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秋山あきやまとらしげる

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秋山あきやま とらしげる
秋山あきやま伯耆ほうきもりはれちか部分ぶぶん
恵林寺えりんじぞう松本まつもと楓湖ふうこふで
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん だいひさし7ねん1527ねん
死没しぼつ 天正てんしょう3ねん11月26にち1575ねん12月28にち
別名べつめい 信友のぶとも(『甲斐かいこくこころざし』)、ぜんみぎ衛門えもんじょう[1]はれきん(『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』)・はれちかし(『甲斐かいこくこころざし』)[2]武田たけだもううし渾名あだな
官位かんい 伯耆ほうきもり[1]
主君しゅくん 武田たけだ信虎のぶとらはれしん(信玄しんげん)勝頼かつより
氏族しぞく 秋山あきやま武田たけだ甲斐かいはじめ
父母ちちはは ちち秋山あきやま信任しんにん新左衛門しんざえもん
兄弟きょうだい とらしげるしんふじ
つま 正室せいしつおつやのほう織田おだ信長のぶなが叔母おば)?
養子ようしあきらかいみなもと三郎さぶろうとも金丸かねまる筑前ちくぜんもりとらよし)の
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秋山あきやま とらしげる(あきやま とらしげ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう甲斐かいこく武田たけだ家臣かしん譜代ふだい家老がろうしゅう武田たけだ信玄しんげん勝頼かつより活動かつどうられる。武田たけだじゅうよんしょうにもかぞえられる。

生涯しょうがい

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出生しゅっしょうから伊那いなぐんだい

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甲斐かいこくこころざし』によれば、ちち秋山あきやま信任しんにん新左衛門しんざえもん)とされるが、「しん」は武田たけだつうであるため、『くにこころざし』のしるとらしげる父親ちちおや実名じつめいかんしては疑問ぎもんされている[2]

確実かくじつはつ史料しりょう天文てんもん18ねん1549ねん)5がつとされ、左近さこんおや兵衛ひょうえじょうたいし、いちがつうまさんひきぶんぶんくにしょせきしょやく免許めんきょあたえた武田たけだ朱印しゅいんじょう奏者そうしゃとしてられる[3][1][2]

こうしろとき』によれば、天文てんもん22ねん1553ねん)4がつ落城らくじょうした信濃しなのこく葛尾かつらおしろ長野ながのけん坂城さかきまち)にざいしろして戦後せんご処理しょり担当たんとうし、一門いちもんしゅ武田たけだ信繁のぶしげとらしげるたいして指示しじ伝達でんたつしている[1]

弘治こうじ2ねん1556ねん)3がつ1にち信玄しんげん伊奈いなぐん出陣しゅつじんこくしゅことごとしたがえたが、上杉うえすぎ謙信けんしん川中島かわなかじま侵入しんにゅうしてきたため一時いちじてき対峙たいじした。6月にはふたた伊奈いなぐん出陣しゅつじんし、抵抗ていこうするものたち成敗せいばいした。同年どうねん10がつとらしげる伊奈いなぐん郡代ぐんだいおおせつかり、大嶋おおしましろ長野ながのけん松川まつかわまち)の城代しろだいつとめた。その麾下きかけられたのは、坂西さかにし周次しゅうじ(左衛門さえもん)と知久ともひさ頼元よりもと(大和やまとまもる)で、そのいきおいは250であった。

また信玄しんげん山県やまがたあきらけいあい備として、その麾下きかけられたのは、小笠原おがさわらしんみね(掃部太夫たゆう)・武田たけだしんれん逍遥しょうようのき刑部おさかべしょう輔)・下条しもじょうしん伊豆いずまもる)・松岡まつおか新左衛門しんざえもんじょう松岡まつおか刑部おさかべで、そのいきおいは500であった。

きのえようぐんかん』によれば、とらしげるははじめ高遠こうえんじょう伊那いな高遠こうえんまち)で「うえ伊奈いなぐんだい」(郡司ぐんじ)であったが、えいろく5ねん1562ねん)に信玄しんげんよんなん諏方すわ武田たけだ勝頼かつより高遠こうえん城主じょうしゅとなると、飯田いいだじょう長野ながのけん飯田いいだ)へうつったという[2]。ただし、とらしげる高遠こうえんじょうざいしろした痕跡こんせきられないことが指摘してきされる[2]

とししょう8がつ18にち武田たけだ晴信はるのぶ書状しょじょうにおいて、信濃しなの大嶋おおしまじょうざいしろしていたしつじゅうとらこう豊後ぶんごまもる)と「秋山あきやまよしみぎ衛門えもんじょう」が、美濃みのこく斎藤さいとう道三どうさん国境こっきょう付近ふきんにおいて軍勢ぐんぜいうごかしたさいに、大嶋おおしまじょうにおいて情勢じょうせいはれしん報告ほうこくし、晴信はるのぶから指示しじあたえられている[1][4]どう文書ぶんしょえいろく4ねん1561ねん)の川中島かわなかじまたたか戦死せんししているしつじゅうとらこう没年ぼつねんから、えいろく初年しょねんころ[5]、あるいは弘治こうじ元年がんねん1555ねん)に推定すいていされており[4]、「秋山あきやまよしみぎ衛門えもんじょう」はとらしげるすとかんがえられている[5]。なお、このときには美濃みのこく国人くにびと遠山とおやま支援しえんのため同国どうこく苗木なえぎじょう岐阜ぎふけん中津川なかつがわ)にざいばんしていた可能かのうせい指摘してきされる[4]

これ以後いご大嶋おおしまじょうざいばんつづけ、えいろく2ねん1559ねん)12月には伊奈いなぐん春近はるちかしゅ赤須あかすあきらため所領しょりょう紛争ふんそう解決かいけつなどにたずさわっている[1][2]とらしげるおも伊奈いなぐんにおいて美濃みの遠江とおとうみ三河みかわ方面ほうめん軍事ぐんじ外交がいこうたずさわっており、『きのえようぐんかん』ではとらしげるを「伊奈いな郡代ぐんだい」としている[6]

えいろく2ねんからえいろく8ねん1565ねんごろ受領じゅりょうめい伯耆ほうきもり」をける[7][4]同年どうねんには尾張おわりこく織田おだ信長のぶながとの同盟どうめい交渉こうしょうにおいては取次とりつぎつとめる[1][4]

えいろく8ねん1565ねん)には、美濃みの土岐ときぐん高野口こうやぐちかみへらじょう付近ふきん)で秋山あきやまとらしげる織田おだかたの(森長もりながりょうぐん軍事ぐんじ衝突しょうとつこった(高野口こうやぐちたたか)(『信長のぶながこうまきさん)。

秋山あきやまとらしげる野村のむら長門ながとまもる土岐ときぐん侵攻しんこうしたさいに、秋山あきやま配下はいか仁木にき山中さんちゅうふじ九郎くろうなるものに150さづけて寺社じしゃことごと焼討やきうちした。このとき土岐ときぐんでは定林ていりんてら天福てんぷくてら明白めいはくてら焼討やきうちされ一旦いったん廃寺はいじとなった。

えいろく11ねん1568ねん)には岐阜ぎふおもむいたという(『きのえようぐんかん』)[4]。なお、「秋山あきやまよしみぎ衛門えもんじょう」と「秋山あきやま伯耆ほうきもり」は活動かつどう時期じきからどう一人物いちじんぶつであると推定すいていされており、のち織田おだ信長のぶながちとったてきしょう攻略こうりゃくした城郭じょうかくしるした「信長のぶながこういちだい合戦かっせんさとし」(徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ所蔵しょぞういにしえあん)では、長篠ながしの合戦かっせん以前いぜんに、とらしげるしているとかんがえられている「秋山あきやまよしみぎ衛門えもん」のられる[2]

駿河するが侵攻しんこう西上にしがみ作戦さくせんから信玄しんげん死去しきょ

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えいろく11ねん1568ねん)12月、武田たけだ駿河するがこく今川いまがわりょうへの侵攻しんこう開始かいしする(駿河するが侵攻しんこう)。武田たけだ駿河するが侵攻しんこうさいして三河みかわこく徳川とくがわ家康いえやす同盟どうめいちかけていたが、『三河みかわ物語ものがたり』によれば徳川とくがわかた同盟どうめい締結ていけつ国分こくぶにおいて駿河するがこく武田たけだりょう遠江とおとうみこく徳川とくがわりょう理解りかいしていたとかんがえられており、とらしげる伊奈いなしゅうひきいて遠江とおのえ侵攻しんこうすると、これにたいして抗議こうぎしている[8][6][4]晴信はるのぶとらしげる撤退てったいさせることを約束やくそくしているが、この事件じけん以後いご武田たけだ徳川とくがわ同盟どうめい崩壊ほうかいしている[4]

もとかめ元年がんねん(1570ねん)12月、とらしげるひきいる甲斐かい信濃しなの軍勢ぐんぜいが、徳川とくがわ本拠地ほんきょちである三河そうご進軍しんぐんする途中とちゅうで、ひがし美濃みの国人くにびと遠山とおやま領地りょうち恵那えなぐん上村うえむら現在げんざい岐阜ぎふけん恵那えな上矢作かみやはぎまち)に侵入しんにゅう遠山とおやまおよ徳川とくがわ傘下さんか山家やまがさんぽうしゅ三河みかわしゅう連合れんごうぐんとのあいだ合戦かっせんとなったが、勝利しょうりおさめた(上村うえむら合戦かっせん)。その織田おだ信長のぶながから派遣はけんされた明智あけちひかりれん三宅みやけ長閑のどかとき)の軍勢ぐんぜい小田子こだこむらたたかったのち信濃しなの伊奈いなぐん撤退てったいした。

もとかめ2ねん1571ねん)2がつにはした伊奈いなぐんしょさと人足ひとあし動員どういんし、大嶋おおしまじょう普請ふしんめいじられており、大嶋おおしまじょう城代しろだいであったことが確認かくにんされる[4]

もとかめ3ねん1572ねん)10がつ信玄しんげん西上にしがみ作戦さくせん開始かいしする。『当代とうだい』によれば、とらしげる山県やまがたあきらけいとも別働隊べつどうたいひきいておくさんかわ侵攻しんこう[6][4]三河みかわ奥平おくだいら菅沼すがぬまらの国人くにびとしょしろ陥落かんらくさせたのち信玄しんげん本隊ほんたい合流ごうりゅうした[6]同年どうねんまつひがし美濃みの国人くにびと遠山とおやま織田おだ信長のぶながから離反りはんして武田たけだ帰属きぞくすると、とらしげる美濃みの方面ほうめん担当たんとうした。[4]

もとかめ4ねん1573ねん)2がつ下旬げじゅんに、織田おだ掃部肝煎きもいりで、ぜん城主じょうしゅ遠山とおやまけいにん未亡人みぼうじん信長のぶなが叔母おばたるおつやのほうとらしげるとの婚姻こんいんおこなわれた(『きのえようぐんかん』)。また岩村いわむら遠山とおやま養子ようしとしておくられていた信長のぶなが五男いつお坊丸ぼうまる織田おだ信房のぶふさ)を人質ひとじちとして甲斐かいおくった。

もとかめ4ねん/天正てんしょう元年がんねん1573ねん)3がつ6にち信玄しんげんいのちひがし美濃みのかい[ちゅう 2]前年ぜんねん武田たけだかた寝返ねがえっていた岩村いわむらしろ岐阜ぎふけん恵那えな岩村いわむらまち)に入城にゅうじょうした[4]以後いごとらしげる大嶋おおしま城代じょうだい岩村いわむら城代じょうだい兼任けんにんする立場たちばとなる[4]。『きのえようぐんかん 武田たけだほうせいいん信玄しんげんおおやけ御代みよそう人数にんずうごと』では、とらしげる岩村いわむらざいしろ春近はるちかしゅ50ひきい、坂西さかにし知久ともひさ座光寺ざこうじ伊奈いなこくしゅ指揮しきし、305統率とうそつしたとしる[4]

同年どうねん4がつ12にち武田たけだ信玄しんげん信濃しなの伊奈いなぐん駒場こまんばにおいて死去しきょし、武田たけだぜい甲斐かい撤兵てっぺいした。

勝頼かつせ活動かつどうから処刑しょけい

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信玄しんげん死後しご後継こうけいしゃ勝頼かつせつかえる。「秋山あきやま文書ぶんしょ」によれば、天正てんしょう元年がんねん12がつ25にちには武田たけだ譜代ふだい家老がろうである金丸かねまる筑前ちくぜんもりとらよし)の三男さんなんそう九郎くろうあきらかい)をむすめ婿むことし、養子ようしむかえる[4]金丸かねまるから養子ようしむかえた背景はいけいには、岩村いわむら城代じょうだい兼任けんにんする立場たちばから子息しそくめぐまれないことを危惧きぐしたともかんがえられている[4]。なお、あきらかい天正てんしょう7ねん1579ねん)7がつ23にち病死びょうしし、筑前ちくぜんもりなななんみなもと三郎さぶろうおやひさ)が秋山あきやま継承けいしょうした[9]

天正てんしょう3ねん1575ねん)5がつ21にち織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐん武田たけだぜいあいだおこなわれた長篠ながしのたたか武田たけだぐん大敗たいはいし、織田おだ徳川とくがわぜい武田たけだたいする反攻はんこうつよめた[10]織田おだ徳川とくがわぜいおくさんかわしょしろ陥落かんらくさせると、6月25にちには三河みかわ武節ぶせつじょう愛知あいちけん豊田とよだ武節ぶせつまち)を陥落かんらくさせた[10]信長のぶなが嫡男ちゃくなん織田おだ信忠のぶただめいじて岩村いわむらじょう包囲ほういさせた(『信長のぶながこう』)[6][10][4]とらしげる春近はるちかしゅ岩村いわむらしゅうひきいて防戦ぼうせんし、勝頼かつせたいして救援きゅうえん要請ようせいし、「しょしゅう古文書こもんじょ」によれば、7がつ19にちには武田たけだしんゆたか小山田おやまだしんしげる後詰ごづめとして出陣しゅつじんすることを連絡れんらくされるが、勝頼かつより遠江とおとうみ方面ほうめん防戦ぼうせんにも忙殺ぼうさつされていたため、実現じつげんにはいたらなかった[10][4]。8がつ10日とおかには日向ひなたとらあたま大嶋おおしまじょう派遣はけんされ、とらしげる同心どうしんしゅ小山田おやまだあきらなり保科ほしな正直まさなお指示しじしたがうことをつたえている[4]

同年どうねん11がつ勝頼かつせ岩村いわむらじょうけて出兵しゅっぺいするが、これにたいして織田おだぜい岩村いわむらじょうへの攻勢こうせいつよめ(岩村いわむらじょうたたか)、とらしげるしろへい助命じょめい条件じょうけん信忠のぶただ降伏ごうぶくした[6][4]織田おだぜいはこれにたいしろへい殺害さつがいし、とらしげるは11月21にち捕縛ほばくされると岐阜ぎふ連行れんこうされ、11月26にちつまのおつやのほう家老がろう大嶋おおしま長利ながとし座光寺ざこうじさだぼうとともに長良川ながらがわさかはりつけしょされた(『信長のぶながこう』)[6][10][4]享年きょうねん49[6][10][4]

本土ほんどてら過去かこちょう』や『甲斐かいこくこころざししょ引の秋山あきやま菩提寺ぼだいじきよしうんてら過去かこちょうによれば法名ほうみょうきよしこく、『ひらきぜんてら過去かこちょう』ではとらしげる命日めいにち正確せいかくしるし、法名ほうみょうを「あきはく忠義ちゅうぎ禅門ぜんもん」としている[4]

いみなについて

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いみなは『甲斐かいこくこころざし』による「信友のぶとも(のぶとも)」や、近世きんせい軍記ぐんきぶつる「春近はるちか(はるちか)」「はれちか(はるちか)」[ちゅう 3]しんちか(のぶちか)」とするせつもあったが、近年きんねんは『戦国せんごく遺文いぶん』『山梨やまなしけん』の編纂へんさん事業じぎょうともな文書ぶんしょ調査ちょうさによって武田たけだ家臣かしん実名じつめい確定かくてい作業さぎょうおこなわれ、確実かくじついみなしょばん部分ぶぶんうつしにより「とらしげる」であることが指摘してきされている[13][1][2]。「とら」は武田たけだ信虎のぶとらからのへんいみなであるとかんがえられている[2]。また、実名じつめい誤伝ごでんのうち「はれこん」はとらしげる同心どうしんである「春近はるちかしゅ」が訛伝かでんしたとかんがえられている[2]

仏寺ぶつじ

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あかりれき3ねん1657ねん)に岩村いわむらはんおもとなった丹羽にわじゅんは、処刑しょけいされた秋山あきやまとらしげるつま・おつやのほうたたりにより歴代れきだい岩村いわむら藩主はんしゅ遭難そうなんしたり後嗣こうし夭折ようせつするとわれていたため、そのたたりをしずめるために、妙法寺みょうほうじ境内けいだいに、天台宗てんだいしゅうめぐみ照山てるやま佛寺ぶつじて、丹羽にわあきらははこうじゅいんあに剃髪ていはつして住職じゅうしょくとなった。仏寺ぶつじ丹羽にわ国替くにがえとなったさい廃寺はいじとなったが、現在げんざい妙法寺みょうほうじ境内けいだいには、秋山あきやまとらしげるとおつやのほう供養くようする「まくら冢」のこっている。

とらしげる子孫しそん

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金丸かねまる筑前ちくぜんもり秋山あきやまあきらかいとらしげる養子ようしとなるが天正てんしょう7ねん(1579ねん)7がつ23にち病死びょうしし、筑前ちくぜんもりなななんみなもと三郎さぶろうよし千代ちよ)があきらかい遺言ゆいごんにより秋山あきやま継承けいしょうする[9]。「秋山あきやま文書ぶんしょ」によれば、みなもと三郎さぶろう伊那いなぐんくにしゅ下条げじょう兵庫ひょうごすけむすめ婚姻こんいんしたうえ秋山あきやま継承けいしょうしており、兵庫ひょうごすけとらしげるむすめとついでいたともかんがえられている[9]みなもと三郎さぶろう天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ11にち織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐん武田たけだりょう侵攻しんこうさいして、勝頼かつせしたが戦死せんししている[9]

寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』によれば、みなもと三郎さぶろうにはさんさい男子だんしがおり、母方ははかたえんたよ伊豆いず大平おおひら土屋つちやのもとへびたとする伝承でんしょうしるしている[9]。さらに、この男子だんし与兵衛よへえ名乗なのり、伊豆いずこく君沢きみざわぐん安久やすひさむら土着どちゃくし、寛永かんえい13ねん(1636ねん)に死去しきょしたという[9]

一方いっぽう秋山あきやま家伝かでん文書ぶんしょつたえた子孫しそんとされるいえ秋山あきやま平太へいたおっとがあり、譜代ふだい大名だいみょう水野みずのつかえている[9]同家どうけには「秋山あきやま文書ぶんしょ」(山形大学やまがただいがく附属ふぞく博物館はくぶつかん寄託きたく)がつたわっているが、系図けいずではあきらかいみなもと三郎さぶろう記述きじゅつがないことが指摘してきされる[9]

秋山あきやま文書ぶんしょ」にふくまれる宝永ほうえい6ねん1704ねん)の先祖せんぞしょや『甲斐かいこくこころざし』にれば、伯耆ほうきもりとらしげる)の子孫しそん秋山あきやまみんみぎ衛門えもん(『甲斐かいこくこころざし』では式部しきぶみぎ衛門えもんじょう)がおり、みんみぎ衛門えもんまご秋山あきやま平太へいたおっと家伝かでん文書ぶんしょ水野みずのつかえたとしている。みんみぎ衛門えもんかんしては世代せだいてき観点かんてんからとらしげるちちもしくは兄弟きょうだいせつもある[9]。また、『新編しんぺん会津あいづ風土記ふどき』には天正てんしょう8ねん1580ねん)の史料しりょうられる「秋山あきやま式部しきぶみぎ衛門えもんじょう」の存在そんざいしるしており、みんみぎ衛門えもんとは別人べつじんもしくは子息しそくであるとかんがえられている[9]

おつやのほうとのあいだまれたろく太夫たゆうは、織田おだによる岩村いわむらしろ落城らくじょうまえびて、瀬戸内海せとないかい村上むらかみ水軍すいぐんつかえていたが、慶長けいちょう5ねん(1600ねん)に伊予いよこく松山まつやま三津みつづはま三津みつづはま夜襲やしゅう)で討死うちじにしたという。はかは、広島ひろしまけん竹原たけはらにある。戒名かいみょうは、一朝いっちょうさとし入信にゅうしん現在げんざいろく太夫たゆう子孫しそん名乗なの人物じんぶつがいる。

また、生来せいらい病弱びょうじゃくにしてほとん戦場せんじょうず、とらしげる岩村いわむらおもむいたのち高遠こうえんじょう退去たいきょ長岡ながおか村長そんちょう照寺しょうじうつった太郎たろうこうこんとらしげるまごたるとされるきゅう左衛門尉さえもんのじょう信吉のぶよしは、寛永かんえい9ねん(1633ねん旧領きゅうりょう甲斐がいこく稲積いなづみしょうより信濃しなのこく諏訪すわぐん有賀ありがきょう移住いじゅう改姓かいせいしてのうしるき邑事をつかさどったとされる。正保しょうほう3ねん(1646ねんぼつ戒名かいみょうだいみなもといんせいたけ永山ながやま居士こじ現在げんざい信吉のぶよし子孫しそんんでいる。

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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  • 鬼丸おにまる 智彦ともひこじょうすすむ武田たけだ忠臣ちゅうしん秋山あきやま信友のぶとも生涯しょうがい山梨やまなしにちにち新聞しんぶんしゃ出版しゅっぱん(2005ねん

映像えいぞう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ しゅう織田おだ信長のぶながひがししゅう出張しゅっちょうよしさるらいこうあいだ早々はやばやかれかかこう追拂おいばらいゆうこうとおさん両国りょうこくことしゃ別人べつじん申付もうしつけこうあいだ、其心得こころえゆうこう也、仍如けんさんがつろくにち 信玄しんげん花押かおう) 秋山あきやま伯耆ほうきもりとのへ」
  2. ^ 武田たけだ信玄しんげんばんぶつ』(みやたい文庫ぶんこ所蔵しょぞう文書ぶんしょ[ちゅう 1]
  3. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』で「はれこん」のえる[11][12]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h 平山ひらやま 2008, p. 294
  2. ^ a b c d e f g h i j 丸島まるしま 2015, p. 21
  3. ^ しょしゅう古文書こもんじょ - 655
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 丸島まるしま 2015, p. 22
  5. ^ a b 平山ひらやま 2002, p. 55
  6. ^ a b c d e f g h 平山ひらやま 2008, p. 295
  7. ^ 平山ひらやま 2008, pp. 294–295.
  8. ^ 丸島まるしま 2008, p. 44.
  9. ^ a b c d e f g h i j 丸島まるしま 2015, p. 20
  10. ^ a b c d e f 丸島まるしま 2013, p. 224
  11. ^ 寛政かんせい 1922, p. 496.
  12. ^ 寛政かんせい 1923, p. 99.
  13. ^ 黒田くろだ基樹もとき秋山あきやま伯耆ほうきもりとらしげるについて」 『戦国せんごく遺文いぶん 武田たけだへん だい2かん月報げっぽう』、2002

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 黒田くろだ基樹もとき秋山あきやま伯耆ほうきもりとらしげるについて」 『戦国せんごく遺文いぶん月報げっぽう武田たけだへんだい2かん、2002ねん
  • 平山ひらやまゆう秋山あきやまとらしげる」『新編しんぺん 武田たけだ信玄しんげんのすべて』、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん 
  • 平山ひらやまゆう新編しんぺん 武田たけだじゅうよんしょう正伝せいでん武田たけだ神社じんじゃ、2009ねん 
  • 丸島まるしま和洋わよう信玄しんげん拡大かくだい戦略せんりゃく 戦争せんそう同盟どうめい外交がいこう」『新編しんぺん 武田たけだ信玄しんげんのすべて』、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん 
  • 丸島まるしま和洋わようぐんない小山田おやまだ 武田たけだじゅうよんしょう系譜けいふえびすひかりさち出版しゅっぱん中世ちゅうせい武士ぶし選書せんしょ19〉、2013ねん
  • 丸島まるしま和洋わよう秋山あきやまとらしげる」「秋山あきやまあきらかい」「秋山あきやま源三郎げんざぶろう」「秋山あきやま式部しきぶみぎ衛門えもんじょう」『武田たけだ家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2015ねん 
  • 小佐野おさの浅子あさこ山形大学やまがただいがく附属ふぞく博物館はくぶつかん寄託きたく秋山あきやま文書ぶんしょ」-戦国せんごく武田たけだ関連かんれん文書ぶんしょ紹介しょうかい-」しばつじしゅんろくへん戦国せんごく大名だいみょう武田たけだやく家臣かしん岩田いわた書院しょいん、2011ねん
  • 飯田いいだ好太郎こうたろう諏訪すわ史料しりょう名家めいか系譜けいふ歴史れきし図書としょしゃ、1977ねん明治めいじ30年刊ねんかん複製ふくせい)。
  • 土岐とき 1 (原始時代げんしじだい-関ケ原せきがはら合戦かっせん)』 だいはちへん 鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい宗教しゅうきょう概観がいかん だいさんしょう 郷土きょうど寺院じいん変遷へんせん はち 定林ていりんてら明白めいはくてら兵火へいかについて ■秋山あきやま伯耆ほうきもり・■岩村いわむらしろる・■信長のぶなが秋山あきやまをまとめる p237~p240 土岐とき編纂へんさん委員いいんかい 1970ねん
  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかだいいち輯、國民こくみん圖書としょ、1922ねん12月18にちhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717 オープンアクセス
  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかだい輯、國民こくみん圖書としょ、1923ねん1がつ31にちhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718 オープンアクセス

関連かんれん項目こうもく

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