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久留里くるり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
久留里くるり
久留里の位置(千葉県内)
久留里
久留里くるり
久留里くるり位置いち
北緯ほくい3517ふん43.0びょう 東経とうけい1404ふん48.0びょう / 北緯ほくい35.295278 東経とうけい140.080000 / 35.295278; 140.080000
くに 日本の旗 日本にっぽん
都道府県とどうふけん 千葉ちばけん
市町村しちょうそん 君津きみつ
人口じんこう
2017ねん平成へいせい29ねん10月31にち現在げんざい[1]
 • 合計ごうけい 276にん
ひとしときおび UTC+9 (日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ)
郵便ゆうびん番号ばんごう
292-0422[2]
市外しがい局番きょくばん 0439[3]
ナンバープレート 袖ヶ浦そでがうら

久留里くるり(くるり)は千葉ちばけん君津きみつ内陸ないりくにある大字だいじ房総半島ぼうそうはんとう中央ちゅうおう小櫃川おびつがわ中流ちゅうりゅう位置いちし、江戸えど時代じだい久留里くるりはん城下町じょうかまちとして、また近年きんねん名水めいすいさととしてもられ、2008ねん6がつ環境省かんきょうしょうから平成へいせい名水めいすいひゃくせん選定せんていされた。

地理ちり

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大字だいじ久留里くるりは、久留里くるりじょう本丸ほんまるおよまるきずかれた丘陵きゅうりょう中心ちゅうしん西麓にしふもとさんまる北側きたがわ安住あんじゅう(あんじゅう)地区ちくとからなる。安住あんじゅう地区ちく久留里市場くるりいちば上町うえまちおよしんまち隣接りんせつし、これらと一体いったい市街地しがいち形成けいせいしている。これにたいしてさんまる地区ちくは、ひがしおおきく蛇行だこうする小櫃川おびつがわきゅうりゅう)が丘陵きゅうりょう穿うがったきゅうがけによって城下町じょうかまちとははなされたみなみ段丘だんきゅうじょう位置いちする。典型てんけいてき山城やましろである本丸ほんまるまるたいして、江戸えど時代じだい中期ちゅうきにゅうふうした黒田くろだ直純なおずみ日常にちじょう機能きのう山麓さんろくさんまる集中しゅうちゅうさせはん支配しはい中心ちゅうしんとした。内堀うちぼりかこまれたさんまる外側そとがわきたこしきょく西にしそときょくにはさむらい屋敷やしきかれたが、ここは「久留里くるり地籍ちせきにはぞくさず、「浦田うらた地籍ちせき(1889ねんまでの浦田うらたむら)にぞくする。大手門おおてもんきた城下町じょうかまち久留里市場くるりいちば)ではなく、そと曲輪くるわから西にし浦田うらたむらほうひらいていた。商業しょうぎょう地区ちく中心ちゅうしんとして市街地しがいち形成けいせいしている久留里くるり市場いちばおよ安住あんじゅう地区ちくたいして、さんまるおよごし曲輪くるわそと曲輪くるわおおくの部分ぶぶんはいはん農地のうちとなっており、城下町じょうかまちとしての景観けいかんはほとんどのこされていない。

久留里くるりじょうには「あめじょう」・「きりくだしろ」という別名べつめいがあるが、みず豊富ほうふしろとしてられていた。久留里くるり城下じょうか清澄せいちょう山系さんけい大量たいりょうあめ背景はいけい豊富ほうふ地下水ちかすいめぐまれ、江戸えど時代じだい末期まっきから明治めいじ初期しょきにかけてこの地域ちいき改良かいりょうくわえられた井戸いどりの工法こうほうである上総かずさによってられた井戸いどおお分布ぶんぷし、このみず利用りようして酒造しゅぞうぎょう立地りっちしている。近年きんねんはこのみず観光かんこう資源しげんとして、「名水めいすいさと」であることが宣伝せんでんされている。また、この地方ちほう自生じせいするクロモジ材料ざいりょうに、藩士はんし内職ないしょくとしてはじまったとされる「あめじょう楊枝ようじ」がけん伝統でんとうてき工芸こうげいひん指定していされている。

大字だいじ久留里くるり久留里くるりじょうふく武家ぶけ屋敷やしき地区ちくであり、市街地しがいちきゅう城下町じょうかまち商業しょうぎょう地区ちくである久留里市場くるりいちばつながっている。久留里くるりかんむりしょうする大字だいじ久留里市場くるりいちばほか久留里大谷くるりおおやつ久留里大和田くるりおおわだがある。また明治めいじ22ねん1889ねん)の町村ちょうそんせい施行しこうさいして、この久留里くるり市街地しがいち中心ちゅうしん周辺しゅうへんむら々を合併がっぺいして成立せいりつしたきゅう久留里くるりまち(1889ねん1954ねん)の区域くいきを「久留里くるり地域ちいき」とぶこともある。

久留里市場くるりいちば

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久留里くるり市場いちばは、久留里くるり街道かいどう国道こくどう410ごう)に沿ってみなみ小櫃川おびつがわ上流じょうりゅうがわ)から上町うえまち仲町なかまち下町したまち、また上町うえまちからひがし大多喜おおたき方面ほうめんかう街道かいどう千葉ちばけんどう32ごう大多喜おおたき君津きみつせん沿いの新町しんまちからなる。現在げんざい国道こくどう県道けんどうとは一部いちぶにルートの一致いっちしないところがあるが、久留里くるり街道かいどう姉崎あねざき五井ごい(ともに市原いちはら)から)や大多喜おおたきからの街道かいどうのほか、木更津きさらづからの街道かいどう鹿野山かのうざん佐貫さぬき富津とみつ)とむす街道かいどう清澄山きよすみやま天津てんしん(あまつ、鴨川かもがわ)とむす街道かいどうなどがあつまり、さらに仲町なかまち付近ふきんでは小櫃川おびつがわ河岸かわぎしもうけられて木更津きさらづこうとのあいだ舟運しゅううんひらかれ(ただし、灌漑かんがい用水ようすい必要ひつようがなく水量すいりょう確保かくほできたあきはるかぎられる)、房総半島ぼうそうはんとう中央ちゅうおう交通こうつう要衝ようしょう位置いちしていた。そのため、はいはんこう小櫃川おびつがわじょう中流ちゅうりゅう地域ちいき商業しょうぎょう中心ちゅうしんとしてさかえ、明治めいじ中期ちゅうきから昭和しょうわ初期しょきには3にちと8にちの「さんはち」が定期ていきてきひらかれた。昭和しょうわ初期しょき以降いこう定期ていき衰退すいたいするが、現在げんざい久留里くるり街道かいどう沿いに商店しょうてんがい形成けいせいされている。明治めいじ32ねん1899ねん)には地元じもと資本しほんにより久留里くるり銀行ぎんこう設立せつりつされる(げん千葉銀行ちばぎんこう久留里くるり支店してん)など、地域ちいき経済けいざい中心ちゅうしんとしての役割やくわりたしてきた。なお、地籍ちせきじょうの「久留里市場くるりいちば」は、以上いじょう市街地しがいちから南東なんとう丘陵きゅうりょうにまでおよぶ。

歴史れきし

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この地域ちいきは、古代こだいには上総かずさこくもち陀郡ぞくしていた。久留里くるり地名ちめい戦国せんごくからられるという。

室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき上総かずさ戦国せんごく大名だいみょうとして成長せいちょうしつつあった上総かずさ武田たけだ武田たけだ信長のぶながによって久留里くるりじょうきずかれ、同氏どうし分流ぶんりゅうである真里谷まりやつ擁立ようりつしたしょうゆみ公方くぼう勢力せいりょく圏内けんないにあったが、天文てんもん7ねん1538ねん)のだい1国府台こうのだい合戦かっせんにより里見さとみよし掌握しょうあくするところとなり、里見さとみ上総かずさにおける拠点きょてんとなった。どう合戦かっせんのち相模さがみ小田原おだわら北条ほうじょう勢力せいりょく房総ぼうそうおよぶと、里見さとみ久留里くるりじょう最前線さいぜんせんとして北条ほうじょう対峙たいじした。天正てんしょう18ねん1590ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる小田原おだわら征伐せいばつへの遅参ちさんそう無事ぶじれい違反いはんにより上総かずさ全域ぜんいきおよび下総しもうさ南部なんぶ里見さとみから没収ぼっしゅうされ徳川とくがわ家康いえやすあたえられると、それまでとはぎゃく安房あわいちこく安堵あんどされた里見さとみたいする徳川とくがわ最前線さいぜんせんとして大須賀おおすが忠政ただまさいで慶長けいちょう7ねん1602ねん)には土屋つちや忠直ただなおにゅうふうした。慶長けいちょう19ねん1614ねん)、大久保おおくぼ忠隣ただちか失脚しっきゃく連座れんざした里見さとみ忠義ただよし安房あわいちこく没収ぼっしゅうされて伯耆ほうき倉吉くらよしてんふうとなったために、久留里くるりじょうの「最前線さいぜんせん」としての意義いぎうしなわれた。

大須賀おおすが土屋つちやの2による支配しはいしたしろ北西ほくせいかた小櫃川おびつがわ右岸うがん城下町じょうかまち整備せいびされた。のべたから7ねん1679ねん)、忠直ただなおまご土屋つちや直樹なおき狂気きょうき理由りゆう改易かいえきされたために久留里くるりはんはいはん久留里くるりじょうはいじょうとなったが、よく8ねん1680ねん)に上総かずさこくもち陀・市原いちはら2ぐんのうち2まんせき上野うえの前橋まえばしはん酒井さかい忠清ただきよ加増かぞうされ、忠清ただきよ久留里くるり城下じょうか安住あんじゅう陣屋じんやき(安住あんじゅう陣屋じんや)、どうはん上総かずさ支配しはい拠点きょてんとした。ひろし2ねん1742ねん)に酒井さかい上総かずさ国内こくない封地ほうち上野うえの国内こくないほかにうつされ、わって黒田くろだ直純なおずみ上野うえの沼田ぬまたからにゅうふうしてふたた久留里くるりはんたてはんされ、いで久留里くるりじょう再建さいけんされた。以後いご黒田くろだ支配しはいした明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんむかえた。はいはん久留里くるりけんて、同年どうねん11がつ木更津きさらづけん明治めいじ6ねん1873ねん)には千葉ちばけんぞくする。

明治めいじ4ねんはいはん城下町じょうかまち市場いちばむら明治めいじ元年がんねん金ヶ崎かねがさきはんうつっており、すで久留里くるりはん治下ちかではない)にたいして、武家ぶけ敷地しきちふくきゅう城郭じょうかく区域くいき久留里くるりまちおよびむらしょうさない)として編成へんせいされた。明治めいじ22ねん1889ねん)の町村ちょうそんせい施行しこうさいして、久留里市場くるりいちばむら久留里くるり、および周辺しゅうへん12むらほかを合併がっぺいしてもち陀郡久留里くるりまち発足ほっそくした。明治めいじ30ねん1897ねん)、ぐん統合とうごうにより君津きみつぐん久留里くるりまちとなった。昭和しょうわ29ねん1954ねん)に松丘まつがおかむら亀山かめやまむら併合へいごうして君津きみつぐん上総かずさまち一部いちぶ昭和しょうわ45ねん1970ねん)に君津きみつまちほかと合併がっぺいして君津きみつぐん君津きみつまち一部いちぶ昭和しょうわ46ねん1971ねん)に同町どうちょう市制しせい施行しこうにより君津きみつ一部いちぶとなった。

経済けいざい

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産業さんぎょう

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農業のうぎょう

だい日本にっぽん篤農とくのう名鑑めいかん』によれば、久留里くるりまち篤農とくのうは「波多野はたの豊司とよじ寺田てらだ寛容かんよう波多野はたのまつみぎ衛門えもん鈴木すずき榮吉えいきち田中たなか常吉つねきち影山かげやま雄次郎ゆうじろう江澤えざわみね太郎たろう武田たけだ俊明としあき吉崎よしざきもんづくり」などがいた[4]

名所めいしょ旧跡きゅうせき

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世帯せたいすう人口じんこう

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2017ねん平成へいせい29ねん10月31にち現在げんざい世帯せたいすう人口じんこう以下いかとおりである[1]

大字だいじ 世帯せたいすう 人口じんこう
久留里くるり 120世帯せたい 276にん

小・中学校しょうちゅうがっこう学区がっく

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市立しりつ小・中学校しょうちゅうがっこうかよ場合ばあい学区がっく以下いかとおりとなる[5]

番地ばんち 小学校しょうがっこう 中学校ちゅうがっこう
全域ぜんいき 君津きみつ市立しりつ上総かずさ小学校しょうがっこう 君津きみつ市立しりつ上総かずさしょうひつ中学校ちゅうがっこう

交通こうつう

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鉄道てつどう

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鉄道てつどう久留里くるりないとおっていないが、久留里くるりえきJR東日本ひがしにっぽん久留里線くるりせん)を利用りようすることができる。また駅東えきひがしがわバス停ばすてい久留里くるり駅前えきまえ」(国道こくどう410ごう)があり、以下いかのバスが利用りようできる。

道路どうろ

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出身しゅっしん・ゆかりのある人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 平成へいせい29ねん君津きみつ人口じんこう”. 君津きみつ (2017ねん11月8にち). 2017ねん11月20にち閲覧えつらん
  2. ^ 郵便ゆうびん番号ばんごう”. 日本にっぽん郵便ゆうびん. 2017ねん11月16にち閲覧えつらん
  3. ^ 市外しがい局番きょくばん一覧いちらん”. 総務そうむしょう. 2017ねん11月20にち閲覧えつらん
  4. ^ だい日本にっぽん篤農とくのう名鑑めいかん314ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2019ねん9がつ30にち閲覧えつらん
  5. ^ 君津きみつ市立しりつ小中学校しょうちゅうがっこう通学つうがく区域くいき一覧いちらんひょう”. 君津きみつ (2017ねん9がつ11にち). 2017ねん11月20にち閲覧えつらん
  6. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく だい5はんま86ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2019ねん9がつ29にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • だい日本にっぽん篤農とくのう名鑑めいかん編纂へんさんしょへんだい日本にっぽん篤農とくのう名鑑めいかんだい日本にっぽん篤農とくのう名鑑めいかん編纂へんさんしょ、1910ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい5はん人事じんじ興信所こうしんじょ、1918ねん