いまがわ三河みかわ地方ちほうにおいて尾張おわり織田おだ対立たいりつ[2]えいろく3ねん1560ねん5月19にちおけ狭間はざまたたか義元よしもとはいすると今川いまがわ領国りょうごく動揺どうようする[注釈ちゅうしゃく 1]よく4ねん1561ねん)4がつにはこれまで今川いまがわかたとして織田おだかた対立たいりつしていた[4]松平まつだいら元康もとやす[注釈ちゅうしゃく 2]離反りはんした[注釈ちゅうしゃく 3]。それ以後いご今川いまがわ松平まつだいらあいだ交戦こうせんかえし、よく5ねん1562ねん)1がつ室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる停戦ていせん命令めいれいすも、おさまらなかった[8]

えいろく6ねん1563ねん)には遠江とおとうみこくで「とおしゅう忩劇」とばれるくにしゅ反乱はんらん発生はっせいするなど、今川いまがわ領国りょうごく弱体じゃくたいしていった。同年どうねんうるう12がつ6にちの「武田たけだ信玄しんげん書状しょじょう[げん 2]同盟どうめいむすんでいた今川いまがわたいする背信はいしん行為こういれる文面ぶんめん確認かくにんされ、とおしゅう忩劇駿河するが侵攻しんこう選択肢せんたくしれていたとする見解けんかいもある[9][10][11]

一方いっぽう武田たけだえいろく8ねん1565ねん)9がつ信玄しんげん四男よつお武田たけだ勝頼かつより正室せいしつ織田おだ信長のぶながめいむかかぶと同盟どうめいむすぶなど[げん 3][12]対外たいがい方針ほうしん変化へんかしょうじており、義信よしのぶ織田おだとの同盟どうめい反対はんたいしていたとされる[13][注釈ちゅうしゃく 4]直後ちょくごの10がつには、義元よしもとむすめみねまついん正室せいしつむかえていた嫡男ちゃくなん義信よしのぶ信玄しんげん暗殺あんさつくわだてた義信よしのぶ事件じけん発生はっせいしている[18]えいろく10ねん1567ねん)6がつ今川いまがわ氏真うじざね甲斐かいへのしおめを敢行かんこうした[注釈ちゅうしゃく 5]同年どうねん10がつに、義信よしのぶ病死びょうし[注釈ちゅうしゃく 6][20][21][22]同年どうねん11がつ氏真うじざねみねまついん駿河するが帰国きこくさせるよう要請ようせいしたが[23]同盟どうめい破棄はきつながる事態じたいになるとして信玄しんげん難色なんしょくしめしている[13]。その、11月にみねまついん駿府すんぷ帰国きこくするなど[注釈ちゅうしゃく 7]緊張きんちょう極度きょくどたかまっていた[24]同年どうねん12がつ今川いまがわ上杉うえすぎあいだ同盟どうめい交渉こうしょう秘密裏ひみつり開始かいしとなった[13]

侵攻しんこう開始かいしねんえいろく11ねん)の情勢じょうせい

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えいろく11ねん1568ねん氏真うじざね謙信けんしんたいしていくかの交渉こうしょう過程かていで、氏真うじざね北条ほうじょう武田たけだとの協議きょうぎ事項じこう機密きみつ事項じこう上杉うえすぎかたらしており重大じゅうだい同盟どうめい違反いはんをしている[13]駿河するが侵攻しんこう直前ちょくぜん[注釈ちゅうしゃく 8]同年どうねん11がつ3にち武田たけだ文書ぶんしょに「かぶと駿しゅん両国りょうこく通路つうろ不自由ふじゆうあいだ」とあり[げん 4]すで甲斐かい駿河するがあいだ交通こうつう変化へんかはじめていたことが指摘してきされる[注釈ちゅうしゃく 9]

これら動向どうこうなかで、駿河するが侵攻しんこう直前ちょくぜん武田たけだ徳川とくがわあいだ同盟どうめい成立せいりつしている[12][27][13]。しかし『きのえようぐんかん』『三河みかわ物語ものがたりとうしるされるような国分こくぶ協定きょうてい[注釈ちゅうしゃく 10]自体じたいは、存在そんざいしたとする見方みかた[28]としなかったとする見方みかた[29]とでかれている。

武田たけだ侵攻しんこうまえ駿河するがぜいたいして調しらべりゃくすすめている。たとえば駿しゅんかぶと国境こっきょう勢力せいりょくである富士ふじぐん佐野さの[注釈ちゅうしゃく 11]侵攻しんこう武田たけだかた帰属きぞくするという穴山あなやましんくん要求ようきゅうんでいる[げん 5][18][30][31]。こうして武田たけだ駿河するが侵攻しんこう開始かいし駿河するがこく富士ふじぐん要衝ようしょう富士ふじまもだい宮城みやぎ富士ふじじょう)から攻撃こうげき開始かいしされた[32]

侵攻しんこう開始かいしから甲斐かいいち撤退てったいだいいち

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今川いまがわ氏真うじざね
早川はやかわ殿どの

えいろく11ねん1568ねん12月6にち信玄しんげん駿河するが侵攻しんこう開始かいしした。武田たけだぐんによる攻撃こうげきは、どう9にち駿河するがこく富士ふじぐんだい宮城みやぎから開始かいしされた[33][34]武田たけだぐん別働隊べつどうたいだい宮城みやぎ攻撃こうげき大宮おおみや城主じょうしゅ今川いまがわ家臣かしん富士ふじ信忠のぶただ防衛ぼうえい成功せいこうする[35]。その武田たけだぐん進路しんろ西にし交通こうつう要衝ようしょうである内房うつぶさ[36][37]駿府すんぷ方面ほうめんへとかった。この「内房うつぶさこうたたかい」にて今川いまがわ家臣かしんおぎきよしほまれ討死うちじにしている[38]

この動向どうこう氏真うじざねは薩埵やま迎撃げいげきかまえをせたが、家臣かしん離反りはんかさなったため、あえなく退却たいきゃくする。離反りはんした家臣かしん重臣じゅうしんともえる面々めんめんであり、瀬名せなしんてる朝比奈あさひなしんおけ葛山かつらやまもとらはすで武田たけだ内通ないつうしていたのである[39][げん 6][げん 7]。このため今川いまがわぐんたたかわずしてやぶれ、12月13にち武田たけだぐん駿府すんぷはいった。氏真うじざね駿府すんぷわれ、遠江とおとうみかか川城かわしろ朝比奈あさひなやすしあさたよって敗走はいそうした[注釈ちゅうしゃく 12]

この事態じたいつたえる氏康うじやす書状しょじょうには「愚老ぐろう息女そくじょもとめ乗物のりものからだ、此恥辱ちじょくなんゆきこう」とあり[げん 8]氏康うじやすむすめ氏真うじざね正室せいしつ早川はやかわ殿どの輿こし用意よういできずに徒歩とほげざるをない危機ききてき状況じょうきょうであった。また氏康うじやすは、むすめ徒歩とほげるという屈辱くつじょくてき状況じょうきょうとなったことにたい激怒げきどしている。

信玄しんげん駿河するが侵攻しんこう理由りゆうを「今川いまがわ上杉うえすぎ武田たけだ挟撃きょうげきしようと画策かくさくしていたため」と北条ほうじょう説明せつめいしていた[41][げん 9]。しかし氏真うじざね氏康うじやすにとってむすめ婿むこという間柄あいだがらであるうえ早川はやかわ殿どのかったわざわいもあり、氏康うじやす武田たけだとの同盟どうめい破棄はき決意けついする[42][注釈ちゅうしゃく 13]

また氏真うじざね援軍えんぐん要請ようせいけて北条ほうじょう当主とうしゅである北条ほうじょう氏政うじまさ自身じしん駿河するが援軍えんぐんかっており、12月12にち には伊豆いず三島みしまじんっている。このよく12月13にち氏真うじざねかか川城かわしろへと敗走はいそうしているが、氏真うじざね敗走はいそう同日どうじつ北条ほうじょうは薩埵やま[注釈ちゅうしゃく 14]先鋒せんぽうたいおくっており、北条ほうじょうしんじが薩埵やま近郊きんこう蒲原かまはらじょう城主じょうしゅとして入城にゅうじょうしている。結果けっか興津川おきつがわ以東いとう早期そうき北条ほうじょうかたさえる格好かっこうとなった[34][45]

武田たけだ駿河するが侵攻しんこう武田たけだかたくみする今川いまがわ旧臣きゅうしん一方いっぽう徳川とくがわかたくみしたものた。井伊谷いいのやさんにんしゅもそのれいであり、遠江とおとうみ侵攻しんこうまえ徳川とくがわかた交渉こうしょうれており、かり武田たけだかた介入かいにゅうしてきても見放みはなさないという起請文きしょうもんどう12にち家康いえやすあたえている[29][げん 10]。こうしてどう13にち家康いえやす三河みかわから遠江とおとうみ侵攻しんこう開始かいしする。この侵入しんにゅうルートは諸説しょせつあるが、陣座峠じんざとうげされる[46]

徳川とくがわかた遠江とおとうみはいると交渉こうしょう調しらべりゃく二俣ふたまたしろ引間ひきましろにする。この引間ひきましろ接収せっしゅうさい田鶴たづるほう[注釈ちゅうしゃく 15]ていして抵抗ていこうしたとされ、この伝承でんしょう後世こうせいにもかたがれている。

その12がつ21にちには高天こうてん神城かみしろ小笠原おがさわら味方みかたけ、久野くのしろ久野くのはじめのう味方みかたにつけた[47]

かか川城かわしろには遠江とおのえけい朝比奈あさひながおり[注釈ちゅうしゃく 16]、また氏真うじざねかか川城かわしろ入城にゅうじょうともな遠江とおとうみしゅうらがたい徳川とくがわ戦力せんりょくとして合流ごうりゅうしている[40]同月どうげつちゅうには北条ほうじょうからの援軍えんぐんかか川城かわしろ到着とうちゃくしており[49][げん 11][げん 12]、これらがかか川城かわしろ戦力せんりょくであった。また遠江とおのえでも今川いまがわかたしろ健在けんざいであり、堀江ほりえじょうでは大沢おおさわはじめたね中安なかやすたねゆたか[げん 13][げん 14][げん 15]遠江とおとうみ宇津うつ山城やましろではだい原資げんしりょうが、堀川ほりかわじょうでは堀川ほりかわ一揆いっきぜい籠城ろうじょうたい徳川とくがわ勢力せいりょくとしてとどまっていた[50]

これにたい徳川とくがわぜいかか川城かわしろ周辺しゅうへんおおくのづけじょう普請ふしんする[注釈ちゅうしゃく 17]同年どうねん12がつ27にちあたりから徳川とくがわぐん今川いまがわぐん戦闘せんとう本格ほんかくし、どう28にちには今川いまがわぐん徳川とくがわかた西郷さいごう構(づけじょう)に損害そんがいあたえている[げん 16]よくえいろく12ねん(1569ねん正月しょうがつ21にちにはかか川城かわしろがい天王てんのう小路こうじ天王山てんのうざんとりで戦闘せんとうとなり、天王てんのう小路こうじでは徳川とくがわかた敗走はいそうさせることに成功せいこうする[34][げん 17]どう28にちにも天王てんのうしゃ戦闘せんとうとなり、徳川とくがわかた菅沼すがぬま美濃みのまもる討死うちじにするなど、激戦げきせん模様もようであった。結果けっか家康いえやすかか川城かわしろ包囲ほういするにいたる。しかし武田たけだかた秋山あきやまとらしげる遠江とおとうみ侵入しんにゅうするなどしたため、武田たけだ徳川とくがわあいだ齟齬そごしょうじている。

えいろく12ねん(1569ねん正月しょうがつ26にちには北条ほうじょう氏政うじまさひきいる本隊ほんたい武田たけだぐんが薩埵やまにて対陣たいじんする[げん 18][げん 19]北条ほうじょう当主とうしゅ武田たけだ当主とうしゅ対陣たいじんするという、とく緊迫きんぱくした状態じょうたいとなった[51]。また武田たけだかた北条ほうじょうかた釘付くぎづけになっているすきじょうじて今川いまがわかた土豪どごう一揆いっきこしている。安倍あべ一揆いっきらが北条ほうじょうてた書状しょじょうには「府内ふない甲州こうしゅう人数にんずうこう」とあり、どう27にちには駿府すんぷ府内ふない)を今川いまがわかた奪還だっかんしている[げん 20]

同年どうねん2がつ1にち信玄しんげん河内かわうち領主りょうしゅ穴山あなやましんくんめいじて葛山かつらやまもとともふたただい宮城みやぎめさせたが、富士ふじ信忠のぶただ再度さいどこれを防衛ぼうえいすることに成功せいこうする[52]どう26にち北条ほうじょう氏邦うじくに興津おきつしろ攻撃こうげき[53]どう28にちには薩埵やま興津おきつ一帯いったい武田たけだぐん北条ほうじょうぐん交戦こうせんする。

同年どうねん3がつにも武田たけだぐん北条ほうじょうぐん交戦こうせんかさねるが、勝敗しょうはいはつかなかった。また各地かくち戦闘せんとう発生はっせい同月どうげつ徳川とくがわかたかか川城かわしろめるも撃退げきたいされており[54]どう8にち家康いえやす今川いまがわ氏真うじざねたい和睦わぼく提案ていあんしている[55]富士ふじ上方かみがた[注釈ちゅうしゃく 18]上野うえのすじ[注釈ちゅうしゃく 19]では北条ほうじょうかた井出いで正次まさつぐ正直しょうじき戦功せんこうをあげるなどしている[げん 21][げん 22]

富士ふじ上方かみがたには甲斐かい駿河するがむす街道かいどうである中道ちゅうどう往還おうかん通過つうかしており[56]、そこを富士ふじ井出いで堅固けんごしていた。まただい宮城みやぎ位置いちする富士大ふじだいみや駿しゅんしゅう往還おうかん近接きんせつしており、これら街道かいどういま今川いまがわかたさえていたため、武田たけだぐん甲斐かいへの帰路きろたれていた[57][58]

信玄しんげんは3がつ23にち[注釈ちゅうしゃく 20]在京ざいきょう家臣かしんてた書状しょじょうなか信長のぶながとの交渉こうしょうめいじている。内容ないよう武田たけだ上杉うえすぎあいだ和睦わぼく下知げじ室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきしてもらうよう、信長のぶなが口添くちぞえを依頼いらいするものであった(だいいちじょう)。また今川いまがわ徳川とくがわあいだ和睦わぼく仲介ちゅうかい信長のぶながおこなっている意図いと確認かくにんするよう指示しじしている(だいじょう)。まただいさんじょうに「信玄しんげん滅亡めつぼううたぐこう」とあり、信長のぶなが見放みはなされたら滅亡めつぼううたがいないと信玄しんげんつよ危機ききかん家臣かしんしめしている[61][62][63]

同年どうねん2がつまつから3がつごろ徳川とくがわかた攻撃こうげきしのぎきれない宇津うつさん城主じょうしゅだい原資げんしりょうは、しろはな脱出だっしゅつした[注釈ちゅうしゃく 21][げん 23]同年どうねん3がつ27にちにはほり川城かわしろち、同年どうねん4がつには堀江ほりえじょう開城かいじょうした。堀江ほりえじょう最前線さいぜんせんでよくまもっていたが情勢じょうせいむずかしく、もとたねらはこの情勢じょうせい氏真うじざねつた[げん 24]氏真うじざねより開城かいじょうゆるしをうえ徳川とくがわかた帰属きぞくした[げん 25][げん 26]堀江ほりえじょう開城かいじょうにより、徳川とくがわ遠江とおとうみをほぼ制圧せいあつすることに成功せいこうした。これは徳川とくがわにとっておおきな節目ふしめとなった。

武田たけだ下野げやこく下野しもの宇都宮うつのみや常陸ひたちこく佐竹さたけ安房あわこく里見さとみ関東かんとう諸氏しょしびかけて牽制けんせいおこなったが[65][66][げん 27]北条ほうじょう撤兵てっぺいさせるにはいたらなかった。関東かんとう諸氏しょしへのびかけは家康いえやすあての「武田たけだ信玄しんげん条目じょうもく」からられ[げん 28]武田たけだ家康いえやす北条ほうじょう同調どうちょうしないようあんつたえている[注釈ちゅうしゃく 22]信玄しんげん久能山くのうざん久能くのうしろ築城ちくじょう、4がつ19にちには久能くのうしろ横山よこやましろ[67]しろおきてさだ[68][34][げん 29][げん 30]たい北条ほうじょうさえの城郭じょうかくとした。4月28にちには横山よこやまじょう穴山あなやましんくんのこして興津おきつ撤兵てっぺい[69]甲府こうふ撤退てったいした[70][げん 31]

この甲斐かい撤退てったい現在げんざいも「信玄しんげん樽峠たるとうげ」という伝承でんしょうとしてのこるが、これはだい宮城みやぎとせず中道ちゅうどう往還おうかん駿しゅんしゅう往還おうかん通過つうかできなかったため、難所なんしょひらいて帰国きこくせざるをなかったためである[71][72]。こうしてだいいち駿河するが侵攻しんこうは、武田たけだぐん駿府すんぷ占有せんゆうするにいたる。一方いっぽう富士ふじぐん駿東すんとうぐん北条ほうじょうぐんおさえる状況じょうきょうであった。

かか川城かわしろ開城かいじょうからだい宮城みやぎ開城かいじょうだい

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北条ほうじょう氏康うじやす

徳川とくがわ今川いまがわとの交渉こうしょうすええいろく12ねん1569ねん)5がつ6にちにはかか川城かわしろ開城かいじょう決定けってい[73]徳川とくがわ北条ほうじょうあいだ和睦わぼくもと氏真うじざね早川はやかわ殿どのどう15にち出立しゅったつし、海路かいろもちいてどう17にちには北条ほうじょうりょう蒲原かまはらじょう脱出だっしゅつした[74][75]今川いまがわ徳川とくがわあいだ和睦わぼくおよび徳川とくがわ北条ほうじょうあいだ和睦わぼく成立せいりつしたことから、徳川とくがわ北条ほうじょう今川いまがわ停戦ていせん成立せいりつしたことになる。

また氏真うじざねどう23にちには氏政うじまさ嫡男ちゃくなん国王こくおうまる北条ほうじょう氏直うじなお)を養子ようしむかえて駿河するが遠江とおとうみ支配しはいけんゆずった[げん 32]同様どうよう内容ないようしめ北条ほうじょう氏政うじまさ書状しょじょう同年どうねんうるう5がつ3にち大宮おおみや城主じょうしゅ富士ふじ信忠のぶただ・垪和つづけ大田おおたぼうらに発給はっきゅうされており、北条ほうじょうがわからも周知しゅうちはかられた[げん 33][げん 34][げん 35][76]。こうして戦国せんごく大名だいみょうとしての今川いまがわ滅亡めつぼうした。

また氏真うじざね同年どうねんうるう5がつ15にち時点じてんだい平城ひらじろざいしろしており、氏真うじざね書状しょじょうに「於懸河けんが大平おおひら籠城ろうじょう」とあるように[げん 36]籠城ろうじょうかまえをせている[77][78]。またその伊豆いず韮山にらやまじょううつったとする見解けんかいもある[79]氏真うじざねはこのあいだ家臣かしんらに感状かんじょう発給はっきゅうだい宮城みやぎ奉公ほうこうした井出いで伊賀いがまもる[げん 37]や薩埵やま奉公ほうこうした嶋田しまだ甚大じんだいおっとへの文書ぶんしょのこ[げん 38]

同年どうねん6がつ9にちには北条ほうじょう氏政うじまさ上杉うえすぎ輝虎てるとらえつしょう同盟どうめい締結ていけつする。えつしょう同盟どうめい同月どうげつ信玄しんげんふたた軍勢ぐんぜいひきいて北条ほうじょうりょう侵攻しんこう北条ほうじょうぐん牽制けんせい伊豆いず三島みしま一帯いったい放火ほうかしたうえ進路しんろ西にしにとり、御殿場ごてんばこうから駿河するが侵攻しんこうした。駿河するがにはいま陥落かんらくしていないだい宮城みやぎ所在しょざいし、3度目どめとなるだい宮城みやぎ攻撃こうげきおこなうためであった。

このとき北条ほうじょう氏康うじやす一族いちぞく総動員そうどういんし、北条ほうじょう氏政うじまさ氏規うじのり氏邦うじくにただししん出陣しゅつじんしている[80]

同年どうねん6がつからだい宮城みやぎ攻撃こうげき開始かいしされよく7がつ3にちについにだい宮城みやぎ開城かいじょうした[81][82][83]富士ふじぐん要衝ようしょうであり落であっただい宮城みやぎ攻略こうりゃくしたことにより、武田たけだぐん富士ふじぐん支配しはいおさめることに成功せいこうした。その武田たけだぐん甲府こうふ撤退てったいする[84]。7がつ下旬げじゅんには武田たけだ上杉うえすぎあいだやわあずか成立せいりつした(きのえこしかずあずか[注釈ちゅうしゃく 23]

信玄しんげんこう北条ほうじょう戦力せんりょく駿河するが方面ほうめんから小田原おだわら方面ほうめん集中しゅうちゅうさせるため、同年どうねん8がつ下旬げじゅん甲府こうふ信濃しなのこくから碓氷峠うすいとうげ武蔵むさしこくはい[げん 39]関東かんとう北条ほうじょうりょうへとはい[85]氏邦うじくに城主じょうしゅとする鉢形はちがたじょう[げん 40]北条ほうじょう氏照うじてる城主じょうしゅとするたき山城やましろ攻撃こうげきし、そのさら小田原おだわらまで侵攻しんこうはなち、同年どうねん10がつ4にちには領国りょうごくへの帰還きかん開始かいしする。帰還きかん三増峠みませとうげたたかとなり、武田たけだぐん北条ほうじょうぐんやぶ甲府こうふへと帰還きかんした[77]

こうしてだい駿河するが侵攻しんこうではだい宮城みやぎ陥落かんらくさせたことで武田たけだ富士ふじぐん手中しゅちゅうおさめることに成功せいこうした。また武田たけだぐん小田原おだわら侵攻しんこう駿河するが北条ほうじょうぐん関東かんとうもどすことに成功せいこうしたため、次回じかい駿河するが侵攻しんこうのための状況じょうきょうととのえたともえる。

蒲原かんばらしろ落城らくじょうから駿河するが占領せんりょうだいさん

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北条ほうじょう氏政うじまさ

えいろく12ねん(1569ねん)11月9にち信玄しんげん諏訪すわ大社たいしゃ戦勝せんしょう祈願きがん[げん 41]駿河するが出立しゅったつする。これを北条ほうじょう氏康うじやす氏政うじまさ氏規うじのりちゅう韮山にらやまじょうへと派遣はけんする。信玄しんげんどう22にちだい宮城みやぎ着陣ちゃくじんし27にちまでざいじんしたのち西方せいほう移動いどう開始かいしする[86][87]諏訪すわ大社たいしゃへの願文がんもんに「のり蒲原かまはらじょう興国寺こうこくじ同前どうぜん駿しゅんしゅういちえんれい静謐せいひついたる信玄しんげん本意ほんいしゃ」とあるように、武田たけだぐんは12月6にちには蒲原かまはらじょう攻撃こうげきした。

信玄しんげん書状しょじょうに「当地とうちことしゃ海道かいどうだいいちこれめい」とえる蒲原かんばらじょうはこの猛攻もうこう落城らくじょう[げん 42]蒲原かんばら城主じょうしゅ北条ほうじょうしんをはじめとしておとうと北条ほうじょうちょうじゅん重臣じゅうしん清水しみずしん七郎しちろう笠原かさはら狩野かのかいらが討死うちじにするという結果けっかとなった[88][げん 43]おなじく戦線せんせん富士ふじ信忠のぶただからくも離脱りだつするという状況じょうきょうであり、信忠のぶただあて北条ほうじょう氏政うじまさ書状しょじょうでは「れい恐怖きょうふ、其以来いらい無音むおん本意ほんいそんこう」とあり[89][げん 44]蒲原かまはらじょう開城かいじょうおどろきをってむかえられた。

蒲原かんばらしろ落城らくじょう影響えいきょうきわめておおきく、武田たけだ勝頼かつより書状しょじょうに「じゅう夜中よなか、薩埵落」とあるように[げん 45]どう12にちには薩埵やま北条ほうじょうぐんおとした。このおおきな情勢じょうせい変化へんかにより、北条ほうじょうぐん退却たいきゃく余儀よぎなくされる。

どう13にちには今川いまがわかんもる岡部おかべただしつな降伏ごうぶく、こうして武田たけだ駿府すんぷ占領せんりょうした。せいつなかか川城かわしろ開城かいじょう駿府すんぷ再興さいこうしていたが[86][90][91]結果けっかわたすこととなった。

その武田たけだ信玄しんげん駿河するが越年えつねんし、えいろく13ねん1570ねん正月しょうがつには駿河するが山西さんせい[注釈ちゅうしゃく 24]進出しんしゅつした。どう地域ちいきには花沢はなざわしろとく一色いっしょくじょう田中たなかしろ)がった。武田たけだぐんだい原資げんしりょうもる花沢はなざわじょう度重たびかさなる攻撃こうげき仕掛しかけたが落城らくじょうせず、穴山あなやましんくん重臣じゅうしん万沢まんざわ遠江とおのえもり討死うちじにするなど激戦げきせんとなった。最終さいしゅうてきには同月どうげつ下旬げじゅんに。信玄しんげんみずか出陣しゅつじん落城らくじょうさせた。『武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』には「正月しょうがつじゅうにち信玄しんげん大兵だいひょうりつテ」とある[92]。そのとく一色いっしょくじょう長谷川はせがわただしちょうしろてたため、どうしろにする。武田たけだはこのとく一色いっしょくじょう改修かいしゅうだい城郭じょうかく構成こうせいされる田中たなかじょうへと変貌へんぼうした。

信玄しんげん同年どうねん2がつ中旬ちゅうじゅん清水しみず移動いどうする。清水しみずでは水軍すいぐん拠点きょてん構築こうちく海防かいぼう施設しせつ構築こうちくおこなっていた可能かのうせい諸家しょかにより指摘してきされる[93]信玄しんげん同月どうげつ下旬げじゅんには甲斐かい一時いちじ帰国きこくする。

同年どうねん4がつ16にち[注釈ちゅうしゃく 25]武田たけだぐん富士ふじこう[注釈ちゅうしゃく 26]出陣しゅつじん同年どうねん8がつになると武田たけだぐん駿東すんとうぐんへの攻勢こうせいつよめていく。武田たけだぐんは8000のへいひきいて北条ほうじょうかた韮山にらやまじょう攻撃こうげき氏規うじのりちゅうならびに清水しみずやすしえい大藤おおふじ政信まさのぶといった重臣じゅうしんらがこれを撃退げきたいする[80][88]今川いまがわ氏真うじざねもとかめ元年がんねん1570ねん)9がつ3にちには相模さがみうつっている[94][77]

よくもとかめ2ねん1571ねん)にはいると武田たけだぐんは、北条ほうじょうぐん深沢ふかさわじょう興国寺こうこくじじょうへの攻撃こうげき激化げきかさせる。

深沢ふかさわじょう駿河するが侵攻しんこう以後いご北条ほうじょうかた築城ちくじょうしたしろであり、えいろく12ねん(1569ねんうるう5がつ13にちには、そのしろ存在そんざい確認かくにんされている。当時とうじ深沢ふかさわじょうには、北条ほうじょう綱成つなしげ松田まつだけんしゅう派遣はけんされていて、だい宮城みやぎ落城らくじょう深沢ふかさわじょう河東かわとう地域ちいき[注釈ちゅうしゃく 27]においてたい武田たけだぐん最前線さいぜんせん拠点きょてんとなっていた。

興国寺こうこくじじょうえいろく12ねん正月しょうがつ垪和つづけじょうすすむとして派遣はけんされ、同年どうねん8がつには城主じょうしゅ任命にんめいされており、それ以来いらいつづけまもっていた[95]

もとかめ2ねん(1571ねん正月しょうがつ10にち北条ほうじょう氏政うじまさ深沢ふかさわじょう救援きゅうえんかうも、北条ほうじょう綱成つなしげ武田たけだぐん攻撃こうげきえきれず、北条ほうじょうぐん深沢ふかさわじょうどう16にち開城かいじょうする。一方いっぽう興国寺こうこくじじょうつづけふせっている。深沢ふかさわじょう開城かいじょう信玄しんげん氏政うじまさ帰陣きじんしたため当地とうちでのこうそうおさまっているが、北条ほうじょう深沢ふかさわじょう攻略こうりゃくされたことで御厨みくりや地域ちいき[注釈ちゅうしゃく 28]うしなっており、北条ほうじょう駿河するがにおける影響えいきょうりょく駿東すんとうぐん南部なんぶ限定げんていされるかたちとなった。危機ききかんかんじた北条ほうじょう同年どうねん3がつ足柄あしがらしろ河村かわむらしろ普請ふしんおこなっている[96]

同年どうねん10がつ3にち北条ほうじょう氏康うじやす死去しきょしたため、北条ほうじょう氏政うじまさ武田たけだとの講和こうわへと着手ちゃくしゅする[80][97]

同年どうねん12がつにはかぶとしょう同盟どうめい締結ていけつされ、駿河するが侵攻しんこう終息しゅうそくした。

よく3ねん1572ねん)には国分こくぶ完了かんりょうする[98]国分こくぶでは同年どうねん正月しょうがつ8にち北条ほうじょうかた興国寺こうこくじじょう平山ひらやまじょう武田たけだわたされており、駿河するが北条ほうじょうりょうおおくは武田たけだかたとなっている。しかし部分ぶぶんてきには駿河するが北条ほうじょうりょうのこり、狩野川かのがわ黄瀬川おうせがわ境界きょうかいであるとされる[99]

だいさん駿河するが侵攻しんこうでは、武田たけだぐん駿東すんとうぐんへの攻勢こうせいつよめ、戦局せんきょく優位ゆういすすめた。そして、北条ほうじょう氏康うじやす死去しきょ契機けいきとして「かぶとしょう同盟どうめい」が締結ていけつされたことにより、武田たけだ駿河するがいちこくをほぼりょうすることとなった。

武田たけだ徳川とくがわあいだ相違そうい

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徳川とくがわ家康いえやす

駿河するが侵攻しんこう過程かていで、徳川とくがわ家康いえやす武田たけだ信玄しんげん抗議こうぎする事態じたい発生はっせいしている。両者りょうしゃ侵攻しんこう以前いぜん同盟どうめい締結ていけつしていたが、両者りょうしゃ意図いとには齟齬そごがあり、武田たけだぐん一部いちぶである秋山あきやまとらしげる別働隊べつどうたいえいろく11ねん(1568ねん)12月に遠江とおのえこくへと干渉かんしょうしている[100][101]結果けっか徳川とくがわ家康いえやす抗議こうぎする事態じたいとなり、信玄しんげん謝罪しゃざいしたうえよく12ねん(1569ねん正月しょうがつには別働隊べつどうたいかせている[29][102][げん 46]

この問題もんだい解決かいけつするため、家康いえやす信玄しんげん誓詞せいし提出ていしゅつし、信玄しんげん家康いえやす血判けっぱんじょう提出ていしゅつしている[げん 47][げん 48][注釈ちゅうしゃく 29][注釈ちゅうしゃく 30][105]

この秋山あきやまとらしげる遠江とおとうみ侵入しんにゅう武田たけだ徳川とくがわ同盟どうめい亀裂きれつしょうじさせ、家康いえやす対外たいがい政策せいさく急変きゅうへんする。また家康いえやすは、信玄しんげんおとうとにあたる武田たけだ信友のぶともらが事前じぜん相談そうだんもなく今川いまがわかた人質ひとじち交換こうかんおこなったことにたい盟約めいやく違反いはんであると抗議こうぎし、結果けっか武田たけだかた人質ひとじちとしていた酒井さかい忠次ただつぐむすめ徳川とくがわかたへと返還へんかんする事態じたいとなっている[げん 49][106]

えいろく12ねん(1569ねん)5がつ6にちにはかか川城かわしろ開城かいじょうし、徳川とくがわ北条ほうじょうあいだ和睦わぼくもと今川いまがわ氏真うじざね早川はやかわ殿どの北条ほうじょうりょう脱出だっしゅつした[75]。この動向どうこうたい武田たけだ信玄しんげんは、どう23にち織田おだ信長のぶながてた書状しょじょうにて「存外ぞんがい次第しだい」と不満ふまんをあらわにした[げん 50]。また「すんで氏真うじざね氏康うじやす父子ふし不可ふかゆう和睦わぼくむね家康いえやす誓詞せいし明鏡めいきょうこう」とし、家康いえやす氏真うじざね北条ほうじょう氏康うじやす氏政うじまさ父子ふし和睦わぼくしないと誓詞せいし明記めいきしていたのにもかかわらずそれに違反いはんしたという認識にんしきしめしている[107][108]。また信長のぶながから家康いえやすたいし、今川いまがわ北条ほうじょう断交だんこうするよううながすようもとめている[109]

その信玄しんげん不満ふまんおさまらず、よく13ねん正月しょうがつにも信長のぶながあて書状しょじょうおくり、家康いえやすによる誓詞せいし存在そんざいすなどし、しを期待きたいしたがされなかったことにたいする不満ふまんをあらわにしている[110]。その書状しょじょうには「徳川とくがわ家康いえやすだいあくなずらえ」とあるように、武田たけだ信玄しんげん徳川とくがわ家康いえやす北条ほうじょう氏政うじまさ今川いまがわ氏真うじざね各人かくじんたいして憤慨ふんがいしている。

影響えいきょうとその

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織田おだ信長のぶなが

武田たけだ

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従来じゅうらい武田たけだ信玄しんげん北条ほうじょうたい駿河するが侵攻しんこう理由りゆうを「今川いまがわ上杉うえすぎ武田たけだ挟撃きょうげきしようと画策かくさくしていたため」と説明せつめいしていたが[111]結果けっかとしてその北条ほうじょう今川いまがわ支援しえんする立場たちばとなったため講和こうわ関係かんけいむすべず、またたい北条ほうじょう兵力へいりょく必要ひつようがあったために交渉こうしょうじょう徳川とくがわ譲歩じょうほせざるをなくなった[112]

もとかめ元年がんねん(1570ねん)10がつ家康いえやす武田たけだとの同盟どうめい破棄はき宣言せんげん[113]徳川とくがわとの亀裂きれつけられぬ状況じょうきょうとなる。信玄しんげん信長のぶながしを要望ようぼうしていたが[げん 51]このあいだ信長のぶながしにうごかなかったため、これが信長のぶながとの同盟どうめい破棄はき遠因えんいんとなったとするきもある[106]

信玄しんげんもとかめ3ねん(1572)10がつ10日とおかには遠江とおとうみ侵攻しんこう開始かいしするが、どう21にち武田たけだかたてた書状しょじょうに「さんヶ年かねん鬱憤うっぷんこう」とあり[げん 52]家康いえやす攻撃こうげきする理由りゆうさんヶ年かねん鬱憤うっぷんさんじるためであるとしている[114]。この「さんヶ年かねん」とは、もとかめ元年がんねん家康いえやすによる同盟どうめい破棄はきからかぞえてのさんヶ年かねんすとかんがえられている[115]

北条ほうじょう

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もとかめ2ねん1572ねん)12月に武田たけだ北条ほうじょうあいだかぶとしょう同盟どうめい締結ていけつされたため、北条ほうじょう上杉うえすぎきりとなった。なお北条ほうじょう武田たけだ天正てんしょう7ねん1579ねん)にはふたた駿河するがめぐって抗争こうそうしている[116]

今川いまがわ

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今川いまがわ氏真うじざね駿河するが侵攻しんこう最終さいしゅう局面きょくめんで、いま味方みかたとして軍役ぐんえき奉公ぼうこうしているきゅう今川いまがわ家臣かしんらに「ひまじょう[注釈ちゅうしゃく 31]している[117]。その面々めんめん三浦みうら八郎はちろう左衛門尉さえもんのじょう[げん 53]冨永とみながみぎすけ[げん 54]三浦みうらわたるさん[げん 55]富士ふじ信通のぶみち[げん 56]三浦みうらもとせい[げん 57]らであった。

氏真うじざねかぶとしょう同盟どうめいただちに相模さがみ出国しゅっこくしたと従来じゅうらいかんがえられてきたが、今川いまがわ義元よしもとじゅうさんかい法要ほうようもとかめ3ねん1572ねん)5がつ19にち相模さがみおこなっており、こうから相模さがみ居住きょじゅうしていたことがられる[118]一方いっぽう政治せいじてきには氏真うじざねによる駿河するが支配しはいかかわる発給はっきゅう文書ぶんしょもとかめ4ねん1573ねん)2がつ7にち以降いこう確認かくにんされないため、駿河するがたいする影響えいきょうりょくたれている[119]。その伊豆いず蟄居ちっきょした可能かのうせい指摘してきされ、天正てんしょう元年がんねん1573ねん)8がつには浜松はままつたとされる[120]

今川いまがわ氏真うじざね織田おだたより、天正てんしょう3ねん1575ねん)3がつ16にち織田おだ信長のぶながもと出仕しゅっししているが、背景はいけいとして信玄しんげん死去しきょにより駿河するが奪還だっかん視野しやれたためではないかとする見解けんかいがある[121]。また、同年どうねん長篠ながしのたたかでは、今川いまがわ氏真うじざね織田おだぐん後詰ごづめとして従軍じゅうぐんし、同年どうねん7がつにも武田たけだかた諏訪原すわはらじょう牧野まきのしろめに参加さんかした。その今川いまがわ氏真うじざね牧野ぼくやじょう城主じょうしゅとなり、「氏真うじざねしゅ」をひきいている。また、このときは、いま警戒けいかいすべき存在そんざいとして武田たけだかたから認識にんしきされていた[げん 58][122]

甲州こうしゅう征伐せいばつさい氏真うじざね徳川とくがわぐん同行どうこうしており、また駿河するが侵攻しんこう徳川とくがわかかえられたきゅう今川いまがわ家臣かしん氏真うじざねさい仕官しかんもとめるなど、いま影響えいきょうりょく保持ほじしていたとされる[123]

結果けっかとして、今川いまがわ氏真うじざねは、たい武田たけだとしての軍事ぐんじ行動こうどうおこな立場たちばなかで、武田たけだ滅亡めつぼう見届みとどけることとなった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ おけ狭間はざま合戦かっせんはやくも今川いまがわ家臣かしんらが武田たけだ信玄しんげん警戒けいかいしており、それが信玄しんげんにもつたわっている[げん 1][3]
  2. ^ えいろく6ねん1563ねん)に家康いえやす名乗なの[5]えいろく9ねん1566ねん)には徳川とくがわ改姓かいせい[6]
  3. ^ 平山ひらやまは、織田おだかた対立たいりつする元康もとやすもと氏真うじざね援軍えんぐんけることができなかったことが関係かんけいせい決定的けっていてき悪化あっかさせたとしている[7]
  4. ^ 平山ひらやまゆう武田たけだ織田おだ同盟どうめいきのえ同盟どうめい)の方針ほうしん決定的けっていてき契機けいきとなり、信玄しんげん義信よしのぶとの関係かんけい険悪けんあくしたとする[14]。これにたいし、黒田くろだ基樹もとき信玄しんげん義信よしのぶ対立たいりつ原因げんいん内政ないせい問題もんだい家督かとく問題もんだいふくむ)ととらえ、平山ひらやま天文てんもん10ねん武田たけだ信虎のぶとら追放ついほう原因げんいんとしてとなえた「飢饉ききんをきっかけとした当主とうしゅ交代こうたいうごき」[15]えいろく8ねんにもこったとしている[16]さら黒田くろだ義信よしのぶ事件じけん真相しんそうらされなかった今川いまがわ武田たけだへの不信ふしんいたことが関係かんけい破綻はたん原因げんいんとする見解けんかいしめしている[17]
  5. ^ 黒田くろだ基樹もとき義信よしのぶ事件じけん外交がいこう問題もんだい関係かんけいせい否定ひていした(しゅ要因よういんからはずした)結果けっか氏真うじざねしおめは今川いまがわがわからの一方いっぽうてき挑発ちょうはつであったとしている。ただし、義信よしのぶ事件じけん真相しんそうらない氏真うじざねには武田たけだへの不信ふしんいだ相応そうおう理由りゆうがあり、義信よしのぶについても信玄しんげん自害じがいまれたという風説ふうせつしんじていたとみられている[17]
  6. ^ 長年ながねん義信よしのぶについては、病死びょうしせつ自害じがいせつかれていたが、義信よしのぶ葬儀そうぎさいげるために作成さくせいされたこうには義信よしのぶ病死びょうしした経緯けいいについて記載きさいされており、義信よしのぶ自害じがいしたならばその事実じじつ葬儀そうぎかくすのは不自然ふしぜんであることから、義信よしのぶこうしるとお病死びょうしであったとかんがえられる[19]
  7. ^ のちにみねまついん駿河するが帰国きこくする。出家しゅっけし、貞春さだはるあましょうした。時代じだい貞春さだはるあま徳川とくがわ秀忠ひでただ教育きょういくまかされ徳川とくがわつかえている。
  8. ^ えいろく12ねん比定ひていされる上杉うえすぎ景虎かげとらあてしょとする織田おだ信長のぶなが書状しょじょうのこり、織田おだ武田たけだ同盟どうめいいたった経緯けいいしるされ、「駿しゅんどお両国りょうこくあいだ自他じた契約けいやく子細しさいこう」とある。平山ひらやまはこの記録きろくから「えいろく11ねん7がつごろには信玄しんげん駿河するがめを決意けついしていた」としている[25]
  9. ^ 斎藤さいとう両国りょうこくあいだ紛争ふんそう民衆みんしゅう予測よそくし、境界きょうかい地域ちいき通行つうこう忌避きひんでいた可能かのうせい指摘してきしている[26]
  10. ^ 今川いまがわりょう分割ぶんかつ大井おおいがわさかいにして東部とうぶ武田たけだが、西部せいぶ徳川とくがわるとするもの
  11. ^ 佐野さの富士ふじぐん上稲子かみいなこ静岡しずおかけん富士宮ふじのみや)を本拠ほんきょとする土豪どごう
  12. ^ 平山ひらやまどう15にちかか川城かわしろ到着とうちゃくした可能かのうせいたかいとしている[40]
  13. ^ なお、氏政うじまさ武田たけだ信玄しんげんむすめである黄梅おうばいいん正室せいしつに(そのあいだもうけた北条ほうじょう氏直うじなおのち当主とうしゅとなる)していたが、氏政うじまさ離縁りえんしてつま武田たけだおくかえしたとつたえられていた。しかし、近年きんねんこれは1970年代ねんだいはじめて登場とうじょうしたはなし歴史れきしてき根拠こんきょはないとするせつされており、黄梅おうばいいん小田原おだわらじょうかれてそのまま死去しきょしたとかんがえられている[43]
  14. ^ 文書ぶんしょちゅうもちいられる「薩埵さん」とは、狭義きょうぎ意味いみとしてもちいられる「薩埵とうげ北側きたがわやま」をすのではなく、主峰しゅほう浜石岳はまいしだけから南北なんぼくびる稜線りょうせんじょう広大こうだい陣場じんば[44]
  15. ^ もと引間ひきま城主じょうしゅ飯尾いいおれんりゅうつま
  16. ^ たいちょう筆頭ひっとうに、朝比奈あさひなちかしこうよしせんたいかちたいよせたいしげる泰之やすゆきたいちゅうらが[48]
  17. ^ 相谷あいたにとりで長谷ながたにとりで曽我そが山砦さんさい天王山てんのうざんとりで金丸かねまる山砦さんさい青山あおやまとりでかさまちとりで杉谷すぎたにとりでとう
  18. ^ 現在げんざい静岡しずおかけん富士宮ふじのみや一帯いったい
  19. ^ 現在げんざい静岡しずおかけん富士宮ふじのみや上野うえの
  20. ^ 丸島まるしまは5月の誤読ごどくであるとしているが[59]、それにたい平山ひらやまは5月の誤読ごどくではなく3がつ23にちただしいだろうとしている[60]
  21. ^ 大原おおはらすくなくとも2がつ27にちにはざいしろしていることがられる[64]
  22. ^ えいろく12ねん4がつ7にちづけ武田たけだ信玄しんげん条目じょうもく」。外交がいこう文書ぶんしょである武田たけだ条目じょうもくにおいて朱印しゅいんもちいることが通例つうれいであるが、とう文書ぶんしょでは信玄しんげん署名しょめい花押かおうえられた書判かきはんじょう形式けいしきであり、書札しょさつれいうえあつれいであるてん指摘してきされる
  23. ^ もとかめ元年がんねん(1570ねん)7がつにはきのえこしかずあずか破棄はきされているため、やく1年間ねんかんみじかやわあずかであった
  24. ^ 志太しだぐん益津ましづぐん一帯いったいのことで駿河するがこく中西部ちゅうせいぶにあたる
  25. ^ 4がつ元号げんごうもとかめ改元かいげん
  26. ^ 静岡しずおかけん富士宮ふじのみや周辺しゅうへん
  27. ^ 富士川ふじかわ以東いとう地域ちいき
  28. ^ 現在げんざい御殿場ごてんば裾野すその小山おやままち一帯いったい
  29. ^ 家康いえやす誓詞せいし提出ていしゅつ信玄しんげん血判けっぱんじょう提出ていしゅつ判明はんめいする2がつ16にちづけ古文書こもんじょとししょう)があり、これらは家康いえやす抗議こうぎかんするものと推測すいそくされ、結果けっかえいろく12ねん比定ひていされている[103]
  30. ^ 家康いえやす誓詞せいし提出ていしゅつ信玄しんげん血判けっぱんじょう提出ていしゅつ判明はんめいする2がつ16にちづけ古文書こもんじょとししょう)について平山ひらやまは、えいろく12ねんとするせつただしいだろうとしている[104]
  31. ^ 内容ないよう今川いまがわたいするこれまでの奉公ほうこうたいする感謝かんしゃと、このさき何処どこ出仕しゅっししてもいという意思いししめした感状かんじょう

原典げんてん

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出典しゅってん

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[編集へんしゅう]
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