(Translated by https://www.hiragana.jp/)
松平信忠 - Wikipedia コンテンツにスキップ

松平まつだいら信忠のぶただ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平まつだいら信忠のぶただ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 延徳えんとく2ねん1490ねん生年せいねんおよびぼつ年月日ねんがっぴは「朝野ちょうや旧聞きゅうぶん裒藁」所載しょさい関野せきのわたるやす聞書ききがき」による[1]
死没しぼつ とおるろく4ねん7がつ27にち1531ねん9月8にち
改名かいめい たけせんだい幼名ようみょう)→信忠のぶただふとしくもゆういずみ[2]法号ほうごう
別名べつめい 次郎じろう三郎さぶろう三郎さぶろう通称つうしょう)、左京さきょうあきら
戒名かいみょう やす栖院殿でんたいこうゆういずみ
墓所はかしょ 愛知あいちけん岡崎おかざき鴨田かもだまち大樹寺たいきでら
官位かんい したがえした越前えちぜんもり左近さこん蔵人くろうど
氏族しぞく 松平まつだいら
父母ちちはは ちち松平まつだいら長親ながちかははつきそらきよしくも大姉だいし松平まつだいら?)[3] 
兄弟きょうだい 信忠のぶただしんもりしんじょう義春よしはる阿部あべただしおや利長としなが
つま

正室せいしつ岩倉いわくら殿どのせい珊光なか大河内おおこうちみつるなりむすめ

側室そくしつ水野みずの清重きよしげあね
清康きよやす信孝のぶたか康孝やすたかひさ鈴木すずきしげるただししつ)、
ひがしひめ大浜おおはま道場どうじょうしつ)、矢作やさく殿どの島田しまだぼうしつ)、
瀬戸せと大房おおふさ吉良きらひろしつ
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら 信忠のぶただ(まつだいら のぶただ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう徳川とくがわ家康いえやす曾祖父そうそふにあたり、あんさち松平まつだいら2だい当主とうしゅ家督かとく継承けいしょう松平まつだいら党内とうないをまとめることができず、早期そうき隠退いんたいさせられて嫡男ちゃくなん清康きよやす家督かとくゆずったが、その背景はいけいには諸説しょせつがある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

三河みかわよしりょう吉良きら義信よしのぶへんいみなけて信忠のぶただ名乗なの[4][5]

ぶんかめ3ねん1503ねん)8がつごろちち長親ながちか隠居いんきょにより家督かとくいだと推定すいていされるが、実権じっけん長親ながちかにぎっていたという。家督かとく継承けいしょうからほどえいただし3ねん1506ねん)7がつには今川いまがわおや三河みかわ侵攻しんこうはじまり、えいただし5ねんには西にしさんかわ松平まつだいらりょう攻撃こうげきけた。岩津いわつ松平まつへい岩津いわつしろ伊勢いせ盛時せいじひきいる今川いまがわ大軍たいぐん包囲ほういされていたが、ちちどう閲の主導しゅどうしたあんさち松平まつだいらぐん岩津いわつ近郊きんこう田野でんやげん岡崎おかざき井田いだまち周辺しゅうへん)で決死けっしたたかいをいどみ、からくも今川いまがわぐん撃退げきたいした(えいただし三河そうごらん)。

しかし、この今川いまがわぐんとのたたかいにも信忠のぶただたしかな戦功せんこう軍事ぐんじてき采配さいはい記録きろくえず、大久保おおくぼ忠教ただたかの『三河みかわ物語ものがたり』では信忠のぶただ不器用ぶきようしゃ統率とうそつしゃとしての器量きりょうもの)としている。『三河みかわ物語ものがたり』は宗家そうけの「家憲かけん」として当主とうしゅ具備ぐびすべき「たけいさむ情愛じょうあい慈悲じひ」のいずれも信忠のぶただにはそなわっていなかったと指摘してきし、暗愚あんぐ強情ごうじょう人物じんぶつとされた。このため、家中かちゅうしゅみん百姓ひゃくしょうこわれおののき、松平まつだいら一門いちもんしゅうしょうさむらいまでもが信忠のぶただしたわず、しろ出仕しゅっししないものまでおおあらわれた。また謀反むほんうごきもったとされ、これは信忠のぶただ自身じしん事前じぜん察知さっちして首謀しゅぼうしゃちにしたが、この情況じょうきょう挽回ばんかいするにはいたらなかった。

結局けっきょくだいひさし3ねん1523ねん)には一門いちもんとう協議きょうぎうえ信忠のぶただ隠居いんきょ嫡男ちゃくなん清康きよやすへの家督かとく譲渡じょうと方針ほうしんまり、家老がろう酒井さかいただしなお将監しょうげん)が代表だいひょうして信忠のぶただにそのつたえると、信忠のぶただはこれを清康きよやす家督かとくゆずって、三河そうごこく幡豆はずぐん大浜おおはまさと称名寺しょうみょうじ愛知あいちけん碧南へきなん大浜おおはま地区ちく築山つきやままち)に34さいにして隠居いんきょ出家しゅっけした。清康きよやすへの家督かとく継承けいしょう時期じきについて、平野ひらの明夫あきお松平まつだいら清康きよやす発給はっきゅう文書ぶんしょはつとされる、「だいなが3ねん(1523ねん)8がつ12にちづけしょ稲河いなご文書ぶんしょ)」の存在そんざいによって証明しょうめいされるとしている[6]。その長命ちょうめいしたちちどう閲とともに、まだわか清康きよやすを弼けたともわれている。

なお、信忠のぶただだいから、岩津いわつたきひとし寺院じいんにも寄進きしんじょうとうしていることから、今川いまがわらの攻勢こうせい岩津いわつ松平まつへいほろび、わりにあんさち松平まつだいら惣領そうりょうとなったものとうかがえる[7]

とおるろく4ねん7がつ隠居いんきょさき大浜おおはまきょうちち先立さきだ死去しきょした。

信忠のぶただ早期そうき隠退いんたい背景はいけい[編集へんしゅう]

愛知あいちけん岡崎おかざき鴨田かもだまち大樹寺だいじゅうじないにある松平まつだいらはちだいはか松平まつだいら信忠のぶただはか
(2019ねんれい元年がんねん)11がつ

信忠のぶただ早期そうき隠退いんたいさせられた背景はいけいには、『三河みかわ物語ものがたり』によれば、長男ちょうなんである信忠のぶただ家督かとくゆずり、せん巧者こうしゃすぐれた家臣かしんけ、能力のうりょく不足ふそく主君しゅくんささえよとのみち閲の意志いし尊重そんちょうすべきだという一門いちもんしゅ家中かちゅうしゅ意見いけんがある一方いっぽう一門いちもんしゅ家中かちゅうしゅなかには不器量ぶきりょう信忠のぶただよりも、家憲かけんの3条件じょうけんそなえた次男じなんしんじょう跡継あとつぎにすべきという意見いけんもあって、松平まつだいらとう分裂ぶんれつして紛糾ふんきゅうしていたとされ、今川いまがわさい侵攻しんこう脅威きょういなか一門いちもん家中いえじゅう決定的けっていてき衝突しょうとつ回避かいひする必要ひつようがあったからだという。

またさらに、現代げんだい研究けんきゅうしゃたち考察こうさつにおいて、じつみち閲は次男じなんしんじょう偏愛へんあいし、不器量ぶきりょう長男ちょうなん信忠のぶただには父子ふしあいだ対立たいりつがあったのではという柴田しばた顕正けんせい[8]見方みかたがあり、井田いだ野合やごう戦後せんご壊滅かいめつてき打撃だげきこうむった岩津いわつ松平まつへいりょう安城あき松平まつだいらちょくりょうにしたことが戦功せんこうへの恩賞おんしょうをめぐる不満ふまんにつながったと推定すいていするしんぎょう紀一きいち[9]見解けんかいや、恩賞おんしょうへの不満ふまんよりもむしろ、井田いだ野合やごう戦後せんご岩津いわつ松平まつへいわり安城あき松平まつだいら惣領そうりょう位置いち台頭たいとうすることで松平まつだいら党内とうない軋轢あつれきしょうじたからではないかという平野ひらの明夫あきお[10]見解けんかい仏教ぶっきょうとく時宗じしゅうへの異常いじょう傾倒けいとう引退いんたい浄土宗じょうどしゅうである菩提寺ぼだいじ大樹寺だいじゅうじではなく、時宗じしゅう称名寺しょうみょうじはいっている)が家中いえじゅう反発はんぱつった可能かのうせい指摘してきする村岡むらおか幹生みきお[11]見解けんかいもある[12][13]

ところが、村岡むらおか幹生みきおはそもそも信忠のぶただ早期そうき隠居いんきょしたとする確証かくしょうとなる裏付うらづけはなく、むしろ死去しきょするまで出家しゅっけのままあんさち松平まつだいら当主とうしゅであった可能かのうせいもあるとする見解けんかいっている。深溝ふかみぞ松平まつだいら末裔まつえいであるきゅう島原しまばら藩主はんしゅつたわってきただいなが3ねんからどう6ねんあいだ作成さくせいされたと推測すいそくされる奉加帳ほうがちょううつしこえ前嶋まえじまはら松平まつへい文書ぶんしょ松平まつだいら一門いちもん家臣かしん奉加帳ほうがちょううつし[14])は、みち閲(松平まつだいら長親ながちか)・松平まつだいら蔵人くろうど信忠のぶただ筆頭ひっとう松平まつだいら一門いちもん名前なまえ連記れんきされているが、信忠のぶただ後継こうけいしゃであるはず次郎じろう三郎さぶろう清孝きよたか清康きよやすはつ)が67にんちゅうの59番目ばんめしるされており、あきらかにあんさちから自立じりつした存在そんざいとしてあつかわれていることを指摘してきしている[15]当時とうじ清康きよやす山中さんちゅうじょう医王山いおうぜんじょう)にいたと推定すいていされるが、『三河みかわ物語ものがたり』でわれるような岡崎おかざき松平まつへい放逐ほうちくしたうえでのしろりは事実じじつではなく、実際じっさいなんらかの理由りゆうあんさち松平まつだいらみち閲・信忠のぶただ)と対立たいりつした清康きよやす岡崎おかざき松平まつへい婿養子むこようしになって山中さんちゅうじょういで岡崎おかざきじょうはいり、のち実力じつりょくをもってあんさち松平まつだいら相続そうぞくしたと推測すいそくしている[13]村岡むらおか信忠のぶただみちごうである「泰孝やすたか」から「こう」の自分じぶんの3にん息子むすこ清孝きよたか信孝のぶたか康孝やすたか)にいみなとしてあたえたものの清孝きよたか自立じりつ過程かていで「清康きよやす」に改名かいめいした可能かのうせいたかいとしている[12]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 平野ひらの明夫あきお三河みかわ松平まつへい一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、 2002ねん
  2. ^ 法号ほうごう生前せいぜん入道にゅうどうめいふとしくもゆういずみ署名しょめいした文書ぶんしょがあり、またそれらに前後ぜんごして俗名ぞくみょう信忠のぶただでも署名しょめいしているため、出家しゅっけ還俗げんぞくかえしたという見方みかたもある。『三河みかわ物語ものがたり』は法名ほうみょうたいげるが、残存ざんそん文書ぶんしょ使用しよう実例じつれいられていない。ただし、ふとしおな音読おんよみをする泰孝やすたか法号ほうごうゆういずみえた文書ぶんしょ存在そんざいしており、泰孝やすたかみちごうであったとする村岡むらおか幹生みきお見解けんかいがある。
  3. ^ 一説いっせつ長沢ながさわ松平まつへい松平まつだいらきんむねむすめ(『朝野ちょうや旧聞きゅうぶん裒藁』)。
  4. ^ 北村きたむら和宏かずひろ三河みかわよしりょう断絶だんぜつ再興さいこう」『吉良上野介きらこうずけのすけ義央よしなか義周よしちか義周よしちかぼつさん〇〇ねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい、2006ねん
  5. ^ 小林こばやし輝久てるひさ天文てんもん弘治こうじ年間ねんかん三河みかわよしりょう」『安城あき歴史れきし博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きよう』12ごう、2012ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし泰史やすし へん今川いまがわ義元よしもとえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいななかん〉、2019ねん6がつ、275ぺーじISBN 978-4-86403-325-1 
  6. ^ 平野ひらの明夫あきお三河みかわ松平まつへい一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2002ねん、204ぺーじ
  7. ^ だい1しょう 岡崎おかざき歴史れきしてき風致ふうち形成けいせい背景はいけい” (PDF). 岡崎おかざき歴史れきしてき風致ふうち維持いじ向上こうじょう計画けいかく. 岡崎おかざき. p. 79. 2022ねん6がつ3にち閲覧えつらん
  8. ^ 柴田しばた顕正けんせい初代しょだい岡崎おかざき市立しりつ図書館としょかんちょう。『岡崎おかざきぜん8かんおよび『岡崎おかざき別巻べっかん 徳川とくがわ家康いえやすと其周囲しゅういぜん3かんしゅたる編纂へんさんしゃ
  9. ^ 愛知教育大学あいちきょういくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ日本にっぽん中世ちゅうせい研究けんきゅう
  10. ^ 千葉ちばけん文書ぶんしょかん職員しょくいん國學院大学こくがくいんだいがく兼任けんにん講師こうし中世ちゅうせい松平まつへい研究けんきゅう
  11. ^ 中京大学ちゅうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ中世ちゅうせい尾張おわり三河みかわ研究けんきゅう
  12. ^ a b 村岡むらおか幹生みきお松平まつだいら有徳うとくじん〉の系譜けいふ徳川とくがわ正史せいし〉のあいだ」平野ひらの明夫あきお へん家康いえやす研究けんきゅう最前線さいぜんせん』(よういずみしゃ、2016ねん)。村岡むらおか戦国せんごく三河みかわ松平まつへい研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2023ねん所収しょしゅう。2023ねん、P31-33.
  13. ^ a b 村岡むらおか幹生みきお松平まつだいらしんじょう事績じせき」『戦国せんごく三河みかわ松平まつへい研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2023ねん)、P215-232.
  14. ^ 愛知あいちけん資料しりょうへん中世ちゅうせい2・1029ごう文書ぶんしょ
  15. ^ 村岡むらおか幹生みきお安城あき松平まつだいら一門いちもん家臣かしん奉加帳ほうがちょううつし考察こうさつ」『戦国せんごく三河みかわ松平まつへい研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2023ねん)P39-48.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]


徳川とくがわ家康いえやす系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 松平まつだいら長親ながちか
 
 
 
 
 
 
 
8. 松平まつだいら信忠のぶただ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 松平まつだいらきんむねむすめ
 
 
 
 
 
 
 
4. 松平まつだいら清康きよやす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 大河内おおこうちみつるなり
 
 
 
 
 
 
 
9. 大河内おおこうちみつるなりむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 松平まつだいらひろただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 青木あおききょうかた
 
 
 
 
 
 
 
10. 青木あおきさだけい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 青木あおきさだけいむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 江戸えど幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん
徳川とくがわ家康いえやす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 水野みずの賢正けんしょう
 
 
 
 
 
 
 
12. 水野みずのきよしただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 水野みずの忠政ただまさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 於大おだい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 華陽かよういん