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北条氏康 - Wikipedia コンテンツにスキップ

北条ほうじょう氏康うじやす

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北条ほうじょう 氏康うじやす
北条ほうじょう氏康うじやすぞう小田原おだわらじょう天守閣てんしゅかく所蔵しょぞう模本もほんひん原本げんぽん早雲寺そううんじ所蔵しょぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし12ねん1515ねん
死没しぼつ もとかめ2ねん10月3にち1571ねん10月21にち
改名かいめい 伊勢いせ伊豆いず千代丸ちよまる幼名ようみょう) → 北条ほうじょう氏康うじやす
別名べつめい 通称つうしょう新九郎しんくろうごうふとししんのき
渾名あだな相模さがみ獅子しし相模さがみとら
戒名かいみょう 大聖寺殿だいしょうじとの東陽とうようむね岱大居士こじ
墓所はかしょ 神奈川かながわけん足柄下あしがらしもぐん箱根はこねまち早雲寺そううんじ
官位かんい したがえじょう相模さがみもり左京さきょう大夫たいふ
氏族しぞく 伊勢いせ北条ほうじょう桓武かんむたいら
父母ちちはは ちち北条ほうじょう氏綱うじつな
ははやしなえたまいんそうさかえ
兄弟きょうだい 氏康うじやすためあきらたかしだいいただきいん殿どの浄心じょうしんいんこうみなもといん芳春よしはるいん、ちよ、蒔田まきた殿どの吉良きら頼康よりやすしつ北条ほうじょう(福島ふくしま)綱成つなしげ(義弟ぎてい)
つま 正室せいしつみずけいいん今川いまがわおやむすめ)、側室そくしつ遠山とおやま康光やすみつしつ姉妹しまい松田まつだ殿どの松田まつだけんしゅうむすめ
おや氏政うじまさななきょく殿どの氏照うじてる尾崎おざき殿どの氏規うじのりちょうりんいん殿どの早川はやかわ殿どのぞうはるいん殿どの)、氏邦うじくに上杉うえすぎ景虎かげとらきよしひかりいん殿どのかつらりんいん殿どの
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北条ほうじょう 氏康うじやす(ほうじょう うじやす)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう相模さがみこく戦国せんごく大名だいみょうこう北条ほうじょうだい2だい当主とうしゅ北条ほうじょう氏綱うじつな嫡男ちゃくなんとしてまれる。こう北条ほうじょうだい3代目だいめ当主とうしゅはは氏綱うじつな正室せいしつやしなえたまいん[1]姓名せいめいたいら氏康うじやす[2]

関東かんとうから山内やまうち扇谷おうぎやりょう上杉うえすぎうなど、外征がいせい実績じっせきのこすとともに、武田たけだ今川いまがわとのあいだかぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめいむすんで関東かんとう支配しはいし、上杉うえすぎ謙信けんしん退しりぞけ、後世こうせいにつながる民政みんせい制度せいど充実じゅうじつさせるなど、政治せいじてき手腕しゅわん発揮はっきした[3]こう北条ほうじょう当主とうしゅとして19年間ねんかん隠居いんきょ後継こうけいしゃであるだい4だい当主とうしゅ北条ほうじょう氏政うじまさとの共同きょうどう統治とうちを12年間ねんかんつづけ、30ねん以上いじょうにわたってのち北条ほうじょうひきいた[4]

生涯しょうがい

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誕生たんじょうから家督かとく相続そうぞくまで

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こう北条ほうじょう初代しょだいとしてあつかわれる伊勢いせ宗瑞そうずい北条早雲ほうじょうそううん)が存命ぞんめいちゅうえいただし12ねん1515ねん)、だい2だい当主とうしゅ北条ほうじょう氏綱うじつな当時とうじ伊勢いせ氏綱うじつな)の嫡男ちゃくなん伊勢いせ伊豆いず千代丸ちよまる」としてまれる[5]。3さいであったえいただし15ねん1518ねん)2がつ8にちそうみずほから護符ごふ太刀たちおよおけぶんさづけられ、将来しょうらい後継こうけいしゃとして位置いちづけられる[6]。4さいとき祖父そふそうみずほ死去しきょ。9さいころからちち氏綱うじつな北条ほうじょう名乗なのるようになる。ただし、当初とうしょ北条ほうじょう」の名乗なのりをもちいたのは、氏綱うじつなのみであったらしく、だいなが5ねん1525ねん)8がつ飛鳥井あすかいまさつなから蹴鞠けまり伝授でんじゅしょさづけられたさいに「伊勢いせ伊豆いず千代丸ちよまるたかしおくられている[7]元服げんぷく氏綱うじつな左京さきょう大夫たいふ任官にんかんどう時期じきとおるろく2ねん1529ねん年末ねんまつの15さいころられている。北条ほうじょう名乗なのったのも元服げんぷくをきっかけにしたと推測すいそくされる[7]

とおるろく3ねん1530ねん)、小沢おざわげんたたかにおける初陣ういじんにて上杉うえすぎ朝興ともおきたたかい、これに大勝たいしょうしたと伝承でんしょうされており(『異本いほん小田原おだわら』)、とう時代じだい史料しりょうめんからも事実じじつちかいとされている[8]天文てんもん4ねん1535ねん)8がつ甲斐かい山中さんちゅう合戦かっせん天文てんもん6ねん1537ねん)7がつかわえつじょう攻略こうりゃくなどに出陣しゅつじんして戦功せんこうかさね、天文てんもん7ねん1538ねん)のだいいち国府台こうのだいたたかではちちとも足利あしかが義明よしあき里見さとみ連合れんごうぐんたたかい、てきそう大将たいしょうしょうゆみ公方くぼう足利あしかが義明よしあきって勝利しょうりおさめた[9]

天文てんもん4ねん1535ねん)もしくはよく5ねん1536ねん)に又従兄弟またいとこにあたる今川いまがわおやむすめ正妻せいさいむか[注釈ちゅうしゃく 1][7]天文てんもん6ねん1537ねん)には嫡男ちゃくなん西堂せいどうまる誕生たんじょうしている[11]。しかし、天文てんもん6ねん1537ねん)2がつ今川いまがわ北条ほうじょう対立たいりつする武田たけだ婚姻こんいん同盟どうめいむすんだことをった氏綱うじつなはそのつきのうちに今川いまがわとの同盟どうめいやぶって駿河するが侵攻しんこうしている(だいいち河東かわとういちらん[12]天文てんもん6ねん1537ねん)7がつにはちちとも鎌倉かまくら鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう社領しゃりょう寄進きしんし、どう8ねん1539ねん)6がつには将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるからはいたかたかひな)をおくられている[9]

天文てんもん10ねん1541ねん)7がつ17にち氏綱うじつな死去しきょしたため、家督かとくいでだい3だい当主とうしゅとなった。氏綱うじつな直前ちょくぜんの5がつ22にち、5かじょう訓戒くんかいじょうのこしている。一説いっせつでは天文てんもん7ねん1538ねん)に氏綱うじつな隠居いんきょして氏康うじやす家督かとくゆずり、後見こうけんしていたとされる。また、氏綱うじつな天文てんもん10ねん1541ねん)の初夏しょかには体調たいちょうくずして前述ぜんじゅつ訓戒くんかいじょうのこしていることから、氏綱うじつな隠居いんきょ直前ちょくぜんであったとするせつもある[13]天文てんもん7ねん1538ねん正月しょうがつ以降いこう氏康うじやす単独たんどく発給はっきゅう文書ぶんしょられることから、実際じっさい家督かとく問題もんだいべつとして、当主とうしゅ継承けいしょうそなえた準備じゅんびすすめられていたと推測すいそくすることは可能かのうである[7]

氏康うじやす家督かとくいだとされる天文てんもん10ねん1541ねん)7がつ時点じてんで、北条ほうじょう領国りょうごく相模さがみこく伊豆いずこくこく武蔵むさしこく一部いちぶ小机こづくえりょう江戸えどりょうかわこしりょう)と下総しもうさこく一部いちぶ葛西かさいりょう)であり、その従属じゅうぞくこくしゅとして上総かずさこく真里谷まりやつ下総しもうさこく千葉ちば武蔵むさしこく由井ゆい大石おおいし勝沼かつぬま三田みた駿河するが国東くにさき御厨みくりや垪和葛山かつらやま富士ふじ諸家しょか位置いちづけられた[14]

一大いちだい危機ききとその打開だかい

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河東かわとういちらんかわえつ夜戦やせん

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天文てんもん10ねん10がつ氏綱うじつなった山内やまうち上杉うえすぎ扇谷おうぎや上杉うえすぎ連携れんけいしてかわえつ江戸えど方面ほうめんへの侵攻しんこうおこなった。しかし、氏康うじやすはこれを撃退げきたいして反対はんたい武蔵むさし北部ほくぶ上杉うえすぎりょう攻撃こうげきしている。しかし、天文てんもん飢饉ききんなかで、これ以上いじょう攻撃こうげき抑制よくせいし、よく天文てんもん11ねん1542ねん)にはいると領内りょうない検地けんちおこなって課税かぜい基準きじゅん見直みなおしをおこなっている[14]。しかし、同年どうねん発生はっせいした真里谷まりやつ内紛ないふんをきっかけに里見さとみよしとの衝突しょうとつ本格ほんかくし、一方いっぽう天文てんもん13ねん1544ねん正月しょうがつには武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん)との和睦わぼくるなど、対外たいがいてき情勢じょうせい複雑ふくざつすることになった[15][注釈ちゅうしゃく 2]

天文てんもん14ねん1545ねん)7がつ今川いまがわ義元よしもとから和睦わぼく提案ていあんけるが、合意ごういいたらなかった。そこで、義元よしもと関東かんとう管領かんりょう山内やまうち上杉うえすぎ憲政のりまさ扇谷おうぎや上杉うえすぎちょうじょう朝興ともおきとう連携れんけいし、氏康うじやすたい挙兵きょへいした。義元よしもとは、氏綱うじつなうばわれていたひがし駿河するが奪還だっかんすべく攻勢こうせいをかけた。これをだい2河東かわとういちらんという。氏康うじやす駿河するが急行きゅうこうするものの、北条ほうじょうぜい武田たけだぐん援軍えんぐんけた今川いまがわぐんされ、吉原よしわらじょう長久保ながくぼじょうおとさせ、婚姻こんいん関係かんけいのある従属じゅうぞくこくしゅ葛山かつらやま今川いまがわかた離反りはんするなど、状況じょうきょう不利ふりであった。そのざい陣中じんちゅう関東かんとうでは山内やまうち扇谷おうぎやりょう上杉うえすぎ大軍たいぐんようして義弟ぎてい北条ほうじょう綱成つなしげまもかわえつじょう包囲ほういしたというらせがとどき、東西とうざいからはさちにあった氏康うじやす絶体絶命ぜったいぜつめい危機ききおちいった。この窮状きゅうじょうなかまずは片方かたがたおさめるべく、氏康うじやす武田たけだ晴信はるのぶ斡旋あっせんにより、義元よしもととの和睦わぼく模索もさくひがし駿河するが河東かわとう地域ちいき義元よしもと割譲かつじょうすることで和睦わぼくする。武田たけだまじえたかぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめい締結ていけつまでは緊張きんちょうつづいたが、その同盟どうめい関係かんけい堅持けんじし、駿河するが侵出しんしゅつはなかった。

一方いっぽう氏康うじやす義兄弟ぎきょうだいいもうと婿むこ)であり、これまでは北条ほうじょう協調きょうちょうしてきた古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが晴氏はるうじ連合れんごうぐん密約みつやくむすび、かわえつじょう包囲ほういくわわった。およそ8まん連合れんごうぐん包囲ほういされたかわえつじょうやく半年はんとしわたって籠城ろうじょうせんえるものの、今川いまがわとのたたかいをおさ関東かんとう転戦てんせんした氏康うじやす北条ほうじょうほんぐんは1まん未満みまんしかなく、圧倒的あっとうてき劣勢れっせいだった。氏康うじやすりょう上杉うえすぎ足利あしかがじんに「これまでうばった領土りょうどはおかえしする」との手紙てがみおくり、長期ちょうき対陣たいじん油断ゆだんさそった。そしてよく天文てんもん15ねん1546ねん)、氏康うじやす城内じょうない綱成つなしげ連携れんけいして、連合れんごうぐんたいして夜襲やしゅうをかける。この夜襲やしゅう上杉うえすぎちょうじょう戦死せんしし、扇谷おうぎや上杉うえすぎ滅亡めつぼうした。また、上杉うえすぎ憲政のりまさ上野うえのこく平井ひらいに、足利あしかがはる下総しもうさこく遁走とんそうした(かわえつ夜戦やせん)。「かわえつじょうたたかい」の内容ないようかんしては、どう時代じだい史料しりょうとぼしく、研究けんきゅう余地よちおおきい合戦かっせんではあるものの、このたたかいで北条ほうじょうがわ勝利しょうりしたことにより、氏康うじやす関東かんとうにおけるこうそう主導しゅどうけん確保かくほする[17]

しかし、今度こんど上杉うえすぎとのたたかいで手一杯ていっぱいとみた里見さとみ千葉ちば攻撃こうげきはじめ、氏康うじやす当時とうじ里見さとみ拠点きょてんであった佐貫さぬきしろ攻撃こうげきすると、今度こんど扇谷おうぎや上杉うえすぎ遺臣いしんである太田おおたただし松山まつやまじょういわづけじょう奪還だっかんした。氏康うじやす太田おおたせい上田うえだちょうじき離間りかんさせて両者りょうしゃ降伏ごうぶくさせたのは天文てんもん17ねん1548ねん正月しょうがつのことであり、同年どうねんから翌年よくねんにかけて国峰くにみね小幡おばた花園はなぞの藤田ふじた深谷ふかや上杉うえすぎなどを次々つぎつぎ山内やまうち上杉うえすぎから離反りはんさせて北条ほうじょう傘下さんかくことに成功せいこうした[18]

国中くになかもろぐん退転たいてん公事こうじ赦免しゃめんれい

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危機きき軍事ぐんじめんだけではなかった。かわえつ夜戦やせんのちしばらくのあいだ領地りょうち経営けいえい遅滞ちたいした。とく天文てんもん18ねん1549ねん)に関東かんとう発生はっせいしただい地震じしんでは被災ひさいした領民りょうみんへの対応たいおう後手ごてまわり、領国りょうごく全域ぜんいき農民のうみんむら田畑たはた放棄ほうきしての逃亡とうぼうだい規模きぼこる「国中くになかもろぐん退転たいてん」という深刻しんこく状況じょうきょうおちいってしまったため、天文てんもん19ねん1550ねん)4がつけで公事こうじ赦免しゃめんれい発令はつれいした。これは伊豆いずから武蔵むさし南部なんぶにまたがる領域りょういきに、直轄ちょっかつりょう給人きゅうにんりょうべつなく朱印しゅいんじょう発給はっきゅうし、それまで雑多ざった徴収ちょうしゅうをされていたぜい課税かぜい手順てじゅん対象たいしょう課税かぜいりつ単純たんじゅん軽減けいげんして税制ぜいせい改革かいかくするとともに、特定とくてい賦役ふえき廃止はいし免除めんじょ過去かこ設定せっていされていた諸税しょぜい撤廃てっぱい指定してい債務さいむ破棄はきするというものである。この発布はっぷにより事態じたい収拾しゅうしゅうしたが、これは北条ほうじょうぜん領国りょうごく規模きぼおこなったはじめての徳政とくせいであった[19][20]

この「公事こうじ赦免しゃめんれい」は、目安めやすせいによって、中間ちゅうかん管理かんりしゃたいする農民のうみん直訴じきそをもみとめ、徴税ちょうぜい徴発ちょうはつ統一とういつによる中間ちゅうかん搾取さくしゅ回避かいひともに、中間ちゅうかん管理かんりしゃたる領内りょうない中小ちゅうしょう規模きぼきゅう支配しはいそう権限けんげん縮小しゅくしょうすることで、関東かんとうきではない北条ほうじょう支配しはいけん強化きょうかにつながっていった[19][21]

かわえつ夜戦やせん関東かんとう攻防こうぼう

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天文てんもん19ねん1550ねんうるう5がつ古河ふるかわ公方くぼう足利あしかがはるとの関係かんけい悪化あっかけて、はれしつとなっていたいもうと芳春よしはるいんとその所生しょせいであるうめ千代ちよ王丸おうまる足利あしかがよし)をもど工作こうさくすすめ、よく天文てんもん20ねん1551ねん)12がつまでに、両者りょうしゃ北条ほうじょうりょうである下総しもうさ葛西かさいしろうつすことに成功せいこうした[22]

天文てんもん19ねん1550ねん)7がつ6にち足利あしかが義輝よしてるいのちけて、里見さとみよしとの仲介ちゅうかいろうるために関東かんとう下向げこうした彦部ひこべ雅楽ががくあたましに満足まんぞくしたむね手紙てがみおくっている[23]

天文てんもん19ねん1550ねん)に、上杉うえすぎ憲政のりまさ居城きょじょう平井ひらいしろめたが、このときの攻略こうりゃくはならず、よく天文てんもん20ねん1551ねん)に平井ひらいじょうとすことに成功せいこうし、憲政けんせい厩橋うまやばしじょう、さらに白井しらいしろへとめ、天文てんもん21ねん1552ねん正月しょうがつ憲政けんせい越後えちご守護しゅごだい長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)のもとせることになった[1][24]。しかし、よく天文てんもん21ねん1552ねん)7がつ長尾ながお景虎かげとら支援しえん憲政けんせい武蔵むさし北部ほくぶまではいり、同調どうちょうした諸氏しょしたい味方みかた赤井あかい救援きゅうえんのため氏康うじやす報復ほうふくする事態じたいまできた[1]結局けっきょくこののちえいろく3ねん1560ねん)まで憲政けんせい関東かんとう侵入しんにゅうはならず、山内やまうち上杉うえすぎ与力よりき由良ゆら佐野さの長野ながの横瀬よこせとう抵抗ていこうがあったが、弘治こうじ元年がんねん1555ねんごろには北条ほうじょうぞくすことで、上杉うえすぎ連合れんごうぐん全域ぜんいきうばわれていた上野うえのは、一旦いったん北条ほうじょう勢力せいりょくおさまった。

上野うえの武蔵むさし以外いがいにも常陸ひたち佐竹さたけ下野げや宇都宮うつのみやなどの関東かんとう諸侯しょこうとの敵対てきたいじょうきょうつづいていた。天文てんもん22ねん1553ねん)4がつには、真里谷まりやつ武田たけだ攻略こうりゃくしていた里見さとみはじめ、そのなか内房うつぶさ正木まさき北条ほうじょうくだっている[5]天文てんもん23ねん1554ねん)には古河ふるかわしろ侵攻しんこう、2ねんまえ公方くぼうこう北条ほうじょう息子むすこ氏康うじやすおい)の足利あしかがよしゆずったはれ秦野はたの幽閉ゆうへい[24]。さらに大石おおいしには氏照うじてる藤田ふじたには氏邦うじくに息子むすこ養子ようしおくり、時間じかんをかけながら、実質じっしつてき一門いちもんれた。

弘治こうじ元年がんねん1555ねん)、連年れんねん攻撃こうげきによって、内房うつぶさ沿岸えんがんにおける里見さとみぐん拠点きょてんの1つであった金谷かなやしろ攻略こうりゃくすることに成功せいこうし、内房うつぶさ地域ちいきせいして里見さとみ安房あわんだ[25]

弘治こうじ3ねん1557ねん)には宇都宮うつのみや家臣かしん芳賀はがこうじょう宇都うと宮城みやぎ奪還だっかん協力きょうりょくし、古河ふるかわ公方くぼうおよ佐竹さたけ那須なすなど周辺しゅうへん大名だいみょうらに宇都宮うつのみやへの援軍えんぐん要請ようせいしている。さらに宇都うと宮城みやぎ奪還だっかん壬生みぶ当主とうしゅ壬生みぶ綱雄つなおたいしてきゅう宇都宮うつのみやりょう宇都宮うつのみやにすべて返還へんかんするよう命令めいれいした。これらのおこないは氏康うじやす権力けんりょく関東かんとう管領かんりょう匹敵ひってきすることを関東かんとうしょしょうらしめるという思惑おもわくがあったためにったという。

さんこく同盟どうめい

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さき河東かとういちらん和睦わぼくはなったが、今川いまがわとの関係かんけい依然いぜんとして緊迫きんぱくした状況じょうきょうであり、天文てんもん17ねん1548ねん)3がつ氏康うじやす織田おだ信秀のぶひでてた返書へんしょ証文しょうもんうつし)の「いちがなったというのに、かれこく義元よしもと)からの疑心ぎしんまないので迷惑めいわくしている」という内容ないよう[注釈ちゅうしゃく 3]からもそれはれる[注釈ちゅうしゃく 4]

天文てんもん20ねん1551ねん)8がつごろより、武田たけだ今川いまがわ両氏りょうしとの婚姻こんいん交渉こうしょうすすめ、氏康うじやすむすめ今川いまがわ義元よしもと嫡男ちゃくなんとつがせ、武田たけだ晴信はるのぶむすめ氏康うじやす嫡男ちゃくなん西堂せいどうまるとつがせることになった[30]天文てんもん21ねん1552ねん正月しょうがつごろ西堂せいどうまる元服げんぷくして新九郎しんくろうおや名乗なのり、氏康うじやすちち氏綱うじつな官途かんとめいであった左京さきょう大夫たいふ名乗なのった。ところが3がつはいると、おややまいたおれ、わずか16さい死去しきょしてしまう。突然とつぜん事態じたいにより、氏康うじやすはやむなく次男じなんまつ千代丸ちよまるあらたな後継こうけいしゃにするととも武田たけだ晴信はるのぶたいして婚約こんやくしゃ変更へんこうもうれた[30]よく天文てんもん22ねん1553ねん正月しょうがつ氏康うじやす晴信はるのぶ婚約こんやくのやりなおしにかんする起請文きしょうもんわしている[31]一方いっぽう氏康うじやす義元よしもとあいだでも、氏康うじやすむすめおさなすぎる(天文てんもん21ねん時点じてんで6さい)ということが問題もんだいされた。このため、氏康うじやす当面とうめん措置そちとして実子じっし氏規うじのり実質じっしつてき人質ひとじちとして、氏規うじのりにとっては外祖母がいそぼにあたる寿ことぶきかつらあづけた[注釈ちゅうしゃく 5][22]天正てんしょう23ねん1554ねん正月しょうがつごろまつ千代ちよまる元服げんぷくして新九郎しんくろうせい名乗なのった[31]

一方いっぽう天文てんもん23ねん1554ねん)、今川いまがわ義元よしもと三河みかわこく出兵しゅっぺいしているすきいてふたた駿河するが侵攻しんこうするが、義元よしもと盟友めいゆうである武田たけだ晴信はるのぶ援軍えんぐんなどもあって駿河するが侵攻しんこうおもうようにすすまなかった」といった後世こうせい成立せいりつした北条ほうじょう軍記ぐんきぶつ(『せきはちしゅういにしえせんろく』、『小田原おだわらだい』)にえがかれているようなだい3河東かわとういちらんとみられるうごきは、今川いまがわ武田たけだ近隣きんりんこくかんするどう時代じだい史料しりょう軍記ぐんきからは確認かくにんできず、さき興国こうこく寺領じりょうかんするきゅうせつ遺跡いせき史料しりょう研究けんきゅう齟齬そごからも、小和田こわだ哲男てつおゆう光友みつともまなぶ黒田くろだ基樹もとき今川いまがわこう北条ほうじょう武田たけだ研究けんきゅうしゃによる見解けんかい否定ひていてきである[32][33][34]

天文てんもん23ねん1554ねん)7がつ今川いまがわ重臣じゅうしんふとしはらゆきとき仲介ちゅうかいなどもあって、むすめ早川はやかわ殿どの今川いまがわ義元よしもと嫡男ちゃくなん今川いまがわ氏真うじざねとつがせ、12月には、前年ぜんねん婚約こんやく成立せいりつしていた武田たけだ信玄しんげんむすめ黄梅おうばいいん嫡男ちゃくなん氏政うじまさ正室せいしつむかえることで、武田たけだ今川いまがわ同盟どうめい関係かんけいむすぶにいたった(かぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめい)。これにより背後はいご駿河するがかたまったことになり、おも武田たけだ軍事ぐんじてき連携れんけい強化きょうかし、関東かんとうでのたたかいに専念せんねんすることになる[35]

上杉うえすぎ謙信けんしんとのたたか

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えいろく2ねん1559ねん)、氏康うじやす次男じなんちょう嫡子ちゃくし氏政うじまさ家督かとくゆずって隠居いんきょした。「えいろく飢饉ききん」というだい飢饉ききん発生はっせいしていたため、そのせめるというかたち代替だいがわりによる徳政令とくせいれい実施じっし目的もくてきとしていた。しかし隠居いんきょ小田原おだわらじょう本丸ほんまるとどまって「本城ほんじょうさま」として政治せいじ軍事ぐんじ実権じっけん掌握しょうあくしながら、氏政うじまさ後見こうけんするという、「ニ屋形やかた」「りょう殿しんがり」としょうされる形体けいたい移行いこうした[35][36]

このころ上野うえの国内こくない上杉うえすぎかた横瀬よこせ由良ゆら上野うえの斎藤さいとう沼田ぬまたなど)をほぼ降伏ごうぶくさせ、この時点じてんでは上野うえのこく領国りょうごく成功せいこうしている。越後えちごたいしては越後えちごから上野うえのへの出入口でいりぐち沼田ぬまた北条ほうじょうやすしもといて対抗たいこうした[35]

えいろく3ねん1560ねん)5がつ今川いまがわ義元よしもとおけ狭間はざまたたかにおいて織田おだ信長のぶながたれたため、今川いまがわ勢力せいりょく衰退すいたいする[35]

同年どうねん上杉うえすぎ謙信けんしんが「えいろく飢饉ききん」のなか関東かんとう侵攻しんこうし、小田原おだわらじょうたたかとなる。上杉うえすぎ憲政のりまさほうじ、8,000の軍勢ぐんぜいひきいて三国峠みくにとうげえた謙信けんしんは、各地かくち略奪りゃくだつひろげながら、厩橋うまやばしじょう沼田ぬまたじょういわ下城げじょう那波なばじょうなど上野うえのこく北条ほうじょうかたしょしろ次々つぎつぎ攻略こうりゃくし、関東かんとういちえん大名だいみょう豪族ごうぞくさらには一部いちぶ奥州おうしゅう南部なんぶ豪族ごうぞく動員どういんをかける。これにたいし、上総かずさこく里見さとみよし本拠地ほんきょち久留里くるりじょうかこんでいた氏康うじやすは、包囲ほういいて9がつかわえつ出陣しゅつじん、10月には松山まつやまじょうはいる。ここで主要しゅようしろ籠城ろうじょう指示しじし、その本拠地ほんきょち小田原おだわらじょう入城にゅうじょう籠城ろうじょうかまえをとった[8][36]

上杉うえすぎ連合れんごうぐんには、上野うえのこく白井しらい長尾ながお総社そうじゃ長尾ながお箕輪みのわ長野ながのしゅ沼田ぬまたしゅう岩下いわした斎藤さいとう金山かなやま横瀬よこせ桐生きりゅう佐野さの下野げやこく足利あしかが長尾ながお小山こやま宇都宮うつのみや佐野さの下総しもうさやなでん小金こがね高城たかぎ武蔵むさしこくしのぶ成田なりた羽生はぶ広田ひろた藤田ふじたしゅう深谷ふかや上杉うえすぎいわづけ太田おおた勝沼かつぬま三田みた常陸ひたちこくでは、小田おだ真壁まかべ下妻しもづま賀谷がや下館しもだて水谷みずたに安房あわこく里見さとみ上総かずさこく東金とうがね酒井さかい飯櫃めしびつ城山しろやましつといった『関東かんとうまく注文ちゅうもん』の面々めんめんくわえ、おくれて佐竹さたけまいりじんした[8][36]

これにたいし、北条ほうじょうには上野うえのこく館林たてばやし赤井あかい武蔵むさしこく松山まつやま上田うえだ下野げやこく那須なす下総しもうさ結城ゆうき下総しもうさ守護しゅご千葉ちば臼井うすいげん上総かずさこく土気つちけ酒井さかい常陸ひたちこくだいじょうみし[8]玉縄たまなわしろには北条ほうじょう氏繁うじしげたき山城やましろかわえつじょう北条ほうじょう江戸城えどじょう小机こづくえじょう由井ゆいしろ北条ほうじょう氏照うじてる三崎みさきしろ北条ほうじょう綱成つなしげ津久井つくいじょう内藤ないとう康行やすゆきとう対抗たいこうした[36]

12月初旬しょじゅん謙信けんしん下総しもうさ古河ふるかわ御所ごしょなどを包囲ほうい上野うえのくるわきょうじょうにて越年えつねんし、えいろく4ねん1561ねん)2がつ松山まつやまじょう鎌倉かまくら攻略こうりゃく最終さいしゅうてきに10まんあまりの連合れんごうぐんひきい、氏康うじやす本国ほんごく相模さがみにまでせた。連合れんごうぐん先陣せんじんは3がつ3にちまでには当麻とうま着陣ちゃくじん上杉うえすぎかたは14にち中郡なかぐん大槻おおつきにて北条ほうじょうかた大藤おおふじ交戦こうせん謙信けんしんぜいも3がつ下旬げじゅんころまでに酒匂川さかわがわ付近ふきんせまり(加藤かとう文書ぶんしょ大藤おおふじ文書ぶんしょ)、居城きょじょう小田原おだわらじょう包囲ほういした。『せきはちしゅういにしえせんろくとうぐんでんいては上杉うえすぎぐん太田おおたただしたい小田原おだわらじょう蓮池はすいけもん突入とつにゅうするなど攻勢こうせいをかけ、たいする北条ほうじょうぐん各地かくち兵站へいたん打撃だげきあたえて抗戦こうせん、このあいだ包囲ほういいちヶ月かげつおよんだともつたえられているが、どう時代じだい史料しりょうでは上杉うえすぎぐんによる城下じょうかへの放火ほうかとうしるされているものの(「上杉うえすぎ文書ぶんしょ」)、詳細しょうさいあきらかになっておらず、前後ぜんご上杉うえすぎぐん謙信けんしんうごきから包囲ほうい自体じたいは1週間しゅうかんから10日間にちかんほどであったという[35][37][38]小田原おだわらじょう防衛ぼうえいかたく、当時とうじ関東かんとうでは飢饉ききん続発ぞくはつしていたため長期ちょうきにわたる出兵しゅっぺい維持いじできず、佐竹さたけなどしょ豪族ごうぞく撤兵てっぺい要求ようきゅうし、一部いちぶ豪族ごうぞく勝手かってじんはら事態じたいとなっていた(杉原すぎはらけん所蔵しょぞう文書ぶんしょ[35]

さらに氏康うじやす同盟どうめいむす信玄しんげん信濃しなのこく川中島かわなかじま海津かいづしろ完成かんせいさせ、信濃しなの北部ほくぶでの支配しはいいきひろげることで、謙信けんしん牽制けんせい。これらにより、謙信けんしん小田原おだわらじょうから撤退てったい鎌倉かまくらへいげ、うるう3がつ鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうにて関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにんした。こののち謙信けんしん足利あしかがふじよしの庶兄)を公方くぼうとして擁立ようりつ[注釈ちゅうしゃく 6]さら謙信けんしん上杉うえすぎ憲政のりまさ関白かんぱく近衛このえぜんひさとも古河ふるかわれると、武田たけだ扇動せんどうされた一向いっこう一揆いっきえつ中国ちゅうごく蜂起ほうきしたこともあり、このときの小田原おだわらじょう攻略こうりゃく断念だんねん[35]はやくも上杉うえすぎぐんから離反りはんした上田うえだちょうじき松山まつやまじょうさい攻略こうりゃくし、各地かくち略奪りゃくだつ放火ほうかおこないながら、6がつ越後えちごこく帰国きこくした[35]ほかにも、関宿せきやどじょうひとししろ北条ほうじょうから離脱りだつしたが、玉縄たまなわしろたき山城やましろかわえつじょう江戸城えどじょう小机こづくえじょう由井ゆいしろ三崎みさきじょう津久井つくいじょうとう攻勢こうせいった[35][36]

以降いこうえいろく年間ねんかん上杉うえすぎ謙信けんしんは、作物さくもつ収穫しゅうかくにあたる農業のうぎょう端境期はざかいきであるふゆになると関東かんとう侵攻しんこうし、氏康うじやす北条ほうじょう上杉うえすぎあいだ離脱りだつ従属じゅうぞくかえくにしゅと、戦乱せんらんてきぐん略奪りゃくだつによる領国りょうごくない荒廃こうはいといった、その対応たいおうわれることなる[36][39]

えいろく4ねん謙信けんしん帰国きこく直後ちょくごには、関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにんしき北条ほうじょうから離脱りだつしていた下総しもうさこく千葉ちば高城たかぎさい帰参きさんしたが、氏康うじやす謙信けんしん帰陣きじんまえの6がつから、すで上杉うえすぎうばわれた勢力せいりょくいきさい攻略こうりゃくこころみていた[35][39]。9月には武蔵むさしこく三田みたほろぼし、その領国りょうごく氏照うじてるあたえられた[39]つぎ氏邦うじくに家督かとくいでいた藤田ふじた領国りょうごくのうち、てきおうじていた秩父ちちぶにち尾城おじろ天神てんじんじょう攻略こうりゃく[39]武蔵むさし北部ほくぶ奪還だっかんした。

さらに武蔵むさしこく小田おだ深谷ふかやじょう上杉うえすぎけんもりをもさい帰参きさんさせ、上野うえのこく佐野さのただしつな下野げやこく佐野さのあきらつな寝返ねがえらせることに成功せいこうしたが[39]あきらつなほうはそのまもなく謙信けんしん降伏ごうぶくしている。氏康うじやす武蔵むさしこく軍勢ぐんぜい派遣はけんし、11月27にち生野いくのさんたたかで、だいよん川中島かわなかじま合戦かっせん直後ちょくご上杉うえすぎぜいやぶ上野うえのこくまで後退こうたいさせると(内閣ないかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう小幡おばた文書ぶんしょ出雲いずも桜井さくらい文書ぶんしょ相州あいしゅう文書ぶんしょ[35]、そのまま上野うえの武蔵境むさしさかいまで進軍しんぐんして、秩父ちちぶ高松たかまつじょう降伏ごうぶくさせ、氏邦うじくに領国りょうごく回復かいふくさせた[39]

上杉うえすぎぜい古河ふるかわしろを、公方くぼう宿老しゅくろうやなはれすけまかせるとの書状しょじょうしてぐんげていたが、12月には近衛このえぜんひさ由良ゆらなりしげる古河ふるかわじょう苦境くきょうつたえている(『雑纂ざっさん』)[35]古河ふるかわじょうわれたよしは、北条ほうじょうによって上総かずさ佐貫さぬきじょううつされた[39]

えいろく6ねん1563ねん)には武田たけだ援軍えんぐんたこともあって、氏康うじやす松山まつやまじょう上野うえの厩橋うまやばしじょう攻略こうりゃく[35]。さらに下野げや小山こやま寝返ねがえらせ、その古河ふるかわしろをも攻略こうりゃくし、謙信けんしん古河ふるかわ公方くぼうとして擁立ようりつした足利あしかがふじらえた[35]。これにたい謙信けんしん反撃はんげき三国峠みくにとうげえて上野うえの武蔵むさし下野げや常陸ひたち下総しもふさ侵攻しんこう[35]厩橋うまやばしじょう古河ふるかわしろ奪還だっかんし、成田なりた小山こやま結城ゆうき小田おだ降伏ごうぶくさせるとう北条ほうじょうかたしょしろ攻略こうりゃくするが、りょうぐんともに支配しはいけん安定あんていさせるまでにはいたらず、一進一退いっしんいったい攻防こうぼうつづいた[35][39]

えいろく6ねんごろおとうと北条ほうじょううしなっている。もう1人ひとりおとうとである北条ほうじょうためあきらすで天文てんもん11ねん1542ねん)にうしなっており、後世こうせい系譜けいふでは氏康うじやす子供こども記録きろくされているたねとくてら殿どの小笠原おがさわら康広やすひろとつぐ)およびただしこう兄弟きょうだいについて、実際じっさいにはそれぞれためあきら堯が父親ちちおやで、氏康うじやす養子ようしおんなとしてったものがわすれられたとみられている[40]

関東かんとうたたかい・隠居いんきょ

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えいろく7ねん1564ねん)、里見さとみよし義弘よしひろ父子ふし上総かずさこくなどの支配しはいけんをめぐって対陣たいじんする(だい国府台こうのだいたたか)。北条ほうじょうぐん兵力へいりょくてきには優勢ゆうせいであったが、里見さとみぐん精強せいきょう一筋縄ひとすじなわにはいかず、北条ほうじょうぐん遠山とおやまつなけいなどの有力ゆうりょく武将ぶしょうおおうしなった。しかし氏康うじやす攻勢こうせいにより里見さとみぐんやぶれて安房あわこく撤退てったいした[35]

同年どうねんえいろく7ねん太田おおたせいを、その息子むすこはかっていわづけじょうから追放ついほうし、氏康うじやす武蔵むさし大半たいはんふたた平定へいていする。えいろく8ねん1565ねん)、氏康うじやすは、関東かんとう中原なかはらにおける拠点きょてんである関宿せきやどじょう攻撃こうげき、このしろ利根川とねがわ水系すいけいとう要地ようち氏康うじやす重要じゅうようしていたが、このときは城主じょうしゅやなはれすけ抵抗ていこう北条ほうじょうぐん撤退てったいした(だいいち関宿せきやど合戦かっせん)。こののち謙信けんしん臼井うすいじょう和田わだじょう攻略こうりゃく失敗しっぱい、さらに箕輪みのわじょう陥落かんらくしたこともあり、武蔵むさしこく成田なりた深谷ふかや上杉うえすぎ上野うえのこく由良ゆら富岡とみおか館林たてばやし長尾ちょうび下野げやこく皆川みなかわ上総かずさこく酒井さかい土気つちけ土岐ときはら正木まさき一部いちぶなどおおくの豪族ごうぞく北条ほうじょう服従ふくじゅうつづいて常陸ひたちこく佐竹さたけ義重よししげ謙信けんしん出陣しゅつじん要請ようせい難色なんしょくしめすなど、たい北条ほうじょうかた足並あしなみのみだれがしょうじていた(さん文書ぶんしょ)。そして、えいろく9ねん1566ねん上野うえの厩橋うまやばしじょう上杉うえすぎちょくしん北条ほうじょう(きたじょう)高広たかひろ北条ほうじょう寝返ねがえったことにより、上杉うえすぎ大幅おおはば撤退てったい余儀よぎなくされた。

それにせんだって、えいろく8ねん1565ねん)8がつ氏康うじやす成田なりたにんじょう攻撃こうげきさいに、みずからの出陣しゅつじんがこれが最後さいごになることをげた。また、えいろく9ねん1566ねん)5がつごろ朝廷ちょうていから相模さがみもりへの任官にんかんけると、これまでもちいていた官途かんとめい左京さきょう大夫たいふ氏政うじまさゆずっている。また、「たけさかえ」ときざまれた独自どくじ朱印しゅいん作成さくせいし、氏政うじまさ出陣しゅつじんなどで不在ふざい氏康うじやすわりに政務せいむ決裁けっさいしたときにはこのしるしもちいることとした[41]

えいろく9ねん1566ねん以降いこう実質じっしつてきにも隠居いんきょ息子むすこたちおおくのせんまかせるようになる。関東かんとうにおいて優勢ゆうせいたたかいをすすめており、氏政うじまさ成長せいちょうしつつあったためである。これ以降いこうは「たけさかえ」の印判いんばんもちいてのやくぜに収納しゅうのう職人しょくにん使役しえき息子むすこたち後方こうほう支援しえん専念せんねんするようになる。この前後ぜんごから氏政うじまさ左京さきょう大夫たいふ任官にんかんし、氏康うじやす相模さがみもりてんじている。家臣かしんへの感状かんじょう発給はっきゅうもこの時期じき停止ていしし、氏政うじまさへの権力けんりょく委譲いじょうすすめている[42]

えいろく10ねん1567ねん)、氏康うじやす息子むすこ氏政うじまさ氏照うじてる里見さとみ攻略こうりゃくまか出陣しゅつじんさせる。しかし、正木まさきなどの国人くにびと里見さとみつうじたことなどがあり、氏政うじまさ里見さとみぐんうらをかかれて大敗たいはい北条ほうじょう上総かずさ南半みなみはんうしなった。このさいむすめ婿むこ太田おおた戦死せんししている(さん船山ふなやま合戦かっせん)。また佐竹さたけりょう以外いがい常陸ひたちにおいては、みなみ常陸ひたち小田おだとう臣従しんじゅうにより北条ほうじょう勢威せいいおよんだものの、小田おだえいろく12ねん1569ねん)に佐竹さたけ大敗たいはいし、佐竹さたけ勢力せいりょくみなみ拡大かくだいした。

武田たけだ信玄しんげんとのたたか

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えいろく11ねん1568ねん)、義元よしもとぼつ今川いまがわ衰退すいたいけて、従来じゅうらい外交がいこう方針ほうしん転換てんかんさせた武田たけだ信玄しんげん駿河するが侵攻しんこうおこなったことにより、さんこく同盟どうめい破棄はきされた。今川いまがわぐん武田たけだぐん敗北はいぼく、さらに徳川とくがわぐん侵攻しんこうけて掛川かけがわじょうめられる。北条ほうじょうむすめ婿むこ今川いまがわ氏真うじざね支援しえんをする方針ほうしんかため、氏政うじまさ駿河するが出兵しゅっぺい、薩多とうげにて武田たけだぐん対峙たいじする。氏康うじやす信玄しんげん徳川とくがわ不信ふしんったことを利用りよう徳川とくがわとの密約みつやくむすび、駿河するが挟撃きょうげきかまえをとった。さらに富士ふじ信忠のぶただだい宮城みやぎ攻撃こうげき仕掛しかけた武田たけだぐん退しりぞけたことにより、信玄しんげんはこの状況じょうきょうでの駿河するが防衛ぼうえい困難こんなん判断はんだん一旦いったん駿河するがこくからぐん退しりぞ甲斐かいこくへと退却たいきゃくした。北条ほうじょう興国寺こうこくじじょう葛山かつらやましろ深沢ふかさわじょうなどひがし駿河するが奪取だっしゅした。氏康うじやす信玄しんげん敵対てきたい関係かんけい決定的けっていてきとなり、かぶとしょう同盟どうめい破綻はたんした[43]

氏康うじやすは、西にし武田たけだきた上杉うえすぎひがし里見さとみと3方向ほうこうてき勢力せいりょくかこまれる危機ききてき状況じょうきょうおちい[42]。この苦境くきょうるべく駿河するが出兵しゅっぺいめると同時どうじに、上杉うえすぎとの同盟どうめい交渉こうしょう開始かいし(大石おおいし氏照うじてる書状しょじょう)[42]。このころ西上野にしうえのいちえん武田たけだりょうしており、謙信けんしん上野うえのにおける支配しはいいき沼田ぬまた厩橋うまやばしなどおも東上野ひがしうえののみとなっていた[42]。さらに謙信けんしんえつ中国ちゅうごくけられていた。謙信けんしん当初とうしょ討伐とうばつ対象たいしょうであった北条ほうじょうとの同盟どうめいでなかったが、家臣かしん説得せっとくもあり態度たいど軟化なんか[42]すでまとまっていた今川いまがわ上杉うえすぎ同盟どうめいかたち交渉こうしょうはじめ、謙信けんしん旧臣きゅうしん由良ゆらなりしげる仲介ちゅうかいやくに、石巻いしのまきてんよういん使者ししゃとして、えいろく12ねん1569ねん)に上杉うえすぎ謙信けんしんとの同盟どうめいであるえつしょう同盟どうめいむすんだ[42]。これにより謙信けんしん氏康うじやすおいである足利あしかがよし関東かんとう管領かんりょうおもである古河ふるかわ公方くぼうとして、また氏康うじやす氏政うじまさは、謙信けんしん公方くぼう執事しつじたる関東かんとう管領かんりょうしょくであるとおたがいにみとめ、上野うえの武蔵むさし北辺ほくへん一部いちぶ上杉うえすぎ領有りょうゆうみとめるわりに、謙信けんしん北条ほうじょうによる相模さがみ武蔵むさし大半たいはん領有りょうゆうみとめさせた[42]北条ほうじょうかた氏康うじやす実子じっし三郎さぶろう上杉うえすぎ景虎かげとら)、上杉うえすぎかた謙信けんしん家臣かしん柿崎かきざきけい実子じっしはれ人質ひとじちとされた[42]

このえつしょう同盟どうめいは、両家りょうけ停戦ていせんという意味いみでは成功せいこうおさめた[42]。しかし同時どうじ謙信けんしんたいするはん北条ほうじょう里見さとみ佐竹さたけ太田おおたといった関東かんとうしょ大名だいみょう豪族ごうぞく不信ふしんかんみ、かれらは上杉うえすぎから離反りはん武田たけだくみしてしまった[42]。さらに信玄しんげん信長のぶなが将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきつうじて越後えちご上杉うえすぎとの和睦わぼくきのえこしかずあずか)をこころ[42]同年どうねん8がつには上杉うえすぎ武田たけだ両氏りょうし和睦わぼく一時いちじてき成立せいりつした[44]。また上杉うえすぎきのえこしかずあずか解消かいしょうしたのち北条ほうじょう上杉うえすぎ両氏りょうしによる同盟どうめい条件じょうけん調整ちょうせい不徹底ふてっていのため、北条ほうじょう上杉うえすぎりょうぐん足並あしなみはみだれることがおおかった[42]

えいろく12ねん1569ねん)9がつ武田たけだぐん武蔵むさしこく侵攻しんこうする。これにたいし、鉢形はちがたじょう氏邦うじくにが、滝山たきやまじょう氏照うじてる籠城ろうじょう武田たけだぐん退しりぞけ、武田たけだぐんはそのまま南下なんか、10月1にちには小田原おだわらじょう包囲ほういする[42]。しかし氏康うじやす徹底てっていした籠城ろうじょうせんをとり、武田たけだぐんにも小田原おだわらじょう攻略こうりゃく意図いとはなかったため、わずか4にち城下町じょうかまちはなったのち撤退てったいする[42]氏康うじやす撤退てったいする武田たけだぐんたい挟撃きょうげきはかり、氏政うじまさ出陣しゅつじんさせるが、身軽みがるになってまで迅速じんそく行軍こうぐんした武田たけだぐんたいして、氏政うじまさたい追撃ついげきわず、本隊ほんたい到着とうちゃくまえ三増峠みませとうげ布陣ふじんする氏邦うじくに氏照うじてるたい攻撃こうげき開始かいし挟撃きょうげきはならなかった[42]緒戦しょせん優位ゆういしたが、武田たけだ別働隊べつどうたいによる高所こうしょからの奇襲きしゅうけ、くわえて津久井つくいじょう武田たけだかたおさえられて援軍えんぐん出陣しゅつじんできず、突破とっぱされ敗退はいたい武田たけだ譜代ふだい家老がろう浅利あさり信種のぶたねったものの、武田たけだぐん甲斐かい帰還きかんゆる結果けっかになった(三増峠みませとうげたたか)。その武田たけだ再度さいど駿河するがこく出兵しゅっぺいたいする北条ほうじょう里見さとみ勢力せいりょく回復かいふく氏康うじやす体調たいちょう悪化あっかともない、興国寺こうこくじじょうひがし駿河するがはかろうじてたもつものの、駿河するがこくでのたたかいは武田たけだされていった。

最期さいご

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氏康うじやすもとかめ元年がんねん1570ねん)8がつごろから中風ちゅうぶとみられるやまいており、8がつ初旬しょじゅんには鎌倉かまくらふつにちあんで、氏康うじやす病気びょうき平癒へいゆ祈願きがんだい般若はんにゃけい真読しんどくおこなわれている。そのころ小田原おだわらじょう滞在たいざいしていた大石おおいしかおるつなは、「風聞ふうぶんとしてではあるが氏康うじやす様子ようすを、呂律ろれつまわらず、子供こども見分みわけがつかず、食事しょくじべたいものを指差ゆびさすような状態じょうたいで、意志いし疎通そつうがままならず、信玄しんげんまめしゅうたこともからないようだ」としるつたえている。その、12月には信玄しんげん深沢ふかさわじょうめの対応たいおう指示しじができるほどには快方かいほうかったが、けてもとかめ2ねんはいると氏康うじやす発給はっきゅう文書ぶんしょ印判いんばんだけで花押かおうられなくなる。そしてもとかめ2ねん1571ねん)5がつ10日とおか最後さいご文書ぶんしょ発給はっきゅう停止ていしされている[42]

そして10がつ3にち氏康うじやす小田原おだわらじょうにおいて死没しぼつした。享年きょうねん57。戒名かいみょう大聖寺殿だいしょうじとの東陽とうようむね岱大居士こじ

同年どうねんから、氏康うじやすは、かつて武田たけだつうじていた北条ほうじょう高広たかひろかいして、武田たけだ信玄しんげんとの和睦わぼく同盟どうめい模索もさくしていたといい、最後さいごつとめとして氏政うじまさをはじめとする一族いちぞくあつめ、「上杉うえすぎ謙信けんしんとの同盟どうめい破棄はきして、武田たけだ信玄しんげん同盟どうめいむすぶように」と遺言ゆいごんのこしたとされているが真偽しんぎ不明ふめい[42]。また、半年はんとしまえの4がつには武田たけだとのさい同盟どうめいうわさ危惧きぐした謙信けんしん詰問きつもんたいして、丁寧ていねい弁明べんめいしたうえさい同盟どうめいはありないことをつたえたとされている[45]氏康うじやすの12月27にち北条ほうじょう武田たけださい同盟どうめいしている。

人物じんぶつ

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内政ないせい

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  • 北条ほうじょう特色とくしょくである領内りょうない検地けんち徹底てっていしておこない、えいろく2ねん1559ねん)2がつ氏康うじやす大田おおた豊後ぶんごまもるせき兵部ひょうぶすすむ松田まつだ筑前ちくぜんもりの3にん奉行ぶぎょう任命にんめいし、家臣かしんらのしょやく賦課ふか状態じょうたい調査ちょうさし、それを安藤あんどうりょうせい集成しゅうせいして『小田原おだわらしゅう所領しょりょうやくちょう』を作成さくせいした。構成こうせいかくしゅうべつ小田原おだわらしゅう御馬おんままわりしゅ玉縄たまなわしゅう江戸えどしゅ松山まつやましゅう伊豆いずしゅう津久井つくいしゅう足軽あしがるしゅ他国たこくしゅ家中かちゅうしゅなど)けい560めい家臣かしん個々ここ所領しょりょう場所ばしょ領地りょうち)とそのぬきだか所領しょりょうだか)がしるされ、負担ふたんすべきうま鉄砲てっぽうやりゆみ指物さしものはた、そして軍役ぐんえきとして動員どういんすべき人数にんずう詳細しょうさい記載きさいされている。これにより家臣かしん領民りょうみん負担ふたん明確めいかくになり、家臣かしんだん領民りょうみん統制とうせいがより円滑えんかつおこなわれるようになった[20]
  • 歴代れきだい同様どうよう税制ぜいせい改革かいかくにも熱心ねっしん領民りょうみん負担ふたん軽減けいげんなどに尽力じんりょくしており、在郷ざいきょう勢力せいりょくから支持しじされている。それまでの諸点しょてんやくばれる公事こうじ廃止はいしし、ぬきだかの6%のかかぜにおさめさせることにより、不定期ふていき徴収ちょうしゅうから百姓ひゃくしょう解放かいほうし、結果けっかてき負担ふたん軽減けいげんさせた。同時どうじぜい直接ちょくせつ北条ほうじょうぞうおさめられる(中間なかま搾取さくしゅがなくなる)ことで、国人くにびととう支配しはいりょく低下ていか北条ほうじょう権力けんりょくはよりおおきなものとなった。さらにむねべつぜにを50ぶんから35ぶん減額げんがくし、凶作きょうさく飢饉ききんとしには減税げんぜい場合ばあいによっては年貢ねんぐ免除めんじょした。その一部いちぶでははんぜにむねべつぜにはじこくやくまでも免除めんじょされていた地域ちいき存在そんざいする(内閣ないかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう・垪和古文書こもんじょ[20][21]
  • 領民りょうみんだれもが直接ちょくせつ北条ほうじょう評定ひょうじょうしゅ)に不法ふほううったえることができるよう目安めやすばこ設置せっちし、領民りょうみん支持しじると同時どうじ中間ちゅうかん支配しはいしゃそう牽制けんせいした。また、大名だいみょう先駆さきが永楽えいらくぜにへの通貨つうか統一とういつすすめ、せんぜにれいしている[20]
  • えいろく2ねん1559ねん)12月、代物しろもの法度はっと制定せいていして、せいぜに悪銭あくせん法定ほうてい混合こんごう比率ひりつ規定きていする貨幣かへい制度せいど実施じっし翌年よくねん比率ひりつ改定かいてい完成かんせいした[20]
  • 氏康うじやす統治とうち全国ぜんこくてき良質りょうしつ永楽えいらくぜに不足ふそく悪銭あくせん増加ぞうか顕著けんちょになりだした時期じきで、それによる税収ぜいしゅう不足ふそくふせために、えいろく7ねん1564ねんはんぜにべいおさめるこくはんぜに創設そうせつし、そのため公定歩合こうていぶあいとして、永楽えいらくぜに100ぶんこめ12-4しょうさだめた。よくえいろく8ねん1565ねん)には、むねべつぜにも2/3をむぎ、1/3を永楽えいらくぜにおさめる正木まさきとうべつ制度せいど創設そうせつし、むぎ公定歩合こうていぶあいを100ぶんにつき35しょうさだめた。そして最終さいしゅうてきには、えいろく12ねん1569ねん)にむねべつぜにはんぜにぜにおさめから米穀べいこくとう物納ぶつのう全面ぜんめんてきえ、財政ざいせい安定あんていはかっている。
  • 地域ちいきごとにちがったものを使用しようしていたますであったが、遠江とおとうみ榛原はいばらます公定こうていますとし、領国りょうごくない度量衡どりょうこう統一とういつした[20]
  • 氏康うじやす功績こうせきとしては、独自どくじ官僚かんりょう機構きこう創出そうしゅつもあげられる。たとえば評定ひょうじょうしゅはその代表だいひょうてきなもので、領内りょうない訴訟そしょう処理しょりなどをおこなっていた。構成こうせいいんはおもに御馬おんままわりしゅ主体しゅたいとしていた。史料しりょうじょうはつ弘治こうじ元年がんねんで、裁許さいきょじょう現在げんざい50れいほどが確認かくにんされている[20]
  • 小田原おだわら城下町じょうかまちのさらなる発展はってんのため全国ぜんこくから職人しょくにん文化ぶんかじんだい規模きぼ都市とし開発かいはつおこな清掃せいそうにもくばり、その結果けっか小田原おだわら城下町じょうかまちひがし小田原おだわら西にし山口やまぐちしょうされる東国とうごく最大さいだい都市としとなった。上水道じょうすいどう小田原おだわら早川はやかわ上水じょうすい)をつくげ、まちはゴミひとちていないとまでひょうされるほどの清潔せいけつ都市としであった[20]。その小田原おだわらようについて、天文てんもん20ねん小田原おだわら来訪らいほうした京都きょうと南禅寺なんぜんじそうである東嶺ひがしみねさとし旺は、「まち小路こうじすうまんあいだいちちりし。東南とうなんうみ海水かいすい小田原おだわらふもとを遶る」(『あきら叔禄』)としるしている[20]。また、氏康うじやす在世ざいせい小田原おだわら寺院じいん建立こんりゅう活発かっぱつであった様子ようすのこされている[20]
  • ほとんどの文書ぶんしょとら印判いんばん使用しよう行政ぎょうせい効率こうりつたかめた。どう時期じき戦国せんごく大名だいみょう比較ひかくしてもっと割合わりあいおおい。配下はいかなどにたいして花押かおうもちいずに印判いんばんじょうもちいる行為こうい効率こうりつえに反発はんぱつまねおそれもあった。それをさえめるだけの権威けんい軍事ぐんじりょく氏康うじやすだいそなわったことを意味いみしている。
  • その施策しさくとして、職人しょくにん使役しえきのための公用こうよう使役しえきせい採用さいよう伝馬てんませい確立かくりつなどがあげられる。北条ほうじょう伝馬てんま手形てがたされた伝馬てんま専用せんよう印判いんばんしるしぶんつね調ちょう」)のはつえいろく元年がんねん1558ねん)であり、 この時期じき北条ほうじょう伝馬てんませい確立かくりつしたとされている[20]

教養きょうよう文化ぶんか

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なか々にきよめぬにわはちりもなし かぜにまかするやましたいほ — しゅうがいさんじゅう六歌仙ろっかせん、30.閑居かんきょ 北条ほうじょう氏康うじやす

逸話いつわ伝承でんしょう

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  • 12さいころ武術ぶじゅつ調練ちょうれんていてうしなった。もどすと「家臣かしんまえはじさらした」として自害じがいしようとしたが、家老がろう清水しみずぼうが「はじめてるものにおどろかれるのは当然とうぜんはじではございません。むしろあらかじめの心構こころがまえが大切たいせつなのです」と忠言ちゅうげんした。以後いご氏康うじやすつね心構こころがまえをわきまえて堂々どうどうとしていたという(三浦みうらきよしこころ北条ほうじょうだい』)[よう検証けんしょう]
  • さんせい氏康うじやすくん文武ぶんぶそなえた名将めいしょうで、一代いちだいのうち、すう合戦かっせんけたことがない。そのうえに仁徳じんとくがあって、よく家法かほう発揚はつようしたので、氏康うじやすくんだいになって関東かんとうはちヶ国かこく兵乱へいらん平定へいていし、おおいに北条ほうじょう家名かめいたかめた。そのすぐれた功績こうせき古今ここん名将めいしょうというにふさわしい」と評価ひょうかされている(『北条ほうじょう』)。
  • 後世こうせい成立せいりつ軍記ぐんき逸話いつわとしてであるが、なつ氏康うじやす高楼こうろうすずんでいるときつねき、これをいた近習きんじゅが「なつきつねくをけば、不吉ふきつおこる」とげたため、即興そっきょううたみ、「きつね」をによってけたうたきょうかえしたため、きつね翌朝よくあさたおれてんでいたという[49]
なつはきつ ねになくせみのからころも おのれおのれがうえにきよ — 小田原おだわら北条ほうじょう北条ほうじょう氏康うじやす
小田原おだわら谷津やづには、このなつきつね逸話いつわもとかめ元年がんねんとし、そのきつねれい北条ほうじょう家臣かしんひょういて、調伏ちょうぶくされたうらみからわざわいをおこすとうったえ、翌年よくねん氏康うじやすんだことをたたりとかんがえた氏政うじまさろうきつねれいまつって供養くようしたという縁起えんぎつ「北条ほうじょう稲荷いなり」が[50]
  • 部下ぶかへの教訓きょうくんとして「さけあさめ」という言葉ことばのこしている。これは、まえ飲酒いんしゅ深酒ふかざけをしやすく、失敗しっぱいにつながりやすい、ということから。

三河みかわ東泉ひがしいずみでは、戦国せんごくゆう一人ひとりえらばれている。(北条ほうじょう氏康うじやす武田たけだ信玄しんげん上杉うえすぎ謙信けんしん織田おだ信長のぶなが毛利もうり元就もとなり

系譜けいふ

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おも家臣かしん

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北条ほうじょう分限ぶげんちょう北条ほうじょう氏康うじやす時代じだい前期ぜんき)におけるしゅう

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  • 小田原おだわらしゅう 松田まつだけんしゅう 以下いか33にん 9202かん
  • 御馬おんままわりしゅ やまかくかんじょう 以下いか94にん 8591かん
  • 玉縄たまなわしゅう 北条ほうじょう綱成つなしげ 以下いか18にん 4381かん
  • 江戸えどしゅ 遠山とおやまつなけい太田おおた大膳だいぜん富永とみながやすしけい 以下いか77にん 12650かん
  • かわえつしゅ 大道寺だいどうじせいしげ 以下いか22にん 4079かん
  • 松山まつやましゅう 狩野かのかい狩野かの康光やすみつ?) 以下いか15にん 3300かん
  • 伊豆いずしゅう 笠原かさはらつなしん清水しみずやすしえい 以下いか29にん 3393かん
  • 津久井つくいしゅう 内藤ないとう康行やすゆき 以下いか59にん 2238かん
  • しょ足軽あしがるしゅ 大藤おおふじ秀信ひでのぶ 以下いか17にん 2260かん
  • 職人しょくにんしゅ 須藤すとうもりひさし 以下いか26にん 903かん
  • 他国たこくしゅ 小山田おやまだしんゆう 以下いか30にん 3721かん
  • 家中かちゅうしゅ
  • 家門かもんかた 足利あしかがよし北条ほうじょうちょうつな 5852かん
  • ほんひかりいん殿どのしゅ 山中さんちゅうもりじょう 以下いか49にん 3861かん
  • 堯衆 北条ほうじょう以下いか4にん 1381かん
  • 小机こづくえしゅ 北条ほうじょう時長ときなが 以下いか29にん 3438かん
  • 家門かもんかた 伊勢いせさだたつ 以下いか11にん 1050かん

墓所はかしょ

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早雲寺そううんじ北条ほうじょうだいはか中央ちゅうおう氏康うじやすはか

神奈川かながわけん箱根はこねまちきむ湯山ゆやま早雲寺そううんじ現在げんざい早雲寺そううんじ境内けいだいのこ氏康うじやすふくめた北条ほうじょう5だい墓所はかしょは、江戸えど時代じだい寛文ひろふみ12ねん1672ねん) に、北条ほうじょう氏規うじのり子孫しそん狭山さやまはん北条ほうじょう5代目だいめ当主とうしゅ北条ほうじょうが、北条早雲ほうじょうそううん命日めいにちたる8がつ15にち建立こんりゅうした供養くようとう)。

氏康うじやす本来ほんらい墓所はかしょは、広大こうだいきゅう早雲寺そううんじ境内けいだい大聖院だいしょういんほうむられたが、早雲寺そううんじぜん伽藍がらん豊臣とよとみ秀吉ひでよし軍勢ぐんぜいかれ、氏康うじやす墓所はかしょ位置いち不明ふめいとなっている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 大石おおいし泰史やすし天文てんもん5ねん2がつ今川いまがわてる小田原おだわらじょう訪問ほうもん氏康うじやす婚姻こんいんともなうものとしている。なお、駿府すんぷ帰還きかん直後ちょくごてるおとうと彦五ろう同日どうじつ死去しきょする事態じたいとなり、花倉はなぐららん原因げんいんとなる[10]
  2. ^ 海老名えびな真治しんじ氏康うじやす晴信はるのぶ合意ごういたんなる和睦わぼくではなく同盟どうめいであったとして、だい2河東かわとういちらんにおける武田たけだ参戦さんせんはじめから斡旋あっせん意図いとしたものであったとする[16]
  3. ^ 一連いちれん河東かとういちらんのきっかけとなった今川いまがわ武田たけだ同盟どうめい元々もともと花倉はなぐららん今川いまがわ領国りょうごく安定あんていのためのものだった(勿論もちろん北条ほうじょうてきとするものではなかった)とかんがえられる。ところが、それにたいする北条ほうじょうがわ対応たいおう今川いまがわがわ間違まちがえて同盟どうめい破棄はきからたたかいにいたってしまった。その結果けっか北条ほうじょう今川いまがわあいだ相互そうご不信ふしんのこり、とく北条ほうじょうがわから攻撃こうげきけた今川いまがわがわ反発はんぱついたとかんがえられる[26]
  4. ^ 従来じゅうらいせつでは天文てんもん20ねん1551ねん一時いちじてきながら、祖父そふ北条早雲ほうじょうそううんゆかりのしろである駿河するが興国寺こうこくじじょううばいながら、そのまた義元よしもとにより撃退げきたいされたともつたえられていたが、近年きんねん研究けんきゅうでははやくも今川いまがわからはじめてあたえられたしろは「石脇いしわきじょう」であるという見方みかたもされており、またつぎあたえられたしろ興国寺こうこくじじょうではなく、興国寺こうこくじじょう築城ちくじょう自体じたいが、北条ほうじょう係争けいそうはじめてからの今川いまがわ義元よしもとによるものというせつがある[27][28][29]
  5. ^ このとき氏規うじのり松平まつだいらちくせんだい徳川とくがわ家康いえやす親交しんこうむすんだとされる。
  6. ^ 古河ふるかわ公方くぼう歴代れきだいにはかぞえられていない。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c わきさかえさとし北条ほうじょう氏康うじやす」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  2. ^ まち指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざいだい21ごう寒川さむかわ神社じんじゃむねさつ小田原おだわら北条ほうじょうゆかりのむねさつ3てん”. 寒川さむかわまち役場やくば教育きょういく政策せいさく神奈川かながわけん高座こうざぐん寒川さむかわまち). 2021ねん12月5にち閲覧えつらん
  3. ^ 北条ほうじょう氏康うじやす」『日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん講談社こうだんしゃ
  4. ^ 黒田くろだ 2018, p. 8, 「総論そうろん 北条ほうじょう氏康うじやす研究けんきゅう」.
  5. ^ a b 下山しもやま治久はるひさ戦国せんごく時代じだい年表ねんぴょう 北条ほうじょうへん
  6. ^ 黒田くろだ 2021, pp. 8–9, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  7. ^ a b c d 黒田くろだ 2021, p. 9, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  8. ^ a b c d 黒田くろだ 2012a, pp. 99–132, 「だいさんしょう 北条ほうじょう氏康うじやす
  9. ^ a b 山口やまぐち 2005, pp. 9–23
  10. ^ 黒田くろだ 2021, p. 263, 大石おおいし泰史やすし対立たいりつから同盟どうめいへ-今川いまがわ義元よしもと氏真うじざね氏康うじやす関係かんけいせい-」.
  11. ^ 黒田くろだ 2021, p. 10, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  12. ^ 黒田くろだ 2021, pp. 264–265, 大石おおいし泰史やすし対立たいりつから同盟どうめいへ-今川いまがわ義元よしもと氏真うじざね氏康うじやす関係かんけいせい-」.
  13. ^ わきさかえさとしだい3へんだい4しょうだい2せつ 北条ほうじょう領国りょうごく経営けいえい氏康うじやす氏政うじまさ時代じだい)」『神奈川かながわけん 通史つうしへんⅠ』1981ねん /所収しょしゅう:黒田くろだ 2018, pp. 38–39, 「総論そうろん 北条ほうじょう氏康うじやす研究けんきゅう
  14. ^ a b 黒田くろだ 2021, p. 11, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  15. ^ 黒田くろだ 2021, p. 12, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  16. ^ 黒田くろだ 2021, pp. 281–286, 海老名えびな真治しんじ氏康うじやす武田たけだ信玄しんげん-だいいちかぶとしょう同盟どうめい展開てんかい-」.
  17. ^ 黒田くろだ 2012b, pp. 53–79
  18. ^ 黒田くろだ 2021, p. 13, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  19. ^ a b 黒田くろだ 2005a, pp. 62–84, 「公事こうじ赦免しゃめんれい
  20. ^ a b c d e f g h i j k 山口やまぐち 2005, pp. 53–84
  21. ^ a b 小和田こわだ 1996, p. 108.
  22. ^ a b 黒田くろだ 2021, p. 14, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  23. ^ 矢崎やさき勝巳かつみ「『彦部ひこべ所収しょしゅう里見さとみ関係かんけい文書ぶんしょ」『中世ちゅうせい房総ぼうそう』5ごう、1991ねん 
  24. ^ a b 山口やまぐち 2005, pp. 28–38
  25. ^ 黒田くろだ 2021, pp. 323–324, 細田ほそだ大樹だいき北条ほうじょう氏康うじやす房総ぼうそう侵攻しんこうとその制約せいやく」.
  26. ^ 黒田くろだ 2021, pp. 271–273, 大石おおいし泰史やすし対立たいりつから同盟どうめいへ-今川いまがわ義元よしもと氏真うじざね氏康うじやす関係かんけいせい-」.
  27. ^ 北条早雲ほうじょうそううん史跡しせき活用かつよう研究けんきゅうかいへん『奔るくものごとく(いまよみがえる北条早雲ほうじょうそううん)』
  28. ^ 大塚おおつかいさお今川いまがわ義元よしもと-史料しりょうによる年譜ねんぷてき考察こうさつ
  29. ^ 黒田くろだ 2005b.
  30. ^ a b 黒田くろだ 2021, pp. 14–15, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  31. ^ a b 黒田くろだ 2021, p. 16, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  32. ^ 小和田こわだ 2004, p. 152.
  33. ^ 有光ありみつ 2008, pp. 113–117.
  34. ^ 有光ありみつ 2008, pp. 264–265.
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山口やまぐち 2005, pp. 85–96
  36. ^ a b c d e f 黒田くろだ 2012b, pp. 81–110
  37. ^ しばつじ 2006, p. 68.
  38. ^ 市村いちむら 2006, p. 157.
  39. ^ a b c d e f g h 黒田くろだ 2012b, pp. 111–139
  40. ^ 黒田くろだ基樹もとき戦国せんごく北条ほうじょう一族いちぞく事典じてんえびすひかりさち出版しゅっぱん、2018ねん、83-90・133-134ぺーじISBN 978-4-86403-289-6 
  41. ^ 黒田くろだ 2021, p. 22, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山口やまぐち 2005, pp. 97–118
  43. ^ 黒田くろだ 2012b, pp. 169–195
  44. ^ きのえこしかずあずか」の経緯けいいについては丸島まるしまあずかきのえこしかずあずか発掘はっくつえつしょう同盟どうめい」『戦国せんごく遺文いぶん武田たけだへん 月報げっぽう』6
  45. ^ 黒田くろだ 2021, p. 24, 「〈今代こんだい天下でんか無双むそうぬしじゅうななねん生涯しょうがい」.
  46. ^ a b c d 山口やまぐち 2005, pp. 119–135
  47. ^ 酒井さかい抱一ほういつあつまりがいさんじゅう六歌仙ろっかせん姫路ひめじ市立しりつ美術館びじゅつかん
  48. ^ 30.北条ほうじょう氏康うじやす
  49. ^ 江西えにし 1980b, pp. 41–44
  50. ^ 立木たちきのぞむたかし小田原おだわら史跡しせきめぐり』名著めいちょ出版しゅっぱん小田原おだわら文庫ぶんこ〉、1976ねん、52ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん史料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
テレビドラマ

外部がいぶリンク

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