(Translated by https://www.hiragana.jp/)
久留里城 - Wikipedia コンテンツにスキップ

久留里くるりじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
久留里くるりじょう
千葉ちばけん
久留里城天守台跡(手前)と模擬天守
久留里くるりじょう天守てんしゅだいあと手前てまえ)と模擬もぎ天守てんしゅ
別名べつめい あめじょうきりくだしろ浦田うらたしろ
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう 2じゅう(1724ねんきずけ)(現存げんそん
独立どくりつしき望楼ぼうろうがた2じゅう3かい
(1979ねん RCづくり模擬もぎ
築城ちくじょうぬし 武田たけだ信長のぶなが
築城ちくじょうねん 康正こうせい2ねん1456ねん
おも改修かいしゅうしゃ 里見さとみよし黒田くろだ直純なおずみ
おも城主じょうしゅ 上総かずさ武田たけだ里見さとみこう北条ほうじょう
大須賀おおすが忠政ただまさ土屋つちや忠直ただなお黒田くろだ
はいじょうねん 明治めいじ5ねん1872ねん
遺構いこう るい堀切ほりきりかく土橋どばし井戸いど
指定してい文化財ぶんかざい 指定してい
再建さいけん造物ぞうぶつ 模擬もぎ天守てんしゅ
位置いち 北緯ほくい3517ふん15.2びょう 東経とうけい1405ふん24びょう / 北緯ほくい35.287556 東経とうけい140.09000 / 35.287556; 140.09000
地図ちず
久留里城の位置(千葉県内)
久留里城
久留里くるりじょう
テンプレートを表示ひょうじ

久留里くるりじょう(くるりじょう)は、千葉ちばけん君津きみつ久留里くるり付近ふきんにあった日本にっぽんしろ別名べつめいあめじょうきりくだしろ浦田うらたしろともばれる[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

久留里くるりじょう室町むろまち時代ときよ上総かずさ武田たけだ武田たけだ信長のぶながによってきずかれた山城やましろ久留里くるりじょう)で、以降いこう信長のぶなが子孫しそんである真里谷まりやつ支配しはいした。戦国せんごく時代じだいには真里谷まりやつおとろえ、わって里見さとみところとなり、里見さとみによってさい構築こうちくされ(しん久留里くるりじょう)、佐貫さぬきしろともたい北条ほうじょう最前線さいぜんせんになった。その江戸えど時代じだいには久留里くるりはんはんちょうとしてさい整備せいびされ、酒井さかい加増かぞうとなった17世紀せいきすえから18世紀せいきなかばをのぞいて、近世きんせい城郭じょうかくとして明治維新めいじいしんまで維持いじされた。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

久留里くるりじょう現在げんざい本丸ほんまるのある近世きんせい城郭じょうかくくわえ、安住あずみげん地区ちく怒田ぬだ遺跡いせきおよび山麓さんろく小櫃川おびつがわ河畔かはん近世きんせい居館きょかんの4つのかくぐんからなる。このうち江戸えど時代じだいには近世きんせい城郭じょうかく近世きんせい居館きょかんのみがしろいきとして維持いじされたが、安住あずみげん地区ちくについては真里谷まりやつ時代じだい遺構いこうであり、里見さとみ時代じだいにはすで放棄ほうきされていたとかんがえられている。ただし、安住あずみげん地区ちく里見さとみ時代じだいつづ使用しようされたとかんがえるきもおおい。

遺構いこう[編集へんしゅう]

たまいけ

山麓さんろく近世きんせい居館きょかん一部いちぶるいのぞ開発かいはつにより消滅しょうめつしたが、車道しゃどう一部いちぶけずられたものの山上さんじょう遺構いこう比較的ひかくてきよくのこり、天守てんしゅだいとう近世きんせい遺構いこうくわえ、堀切ほりきりけずのこるいとう中世ちゅうせい里見さとみ時代じだい遺構いこうられる。また、山上さんじょう湧水わきみず豊富ほうふで、おとこ井戸いどおんな井戸いど、おたまいけはじめとする、複数ふくすう水源すいげん現在げんざいでもみずたたえている。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

久留里くるり城址じょうし資料しりょうかんまえまる)に新井あらい白石はくせきぞう - 2012ねん

久留里くるりじょう[編集へんしゅう]

平将門たいらのまさかど三男さんなんよりゆきたね築城ちくじょうしたという伝説でんせつもあるがさだかではない。

上総かずさ武田たけだとなった武田たけだ信長のぶなが康正こうせい元年がんねん1455ねん)に上総かずさこく守護しゅごだいにんぜられ、よく康正こうせい2ねん1456ねん)に築城ちくじょうしたといわれるのが史実しじつもとづく最初さいしょ築城ちくじょうである。 戦国せんごく時代じだいには、武田たけだ戦乱せんらん内紛ないふんにより弱体じゃくたいしたじょうじて里見さとみがこれをおさえた(里見さとみ成義なりよしがここを開城かいじょうさせたとも、里見さとみよし武田たけだ一族いちぞくであったぜん城主じょうしゅ武田たけだしんかちしろゆずらせたともいう)。

久留里くるりじょう[編集へんしゅう]

天文てんもん4ねん1535ねん里見さとみよし堯はこの本拠ほんきょとし、あらためて久留里くるりじょううえしろ)のしたあらたに現在げんざいしろ久留里くるりじょうきずいた(ただし、年代ねんだい異説いせつあり)。えいろく7ねん1564ねん)、北条ほうじょうぐん上総かずさ侵攻しんこうによりしろ一時いちじ陥落かんらくした。そのふたた里見さとみ奪還だっかんした。

天正てんしょう18ねん1590ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる小田原おだわら征伐せいばつさいに、里見さとみ義康よしやすわたしせんきんじたそう無事ぶじれい違反いはんにより、秀吉ひでよし不興ふきょう安房あわいちこく領有りょうゆうはゆるされたが、上総かずさ所領しょりょう没収ぼっしゅうされた[2]。このとし徳川とくがわ家康いえやす関東かんとうにゅうふうじ久留里くるりじょうには松平まつだいら大須賀おおすが忠政ただまさが3まんせきあたえられ入城にゅうじょうした。忠政ただまさ城下町じょうかまち整備せいび尽力じんりょく基盤きばん出来上できあがった。

その江戸えど時代じだいには久留里くるりはんはんちょうとなった。慶長けいちょう6ねん1601ねん松平まつだいら大須賀おおすが忠政ただまさ関ヶ原せきがはらたたかこうにより3まんせき加増かぞううえ遠江とおとうみこく横須賀よこすかじょうてんふうとなった。わって土屋つちや忠直ただなおが2まんせき入城にゅうじょうした。土屋つちやのべたから7ねん1679ねん改易かいえきとなりはいはん一時いちじはいじょうとなった。ひろし2ねん1742ねん上野うえのこく沼田ぬまたじょうより譜代ふだい大名だいみょう黒田くろだ直純なおずみが3まんせき入城にゅうじょうふたただてはんした。黒田くろだ明治維新めいじいしんまで居城きょじょうし、明治めいじ5ねん1872ねんはいじょうれいにより久留里くるりじょう歴史れきしわった。

昭和しょうわ30ねん1955ねん)に城郭じょうかく跡地あとち国有こくゆうけて城山しろやま公園こうえん整備せいびおこなった。昭和しょうわ54ねん1979ねん)には模擬もぎ天守てんしゅだん天守てんしゅだいわきにRC構造こうぞうにて建造けんぞうされた。江戸えど末期まっき実際じっさいっていたものは、現存げんそんする当時とうじ文献ぶんけんや、礎石そせき配列はいれつじょうきょうからして2そう2かいであったと推定すいていされているが、再建さいけんされた天守てんしゅ浜松はままつじょう模擬もぎ天守てんしゅをモデルとした2そう3かいであり、実際じっさいっていたものとは大幅おおはばことなる。模擬もぎ天守てんしゅない展示てんじぶつ全国ぜんこく現存げんそんする天守閣てんしゅかくのパネル展示てんじくらいで、展望てんぼうだいとして利用りようされている。

  • あめじょう

このしろまわりでよくあめることから、別名べつめいじょうばれている。

アクセス[編集へんしゅう]

最寄駅もよりえき[編集へんしゅう]

久留里くるりえき」(JR久留里線くるりせん

さいよせバス停留所ていりゅうじょ[編集へんしゅう]

久留里くるりじょうさんまるあと

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 久留里くるりじょう今日きょう明日あした天気てんき 週末しゅうまつ天気てんき紫外線しがいせん情報じょうほう【おかけスポット天気てんき”. tenki.jp. 2022ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  2. ^ 市村いちむら高男たかお豊臣とよとみ政権せいけん房総ぼうそうさと見分けんぶんこく上総かずさ没収ぼっしゅうをめぐって―」『千葉ちばけん研究けんきゅう』2ごう、1994ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]