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みねまついん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
みねまついん
生誕せいたん 天文てんもん10ねん1541ねん)?
死没しぼつ 慶長けいちょう17ねん8がつ19にち1612ねん9月14にち))
別名べつめい みねかんいん殿どの
時代じだい 戦国せんごく時代じだい江戸えど時代じだい初期しょき
配偶はいぐうしゃ 武田たけだ義信よしのぶ
おや ちち今川いまがわ義元よしもとははていめぐみいん
家族かぞく 兄弟きょうだい姉妹しまい今川いまがわ氏真うじざねみねまついん
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みねまついん(れいしょういん)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての女性じょせいかぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめい一環いっかんとして、武田たけだ義信よしのぶ結婚けっこんした。

実名じつめい不明ふめいみねまついん殿どのみねかんいん殿どのとも[1]

生涯しょうがい

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駿河するがこく戦国せんごく大名だいみょう今川いまがわ義元よしもと正室せいしつていめぐみいんむすめ生年せいねんしょう[ちゅう 1]今川いまがわ氏真うじざねあに[2]

みねまついんははていめぐみいん武田たけだ信虎のぶとらむすめ武田たけだ信玄しんげんあね)である。きのえ駿しゅん同盟どうめい婚姻こんいん関係かんけいから担保たんぽしていたていめぐみいんは、天文てんもん19ねん1550ねん)6がつ2にち死去しきょした。きのえ駿しゅん同盟どうめい継続けいぞく維持いじ強化きょうかのため、みねまついん信玄しんげん嫡男ちゃくなん義信よしのぶ結婚けっこんめられた。

天文てんもん21ねん1552ねん)11月22にちみねまついん駿府すんぷって甲斐かいかい、11月27にち義信よしのぶ(15さい)と結婚けっこんして躑躅つつじさきかん新築しんちくされたわか夫婦ふうふのための建物たてものうつった[ちゅう 2]出迎でむかえの使者ししゃくわわった武田たけだ家臣かしん駒井こまい政武まさたけは、その日記にっきこうしろとき』に駿府すんぷ出発しゅっぱつからの婚礼こんれい行列ぎょうれつ行程こうていのこしている。

こののち天文てんもん22ねん1553ねん正月しょうがつには信玄しんげんむすめ黄梅おうばいいん)と北条ほうじょう氏康うじやす嫡男ちゃくなん氏政うじまさ婚約こんやく成立せいりつ天文てんもん23ねん1554ねん)7がつには氏康うじやすむすめ早川はやかわ殿どの)が義元よしもと嫡男ちゃくなん氏真うじざねとつぐことにより、みねまついん義信よしのぶ婚姻こんいん関係かんけいかぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめい一環いっかんとなる。みねまついん義信よしのぶとのあいだ一女いちじょえんこういん)をもうけた[ちゅう 3]

えいろく3ねん1560ねん)、義元よしもとおけ狭間はざまたたかはいしてから、えいろく5ねん1562ねん)からえいろく9ねん1566ねん)にかけて今川いまがわくにしゅ叛乱はんらんこり、えいろく6ねん1563ねん)に今川いまがわとの関係かんけいかんがなおはじめた信玄しんげんと、織田おだとの同盟どうめい反対はんたいする義信よしのぶとのあいだ派閥はばつ対立たいりつしょうじた[5]えいろく8ねん1565ねん)10がつおっと義信よしのぶ信玄しんげん暗殺あんさつはかるも失敗しっぱいし、甲府こうふ東光寺とうこうじ幽閉ゆうへいされる[6][ちゅう 4]。このとき義信よしのぶみねまついん離縁りえんさせられたともいうが、みねまついん甲斐かいにとどまっている[ちゅう 5]

えいろく10ねん1567ねん)10がつおっと義信よしのぶ東光寺とうこうじ病死びょうしした[9][ちゅう 6][10][11][12]あに氏真うじざねは、北条ほうじょうつうじてみねまついん帰国きこくさせるよう要請ようせいしたが[13]同盟どうめい破棄はきつながる事態じたいになるとして信玄しんげん難色なんしょくしめ[14]、はじめこれにおうじなかった[13]。のち、みねまついん駿河するが帰国きこくした[15]。『武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』には同年どうねん11がつのこととしるされているが、返還へんかん交渉こうしょう仲介ちゅうかいはいった北条ほうじょう所領しょりょうであった伊豆いず国三くにぞうしまよくえいろく11ねん(1569ねん)2がつにいたことがあきらかになっているため、このとき武田たけだがわから今川いまがわがわわたされたとかんがえられている[16]むすめともなって駿河するがもどったみねまついん出家しゅっけし、貞春さだはるあましょうす。

えいろく10ねんきのえ駿しゅん関係かんけい緊迫きんぱくし、氏真うじざね越後えちごこく上杉うえすぎ謙信けんしん和睦わぼくし、相模さがみこく北条ほうじょう氏康うじやすとも甲斐かいへのしおおこなった[17]同年どうねん12がつ氏真うじざね謙信けんしん秘密裏ひみつり同盟どうめい交渉こうしょうはじめたとされる[18]

えいろく11ねん1568ねん)に謙信けんしんたいして、なんかの交渉こうしょう過程かていで、氏真うじざね北条ほうじょう武田たけだとの協議きょうぎ事項じこう機密きみつ事項じこう上杉うえすぎかたらしており重大じゅうだい同盟どうめい違反いはんをしている[18]同年どうねん信玄しんげんが、今川いまがわ上杉うえすぎ交渉こうしょうかんする情報じょうほうつかんでいたとされる[18]

よくえいろく11ねん1568ねん)12月、武田たけだ信玄しんげん駿河するが侵攻しんこうおこない、大名だいみょうとしての今川いまがわ滅亡めつぼうまれる。

その半生はんせい事跡じせきあきらかになっていなかったが『今川いまがわ瀬名せな』によると、貞春さだはるあま徳川とくがわ秀忠ひでただ介錯かいしゃく上臈じょうろう武家ぶけ嫡男ちゃくなん教育きょういく仕切しき女性じょせい家老がろう)として徳川とくがわつかえていた[19][20]

佐藤さとう八郎はちろうは『甲斐かいこくこころざしこうちゅうにおいて、「今川いまがわ系図けいず」を根拠こんきょ駿河するが帰国きこくみねまついん薙髪ちはつして貞春さだはるあましょうし、慶長けいちょう17ねん(1612ねん)8がつ19にち死去しきょしたとしている。法号ほうごうみねまついん殿どの栄誉えいよ貞春さだはる大姉だいし

江戸えど市谷いちたににあった今川いまがわ縁故えんこばんあきらいんほうむられた[21]

なお、かん泉寺いずみでら編纂へんさん刊行かんこう委員いいんかい編集へんしゅうの『今川いまがわ泉寺いずみでら』では、みねまついん殿どの栄誉えいよ貞春さだはる大姉だいしについて、「?氏真うじざね長女ちょうじょ」としている。氏真うじざね長女ちょうじょとすれば、吉良きらよしじょうしつとなった女性じょせいであるとかんがえられるが、小林こばやし輝久てるひさ彦がこのせつ反論はんろんおこない、『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』に記載きさいされた旗本はたもと秩父ちちぶ系譜けいふには徳川とくがわ秀忠ひでただ正室せいしつである浅井あさい崇源院すうげんいん)につかえていた貞春さだはる徳川とくがわ家康いえやす口添くちぞえをしたことによって同氏どうしである秩父ちちぶ重能しげよし幕府ばくふへの出仕しゅっしゆるされたとしるしている。また、公家くげ山科やましなげんいとぐち家督かとく継承けいしょう挨拶あいさつのために江戸えどおとずれたさい浅井あさい崇源院すうげんいん)との取次とりつぎつとめた女性じょせいとして「今川いまがわテイはる」の名前なまえげており[22]、この記述きじゅつ裏付うらづけるものとなっている。小林こばやし秩父ちちぶ重能しげよし武田たけだしんゆたか外孫そとまごつたえられており、貞春さだはる武田たけだとのつながりのある女性じょせいかんがえるのが妥当だとうで、武田たけだえんのない(信玄しんげん駿河するが侵攻しんこう前後ぜんこうまれたとされる)よしじょうしつ貞春さだはるどう一人物いちじんぶつかんがえるのは困難こんなんであり、武田たけだとついでいたみねまついん貞春さだはるであるとしている[23]

関連かんれん作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 小和田こわだ哲男てつおへん戦国せんごく大名だいみょうねやばつ事典じてん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1996ねん今川いまがわあきら執筆しっぴつしゃ小和田こわだ美智子みちこ)は、天文てんもん10ねん1541ねんまれとする。12さい結婚けっこん、27さいおっとうしない、72さい死去しきょした計算けいさんになる。
  2. ^ 「此年〔天文てんもん21ねん霜月しもづき廿にじゅうななにち駿河するが義元よしもと息女そくじょさま甲州こうしゅう晴信はるのぶさま武田たけだ大吉だいきち義信よしのぶ殿様とのさま御前ごぜんニナホシしょくこう[3]、「〔どう11がつ廿にじゅうななにちおつとりいぬこく府中ふちゅう甲府こうふ穴山あなやま宿やどちゃくうしこく御新造ごしんぞううつりリ」[4]
  3. ^ ほか、江戸えど後期こうき成立せいりつした『甲斐かいこくこころざし』では女子じょしにんしるしている。えんこういんには同腹どうふく姉妹しまい一人ひとりいたともいう。熊本くまもとはん細川ほそかわつかえた岩間いわまは、岩間いわま正成まさしげ義信よしのぶ今川いまがわみねまついん)のであるとしている。
  4. ^ 近年きんねん黒田くろだ基樹もとき信玄しんげん義信よしのぶあいだ外交がいこう方針ほうしん対立たいりつ疑問ぎもんし、家督かとく継承けいしょうふくめた内政ないせい問題もんだい原因げんいんではないかとする新説しんせつとなえている[7]
  5. ^ 黒田くろだ基樹もとき義信よしのぶ事件じけん性質せいしつうえ信玄しんげん義信よしのぶ廃嫡はいちゃくせざるをないことを理解りかいしていたはずであるが、廃嫡はいちゃくとなるとみねまついん離縁りえんとなってそのまま今川いまがわとの婚姻こんいん同盟どうめい消滅しょうめつしてしまうこと(あたらしい婚姻こんいん関係かんけいむすなおそうにも当時とうじ今川いまがわには婚姻こんいん可能かのう未婚みこん子女しじょがいない)、また義信よしのぶ廃嫡はいちゃくした場合ばあい後継こうけいしゃ選定せんてい問題もんだいもあって廃嫡はいちゃくおよびそれにともな義信よしのぶみねまついん離縁りえん)を決断けつだんできなかった可能かのうせいもあるとしている[8]
  6. ^ 平山ひらやまゆう切腹せっぷくだったのか、病死びょうしだったのか、これまでせつかれていましたが、このほど大河たいがドラマ『真田さなだまる』でも時代じだい考証こうしょう担当たんとうされていた黒田くろだ基樹もときによりしん史料しりょう発掘はっくつされまして病死びょうしだということあきらかになりました」 NHK大河たいがドラマ「どうする家康いえやす」コラム 大河たいが歴史れきし裏話うらばなし文化ぶんかじんとしての 武田たけだ信玄しんげん今川いまがわ義元よしもとえがく』2023ねん6がつ25にち

出典しゅってん

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  1. ^ 大石おおいし 2018, p. 134.
  2. ^ 大石おおいし 2018, p. 277.
  3. ^ 妙法寺みょうほうじ[ようページ番号ばんごう]
  4. ^ こうしろとき[ようページ番号ばんごう]
  5. ^ 戦国せんごく北条ほうじょうフェスオフィシャルブックvol.1」2024ねん1がつ7にち武田たけだ信玄しんげん勝頼かつせたい北条ほうじょう外交がいこう戦略せんりゃく平山ひらやまゆう p.27
  6. ^ 大石おおいし 2018, p. 270.
  7. ^ 黒田くろだ基樹もとき武田たけだ信玄しんげんつま三条さんじょう殿どの東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2022ねん7がつ、203-210ぺーじISBN 978-4-490-21069-9 
  8. ^ 黒田くろだ基樹もとき武田たけだ信玄しんげんつま三条さんじょう殿どの東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2022ねん7がつ、217-220ぺーじISBN 978-4-490-21069-9 
  9. ^ 黒田くろだ基樹もとき武田たけだ信玄しんげんつま三条さんじょう殿どの東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2022ねん7がつ、50-51ぺーじISBN 978-4-490-21069-9 
  10. ^ 『「時代じだいけた戦国せんごく武将ぶしょうたち~武田たけだ信玄しんげんしん研究けんきゅう義信よしのぶ事件じけんかんがえる」講師こうしは、2016ねんNHK大河たいがドラマ「真田さなだまる」の時代じだい考証こうしょう担当たんとうされた駿河台大学するがだいだいがく教授きょうじゅ黒田くろだ基樹もとき先生せんせい重要じゅうよう史料しりょうによれば、義信よしのぶ病死びょうしであった。これにより事件じけん背景はいけい事件じけんへの信玄しんげん処置しょちについての理解りかいは、おおきくかんがなおさなければならない。事件じけんについてあらたな見解けんかい提示ていじし、真実しんじつせまる。』武田たけだ信玄しんげんしん研究けんきゅう【NHKカルチャーオンデマンド講座こうざ】2022ねん4がつ22にち
  11. ^ えいろく10ねんというと、甲斐かいこく武田たけだ信玄しんげん嫡男ちゃくなん義信よしのぶ病死びょうししたとしでもありました。」【豊臣とよとみ秀頼ひでより出馬しゅつばしていれば家康いえやすれたかもしれない家康いえやす切腹せっぷく覚悟かくごさせた真田さなだ信繁のぶしげのツワモノぶり…大坂おおさかなつじん家康いえやす本陣ほんじんくずしたラストサムライの最期さいご】2023.12.04 濱田はまだひろし一郎いちろう
  12. ^ えいろく10ねん(1567ねん)に病死びょうし。」【徳川とくがわ家康いえやすが「武田たけだ信玄しんげん」にしんひらかなかった複雑ふくざつ事情じじょう】2023/02/26 濱田はまだひろし一郎いちろう
  13. ^ a b 大石おおいし 2018, pp. 271–272.
  14. ^ 戦国せんごく北条ほうじょうフェスオフィシャルブックvol.1」2024ねん1がつ7にち武田たけだ信玄しんげん勝頼かつせたい北条ほうじょう外交がいこう戦略せんりゃく平山ひらやまゆう p.27
  15. ^ 大石おおいし 2018, p. 272.
  16. ^ 黒田くろだ基樹もとき武田たけだ信玄しんげんつま三条さんじょう殿どの東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2022ねん7がつ、220-222ぺーじISBN 978-4-490-21069-9 
  17. ^ 史料しりょう綜覧そうらん
  18. ^ a b c 戦国せんごく北条ほうじょうフェスオフィシャルブックvol.1」2024ねん1がつ7にち武田たけだ信玄しんげん勝頼かつせたい北条ほうじょう外交がいこう戦略せんりゃく平山ひらやまゆう p.27
  19. ^ かつてのこうそう相手あいていもうと徳川とくがわ秀忠ひでただの「そだてのおや」に 家康いえやす今川いまがわたよりにしていたのか”. AERA dot. (2023ねん8がつ27にち). 2023ねん9がつ5にち閲覧えつらん
  20. ^ 信長のぶながでも秀吉ひでよしでも信玄しんげんでもない…「徳川とくがわ家康いえやすにもっとも影響えいきょうあたえた戦国せんごく大名だいみょう」の数奇すうき生涯しょうがい”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023ねん5がつ4にち). 2023ねん12月14にち閲覧えつらん
  21. ^ かん泉寺いずみでら編纂へんさん刊行かんこう委員いいんかい 1974, p. 74.
  22. ^ げんいとぐちおおやけ慶長けいちょう16ねん10がつ20日はつかじょう
  23. ^ 小林こばやし輝久てるひさ彦「今川いまがわおんなみねまついんについて」『静岡しずおかけん地域ちいき研究けんきゅう会報かいほう』210ごう、2017ねん /所収しょしゅう:黒田くろだ基樹もとき へん今川いまがわ氏真うじざねえびすひかりさち出版しゅっぱん中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんかん〉、2023ねん9がつ、244-245ぺーじISBN 978-4-86403-485-2 

参考さんこう文献ぶんけん

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