そう無事ぶじれい

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そう無事ぶじれい(そうぶじれい)は、豊臣とよとみ秀吉ひでよし大名だいみょうあいだ私闘しとうきんじた法令ほうれいとされるもの。

そう無事ぶじ(そうぶじ)が成立せいりつしたことで中世ちゅうせいわたしせん私的してき執行しっこう私刑しけいばつなどはほぼきんじられることとなり、裁判さいばんけん刑罰けいばつけん武家ぶけ領主りょうしゅ独占どくせんするおおやけけい主義しゅぎへと移行いこうしたとされる[1]藤木ふじき久志ひさしによって提唱ていしょうされ定説ていせつしたが、後述こうじゅつするとお様々さまざま批判ひはんがなされ議論ぎろんとなっている。

藤木ふじき久志ひさしによる「そう無事ぶじれいろん[編集へんしゅう]

歴史れきし学者がくしゃ藤木ふじき久志ひさしは、かたなかりれい海上かいじょうぞくせん禁止きんしれい喧嘩けんか停止ていしれいなど、私闘しとう抑制よくせいする一連いちれん法令ほうれいあわせて豊臣とよとみ平和へいわれい(とよとみへいわれい)という概念がいねん提唱ていしょうした。これは神聖しんせいマ帝国まていこくラント平和へいわれいなどに示唆しさけている[2]

豊臣とよとみ平和へいわれいのうち、大名だいみょうあいだ私的してき領土りょうど紛争ふんそう禁止きんしするものがそう無事ぶじれいとされる。つまり、領土りょうど紛争ふんそうにおいては、すべ豊臣とよとみ政権せいけんがその最高さいこう処理しょり機関きかんとして処理しょりにあたり、これに違反いはんする大名だいみょうにはきびしい処分しょぶんくだすという法令ほうれいである。また、秀吉ひでよし関白かんぱく立場たちば明確めいかくしめかたちで、あくまでも天皇てんのう命令めいれいみことのりじょう)によって私闘しとう禁止きんし天下てんか静謐せいひつ)を指令しれいするという立場たちばかかげた[3]

そう無事ぶじれいは、1585ねん天正てんしょう13ねん10がつ)に九州きゅうしゅう地方ちほう1587ねん天正てんしょう15ねん12がつ)に関東かんとう奥羽おうう地方ちほうけて制定せいていされた。そう無事ぶじれい発令はつれいは、九州きゅうしゅう征伐せいばつ小田原おだわら征伐せいばつ大義名分たいぎめいぶんあたえた。とく真田さなだ侵略しんりゃくしたこう北条ほうじょう討伐とうばつされ北条ほうじょう氏政うじまさ切腹せっぷくいたり、また伊達だてまさしむね南部なんぶしんただし最上もがみ義光よしみつらを帰順きじゅんさせることつながった(奥州おうしゅう仕置しおき)とされる。このそう無事ぶじれいによって、天正てんしょう16ねんこう陽成ようぜい天皇てんのう聚楽第じゅらくだい御幸みゆきさいなど、参集さんしゅうした全国ぜんこくしょ大名だいみょうから関白かんぱくである秀吉ひでよしへの絶対ぜったい服従ふくじゅう確約かくやくする誓紙せいしおさめさせ、その違背いはいたいしてぐん動員どういんした包囲ほうい攻撃こうげきのみならず、一族いちぞく皆殺みなごろしをふく死罪しざい所領しょりょう没収ぼっしゅうないしげんふううたてふうといった厳罰げんばつあたえた。いわば、天下てんか統一とういつそう無事ぶじれいち、豊臣とよとみ政権せいけん支配しはい原理げんりとなったのである[3]

そう無事ぶじれい」をしめ書状しょじょうれい[編集へんしゅう]

  1. 島津しまつ文書ぶんしょ』344ごう天正てんしょう13ねん10がつ2にちづけ島津しまつ義久よしひさあて書状しょじょう (九州きゅうしゅうでの私闘しとう禁止きんし)
    "就勅てい染筆せんぴつこう、仍関東かんとうざん奥州おうしゅうはてまでにんりんいのち天下てんか静謐せいひつしょ、九州事于今鉾楯儀、不可ふかしかこうじょうくにぐん境目さかいめしょうろん、互存ぶん聞召とどけつい而可おおせこうさきてき味方みかたども双方そうほうしょうとめ弓箭きゅうせんむね叡慮えいりょこうとく其意ゆうこう自然しぜんせん此旨こうしゃきゅうなり成敗せいばいこうあいだ、此返答へんとうかくためしゃいち大事だいじこうゆう分別ふんべつ言上ごんじょうこう也"
    (現代げんだいやく)みことのりじょう(みかどいのち)についておつたえする。さて関東かんとうはもとより奥州おうしゅうてまでみかどいのちふくし、天下てんか平穏へいおんであるのに、九州きゅうしゅうにおいてはいまなお干戈かんかまじえることが発生はっせいしており、これはあやしからぬことである。くにぐん境界きょうかい協議きょうぎおこない、双方そうほうのいいぶんみかどにききとどけられ、って沙汰さたがあるだろうから、まずてき味方みかた双方そうほうともに弓矢ゆみやをおさめることこそ、みかどおぼしである。その意志いし沿うことは当然とうぜんのことであるから、このむねしたがわぬものは、かならずや成敗せいばいなされるであろう。このいのちたいする返答へんとう各々おのおのかたにはいち大事だいじであるから、十分じゅうぶん分別ふんべつをもってみかど言上ごんじょうなされるがい。
  2. 秋田あきたはん家蔵かぞう文書ぶんしょ」13ごう。「多賀たがたに修理しゅうりしん」(多賀たがたにしげるけいカ)あて書状しょじょう (関東かんとう東北とうほく私闘しとう禁止きんし)
    "たい石田いしだ治部じぶしょう書状しょじょうとげ披見ひけんこう関東かんとうおく両国りょうこくまでそう無事ぶじ今度こんど家康いえやすおおせづけこうじょう不可ふかゆうこうわか違背いはいぞくしゃれい成敗せいばいこうなお治部じぶしょう輔可さるこう"
    (現代げんだいやく)石田いしだ治部じぶしょう輔(三成みつなり)の書状しょじょうについて、よくられたこととぞんずる。関東かんとう陸奥みちのく出羽でわ両国りょうこくにおいては、そう無事ぶじれい(一切いっさい私闘しとうきんずるれい)を発令はつれいし、このたび(徳川とくがわ)家康いえやすつうじておおけたから、異議いぎのないよう。もしこれにそむものがあれば、かならずや成敗せいばいする。なお、治部じぶしょう輔(石田いしだ三成みつなり)がそのむねもうわたしてある。

そう無事ぶじという表現ひょうげんは2.の段階だんかいあらわれる。上記じょうきの2つは著名ちょめいであり「日本にっぽん史料しりょう3」岩波書店いわなみしょてんなどの学術がくじゅつよう日本にっぽん史料しりょうしゅう掲載けいさいされている。とくに2.の「多賀たがたに修理しゅうりしんあて書状しょじょう年次ねんじ比定ひていは、そう無事ぶじれいろん是非ぜひおおきな影響えいきょうおよぼす。藤木ふじき久志ひさし天正てんしょう15ねん鴨川かもがわ達夫たつお天正てんしょう16ねんとする。一方いっぽう粟野あわの俊之としゆき藤井ふじい譲治じょうじらは天正てんしょう14ねん比定ひていしている[4]

そう無事ぶじれいろんへの批判ひはん[編集へんしゅう]

上記じょうきのような文書ぶんしょを「そう無事ぶじれい」という豊臣とよとみ秀吉ひでよし統一とういつ権力けんりょくとして施行しこうした法令ほうれいかんがえることには、竹井たけい英文ひでふみ藤井ふじい譲治じょうじから批判ひはんがなされている[5][6]。なぜなら秀吉ひでよし以前いぜんにも、信長のぶなが足利あしかが将軍しょうぐんをはじめ、権力けんりょくしゃした停戦ていせんれい数多かずおおくあったからである。たとえば、織田おだ信長のぶながは、1582ねん天正てんしょう10ねん)の甲州こうしゅう征伐せいばつ東国とうごく統治とうちにおいて、「そう無事ぶじ」としょうして戦闘せんとう停止ていしめいじている[7]。また、「そう無事ぶじ」という言葉ことば戦国せんごくつうじて関東かんとうなどにおいてもちいられていたものだった。

また「そう無事ぶじれい」の根拠こんきょとなっている文書ぶんしょおおくは、たん秀吉ひでよし接触せっしょくしてきた領主りょうしゅたちにたいする返書へんしょであったり、個別こべつ領主りょうしゅたいする委任いにんぎなかったりするのである。すなわち、従来じゅうらいそう無事ぶじれい」とされてきたものは、強力きょうりょく政権せいけん一方いっぽうてき領主りょうしゅたいしてめいじた「れい」という性質せいしつのものではなく、秀吉ひでよし東国とうごく領主りょうしゅたちを支配しはい過程かていかれらにたいしてったはたらきかけの集積しゅうせきにすぎない。それにもかかわらず、それを「そう無事ぶじれい」とならわすことは、実態じったいそくしていないこととなる[8]

また、藤木ふじき提唱ていしょうするにたりおこなった各種かくしゅ文書ぶんしょ年代ねんだい確定かくていにも疑問ぎもんていされている。藤井ふじい譲治じょうじは「そう無事ぶじれい」とされる文書ぶんしょ秀吉ひでよし関白かんぱく任官にんかんまえ発給はっきゅうされたものでないことを指摘してきした。

さらに藤田ふじた達生たつおは、四国しこく国分こくぶ北国きたぐに国分こくぶ豊臣とよとみ政権せいけん境界きょうかい紛争ふんそうへの介入かいにゅう実態じったい検討けんとうし、両国りょうこくぶんとも境界きょうかい一方いっぽうがわから加担かたんしてそう無事ぶじではなく強圧きょうあつてき軍事ぐんじりょく制圧せいあつし、従属じゅうぞくさせている。九州きゅうしゅう国分こくぶ豊臣とよとみ政権せいけんがわ境界きょうかいせっしていない遠隔えんかくだが、名分めいぶんとして天皇てんのう権威けんいによるそう無事ぶじして動員どういんによる軍事ぐんじ介入かいにゅうをして屈服くっぷくさせている。これら国分こくぶのたびに豊臣とよとみ政権せいけん専制せんせい進展しんてんをすすめ、そう無事ぶじとは、戦国せんごく大名だいみょうらへの境界きょうかい紛争ふんそう介入かいにゅう名分めいぶんにすぎないと、藤木ふじき久志ひさしそう無事ぶじろん豊臣とよとみ平和へいわれいろん否定ひていしている[9]

批判ひはんへの反論はんろん[編集へんしゅう]

そう無事ぶじれい」が法令ほうれいにあたらないという見解けんかいたいしては、丸島まるしま和洋わようらによってさい反論はんろんがなされている。すなわち、そう無事ぶじれいろん中世ちゅうせいほう一環いっかんであると位置いちづければ、法令ほうれいとして理解りかいできるとする議論ぎろんである[10]

なお、「そう無事ぶじれい」をめぐる議論ぎろん背景はいけいには、豊臣とよとみ政権せいけん基本きほんてき性格せいかくをめぐる学説がくせつ対立たいりつがある。すなわち、秀吉ひでよし武力ぶりょくによる強硬きょうこう外交がいこう政策せいさくすすめたという藤田ふじた達生たつおなどの見解けんかいと、秀吉ひでよし政策せいさく基調きちょう社会しゃかいの「平和へいわにあるとする藤木ふじき久志ひさしらの見解けんかい対立たいりつである[11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 名古屋大学なごやだいがく附属ふぞく図書館としょかん2006ねん春季しゅんき特別とくべつてん地獄じごく物語ものがたり」の世界せかい江戸えど時代じだいほう刑罰けいばつ図録ずろくガイド”. 名古屋大学なごやだいがく附属ふぞく図書館としょかん. 2021ねん1がつ7にち閲覧えつらん
  2. ^ 藤木ふじき、1985ねんじょぺーじ
  3. ^ a b 藤木ふじき、1985ねん
  4. ^ 藤井ふじい、2010ねん整理せいりによる。
  5. ^ 竹井たけい、2010ねん
  6. ^ 藤井ふじい、2010ねん
  7. ^ 新編しんぺん埼玉さいたまけん資料しりょうへん6-1175ごう
  8. ^ 藤井ふじい、2010ねん
  9. ^ 藤田ふじた達生たつお日本にっぽん近世きんせい国家こっか成立せいりつ研究けんきゅう』(校倉あぜくら書房しょぼう、2001ねん)pp.14、59、125-148
  10. ^ 丸島まるしま、2013ねん
  11. ^ 竹井たけい、2015ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 藤木ふじき久志ひさし豊臣とよとみ平和へいわれい戦国せんごく社会しゃかい東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1985ねんISBN 978-4130200738 
  • 竹井たけい英文ひでふみ関東かんとうおく両国りょうこくそう無事ぶじ政策せいさく歴史れきしてき性格せいかく」『日本にっぽん研究けんきゅうだい572ごう日本にっぽん研究けんきゅうかい、2010ねん 
  • 藤井ふじい譲治じょうじ「「そう無事ぶじ」はあれど、「そう無事ぶじれい」はなし」『ふみりんだい93かんだい3ごう史学しがく研究けんきゅうかい、2010ねん 
  • 丸島まるしま和洋わよう戦国せんごく大名だいみょうの「外交がいこう」』講談社こうだんしゃ、2013ねんISBN 978-4062585590 
  • 竹井たけい英文ひでふみ「「秀吉ひでよしめいじた「そう無事ぶじ」とはなにだったのか」」『秀吉ひでよし研究けんきゅう最前線さいぜんせん』、よういずみしゃ、2015ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]