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三河みかわ物語ものがたり

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三河みかわ物語ものがたり上巻じょうかん写本しゃほん

三河みかわ物語ものがたり』(みかわものがたり)は、江戸えど時代じだい初期しょきの、旗本はたもと大久保おおくぼ忠教ただたかによる著作ちょさく戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきるための史料しりょうとされることもあるが、徳川とくがわ史観しかんによるかたよった記述きじゅつにより資料しりょうとしての正確せいかくせい欠如けつじょしている。

概要がいよう

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寛永かんえい3ねん1626ねん)からどう9ねん1632ねんごろ成立せいりつした三河みかわ物語ものがたりしょほんのうち、奥書おくがき年次ねんじもっとふるいものはうえなか下巻げかんすべて元和がんわ8ねん(1622ねん)である。しかしその内容ないようは、元和がんわ9ねん将軍しょうぐんとなった徳川とくがわ家光いえみつを「とう将軍しょうぐんあつかいしていたり、本多ほんだ正純まさずみ佐竹さたけあづけられたけん寛永かんえい元年がんねん=1624ねん出来事できごと)がしるされていたりと、あきらかにそれ以降いこう内容ないようふくまれているため、このように推測すいそくされている[1]うえなかしたの3かんからなり、忠教ただたか実証じっしょう可能かのう見聞けんぶん自身じしん事蹟じせきにかかわるのは下巻げかんだけで、うえちゅうまきしょ記録きろく伝聞でんぶんをもとにしてのへんじゅつであり、その出典しゅってんげられていないため信憑しんぴょうせいさだかではないとされる[2]

忠教ただたかは「門外不出もんがいふしゅつであり、公開こうかいするつもりもないため他家たけのことはあまりかず、子孫しそんだけにけてしるした」「このほんみなまれたとき、(わたしが)のことのみをかんがえて、依怙贔屓えこひいき(えこひいき)目的もくてきとしていたものだとはおもわないでしい[3]」としるしているが、かれてすぐに写本しゃほんつくられた形跡けいせきがあることが指摘してきされる[4]結果けっかとして写本しゃほん一般いっぱん出回でまわるが、流布るふしたものは下巻げかんうしろ1/3ほどがけている[1]

戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきるためのいち史料しりょうであるが、徳川とくがわびいきの記述きじゅつ目立めだち、創作そうさく指摘してきがなされている。とく松平まつだいら信康のぶやす切腹せっぷく事件じけんについての記述きじゅつは、『いえちゅう日記にっき』や「安土あづち日記にっき」(『信長のぶながこう』の一部いちぶ)、『当代とうだい』などの記録きろくちがっていることから、事実じじつではないとられている[5][6]。また、大久保おおくぼ最初さいしょつかえたあんさち松平まつだいら徳川とくがわ当主とうしゅおもわれる松平まつだいら清康きよやす顕彰けんしょうする[7]ために、そのちちである信忠のぶただ[8]やそのおとうとしんじょう[9]おとしめている可能かのうせい指摘してきされている[10]。さらにんで、政治せいじせいつよびた「譜代ふだいプロパガンダのしょ」だという指摘してきもある[11]さらに、内容ないようには歴史れきし著述ちょじゅつだけでなく、忠教ただたか不満ふまん意見いけんなどがそのままあらわれている。宮本みやもと義己よしみ主筋しゅうすじ家康いえやすについても敬称けいしょうもちいないことから、いつわりをしるさないという高言こうげんも、事実じじつ関係かんけい是非ぜひろんじたものではなく、うそかないという理解りかいにおいて首肯しゅこうできるとしたうえで、誤字ごじ一方いっぽうてき見方みかた邪推じゃすいるいもあるが、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ草創そうそう時期じき初期しょき資料しりょうとしての価値かちたかいとしている[12]

めずらしい特徴とくちょうとして、仮名かめいじり独特どくとく表記ひょうき文体ぶんたいしるされており、この時代じだい口語体こうごたい現代げんだいつたえる資料しりょうとしての側面そくめんもある。

こうちゅう現代げんだいやく

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関連かんれん作品さくひん

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  • 安彦やすひこ良和よしかず三河みかわ物語ものがたり』(マンガ日本にっぽん古典こてん23)、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ(1995ねん)、中公ちゅうこう文庫ぶんこ再刊さいかん(2001ねん
    • 三河みかわ物語ものがたり』そのものをモチーフとした作品さくひんではなく、関ヶ原せきがはらたたか直後ちょくごから晩年ばんねん忠教ただたか姿すがたを、かれつかえた一心いっしん太助たすけ視点してんからかたるという体裁ていさいになっている。『三河みかわ物語ものがたり』の内容ないようそのものは、彦左衛門ひこざえもんかた軍談ぐんだんとして断片だんぺんてき引用いんようされている。
  • 宮城みやぎたに昌光まさみつしん三河そうご物語ものがたり』(ぜん3かん) 、新潮社しんちょうしゃ (2008ねん)、新潮しんちょう文庫ぶんこ再刊さいかん(2011ねん
    • 彦左衛門ひこざえもん作中さくちゅうでは幼名ようみょう平助へいすけばれる)を主人公しゅじんこうとして、大久保おおくぼ一族いちぞく活躍かつやく挫折ざせつく。『三河みかわ物語ものがたり』をあらわしたのち姿すがたかれている。
  • わらわかど冬二ふゆじろうむしえず 小説しょうせつ大久保おおくぼ彦左衛門ひこざえもん』、集英社しゅうえいしゃ(1994ねん)、集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ再刊さいかん(1997ねん
    • 三河みかわ物語ものがたり』が江戸城えどじょう武士ぶしらに熟読じゅくどくされる理由りゆう付箋ふせん」がかたられている。
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう彦左衛門ひこざえもんがい』、講談社こうだんしゃ(1959ねん)、新潮しんちょう文庫ぶんこ再刊さいかん(1981ねん、2004ねん改版かいはん
    • 三河みかわ物語ものがたり』への直接ちょくせつ言及げんきゅうはないが、忠教ただたか所持しょじする記録きろく諸家しょか記録きろく照合しょうごうしたおいにより、その原典げんてんともいえる書物しょもつ誕生たんじょうしてゆくさまをユーモアと諷刺ふうしまじえつつえがいたフィクション。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 高木たかぎ 1970.
  2. ^ 宮本みやもと義己よしみ松平まつだいらの「記録きろく」をむ--『松平まつだいら由緒ゆいしょしょ』『三河みかわ物語ものがたり』『松平まつだいら』『朝野ちょうや旧聞きゅうぶん〔ホウ〕わら』 (特集とくしゅう 徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ松平まつだいら一族いちぞく)」『歴史れきし読本とくほんだい51かんだい1ごう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2006ねん1がつ、200-205ぺーじNAID 40007032751 
  3. ^ 下巻げかん巻末かんまつより。同様どうよう文章ぶんしょうおなじく三河みかわ出身しゅっしん室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう今川いまがわ了俊りょうしゅん著書ちょしょなん太平たいへい』にもしるされている。
  4. ^ 平山ひらやま 2014, p. 21.
  5. ^ 谷口たにぐち 2012.
  6. ^ 桐野きりのさくじん織田おだ信長のぶなが戦国せんごく最強さいきょう軍事ぐんじカリスマ―』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2011ねん
  7. ^ 大久保おおくぼあんさち譜代ふだいわれているが、あんさち時代じだい大久保おおくぼ記述きじゅついため、実際じっさいには松平まつだいら清康きよやす山中さんちゅうじょうはい以降いこうつかえたとおもわれる(村岡むらおか、2023ねん、P.33)。
  8. ^ 信忠のぶただ時代じだいにも順調じゅんちょう領域りょういきひろげており、暗愚あんぐとまでは断定だんていできる証拠しょうこはないとする(村岡むらおか、2023ねん、P.223-224)。
  9. ^ (『松平まつだいら』も同様どうようであるが、)しんじょう清康きよやす不仲ふなかであったり、宗家そうけ家督かとくねらったはなし史料しりょうからの裏付うらづけはれない(村岡むらおか、2023ねん、P.222-223・238-239・246.)。むしろ、桜井さくらい松平まつへい相続そうぞくもり山崩やまくずれの直後ちょくごのことで、宗家そうけ家督かとくたいする野心やしんはなかった可能かのうせいたかい(村岡むらおか、2023ねん、P.218-219.)。
  10. ^ 村岡むらおか幹生みきお戦国せんごく三河みかわ松平まつへい研究けんきゅう岩田いわた書院しょいん、2023ねんISBN 978-4-86602-149-2
  11. ^ 山室やまむろ恭子きょうこ群雄ぐんゆう創世そうせい信玄しんげん氏綱うじつな元就もとなり家康いえやす-』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1995ねん
  12. ^ 宮本みやもと義己よしみ松平まつだいらの「記録きろく」をむ」(『歴史れきし読本とくほん』51かん1ごう、2006ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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大久保おおくぼ忠教ただたか. "さんかわ物語ものがたり(デジタルアーカイブ)". 2023ねん10がつ9にち閲覧えつらん